●絶望は無く、希望でもなく 一
霙(みぞれ)混じり雨が視界を遮ってはいたが、進路が定まってさえいれば問題なかった。
聞いたところでは6月に降った霧雨に霙が混じっていた事もあるらしいので、寧ろ今の天候は良い方と言えるのかも知れない。
とはいえ、現在の天候が本当に標準的なものなのか如何かは分からなかった。
深海棲艦が確認されるようになってからは海岸や海中の地形だけでなく、気候の方も変化しているらしいという話も聞いた事があるのだ。
確とした調査報告ではなく噂話に近いものなので、そちらの方も本当なのかは分からない。
そんな話と一緒に、北方では冬半ばから春の初旬まで流氷で埋め尽くされる海域もあると聞いていた。
さらに北に向かうと、海そのものが凍り付くという話だ。
海中は平気だが海面は厚い氷に覆われ、それを砕きながらでなければ進む事すらままならないらしい。
こちらの方は詳細が分からないというだけで本当の話である。
深海棲艦との遭遇を警戒する現状では、想像するだけで恐ろしい話だが……そうではない世の中であったなら……実際に見てみたい、と思わないでもない。
そんな事を考えてから吹雪は軽く息を吐き、何度か瞬きをしてみた。
酷く疲れたという訳では無いが、ある程度の緊張を持続している為か、重さのある何かが徐々に自分の内に蓄積しているような……そんな感覚がある。
「大丈夫ですか……吹雪さん?」
「あ、うん。大丈夫」
僅かに視線を向け、心配そうな三日月に笑顔で返事をしてみせた。
波や雨の音で遮られないようにと、少し大きめに。
それでも聞き取り難い可能性も考えて、少しわざとらしいかもしれないけれど、態度でも示して見せる。
深海棲艦が姿を現しそうな雰囲気は無いが、だからといって警戒を緩められる状況では無かった。
艦は、吹雪の船体は今……嵐の海を走っている。
一番の脅威は、やはりというべきか波だった。
最悪の事態である沈没というのは迂闊な事をしない限りは起こり得ないだろうが、波による上下移動や衝撃は一歩間違えれば船体に容易に損傷を与えるほどの力を持っているのだ。
実際船体は訳が分からないレベルで前後左右上下の揺れを続けている。
それでも今は、自分の船体の心配だけをしていれば良いのだ。
陣形を組んで航行する時と比べれば、精神的な疲労は大幅に軽減されていると言えるだろう。
「この状況ですと、確かに味方が逸れるのが一番の問題ですけど……良かったんでしょうか?」
「まあ、はぐれた場合の合流地点は一応決めてあったけど、確実に合流できるとも限らないし……逸れないにこした事は無いかな~って」
顔は見ずとも声の調子で不安そうだと分かる三日月の気持ちを少しでも解(ほぐ)せるようにと、吹雪はことさらに冗談めかすようにして言葉を発した。
そんな吹雪の言葉を、彼女の選択を肯定するように……然れども内容とは裏腹に、どこか不満げな声が響く。
「良いんじゃない? 寧ろ吹雪さんにしては上出来よ」
苦笑を表に出さぬように、内心で留めるようにと心掛けながら、吹雪は微かに其方を向いて礼を口にした。
「ありがとうございます、大井さん」
すぐに視線を艦の正面へと戻す。
常に進行方向へと意識を向けているのは、何か問題が発生した場合に即座に気付けるように、対処できるようにと考えての事だった。
吹雪のいる場所は艦橋で、彼女を含めると4人の艦娘が待機している。
「……そろそろ交代の時間でしょうか?」
磯波が時計を見ながら呟いたのと殆んど同時くらいに、見張りをしていた3人が艦橋へと姿を現した。
「雨が結構強いですね。見通しの方、かなり悪いです」
艤装を展開したままの白雪が、そう言って前髪を拭いながら顔をしかめる。
「でも~これなら空からは、ぜっ~たい、発見されないよね~?」
「潜水艦も簡単には狙えないぴょん!」
身を拭くためのタオル、手拭い等を用意しながら艤装を収納した文月と卯月が、白雪へと布を手渡しながら利点を述べた。
礼を言って受け取った白雪も、顔を拭いながら艤装を収納する。
「うん、できるだけ敵に発見されるのは遅らせたいから……」
艦の進路を眺めたまま、船体を操りながら吹雪は呟いた。
海は荒れていて波は大きく、揺れは激しい。
大きな波が来ると艦橋からでも視界が殆んど塞がってしまうほどだ。
艦が水平を保てていないというのも大きいのだろう。
「船体を出していてもこれですから、艤装だけだと普通の波でも前後を見失いそうですよね……」
難しい表情のまま、三日月が口にした。
実際その通りだった。
波の高さは6mに達するらしい。
有義波高とかいう高い方からの三分の一を計って平均の高さを計算するという方式らしいので、当然それ以上の高さの波も存在している筈だ。
理論的には千回に一回は倍の高さの波も起こるとの事だが、実際駆逐艦の艦橋から見て空が見えなくなるような波が襲ってくることも考えると事実なのだろう。
「見張りは2人でローテーションにした方が良いんじゃない? 無しは流石に不安だけど、ほとんど『念の為!』っていうか万一億が一、みたいなものよ……あと、吹雪さんも少し休まないと」
「そうしたいんですけど、気を抜くと転覆しちゃうんじゃないかって不安で……」
大井の言葉に吹雪は苦笑いを浮かべながら呟いた。
