この地方の短い夏。
それも、例年より寒かった異例の夏が去りつつある。
艦娘寮の本館1階、『休憩室』の看板がかけられた五十畳の大広間。
提督が旅行で留守のため出撃などもなく、暇を持て余した艦娘たちが集まっていた。
「これが秋冬用の厚手のユカター。こちらが綿が入ったハンテーンよ、アーク・ロイヤル!」
「ふははははっ、コタツーだぞ! 入ってみろ、同志リシュリュー」
衣替えに伴って、支給品の秋冬服やコタツが解禁となり、妙にテンションが上がっているウォースパイトとガングート。
新入りのアーク・ロイヤルとリシュリューに、堕落の誘いをかけている。
その隣のコタツでは、すでに日本文化に毒されまくったドイツ組が
部屋の隅では、那珂ちゃんが振り付けを練習中。
今度、茨城県の大洗でご当地アイドルをやっている大洗鎮守府の那珂ちゃんとコンビを組み、大洗のアウトレット施設でライブを行うのだ。
「那珂、うっとうしいから自分の部屋でやれよ」
「やだよ、部屋にはアレが転がってるもん」
摩耶から文句が出るが、那珂ちゃんは断固拒否。
自室には、元5500トン級軽巡娘だった、黒いオーラをまとった生ゴミが2つ転がっている。
提督が留守に際して、二水戦の訓練と三水戦の夜戦を厳禁して、神通と川内の艤装を封印していったのだ。
たった一日で禁断症状が出始め、三日目には投資で全財産を溶かした人のようになっていた。
「提督が帰って来るまでに、腐り始めないといいけどな……」
そう呟く摩耶は、海防艦娘たちにアジのサビキ釣り用の仕掛けの作り方を教えている。
サビキ釣りは、魚を寄せるコマセエサを拡散させて魚の群れを集め、それを「サビキ」と呼ばれる擬餌バリで釣り上げる方法。
この時期はアジの群れがエサを求めながら湾内を回遊しているので、条件さえ合えば鎮守府の埠頭から糸を垂らすだけで、初心者の子供たちでも大漁が期待できる。
提督と鳳翔さんの留守に小さな艦娘たちが寂しがらないよう、きちんと面倒を見るのも留守番のお姉さん艦娘たちの大事な役目だ。
「多摩、明日は何時ごろがいい?」
摩耶は足でコタツの中で丸まっている多摩をつついた。
「……昼なら10時ごろと14時ごろがいいにゃ。明日は小サバも来ると思うにゃ」
多摩の読みはベテランの漁師にも匹敵する。
お昼ご飯を挟んで、ちょうどいい釣りの時間を楽しめそうだ。
留守番中の鎮守府は今日も平和だった。
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一方、提督たちはローマに一泊して、翌日は軽い市内観光をした。
観光といっても、コロッセオやトレヴィの泉などの名所に行ったのではなく、コルネット(チョコなどの甘い具の入った三日月パン)とカプチーノの簡単な朝食を済ませ、青空市場の朝市で食材を買い込みながら、露店や屋台の食い歩きをしただけだ。
新鮮な野菜やハム、チーズなどをアイデア次第で組み合わせて包み焼いた、様々な種類のパニーニ。
単品の具にチーズをかけただけの、屋台のシンプルなローマ風薄焼きピザ(提督は世代的にピッツァという言葉に拒否反応を示すおっさんだ)。
生搾りのフレッシュジュース。
満足した後、高速鉄道でナポリに向かった。
ローマからナポリまでは約225km離れているが、物珍しいイタリアの車窓に目をやっていれば、あっという間の1時間強。
観光客相手のスリやひったくりで悪名高いナポリ市内は素通りして、手近な郊外の食堂でカプレーゼとペスカトーレを食べたら、すぐにタクシーで港へと移動した。
輝く地中海を望む、美しいナポリの港風景さえ見られれば、それで十分だ。
港からは、提督が留学時代に親友となった「石油王の坊ちゃん」から借りた、全長30メートルの超豪華クルーザーで地中海に乗り出した。
今回の大規模作戦を成功させるまで、紅海や地中海への深海領域の浸食が激しく、連日のように地中海で駆逐イ級の目撃情報が連発していたらしく、「今は誰もクルージングなんてしたがらないから自由に使ってくれていいよ」とのことだった。
シェフを雇ってパーティー料理を饗させることも考えて設計された、合理的で機能的なクルーザー内のキッチンで、提督は嬉しそうに料理の下ごしらえをしている。
思えば「石油王の坊ちゃん」から初めてかけられた言葉は、「お前は中国人か? だったら卒業後に、パパのクルーザーでコックとして雇ってやるよ」というものだった。
「え? コックが要るほどのクルーザー? 何人乗り? 厨房施設と客室の規模は? 日本人でもいいの?」と食いついてきた提督に、金目当てにちやほやしてくる取り巻き連中にうんざりし始めていた「石油王の坊ちゃん」が毒気を抜かれ、そこから会話を続けるうちに、2人は親友と呼べる仲になった。
「あいつが本当にこの船に雇ってくれてれば、あんな会社で嫌な経験することもなかったんだけどなぁ……」
提督は甘い学生時代の記憶と、苦い社会人時代の記憶を、ともに笑いつつ……。
ピカピカに光る大きなボウルで、タイム、セージ、ローズマリー、ニンニクのみじん切りとパン粉を混ぜ合わせ、塩こしょうとオリーブオイルをふったカジキマグロの切り身にその衣をまぶしていく。
これに、さらにオリーブオイルを回しかけてオーブンで焼き、レモンの切り身とイタリアンパセリを添えれば、カジキマグロの香草焼きの完成だ。
「提督、いつまで待たせるんですか? もう上は暴動寸前ですよ?」
上層のパーティールームから階段を駆け下りて、能代がキッチンに飛び込んでくる。
「これをオーブンで焼いたら、メイン料理が……」
「料理はどうでもいいんです! 戦艦夏姫とか空母夏姫とかが暴れたら、私たちには止められないんですから! リベとろーちゃんも言うこと聞いてくれなくなってきてます! とにかく、みんな提督を待ってますから、すぐ上に来て乾杯だけでもしてください!」
階段に向けて能代に背中を押されながら歩く通路、その脇の丸窓から見えるのは、地中海に落ちていくオレンジ色の夕陽。
今、この先で自分を待ってくれているのは、大勢の愛すべき艦娘と深海棲艦たち……。
「やっぱり、この船に雇われなくてよかったんだね」
「はあ?」
「何でもないよ」
提督は心の中でだけ親友に感謝を述べ、能代に引っ張られながら階段を上がるのだった。