――影の国
そう呼ばれる場所がある。ケルト神話において語られる伝説の地だ。ここでは時間の流れも人間界とは異なり、影の国で一日過ぎれば人間界では三十日経過する。数多の男が訪れ、躯となり果てた墓場であり、同時に稀代の英雄を育て上げた聖地でもある。城壁の中に街があり、そこにも城壁があり、計七重の城壁に守られたこの国は、上空から見ればまるで石礫を放り込まれた波紋を生み出す水面のような構造となっている。
その中心。七つの城壁にある門を潜り抜けたその先、国の中央に鎮座する女王の城に俺は足を運んできていた。理由はただ一つ、
「ほう? では私に才能の欠片もない凡人を育てろと?」
玉座から見下ろす、一人の女。住民が一人としていなくなった国においてさえも、彼女の凛然としたカリスマが失われることはない。大地を照らす天の太陽はないが、国を照らす太陽は彼女だろう。そう思わせるだけの輝きを、意識をすることもなく目の前の女王は纏っていた。
「ああ、そうだ。俺はあいつに死んでほしくねえ。だから、自衛できるように力を付けてやってほしい」
美しい女王が、怒りを宿らせて放った言葉に応じる。もしかしたら、この質問で引き下がれば許してやる、という彼女なりの気遣いだったのかもしれないが、その程度の覚悟しかないのなら、そもそもここに来ることはなかった。
「あんたが育てるのは才能のあるやつだけっつう拘りを忘れたわけじゃない」
影の国に足を踏み入れた者に与えられる試練の数々は、女王が育て上げるに足るかどうかを見定めるためのものでもある。あの程度の試練を突破できないようなら、そして半端な力量で教えを請いに来た愚か者は須らく死ぬがいい。それが、数千年前から続く、この女王の在り方だ。
「でも、それでも頼む。レイナーレを鍛えてやってほしい」
頭を下げる。視界に移るのは黒塗りの床だけだ。玉座から向けられる視線に含まれた殺気は、こうしている間にも強くなっていく。次の瞬間には魔術による十字砲火で焼き殺されるか、あるいは魔槍の投擲で体を床に縫い付けられるか。悪い想像ばかりが頭の中を埋め尽くし、額からは冷や汗が流れ落ちた。
元々、女王の実力は俺を遥かに上回る。彼女が本気を出せば、俺は一分も持たずに殺されるのではないだろうか。その女王が殺気を漲らせているのに、俺は頭を下げ続けているので全く相手の姿を見ることができず、死の恐怖が募っていくばかりだ。
一分か、十分か、あるいは一時間か。実際にはそんなに時間は立っていないのだろうが、極度の緊張状態の俺にとってまるで永遠にも等しい時間が経過した後に、女王が再び口を開いた。
「――ふむ」
僅か一言。たったそれだけであろうとも、その言葉を機に女王が殺気を緩めたことで俺は呼吸を整えるだけの余裕ができた。顔を上げ、空気をゆっくりと吸って吐く。日常の中では気にも留めない行動を、意識して行わなければならない。その事実が、女王の放っていたプレッシャーの凄まじさを物語っている。
「私は試練を乗り越えた者には稽古をつけてやった。お前や、お前の眷属たちの場合がそれだ」
試練さえ乗り越えることができれば、人間であろうと、悪魔であろうと鍛えてくれる。他勢力との関わりを断ちがちな
対して影の国には女王以外の神がおらず、しかも同神話内の神でさえ訪れることも少ない。よって、彼女に稽古をつけてもらうことが他の神にバレて問題に発展する可能性は非常に低い。そして、影の国は天然の要塞とも言えるので、ここにいる限りは敵対勢力に襲われることもない。今のレイナーレにとってそれが一番重要な理由だ。
「それは転じて『試練を突破した者の願いを聞き届けた』と言えるかもしれんな」
試練に挑戦する者は、女王の稽古を望む者だ。ならば、若干こじつけじみてはいるが、
彼女の言うように解釈できないわけではない。
同時に話の着地点が見えてきた。鍛えられた恩を忘れたわけではないが、こうして無茶を言うばかりの俺の要望に応えてくれる女王に心中で感謝の言葉を贈る。