航行している海域は、先日は南下、今回は北上という違いはあるにしても、緯度や経度という点で考えるのであれば殆んど同じである。
とはいえ天候が全く違う為なのか、全く別の場所のように感じられた。
港湾施設を利用した時間は結局、一日かそれに満たない時間だったという事になる。
出港後間もなく、龍驤の偵察機から機動部隊発見の報が届けられた。
命令を受けた第二艦隊はそこから第一艦隊と離れ、敵機動部隊へと砲雷撃戦を仕掛けるべく前進し、低気圧の中へと突入したのである。
第一艦隊の方は可能な限り低気圧による天候の悪化を避けるように迂回しつつ攻撃隊を発進するらしかったが、現在は無線封鎖しているため詳しいことは分からない。
吹雪たちが確認したのは敵機動部隊の位置と進路、そこから割り出した推測位置だけだった。
目標である敵部隊も空母を主力とした機動部隊である以上、航空機の発着艦が困難になるような天候の海域へとわざわざ入るとは思えない。
とはいえ敵も艦娘部隊だけでなく撤退中の本隊を狙うつもりなのであれば、艦載機の航続距離的に南下せざるを得ない以上……嵐の外縁部を迂回するように、その上で可能な限り距離が短くなるような進路を選んで航行していく筈である。
そこを狙って最短距離で嵐を突っ切り敵艦隊へと接近し攻撃を仕掛ける……というのが、第二艦隊の目的だった。
つまり敵は、この嵐を超えた先にいるのである。
航路の選択は距離が短くなる事を優先したものであったが、幸いというべきか低気圧の中心からはある程度は離れた海域を進める予定だった。
とはいえ……それでも、この天候である。
低気圧がこれ以上発達する可能性は低いと予想されてはいたが、停滞するのか勢力が弱まるかまでは分からなかった。
どちらにしろ先刻と比べれば中心に近付いている為、天候の方は悪化しているように感じられる。
この状態で敵艦隊と遭遇しても……まともな戦闘は難しいといえた。
普通に航行する事すら警戒が必要なのだ。
もしも人間が乗っていたら……その者が例えば船に弱かったりしたら……言葉通り、地獄のようなと表現できるような有様となった事だろう。
船酔いで死んだという人の話を吹雪は聞いたことは無いが、本当に駄目な人にとっては文字通り死んだほうがましと思えるような状況になるのかも知れない。
艦娘達にとっても、決して容易とは言えない状況なのだ。
「不安なのは分かるけど、心配し過ぎよ」
脇道に逸れてしまった思考を元へと戻すかのように、大井の声が響いた。
「波に関しては大きいのを横から貰わなければ何とかなるわ。それより、そんな状態で戦闘に突入してキチンと戦えるの? そもそも何の為に見張りがいるのよ? この状況なら、半分以上は吹雪さんの負担軽減の為でしょ? 無理してでも時間は作らないと」
不満げな大井の言葉に、白雪が強く頷いて同意を示した。
「そうですよね、私も賛成です。あと、ローテーションを2人にするのも」
「じゃ、先ず白雪さんが艦橋から見てあげて。あと吹雪さんに誰か白湯でも入れてあげなさい」
「それじゃ、うーちゃんが自分の分と一緒に入れるぴょん!」
「あれ~? お茶の葉ってなかったっけ?」
「あるんならお茶にしてあげなさい。こんな時にケチっても仕方ないでしょ? あと、戻ってきたら私も貰うわね」
「気を付けてぴょん!」
「全く、調子良いんだから。これだから駆逐艦は……で、私と一緒に行くのは?」
「あ、じゃあ、私が。三日月さんは次でお願いします」
そう言ってそろそろと手を挙げた磯波が、皆を見回してから頷いて、挙げていた手を下げてから艤装を展開した。
「すみません、磯波さん。それじゃ大井さんも宜しくお願い致します」
「中に残る方も気を抜き過ぎるんじゃないわよ? ちゃんと吹雪さんをサポートする事。こっちも大きな横波とか確認したらすぐに連絡するから」
「あ、大井さん! 無線はダメですよ? 相手に傍受される可能性が」
「船体で知覚できないの……って、それじゃ休めないわね。けど、この超短距離なら……」
「そもそも傍受してるかが分かりませんけど、もし……」
「ああ、もう、分かったわよ! 言いに来るか、磯波さんを寄越すわ。大きいのなら少しくらい遠くても分かるでしょうし」
「す、すみません……」
申し訳なさそうに謝る吹雪に向かって軽く鼻を鳴らすような仕草をすると、大井は背を向けて艤装を展開した。
「……まあ、貴女が旗艦なんだし……もうちょっとしゃんとしなさいよね」
「は、はい!」
「じゃ、行ってくるわ」
「大井さんと磯波さんもお気を付けて」
白雪の言葉に送られるようにして、2人が一行に背を向ける。
その姿を視界の隅で見送って、金属製の扉が開閉される音を確認してから、吹雪は小さく息を吐いた。
「ふふ、吹雪ちゃん緊張した?」
口元を押さえるようにして小さく笑いながら白雪が尋ねる。
「うん、何ていうか……一気に畳み掛けられる感じで……」
そう言って苦笑いを浮かべてから、吹雪は肩の力を抜いた。
「でも……色々見てもらってるから、正直安心できるかなって。私が何か見落としても、指摘してくれそうだなって」
「うん、確かに。ちょっと怖い感じもあったりするけど、やっぱり頼もしいよね」
話しながら白雪も艦の舳先へと視線を向けた。
