この日、関東にも春一番が吹いたという。
しかし、この鎮守府の地方では風はまだ穏やかで、空気も冷たかった。
昼前、那珂は少し疲れた様子で大食堂に顔を出した。
那珂の後ろをついてくるのは、野分、嵐、萩風、舞風、朝雲、山雲の第四駆逐隊と第九駆逐隊の面々。
全員、那珂の率いる第四水雷戦隊の構成員だが、別に出撃や遠征に行っていたわけではない。
那珂を含めた全員、エンジ色の体育ジャージを着ていて、その所々が汚れている。
提督から、特別任務として「アジの干物作り」を命じられていたのだ。
作業は朝の6時から始まった。
大量のアジを開いてエラと内蔵を取り出し、腹の中を綺麗に洗う。
そして、開いたアジを塩水に浸し、冷蔵庫で漬け込んでから遅めの朝食。
朝食を食べたら、塩漬けしたアジを一枚一枚丁寧に拭いて水気をとり、干し網の中に入れて風通しのいい日陰に干していく。
その作業がようやく終わった。
これから早めの昼食をとり、昼寝をする。
起きたら、厨房で野菜の皮剥きを手伝いながら、アジの干し加減を確かめ、ちょうど良いタイミングで一斉に取り込む。
那珂の第四水雷戦隊には、妙な小器用さのせいで、この手の任務がよく回ってくる。
艦隊のアイドルを自称する那珂にとっては、不本意な裏方(しかも磯臭い)作業だったが……。
「萩、ゼイゴ(尾の固い部分)の取り方うまくなったよな」
「お塩、あんなに入れて健康的にどうなのかなぁ……」
「那珂ちゃんさんの塩梅を信じなって!」
「うふふ、二水戦や三水戦の干物には負けたくないわ~」
配下の駆逐艦娘たちが、変にノリノリなのだ。
「そうだよ♪ 四水戦謹製の干物で、鎮守府のみんなを唸らせちゃおうね!」
そして那珂自身も、アイドルの職業病として、笑顔で周りを盛り上げてしまう。
「二水戦のイチゴ畑や、三水戦のイモ畑に対抗して、こっちも何か農作物を作りたいよね」
「町で農家のおっちゃんに聞いたけど、トマトがいいらしいぜ」
「ネギもよく育つみたいよ」
「トマトにネギ……ふふっ、いいですね」
那珂はメニュー表を眺めながら、何となくアイドルからまた一歩遠のく気配を感じた。
(せめて、お昼ぐらいアイドルらしいものを食べなきゃ)
夕食には、那珂たち自身が作った、アジの干物がメインに出てくるに決まっている。
朝食は、目玉焼きと納豆の定食だった。
大食堂の昼のメニューは、日替わりで毎日だいたい5品ぐらいが登場する。
・新作ハヤシライス
・銀ダラの煮付け定食
・豚しょうが焼き定食
・川内流濃厚とんこつラーメンセット
・PIZZAセット【野菜ローストのジェノバ風】
(ここは、ハヤシライスかピザに決まりだよね。ううん、ピッツァ?)
那珂が注文を決めかけた瞬間……。
「すいませーん! こっち、ラーメンセット7つ!」
嵐が、勝手に注文をした。
「えっ?」
「もちろん、みんな川内さんのラーメンだよな!」
「明後日はうちも昼食当番だもんね」
「はい、負けられません」
「三水戦のお手並み拝見ね~」
キラキラとやる気を出している駆逐艦娘たちの手前、那珂も嫌だとは言えなかった。
・
・
・
出てきたラーメンからは、強烈な豚骨の匂いがした。
ごってりと脂が浮かんだ、乳白色のスープ。
具材は、三枚のチャーシューときくらげ、青ねぎだけとシンプル。
すり胡麻が少々振られていた。
高菜のたっぷりのったライスと、三個の餃子、搾菜がセットに付いている。
すでに持ち手にまで脂が付着しているレンゲで、まずはラーメンのスープを一口。
漂う豚骨の匂いの割には、スープには豚特有の臭みがほとんどなく、まろやかで上品な味わいに仕上がっている。
箸でスープの中から麺を引き上げる。
コシのある、極細で硬めに茹でられた少量のストレート麺。
小麦の風味は強いが、スルスルと食べられてしまい、物足りなさも感じる。
敷波と綾波がラーメンを運んできた際に置いていった、川内直筆らしい『麺の替え玉、お申し付け下さい』という短冊が示すように、替え玉を前提として、麺が汁と絡まることよりも吸い込みの良さと舌触りを重視しているらしい。
チャーシューは箸で簡単に崩せるほどトロトロに煮込まれていて、これがまた次の麺のすすりを早くする。
「こっち、替え玉7つお願いします」
周りの駆逐艦娘たちも麺が無くなりかけているのを感じ、那珂はキャラ作りも忘れて、低い声で注文をした。
「ハイハーイ、ありがとうございます!」
それを聞きつけ、川内自らドヤ顔で替え玉を給仕に来る。
「川内ちゃん、スープにトビウオの煮干し使ってる?」
那珂は小声で川内に聞いた。
「あははっ、那珂には敵わないなぁ。ほんのちょっと、隠し味にしか使わなかったのに」
川内が苦笑する。
「博多風とんこつに徹するなら邪道だけど、あたしの名前の元になってる川内川が流れる鹿児島県は、トビウオの漁獲量日本一だからね」
それを聞きながら、那珂はアイドルではなく料理職人の顔つきになり、明後日の四水戦による昼食当番のメニューを真剣に考え始めていた。