「……前回、俺と眷属は試練を突破してあんたに稽古をつけてもらえるようになった。もう一度試練を乗り越えれば――」
「ああ。また一つ、お前の願いを叶えてやる。私も神の一端なのだからな、願いを叶えるのは本分だ。無論、どこかの神のように約束事を踏み倒すこともないと、私の名と誇りにかけて誓おう」
感謝する。が、女王の浮かべる愉悦の表情が、俺の危機意識をやたらと刺激してくる。何度も死にかけるような人生を送ってきたせいか、不本意ながら磨き抜かれた危機察知能力が脳内アラートを絶えず鳴らしている。だが、退くことはありえない。ようやく降って湧いて出た様な、希少すぎるチャンスなのだから逃すことはありえない。それにここで退こうものなら、彼女は俺に失望し金輪際頼みを聞いてくれなくなるだろうという確信もあった。
「グラナ、お前は『覚悟』と言う言葉を使うことが多いな? 眷属を持つにあたり、最も必要なものは『覚悟』である、と。その者の人生を背負う覚悟、矢面に立ち守る覚悟、夢のために導いていく覚悟、どれも納得できるものだ。今回、ここに来たのも配下のためを思った覚悟ゆえだろうが……その覚悟、果たして本物かどうか試させてもらう。―――かつてお前が突破したものを遥かに超える難易度となるが、それでも試練に挑戦するか?」
故に、いくら死の危険があるとわかっていても、他人が愚かだというこの答えを曲げるつもりは毛頭ない。
「もちろんだ。必ず突破してやるよ」
女王が嗜虐的に唇を歪めながら、指を鳴らす。
「――では、今から試練を始めようか」
瞬間。空間を波紋のように揺らして現れた赤い魔槍が俺の左肩を貫いた。噴水のように飛び散った血液が宙に弧を描きながら床へと落ちる。
「っぐ!? ああああああ!!」
唐突に奔る痛みに思わず上げた叫び声を全く気にすることなく、魔槍に貫かれた俺の左肩を差して女王は言った。
「お前の左肩を殺した。左腕へとつながる神経や筋肉までも完全に殺した故、片腕は使用不可能だな。この状態もまた試練の一環だ」
彼女の持つ魔槍の力は治癒の不可、不死殺しとも呼ばれる呪いである。魔槍に貫かれた左肩が癒えることは、女王が呪いを解除するか魔槍を破壊する以外にない。また、傷口からは血が次々に流れているので、このままではいずれ失血によって気絶、最悪死ぬこともあるだろう。
「安心しろ。試練を突破できたのなら、後遺症もなく完璧に治してやる。それと、この薬は今回の試練の意図に反するため預からせてもらおう」
と、言いながらゆらゆらと細い指で揺らして見せたのは、俺が亜空間に収納していた『フェニックスの涙』だ。いざという時のために保管していたのだが、さすがは魔術の腕も卓越すると語られる神だけあり、俺が全く気付く間もなく目的のブツを掠め取られていたらしい。
「達成条件は影の国の果てにある出入り口に到着することだ。本来なら外から内へと入ることが試練なのだから今回はその真逆ということになる」
しかし真逆なのは道程だけであり、予め女王が言っていたように難易度は別次元と呼べるまでに跳ね上がっているのだろう。
「無論、転移魔法の類は封じさせてもらった。それと悪魔の翼の使用も禁止する。撃ち落とされても構わないのなら、使うことも許すがな」
試しに転移魔方陣を展開しようとしたら、完成まであと少しのところで陣が砕け散った。広域の結界を張るような時間と気配はなかったから、空間に対して術をかけたわけではないだろう。となると俺自身に対して、転移を封じる呪詛を仕込んだのだ。恐らくだが、俺の肩を貫いた魔槍を介して術を発動させたのだと思う。
「通常の試練では解放されない強力な魔獣も今回に限っては解き放つ。くれぐれも前回のように行くとは思ってくれるなよ」
言われなくても、そんなこと思わない。すでに重傷を負った挙句に、抜け道を片っ端から潰されたのだから。この時点で俺の危機察知能力が確かなものだと改めて証明されたようなものだが、更に女王は言葉を続ける。