「私も警戒するから、吹雪ちゃんも少し休んで?」
「……それじゃ、お言葉に甘えて」
そう言って吹雪は肩の力を抜き、息を吐いた。
少しだけ俯いて両手でこめかみを、まぶたの縁を揉みほぐす。
心地の良さに溜息が出そうになった。
こういうのは、艦だった頃には味わえない感覚と言えるだろう。
「お疲れさまです、吹雪さん」
三日月がそう言って手拭いを渡す。
「あ、ありがとうございます。三日月さん」
礼を言って吹雪は手拭いを受け取った。
「あまり頼りにならないかも知れませんが、何かあれば遠慮なく仰って下さい。吹雪さん一人に色々任せてしまうのも、申し訳ありませんし……」
「そ、そんな事は!? ……うん、ありがとう。三日月さん」
「いえ、実際に一隻に纏まっている事で、私たちは逸(はぐ)れずに、今のところ吹雪さん以外はあまり疲労を溜めずに移動できている訳ですし」
三日月はそう言ってから、窓から外を眺めた。
頑丈なガラスにぶつかるのは雨だけではない。
波飛沫の方も、遠慮なく艦橋を打ち据えているのだ。
飛沫だけでなく波そのものも、途中で砕けて船体にのしかかるように、甲板を洗い流すかのように、襲ってくる。
艦娘でなければ甲板での作業中に波に浚われかねないような悪天候。
いや、艦娘であっても下手をすれば揺れや波で船上から放り出されるかも知れない。
艤装を展開していれば水没して溺死する事は無いだろうが、船体を展開しなければ身長を上回る波に囲まれ揉まれて、簡単に味方を見失ってしまう事だろう。
だからといって船体を展開しても、衝突の危険を避ける為となると……一定以上は接近できない。
となれば乗り移って一隻に纏まるのは難しくなる。
天候が悪化する前から一隻に纏まった吹雪の判断は英断と言っても過言ではない……三日月とはしては、そう考えるのだ。
敵の進路を予測した際に逸れた場合の合流地点も定めてはいたが、洋上での合流というは難しい。
昔であれば、隊を分けるというのならば兎角……洋上で合流などというのは、航空機等で捜索しなければ不可能だったように思う。
時代が変わり、色々なものが変わっていっているのだなと改めて実感する。
いや……艦娘として誕生してから最初は毎日、それ以降も度々、短い期間で、そんな実感や驚愕を味わってばかりいたような気もする。
そんな中で、自身の艤装や船体を眺めたり触れたりすると……何かちょっと、安心したような気持になったりもするのだ。
「そういえば三日月さんて、第四艦隊事件の経験者なんでしたっけ?」
何気なくという感じで吹雪が三日月に問い掛けてきた。
「あ、はい……ハッキリと覚えている訳では無いですけど」
「あ、覚えている範囲で良いんです……どんな感じでした?」
その質問に三日月は、少し考え込んだ。
朧げな記憶と思い出すためにと読んだ資料を比較しながら、形にしていく。
「そうですね……確かに揺れとか雨風は、似た感じだったかも知れません。ただ……もっと酷かったような気がします」
「三日月さんも艦橋破損したんでしたっけ? 初雪ちゃんとか確か、艦首が切断されちゃったとか……」
「周りが如何なっていたかまでは、ちょっと……自分の事だけで一杯一杯、だったような気がしますし……」
「そ、そう、ですよね……確かに……すみません」
「あ、いえ。私の方こそ……記憶が曖昧であまり参考にならずに御免なさい」
恐縮した様子で謝る吹雪に向かって、慌てて口にする。
「気圧が960と言っていた気がします。ヘクトパスカル……あれ? あの頃はミリバールだったでしょうか? 単位は?」
「ご、御免。確かそうだと思うけどハッキリとは……勉強不足で御免……」
取り繕うつもりだったのに失敗して、ますます相手を恐縮させてしまったようだ。
「あ、いえ。此方こそすみません。あまり意味のない事ですし……とにかく凄い揺れだったのは間違いありません」
頭の中で纏めきれなくなって、とにかく吹雪の謝罪を止めようと三日月は懸命に言葉を探した。
「沈まなかったのは乗組員の皆さんの努力もあったのでしょうが……本当に、誰か沈んでいてもおかしくはないような状況だったような気がします」
「な、なるほど……そうですか……」
不安げな顔で、吹雪が外の風景を眺めた。
三日月も同じ場所から外を眺める。
とはいえ天気は悪く、遠くは全く見えない。
雨と波飛沫が混じった何かが視界を封じるかのように、強化されたガラスにぶつかり……外には濃い灰色の何かが見えるだけだ。
時間的にはまだ昼間なので、周りが全く見えないという訳では無い。
「できれば日が暮れる前に越えたいんだけど……」
「そうですよね……」
二人は顔を見合わせて、少し暗い顔つきで息を吐いた。
そんな雰囲気を一変させるかのように、元気な声が艦橋内に響く。
「2人とも暗いぴょん!」
「あったかいの飲んで、おちつこうね~」
フタ付きのカップを手に、卯月と文月が姿を現した。
「白雪の分も持ってきたぴょん♪」
「すみません、ありがとうございます」
「あれ? でも、4つだと……」
「うーちゃんはもう飲んできたぴょん!」
「トレイに載せると、こぼれそうだから~って」
「そうなんだ? ありがと、卯月ちゃん」
「前にもいったけど、うーちゃんは、うーちゃん呼びで全然構わないぴょん!」
