風は弱く、穏やかな陽光に照らされた海面がゆらゆらと揺れている。
鎮守府の沖合10Km、2級小型船舶操縦士免許の航行区域である5海里をわずかに外れた位置に、艦娘たちが深海棲艦領域への出撃や、他地域への遠征航海などに使う「門」がある。
青い猫型ロボットの国民アニメに出てくる「
また、この「門」から別の海域に出るには、出口側にも「門」が存在していることが必要で、門同士が術的につながっていなければ、向こう側に出ることはできない。
新規の鎮守府の仕事は、まず移動できる範囲を広げるため、出口となる「門」を設置していくことであり、これは「海域攻略」と呼ばれる。
提督の間で通称2-4と呼ばれる沖ノ島沖や、3-2と呼ばれるキス島沖、4-4と呼ばれるカスガダマ沖などが、「門」設置の難所として新人提督の前に立ちふさがる。
そして通称5-1、南方海域前面。
南方海域進出作戦を成功させ、この海域に橋頭堡たる「門」を設置しても、最前線であり深海棲艦の瘴気が強いこの海域では、「門」の術的効果が1カ月もすると失われてしまう。
そこで毎月、本部から新しい「門」を設置するために「水上打撃部隊で南方海域へ進出、敵艦隊を撃滅せよ!」という命令が、各鎮守府に下されることになるが、妖精さんによって選ばれた提督の権限は大きく、本部の立てた作戦を放棄することも許される。
一方で本部が、提督たちをある程度コントロールするために作ったシステムが『任務報酬』と『戦果褒賞』の制度で、この作戦を成功することで鎮守府は結構な報酬を得ることができる。
その合間で、この鎮守府では毎月のように、南方海域大嫌いな提督がジレンマに陥ることになる。
こと食に関すること以外には、基本的に優柔不断でのんびり者の、ここの提督。
横須賀提督のような計画力や、呉提督のような精神力、佐世保提督のような行動力をもって、提督らしい毅然とした決断を素早く下すことなど、なかなかできない。
大破撤退と羅針盤のリスクを考えては止めようかと思い、報酬は捨てがたいと思い直すが、消費資源と比べると……と堂々巡りの思考を続けている。
どうせ毎月、最後は結局出撃するのだからスパッと決めればいいのに、と大淀は思う。
しかし、それは言わない。
それを言っていいのはただ一人……。
「あんた、いつまで考えてんのっ!?」
安物のドアを勢いよく開け、叢雲が執務室に乱入してくる。
「とっくに長門たち第一艦隊の準備は出来てるわよ! 行くんでしょ!?」
「アッ、ハイ」
「じゃあさっさと出撃命令を出しなさい! それから第三艦隊が戻ったら交代して、私と川内、吹雪たちで北方鼠輸送に出るから手配しなさいよ!」
提督たちの間で「主夫提督」とか「美食王子」とかあだ名される、ここの提督。
そんな提督が鎮守府を潰さず、まがりなりにも大将まで昇進し、全ての大規模作戦を何とか成功させてこれたのは、ひとえに叢雲のおかげである。
叢雲は五番目にこの鎮守府に着任した艦娘だ。
吹雪たちの留守を守り、秘書艦として提督を叱咤し、お尻を叩いて提督業務をこなさせてきた。
初期艦でこそないが、ある意味では提督と最も長い時間を過ごしてきた艦娘であり、その功績から「永世秘書艦」や「栄光の五番」などと呼ばれることもある。
「五月雨、あなたもあなたよ!」
「ひゃい?」
叢雲に怒鳴られて、返事が噛んでしまう今日の秘書官の五月雨。
「あなたも秘書艦経験は多いんだから、この司令官が南方作戦のことで考え事してるのなんて単なる時間の無駄だって分かるでしょ」
「そ、そんなことは……提督は提督なりに……」
「無駄なの! さっさと決めること決めさせて、厨房に押し込んどきなさい」
五月雨は叢雲に続いて、六番目にこの鎮守府に着任した。
この順番が入れ替わっていたら……。
明るく前向きだが、どこか微妙にズレているドジッ子の五月雨と、のんびりしていて危機感のない提督の組み合わせの下で、この鎮守府は初期の内に壊滅していたかもしれない。
怒られて涙目になっている五月雨の耳元に、叢雲がヒソヒソ声でささやく。
「それより、今日はホワイトデーの用意をするから、あなたが秘書艦に選ばれたんでしょ?」
「あ、……そうでした」
「早く準備始めなきゃ、朝までに終わるか分からないわよ」
「そ、そうですよね、一生懸命がんばります!」
叢雲は提督の人選のマズさに内心ため息をつく。
どう考えても、五月雨がボウルをひっくり返したり、砂糖と塩を間違える未来しか見えてこない。
「いい? 漣と初春にお菓子作りを手伝うよう言っといたから、あなたは準備が終わったら、執務室に戻って書類の方を片付けちゃいなさい」
「えっ、でも、みんなでお手伝いした方が……」
「いいから、書類仕事を終わらせるの!」
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五月雨にホワイトデーのお菓子作りを手伝わないよう念を押してから、叢雲は大食堂にやって来た。
遠征前の腹ごしらえだ。
今日のメニューから叢雲が注文したのはマーボー豆腐。
大皿にたっぷり盛られたマーボー豆腐は、妙に本格的過ぎない、日本風にアレンジされたとろみのついたオーソドックスなもの。
これを丼いっぱいのご飯にかけて食べろというのだろう。
香辛料の効いたピリ辛さと、絶妙なとろみの織りなすハーモニー。
ご飯の相棒として、悪くない。
いや、いいに決まっている。
中華風の卵スープとサラダ、ザーサイの小鉢、二つに切った春巻、デザートに杏仁豆腐がつく。
寄り道無用の満足超特急だ。
早々に定食を平らげ、遠征の準備に向かおうとした叢雲だが……。
お菓子の材料を抱えて厨房に向かう、提督と五月雨にまとわりついている赤城を発見した。
戦場では頼もしいウォーマシーンぶりだが、食が関わると一気に残念美人ぶりを発揮する腹ペコ空母。
頭の中から明日がホワイトデーだなんてことはスッポリ抜けて、目の前の食材に反応しているのだろう。
「赤城、出撃予定の変更について伝達があるから、ちょっとこっち来て!」
叢雲は、赤城とともに予想できるトラブルの種を全て摘んでおくことにした。
赤城と隼鷹とポーラをMO作戦、千歳と千代田と夜戦バカを水上機基地建設遠征に派遣するよう予定を書き換え、明日の朝まで帰ってこれないようにした。
大切な行事前の鎮守府の平穏を守るのも、叢雲にしかできない重要な仕事なのだ。