「また、この刀も預からせてもらおう。お前に全力を出されれば土地の被害も馬鹿にはできんからな」
「おい、待て。その刀がねえと全力を出せねえんだが」
フェニックスの涙と同じ様に亜空間から掠めとられた刀は、俺の力を封じ込んだものである。その刀に内包された力を解放した状態こそが俺の全力なのだから、当然刀が無ければ全力を出せるはずもない。
だからこその抗議だったのだが、これも当然だと言わんばかりに女王は全く取り合うこともない。凶悪すぎる試練の内容、本筋をその態度でわかってしまった。
「――負傷と制限を重ねた状態で凶悪極まりない数々の難関を突破する。それが今回、お前の成し遂げなければならない試練だ」
コツコツの具足と石畳のぶつかる硬質な音を響かせながら、女王は近づいてくる。その顔には愉悦の限りを塗りたくったような満面の笑みが浮かんでいた。
(この天然サド女王が。試練を突破した後に必ず仕返ししてやる)
俺の肩を貫く槍を女王に遠慮なく引き抜かれる痛みに顔を顰めながら、内心で毒づく。俺にできることは、そんな些細なことだけだった。
あの女王の城から抜け出して最初に俺がいたことは傷の処置だった。まず、回復魔法をかけてみるが、効果はない。これは予想通り。死人が生き返ることがないように、『殺された』部位が回復することはありえないのだ。癒すには原因の呪いを解くほかない。
そこで俺が次善の策として講じたことは、傷口を焼いて塞ぐという手段だった。火葬が良い例だが、死人が生き返ることはなくとも、その死体を『壊す』ことはできる。俺の『殺された』傷も、焼いてさらに『壊し』て塞ぐことは可能だった。
相変わらず、神経などが死んだ左腕は全く動かないし、傷口をやいたことでさらに負傷が増えたわけだが、少なくとも出血死することはなくなった。
けれど安心する暇もない。流れる血の匂いと、新鮮な肉の焼ける香りに釣られた魔獣たちが、その姿を続々と現す。
『グルルルゥ』
虎に似た魔獣はいつでも飛びかかれるように体勢を低くして、四肢に力を込めながら唸りを上げる。
『ハッ、ハッ、ハッ』
ハイエナに似た魔獣は、待ち遠しいと言わんばかりに開きっぱなしとなった口から涎をだらだらと溢していた。
『ウオオオオオオン!』
灰色の体毛を持つ狼に似た魔獣は天高く咆哮を上げる。それは合図のようなものだったのだろう。同じ種類の魔獣たちが四方八方から次々に押し寄せ、あっと言う間に包囲された。
『グォオオオオオ!』
「うるせえんだよ、クソ熊野郎が!!」
あれから三日が過ぎた。
初っ端から魔獣の包囲網という死地に立たされながらもそこから辛くも脱出した俺は、魔獣の群れに追い回されながらもその勢いのままに第一の門に到着。門番を倒し、その翌日には第二の門番まで倒した。
そして現在、咆哮に怒鳴り返しながら、魔獣の顎にアッパーカットを食らわせて吹き飛ばす。弱点の顎にマトモに攻撃を貰い、三メートルばかり吹き飛んだくせに、軽やかに着地して再び咆哮を上げてくる。その姿からは、とてもではないがダメージを負ったように感じられない。
目の前にいるのは全身が黒い体毛に覆われた巨大な熊だ。額には第三目の目があり、しかもその目が魔眼の類らしく、見つめられ続けると体の動きが鈍くなるというものだ。爪は鋼を容易に切り裂き、牙と頑強な顎は岩をゴリゴリと嚙み砕く。そして、漆黒の体毛はこちらの半端な攻撃を弾き、その下の脂肪が衝撃を吸収する。基礎的な能力が高いうえに厄介な特殊能力まで備えた、この熊型の魔獣の戦闘能力は地獄の番犬ケルベロスの遥か上を行く。なにより厄介なことは、この熊ですら、今俺の挑戦している試練においては雑兵に過ぎないということだ。
『グルルルァア!』
熊を相手にしている間にも、背後からは銀色の獅子が飛びかかってくる。棒立ちしていれば首に噛みつかれて敢え無く即死するだろうそれを、俺はその場にしゃがみ込んで避けた。
俺から見て前方に獅子は着地する。つまり、熊と獅子が一直線上に並んだということだ。好機と見て取り、即座に右腕に集めた魔力を砲撃として打ち放つ。