「いや、流石に……前にも断りましたけど……先輩にちゃん付けでも、ちょっと……って感じなのに……」
「吹雪はマジメ過ぎるぴょん!」
「でも、そこが吹雪ちゃんの良いところですから」
くすりと笑いながら白雪が言うと。
「三日月ちゃんと、おんなじだね~?」
文月がそう言って穏やかに微笑んだ。
「わ、私は、吹雪さんみたいにしっかりしてないですから……」
「三日月はもうちょっと自分に自信を持つと良いぴょん!」
何故か卯月が胸を張って得意げに口にする。
先ほどまでとは打って変わって、艦橋内に明るく賑やかな雰囲気が漂い始めた。
(「そういえば、前と比べると随分と打ち解けられた気がするな」)
艦橋内の光景を眺めながら吹雪はそんな事を考えた。
以前の自分は白雪や同じ吹雪型の子に対して以外は、敬語を使ったりもうちょっと堅苦しい物言いをしていたような気がする。
(「白雪ちゃんも前は私へのちゃん付けって、二人きりの時とかだけだったような気がするし」)
決してそれほど昔の事ではない筈なのだが、感覚的には随分と前の事のように感じられた。
艦娘用の施設で訓練と勉強に明け暮れて、艦隊を編成しての出撃が発表されたのが……随分と昔の事のように、色褪せた写真の中の風景のように、感じられてくる。
撤退中に態勢を立て直して泊地に拠った後の事すら、思い出という感じで浮かんでくるのだ。
天龍の指揮下で、叢雲もいて、それ以前……北方海戦の前、本隊の後方に待機していた時は、深雪もいて……
もう逢えない先輩や姉妹艦たちの事を思い出すと……どうしよもない寂しさがこみ上げる。
それでも……寂しい事だけ、悲しい事だけがあった訳では無いのだ。
こんな風に、以前より親しくなれて、そして力を合わせられるようになった仲間たちがいる。
それに、思い出してこみ上げてくるのは寂しさだけではないのだ。
懐かしさと一緒に、頑張らなければという気持ちも湧き上がってくる。
今迄とは違う力が湧いてくるような感じすらあるのだ。
もしかしたら皆もそうなのかも知れない。
状況は何ひとつ好転してはいないが、艦橋内には何とかなりそうという雰囲気が漂い始めていた。
少なくとも吹雪には、そう感じられた。
そもそも、この天候に関しては乗り越える事に問題は無かったのだ。
乗り越えた後に待つ戦いの事こそが、不安を、陰を、皆の心に投げ掛けていたのである。
視点が変わったというべきか、或いは出発前に戻れたという事なのか。
とにかく、吹雪は気持ちが少し楽になった。
後の事で気を揉んでも仕方ない。
素直にそう思う事ができた。
今はとにかく此処を、できる限り少ない消耗で乗り越える事だ。
「初雪ちゃん……は、覚えてなさそうだし……龍驤さんとかに聞いてみれば良かったかな……」
第四艦隊事件の資料について思い出しながら、吹雪は何気なく呟いた。
「龍驤さんも~艦首そんしょう、だっけ~?」
「よくそれだけで済んだぴょん! 普通なら横転して沈没しちゃってるところぴょん!」
文月の言葉に卯月が続ける。
「う、卯月ちゃん!? 流石に失礼だよっ?」
「……まあ、気持ちは分からないでも無いですけど……」
「し、白雪ちゃんまで……」
「御免なさい……でも、やっぱりあの独特の船体を見ると……」
前方への警戒は続けたままだったものの、少し苦笑いのようなものを浮かべた白雪がそう言って口許を押さえた。
「勢いよく舵を切ると傾いて復原できない……なんて噂が流れたくらいですしね?」
真面目な顔で三日月がそう言ったのが可笑しくて、吹雪もつい吹き出してしまう。
「あ、あの? 私、何か変な事を言いましたか?」
「ううう~ん、三日月ちゃんが、かわいい~って話」
にこにこと笑いながら文月が説明する。
「へ、変な事、言わないで下さい!?」
「まったく、天然には敵わないぴょんっ!」
そう言って卯月が空になったカップを手に炊事場へと降りてゆく。
「おかわりですか?」
「大井さんたちのも、淹れてくるんだって~」
「あれ、でも大井さんはまだ見張り中だし……」
「お茶を飲む時間だけ、こーたいするんだって~」
文月の説明に吹雪は頬を緩めた。
「優しいんだね、卯月さん」
「でも、これを恩に着せて『大井っちん』て呼び方を許してもらう~って言ってたよ」
「前言撤回」
「えへへへ~」
文月と顔を見合わせ、一緒に噴き出すように笑う。
自分以外にも警戒してくれている人がいるからなのか、ずいぶんと気持ちが楽になったように感じられた。
いや、今までだって居たのだ。
ただ、自分がそんな風に思えていなかっただけなのだ。
駄目だなと自分に言い聞かす。
自分に出来る事なんて、たかが知れている。
何もできない訳ではないけれど、だからといって凄い事が出来る訳でも無いのだ。
どんなに頑張っても、二人分の事は、2隻分の事は出来はしない。
此処には、自分以外にどれだけの艦娘が、仲間がいるだろう?
確かに自分は旗艦だ。
指揮を執るし、責任も持つ。
それでも……自分だけではないのだ。
ここにいる皆で、第二艦隊なのだ。
もちろん、そんな事は分かっていた。
何と表現すべきだろう?
実感した、というのだろうか?
理屈ではなくで……ああ、そうなんだなと、心で感じられた、とでも言うのだろうか?
まだ完全ではないけれど、何となく、以前とは違う感覚に慣れ始めた自分がいる。
「あ、もう行ってきたんだ~?」
そんな言葉に振り向けば、再び両手にカップを持った卯月の姿があった。
「それじゃ、うーちゃん行ってくるからお茶お願いしまっす!」
「は~い」
蓋をしたままのカップを文月に渡すと、卯月はゆっくりとしたスキップのような動きで艦橋の外へと歩いていった。
「実際天気の事を考えると、一回の時間は短めして小刻みに小休止するような形にした方が良いかも知れませんね」
少し真面目な顔をして白雪が口にした。
「疲れを取るのではなく溜めない事を重視、という感じですか」
「はい。纏まった休息は作戦後という感じでしょうし……」
そんな話を白雪と三日月が始めた時だった。
時間にしたら……卯月が出て行って、数分しか過ぎていないだろう。
水の塊が鋼板や強化ガラスを叩く音が響き、船体が揺れた。
それに混じって声らしきものが聞こえたような気がして、吹雪が微かに首を傾げた後だった。
大きな音、恐らくは金属製の扉が勢いよく開閉された音が響く。
艦橋へと駆け込んできたのは、磯波だった。
表情は強張っていて息も乱れている。
「ふ、吹雪さんっ、た、い、今っ!!」
「お、落ち着いてっ? 磯波ちゃ、さん」
両手で留めるような仕草をしながら、吹雪は船体の感覚を重視するように意識して、外を窺った。
大きな波が来たのかと推測したのである。
つい先刻の大井との話を思い出したからだ。
確かめようとして、周囲を確認しようとしたところで……吹雪はその違和感に気付いた。
まさかという思いと、だからなのかという思いの両方が沸き上がる。
もどかしそうな顔をした磯波が、喉に閊(つか)えたものを吐き出すような仕草で、言葉を発した。
「卯月さんが横波で弾き飛ばされて……大井さんが、それを追って! 海にっ!」
真っ青な顔で懸命に、磯波が報告する。
その言葉の意味を理解して……推測と結論が一致した次の瞬間、吹雪は駆け出していた。
周囲を満遍なくという事なら船体の感覚の方が優れているが、注意や捜索に指向性を持たせるのであれば……自分の身体の方が扱いやすい筈だ。
少なくとも自分はそうである。
「吹雪ちゃん!?」
白雪の声を背に受けながら、吹雪はそのまま艦橋の外へと飛び出した。
慌てたせいか、転移するよりも走った方が早いと無意識に判断したのかは、自分でも分からない。
外へ出るのと同時に雨と波飛沫の混じり合った滴が、彼女の身体に、顔に、勢いよく叩き付けられる。
当然というべきか、ふたりの姿は見当たらない。
「大井さん、飛び降り際に……大丈夫だから、後から合流地点に、って……」
「でも……」
追いかけてきた磯波にそういわれたものの、吹雪はそれを素直には受け入れられなかった。
「私なら引き上げる事ができる、すぐに探しに……」
そこまで言った時、側面から近付いた大きな波が崩れ、吹雪の船体に大量の海水が圧し掛かってきた。
波もろとも船外へと放り出されそうになった磯波を、後から駆けてきた三日月と文月の2人が、鉄柵を掴みながら支える事で船上へと繋ぎ止める。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます。御免なさい……」
「ふいうちだもの、仕方ないよ~」
謝罪する磯波に三日月が軽く首を振り、文月はことさらに笑顔を作ってみせた。
風と雨、波の音で声が聞こえにくい事を意識してか、大袈裟な身振りも付け加えている。
強張っていた磯波の表情が少しだけ綻んだ。
吹雪の方はそれに安堵しつつも、船体に起こった異常を確認し表情を歪めた。
衝撃で発射管に搭載されていた魚雷の一部が脱落したのである。
もちろん再装填は可能だし、弾薬庫に予備も積み込まれてはいるが、これ以上脱落や装備の破損などが起これば、戦闘そのものに影響する事になる。
(「迂闊だった……」)
仲間の事があったとはいえ、周囲への警戒を怠った結果だ。
船外へ放り出されたという2人の事も心配だったが、吹雪は船体を通して周囲へも意識を向けた。
先ほど発射管を直撃したような大波は、今のところ確認できない。
とはいえ激しい波で船体が上下に動きながら揺れているのは相変わらずだ。
もっと大型の艦であれば揺れも少ないのだろうが、それに関しては如何にもしようが無い。
とにかく今は、大井と卯月を探す事だ。
「時間が経てば経つほど逸れちゃうし、すぐに発見できれば……」
「でも、速度を落とすだけでも時間が足りなくなるかも知れないですし」
「だからって置いていく訳にも……」
「……気持ちは分かります。私も心配です……でも……」
近くの手すりを掴みながら、磯波が俯き気味に……それでも、波風の音で打ち消されないようにとハッキリと伝わる声で口にした。
「……大井さんの言葉を……大井さんを、信じるべきです」
「それは……」
口籠りながらも吹雪の頭の中では、もう一人の自分が冷静に計算を始めていた。
実際、磯波の言う通りなのだ。
少なくとも近くに2人の姿は見えない。
損傷や装備の脱落を恐れて船体を展開していないのかもしれないが、距離が離れてしまったせいで展開していても確認できていないという可能性もあるのだ。
好天の時とは違う。
その十分の一程度の距離でも……或いはもっと近かったとしても、視認ができないのではと思えるような状況なのである。
吹雪自身も、周囲を見ただけでは艦が本当に進んでいるのか不安になる程だ。
それに……もし2人が合流し、嵐の外での合流を目指して前進していたら……逆に此方が遅れる事になってしまう。
「……大井さん、卯月ちゃん……」
後ろ髪を引かれるというのは、こういう想いを言うのだろう。
それでも、此処で探し続ける訳には行かないのだ。
「だいじょうぶ。きっ~と、来てくれるから」
雨風とは違う何かが、肩を優しく撫でた。
振り向いた視線の先にいる、文月の顔に……打ち付ける飛沫など意に介さないような、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
その笑顔に……何とか、頷きを返して。
「……増速、します」
自分に言い聞かせるように、絞り出すように、吹雪はそれだけ口にした。
それを後押しするように、決定事項とする為に……艦内放送で、艦橋にいる皆にも説明していく。
中途半端で無理矢理に、自分の行動に、気持ちに……区切りを付ける。
勿論、割り切れる訳がない。
それでも他に……如何にもしようが無かった。
今の時点で良いと思う選択肢を選ぶしかないのだ。
最善が分からないこそ、次善と思える道を選ぶしかないのである。
雨風は相変わらず強く、波のうねりは激しく、弱まる気配は今のところ……無い。
だが、自分たちが与えられた任務は、嵐を乗り越える事ではないのだ。
何度も繰り返してきた思考を、また……もう一度、繰り返す。
本当の任務は、この嵐を乗り越えた先にあるのだ。
(「そこで、きっと……待っててくれる筈だから」)
吹雪は自分に言い聞かせた。