「
魔力砲が二頭の魔獣を呑み込む。巻き上げた土煙の晴れた先には、掠り傷を負っただけで依然として戦闘を継続できる状態にある二頭の魔獣が立っていた。ダメージを与えることはできたが、僥倖とは言い難い。魔獣たちは怒り心頭とばかりに唸り声を上げるのだから、むしろ確実に危険度は上がってしまっている。
「あぁ、クソッタレ……。マジできついぞ、これ」
第一に左肩を貫かれた上に呪いのせいで、左腕が全く動かない。文字通り、手が足りないのだ。手数が足りないし、重心が普段と違うせいで動きにズレが生まれる。徐々に修正してはいるが、慣れるまではやはりきつい。
第二に刀を奪われたせいで力の開放もままならない。また、試練の突破条件が『魔獣を倒すこと』ではなく、『所定の場所に到着すること』なので、戦闘にかまけて力を出し切っては本末転倒である。ある程度の余力を残すことまで考えてのペース配分では一度の戦闘が長期となり、リミットを考えればかなりまずい。
三つ目は単純に向かってくる魔獣が強いということ。魔獣は一体一体の身体能力が強く厄介な特殊能力を持っている。しかも、俺は左肩の傷口から血を流して匂いを発しているせいで常に魔獣を引き寄せてしまうのだ。足を止めれば、あっという間に囲まれて圧倒的物量に押しつぶされる未来が容易く想像できる。
そして最後に、環境的要因が凶悪すぎる。環境として一番に挙げられるのは彼の有名な七つの城壁だ。城壁の一つ一つが巨大で堅固であるために破壊して突き進むということは不可能、門を開けて正面から出る他ない。が、それぞれの城壁には侵入者を阻むための兵器が設置されており、現在は俺を狙いに定めて、射程範囲に入った途端に悪態も吐きたくなるような集中砲火を見舞うのだ。ただでさえ、魔獣に手を焼いているところにそんなことをされては堪ったものではない。城門は何とか二つ突破できたが、ここに来るまで何度も死ぬような思いをしている。
「でも……、きっとこれでもまだ序の口なんだろうなぁ」
ペース配分的に、元々一体一体の魔獣とマトモに戦うつもりはなかった。目の前の二頭の魔獣にしても襲い掛かってきたから応戦しただけで今も逃げる機会を窺っているに過ぎない。
だが、そうしていては試練を突破できない。あの女王の性格からして、ゴールに近づくほどに凶悪な罠を仕掛けていることは想像に難くなく、こんなところで魔獣にかまけて消耗している場合ではないのだ。
「三十六計逃げるに如かず!」
即断即決、決断はすぐに出た。即座に行動に移す。今度は足元に魔力砲を放って、土煙を上げて魔獣どもの視界を塞いだ。それと同時に第三の城門へ向けて、
だが、視界を塞いだからといって魔獣から逃げ切れるわけではない。そもそも魔獣が俺の元に寄ってきたのは、なぜか。もっとわかり易く言うのなら、どうやって俺の位置を補足したのか。それを解明し、対策を立てることができなければ、逃走を試みたところですぐに追いつかれてしまうだけだ。
そこで、おそらく、俺の体が発する『悪魔の血臭』と『悪魔の体臭』を嗅ぎつけたからだと仮説を立ててみた。
脳裏に浮かぶのは初日の一番初めの戦闘。集団で狩りをする修正を持つ同種の魔獣同士ならばともかく、異種の魔物が何十匹と集まってその場で争うこともなく俺一人を標的に定めたことは明らかに異常だろう。ここから先はさらに推測が重なることになるが、おそらく、魔獣たちはスカアハから俺一人を標的にするように命じられたのではないだろうか。そして、この試練の最中は魔獣間での争いを中断するようにとも。
証拠に欠ける推論に推論を重ねた考えだが、もし正しいのならば賭けてみる価値はある。
あの黒い熊と銀色の獅子に出会う前に、殺した魔獣。それらを捌いて、肉は食料として、毛皮は暖を取るために、それ以外の部位にしても無事に戻れたら魔道具の材料として売って金にするために亜空間に保存してある。その中から、魔獣の血液を入れた小瓶と毛皮を取り出す。
「うわ!?