同時に……冷静な自分が、別の計算を行い始める。
(「もし合流が叶わなかったとしても……」)
冷静に考えればその可能性は、決して低いとは言えないのだ。
その場合は、此処にいる5隻で戦わなければならない。
目的を果たさなければならないのである。
目標は2隻の敵航空母艦だ。
自分たちが攻撃を行う前に第一艦隊による攻撃が行われているだろうが、決して容易な任務ではないだろう。
けれど、今の吹雪にとっては……その方が良かった。
実際、作戦は容易ではなかった。
だが、吹雪にとってはそれは望むべきものでもあった。
困難な任務であるからこそ、気持ちを其方に向ける事ができる。
困難であるからこそ、その思考に没頭する事ができる。
後ろ髪を引かれる気持ちを……紛らわす事ができるのだ。
迷っている余裕など無くなるのだ。
7隻でも、決して容易とは言えない任務だった。
それでも、上手く大井に雷撃を行わせる事さえできれば……高い確率で成功が望める任務だったのである。
その大井と逸れる形となった以上……卯月を含め2隻と合流できないまま攻撃を開始しなければならない可能性が生じた以上、対策は絶対に練らなければならない。
ただ全力を尽くして、それで成功を望める……という任務ではなくなったのだ。
勿論幸運に恵まれれば成功する事もあるだろう。
とはいえ成功という結果の為に、その可能性を少しでも高める為に努力はするべきなのである。
大切なのは結果だ。
勝利と敗北を、成功と失敗を分ける差は……ほんの僅か、些細な違いでしかないのかも知れない。
だが、その結果がもたらすものは全く別のものなのだ。
戦闘の結果が戦術に、戦術の成果が戦略に大きな影響を与えるかは分からないが、今の自分たちは兎角、与えられた任務に全力を尽くさなければならないのである。
「一旦、全員で中に戻りましょう」
迷いは己の内に押し込めるように努めて、吹雪は周囲を警戒する3人に呼び掛けた。
「外の見張りは大丈夫ですか?」
「出来る限り、早く終わらせますので」
三日月の問いにそう答えると、彼女は即座に了承を返す。
艦橋に戻り、中で待機しながら周囲を警戒していた白雪にも呼び掛けて。
4人を前にして、吹雪は……少し躊躇いはしたものの、自分で自分の背中を叩くような気持ちで口を開いた。
「……皆さんに、お願いしたい事があります」
「御引き受け致します。何でも仰ってください」
三日月が何も聞かずに即答する。
「え、いえ……でも、三日月さん?」
「感情で、思い付きで決めたんじゃない……少なくとも私には、そう見えますから」
迷いを感じさせない表情で、再び三日月が断言した。
「何度も言いますが、私は旗艦の、吹雪さんの力になりたいです。遠慮なく頼ってほしいんです……それで、私も自信を持てる……そう思うから」
「ありがとう、三日月さん」
これだけ思っていてくれたんだと知ると、何とも涙が滲みそうになる。
それを堪えて、吹雪は口にした。
船体を使って周囲を警戒するにしても、できるだけ手短に済ませたい。
「今回の襲撃作戦の事ですが」
当初の作戦は、駆逐艦6隻による単縦陣での夜襲だった。
大井には襲撃前に隊列から一旦離れてもらい、自身の判断で敵空母に襲撃を行ってもらう予定だったのである。
駆逐艦の方も決して囮などではなく、全力を尽くして敵空母に攻撃を行うつもりだった。
敵艦隊が第一艦隊との航空戦である程度の損害を受けていると仮定しての作戦である。
どの程度の損害を受けているかの想定に関してはある程度のばらつきはあったが、最低でも1隻は戦闘能力が低下しているだろうと仮定しての戦法だった。
艦載機数で考えれば敵の航空戦力は味方を大きく上回ってはいるが、龍驤と鳳翔の技量を含めれば、劣勢ではあっても一方的に押し切られることは無いだろうというのが司令部の出した結論だったのだ。
その基本方針、第一艦隊の航空戦である程度の損害を与えた上で第二艦隊の夜襲で敵空母を撃破する……という部分は変わらない。
目的は敵航空母艦ヲ級2隻の撃沈。
それが難しい場合でも最低中破以上の損害を与え、航空機運用能力を一時的に喪失させる。
大井と卯月の2隻が抜けた状況……5隻で、如何にしてそれを成し遂げるか?
「大筋は考えてみましたが、皆さんの意見も伺いたいんです。船内で待機している時に、協力して頂けませんか?」
「願ってもない事です」
吹雪の言葉に三日月が殆んど間をおかず答える。
「それじゃ、現在の警戒の方は……一人は、私が引き続き、という事で……」
「もう一人は、私が受け持ちます」
磯波に続くように、白雪が志願した。
「三日月さんと文月さんは吹雪ちゃんへの協力の方、宜しくお願いします」
「白雪ちゃんと磯波ちゃんもありがとう。後で交代したら、宜しくお願いします」
吹雪はそういって頭を下げた。
「私たちと磯波ちゃんが行うのは最終チェックだけ、となっているのを望みますね? ……三人なら、きっとそれができると思います」
少し冗談めかして白雪はそう口にし、無理矢理にという感じで笑みを浮かべて見せた。
それに応えるように吹雪も笑顔を作って、何とか頷いてみせる。
「ふたりとも、気を付けてね~? 私たちも、がんばるから」
「どうか御気を付けて」
文月はきゅ~っと拳を握って見せ、三日月は真剣な表情で礼を取る。
白雪は表情を緩めて綻ばせ、磯波は緊張した面持ちで頷くと、三人に背を向けた。
それを見送ってから、三日月が吹雪へと向き直る。
「決定まで行けるかは分かりませんが、御二人が交代するまでにある程度纏められれば良いですよね? お手伝いさせて頂きます」
「私も、がんばるね~?」
「うん、宜しくお願いします」
「でも、ほんの少しの時間で大まかな作戦を考えるなんて流石です」
「あ、いや……基本は変えないつもりだったから……」
あからさまに敬意の籠った視線を三日月から向けられ、吹雪は慌てて説明した。
予(あらかじ)め決めておいた戦力が投入できるか分からなくなった以上は、現時点で確定している戦力で作戦を練り直さなければならない。
改めて、如何しようか……と考えた時、吹雪は妙な不安のようなものを覚えたのである。
変更するという事そのものが、一層不安を掻き立てるのでは……そんな事を考えたのだ。
元々決めていた作戦を変更するというのだけで不安になるというのは、人によっては情けないと感じるかもしれない。
いや、軍隊として考えるのであれば、臆病、気力が不足している、そんな言葉で一蹴される可能性のある、場所によってはそのように断言されて当然な案件といえた。
だが、訓練等であるならば兎も角として実戦というか実践の最中であるならば、そういったものを一言で切って捨てるというのも逆の意味で感情的に過ぎるのでは……吹雪としては、そう思えたのである。
考え過ぎだとは思ったのだが、それでも心に引っ掛かったのだ。
状況が変化……悪化した為、作戦を大幅に変更する。
流れとしては当然なのかもしれないが、それは追い詰められているという印象をより一層強く与える事になるのではないだろうか?
無論事実ではあるけれど、実力を発揮するという点で考えるのであれば……少なくとも今のメンバーで考えれば、できる限り緊張させないように配慮した方が良いのではないだろうか?
目的の達成というものを、最優先で考えるのであれば、その方が上手く行くのではないだろうか?
吹雪にはそう思えたのだ。
実際に如何なるかは推測でしかないが、作戦を変更し、それが複雑なものだった場合……襲撃が成功するか以前に、作戦内容そのものをある程度実行できるかすら危ぶまれるのでは……というのが、吹雪が抱いた正直な気持ちだった。
ならば変更点は最小限に留めた方が実行し易いだろうし、追い詰められているという印象も与えずに済む筈だ。
多少状況は悪化したかもしれないが、為すべきことは変わらない。
そう思わせた方が無駄に緊張をさせなくて済むだろう。
俗な言い方であるがその方が吹雪としては『しっくり来た』のである。
彼女はそんな自分の感情を信じる事にした。
そう結論を出してしまえば、後は簡単だった。
駆逐艦6隻による、単縦陣での突入……それを利用して、大井に機を見て突入してもらう。
それが皆に伝えてあった、最初に考えた作戦だ。
これを可能な限り変更しないとなれば、選択肢は限られる。
大井の役割を誰かが引き継ぐか、誰も引き継がないか?
つまりは駆逐艦5隻を二手に分けるか、分けないか? という事だ。
吹雪としては、全艦纏まっての突入のみでは敵空母を狙えない可能性もあると考えていた。
とするならば、実際に選べる選択肢は一つしかない。
「基本としては……戦力分散になるけれど、二手に分かれる形が良いのかなって思うんだ」
緊張しすぎないように、砕けた感じを意識して、吹雪はそう切り出した。
分けるとなると、大井のように1隻のみ単独でという訳にはいかない。
重雷装巡洋艦のような必殺の攻撃力というものを駆逐艦は持ってはいないのだ。
夜戦で距離を詰めてとなれば単艦でも大型艦を沈めるだけの攻撃力を発揮する事も不可能ではないが、どちらかといえば集団で力を発揮する艦なのである。
いや、それよりも大きいのは大井のような単独で状況を見て突入するという判断力と行動力を持つ者が、自分は持っていると思えるような者が、少なくともこの場にはいないという部分だろう。
吹雪からすればこの場の誰であれ十分な判断力と行動力を持っていると思えるが、土壇場で実際に如何かとなると、本人の自覚というのが多分に影響するのである。
実際吹雪も、皆に備わっていると思ってはいても自分には無いのではと思っていたりする。
とはえ、別に単独行動させる必要もないのだ。
大井の場合は何より、本人の希望というのがあったのだから。
「分隊で、という形ですか?」
吹雪の意見を察した様子で口にした三日月に、吹雪は大きく頷いてみせた。
吹雪、白雪、磯波の3隻と、三日月、文月の2隻。
一方が突入役で、もう一方が大井のように機を見て空母を狙っての突入、攻撃を担う事になる。
それが吹雪の修正した分割案だった。
もちろん、最初から突入する側も完全に囮という訳では無い。
全力で攻撃を仕掛け、隙があるならば目標である敵の航空母艦への攻撃も狙う。
それでこそ、機を見る側も好機を見出し易くなるはずだ。
「私としては、最初の突入役は数の多い方、第一分隊になる私たち3隻が果たした方が良いんじゃないかと思うんだけど」
数が少なければ当然、囮ではと疑われる可能性も高くなるはずだ。
以前は深海棲艦がそこまでの知性を持っているのかという点の方が寧ろ疑われていたのだが、最近の幾度かの戦いでは明らかに戦術や戦略を持っているのではと推測されるような動きを深海棲艦側は見せている。
囮であることを疑わせない為には、できるだけ積極的に攻勢をかけなければならない。
数も出来ればもっと多い方が良いが、無いもの強請(ねだ)りをする訳にもいかない。
出来る範囲でやるしかないのだ。
「分割そのものに関しては、私もそれで良いと思います」
三日月にそう言ってもらって吹雪は内心安堵した。
大丈夫だとは思っていたが、実際に肯定してもらうまでは不安は残る。
もしかしたら自分と考えが違うのではという想いが漂い続けるのだ。
戦闘などというのは、よく言われるように、失敗や齟齬の繰り返しと積み重ねだ。
だからこそ、出来るだけ単純で簡単な方が良い。
その方が失敗しにくいし、応用が利く。
変更する場合も、できるだけ変更点は最小限に留めた方が、理解も容易な筈だ。
吹雪としてはそう思っている訳だが、それをいつでも絶対だと思えるほどの自信は、彼女には無いのである。
それらが内心だけでなく、実際に顔にも出たのだろう。
三日月は少し申し訳なさそうな表情で、ですが……と続けた。
「囮は、私たちの方が良いと思うんです」
「……2隻で?」
「はい。囮だと警戒される可能性は高くなりますが、寧ろこの場合は警戒させた方が囮の側も動き易くなるのではと私としては思うんです」
三日月はそう言って、更に細かく説明し始めた。
疑われる可能性があるくらいならいっそ、最初から囮であると思われて構わないという編成の方が動き易い。
それが三日月の考えという事らしい。
「主力が別にいるのではと敵が警戒した方が、囮側も動き易くなると思うんです」
三日月はそう説明した。
囮だと判断しても此方が空母を狙って動くのであれば、全く相手にしないという訳にはいかない。
かといって他への警戒も行うとなれば、戦力を集中させるというは難しくなる
「相手に両面警戒させた方が、主導権を握れるのではと……そう考えまして」
そう言ってから三日月は、それに……と付け加えた。
「可能性として、此方が2隻だったとしても……他を全く警戒せずに全力でこちらを攻撃してくる、という可能性もあるんじゃないかと思うんです」
「……なるほど。確かに」
言われてみると、吹雪も思い当たる処があった。
ヌ級を主力とした機動部隊との戦いの際、敵の航空隊が場当たり的としか思えないような動きを取ったという話を聞いていたのである。
艦隊上空を守る直掩機を残さず、全ての戦闘機を攻撃隊の護衛に付けた……にも関わらず、此方の攻撃隊を発見した途端、戦闘機隊の全機を攻撃隊へと向けたというのだ。
何か思惑があったのか、それとも此方の何かを察知したのか?
色々と考察が行われたものの、信憑性の高そうな意見は全くと言っていいほどに出なかった。
兎角、発見した敵を全力で攻撃する……という行動原理で動いているのでは、というのが推測の中では最もそれらしい意見だったのである。
資料を纏める際に司令部要員や旗艦以外からも意見を聞き、纏める途中の情報も多くを皆に伝えた以上、三日月も当然それらの情報は確認している。
「もし全力で此方に来た場合、主力が3隻いるのでしたら、此方は囮役に専念できます」
三日月の意見を聞いて吹雪は素直に頷いた。
もし自分たちが囮役で敵がこちらに全力で攻め掛かってきた場合、三日月と文月の2隻で敵空母を無力化させるのは、こちらより困難となるのは間違いない。
吹雪たちの方も、囮に専念せずに攻撃役としての立ち回りも考えなければならなくなるだろう。
囮役を果たしつつ攻撃の援護も行うというのは、確かに難しい。
誰か1隻を援護に回すというのも手だろうが、此方が更に分散するような動きを取ればそれを狙って各個撃破される危険もあるのだ。
何より動きや読み合いが更に複雑になってしまう。
それならば三日月の案のように、敵空母を本気で狙いつつ敵が攻撃を集中させてきたら囮に専念するという形の囮班と、主力として敵空母を狙う3隻という形で分けた方が良い。
「うん、確かに。それじゃ、三日月さんの案を採用しよう」
頷きながら、吹雪はハッキリとした口調で決断した。
「ありがとうございます……大丈夫でしょうか?」
ちょっと不安げに尋ねる三日月の姿に、親近感のようなものが湧き上がる。
自分と同じなのだ。
熟考した上で、自分なりに良いと思える作戦を挙げたのだとしても……いざ受け入れられると、不安になる。
何か問題点や見落としが無いだろうか、と考える。
「大丈夫です」
「うん、あたしも良いと思うよ~?」
吹雪の肯定に続けるようにして、文月も笑顔で頷いてみせた。
「色々と危ないところを考えて、そうならないようにって考えてるのが~分かり易かったよ?」
文月はそう言って、更に続ける。
「あたし、考えても皆に分かり易いように言葉にする~っていうのが、上手くないから」
説明分かり易くて、すごいな~って思ったよ?
言われて安心できたという事なのか、三日月は表情を緩め、礼の言葉を口にした。
「戦力に合わせて出来る限り役割分担してしまう、というのは良いと私も思う」
「吹雪さんも有り難うございます」
「……それじゃ、この作戦で」
改めて、変更した作戦の内容を、皆で確認するように口にする。
時間を掛けて考えれば何か懸念等も挙がるかも知れないが、その時はその時で、また皆で考えよう。
(「取りあえず、交代したらすぐに白雪ちゃんと磯波ちゃんに確認かな」)
そう決めてから、吹雪はこの先に待つ戦いについて思いを巡らせた。
元々、不安はあったのだ。
それらにもう一つ、追加があったというだけの事。
大した事じゃない、大丈夫と自分に言い聞かす。
心配すれば限(きり)が無いのだ。
航空戦だって、司令部の想定通りにはいかず第一艦隊が完全に敗北している可能性もある。
総合的な航空戦力は分からないが数で考えれば圧倒されているし、龍驤と鳳翔は前の機動部隊との戦闘で失った艦載機を補充できていないのだ。
敵の物量に押し切られ、損害を与えられないという可能性も絶対に無いとは言い切れないのだ。
その場合でも、何とか突入し少なくとも艦載機の運用能力を奪わなければならない。
それが出来なければ……退却すら許されない。
どれだけ駆逐艦が早いと言っても、航空機とは勝負にすらならないのだから。
絶対とは言えないが、作戦の成否は自分たちの生死に直結している。
それでも、少なくとも吹雪は……絶望してはいなかった。
心の内には確かに、この先というものが……それが戦いという非情なものではあっても存在していた。
展望とでも呼ぶべきものを抱けるような何かが、あった。
もっともそれは、希望などと呼べるほど輝かしいものでは無いように思えた。
それでも、それは終わりでは無いのだ。
決死ではあっても必死ではないのだ。
行先の見えない暗闇ではあっても……終局、結末では無かった。
道は途切れてはいないのだ。
吹雪には、それで十分だった。