頭から一思いに魔獣の血液を浴びると、当たり前のことだが血生臭さに襲われた。しかし泣き言を言いながらも、鼻が曲がりそうな臭いに耐えて毛皮を上着のように羽織る。さらに、全力で走り続けながらも取り出したいくつかの魔獣の肉塊を四方八方に空高く蹴り上げる。
作戦は至って簡単なものだ。悪魔の体臭や血の臭いで捕捉されるのならば、別の臭いで上書きしてしまえばいい。平時ならば、魔獣だろうと悪魔だろうと、血の匂いを垂れ流していれば周辺の魔獣を呼び寄せたに違いない。しかし、もしも、スカアハによって魔獣同士での争いが禁止されているという予想が当たっているのならば、獲物になり得ないものをわざわざ追い回すことはないはずだ。まあ、あくまで臭いが原因となって追い回されることがなくなるだけなので、目視されてしまえばどうにもならないが、先ほどまでの状況に比べれば大分マシになる。
「……どうやら、賭けには勝ったみたいだな」
路地裏に飛び込んで身を隠した俺を見失った魔獣たちは、時間差で地面に落ちる肉塊の立てた音に反応して、俺のいる場所とは見当違いの場所に向かっていった。
「……はっ、はっ。あの二頭は撒けたが他にも魔獣はうじゃうじゃといやがるからな。さっさと動かねえと」
ひたすら走る。二頭の魔獣は俺を見失ったようだが、諦めたわけではないだろう。今はダミーの肉塊に向かっているかもしれないが、それが囮だとわかれば血眼になって探しに来るはずだ。追いつかれないように、そして別の魔獣に見つからないように、最大限に警戒しつつも街の裏路地を何度も曲がりながら進んでいく。
建物は石造りのものが多く、さながら西洋ヨーロッパの街並みのようだが、どこか様式が違うために違和感のような物を覚える。店の前に出された看板の種類はいくつもあり、民家の数もかなり多い。
だが、住民がひとりとして見当たらない。かつては大いに繁栄し、英雄の卵を受け入れ育て上げた影の国。その栄光はすでに過去のものなのだ。時代の流れとともに、影の国の記されるケルト神話は他神話に領域を侵されることもあったし、影の国に入るための試練を突破できるだけの傑物もほとんどいなくなってしまったためだ。
――だからだろうか、時にあの女王が試練を突破してこの国に入ることのできた俺や眷属たちに異様な執着を見せるのは。
「いや、今はそんなことを考えてる暇もないな。どうにかしてあそこまで辿り着かねえと」
かぶりを振って、逸れた思考を元に戻す。視線の遥か先に聳え立つ巨大な城門。七つあるうちの第三の城門に向けて、足を止めることは無い。
「ふふふ。やはり良いな、あの男は」
グラナが試練に挑むために出て行った後の玉座の間。そこでは一人の女王が玉座に座り、遠見の魔術を用いてグラナの奮戦する様子を見ていた。武芸だけでなく、魔術の腕さえも神域にある女王にとって、この程度のことは造作もない。
「もっと見せろ。そして私を魅せるが良い」
女王が己の考えを曲げてまでグラナの要望を聞いたのは、ただの気紛れではなかった。あの稀代の英雄に成り得る悪魔の青年が気に掛けるレイナーレという女のことが気にならなかったと言えば嘘になるが、グラナの要望を聞いた一番の目的はこうして見物するためである。
「人間も悪魔も堕天使も、神仏でさえ死を間際にすれば本性を露にする。グラナ、私はお前の魂の輝きを知っているがな……。それをもっと見たいのだ」
例えるなら、深海に沈んだ財宝を引き上げるようなものだろうか。その輝きは海上からでも見えるが、実際に引き上げて間近で見た方がより美しい。あの青年は時代が時代ならば、稀代の大英雄、あるいは覇王として未来永劫語り継がれるだけの器がある。
今の悪魔を率いる四大魔王は英雄と呼ばれてはいるが、あれらは駄目だ。ルシファーとベルゼブブの『超越者』二名は確かに強い。だが、それだけでしかない。生まれた時から最強の力を与えられていたから、英雄と呼ばれるようになった。ただそれだけの者たちだ。残りのレヴィアタンとアスモデウスは『超越者』以下だ。戦闘力では『超越者』に劣り、他のカリスマや策士としての能力も特別高いわけではない。英雄と呼ぶには足りないものが多すぎる。英雄とは、力があるだけのものを指すのではないのだ。
それに対してグラナは、本物の資質を備えている。天賦の才を持ちながらも、それに慢心することなく、血反吐をぶち撒ける鍛錬に身を投じることができる。ただ強いだけではなく、他者を惹き付ける奇妙なカリスマがある。絶体絶命の窮地に陥りながらも、決して諦めることなのない精神力を持っている。そして、実際に活路を見出して窮地を脱する天運まで授かっているのだ。あれほどに輝く卵は、女王の長い生の中でも見たことがなかった。
「グラナ、お前の資質は私の弟子の中でも最強を誇ったあの男をも超えているのだ」
クランの猛犬。光の御子。そう呼ばれた、ケルト神話最大最強の英雄がいた。彼の男も英雄としても素養を持ち、早世したが、確かに大英雄として大成した。その名が今でも語り継がれているのが、良い証拠だ。
あの大英雄を育て上げた女王には、一つ確かに言えることがある。
それはグラナ・レヴィアタンという悪魔の少年が、そのケルト最大の英雄に匹敵――ともすれば、凌駕し得る才能を持っているということだ。
――だからこそ見たい。
育てた女王自身がこれ以上ないと思った、大英雄を超える可能性を持つ悪魔の魂の輝きを。生涯において何を成し遂げるのか、何処に辿りつくのか。あの悪魔の青年の全てを知りたい。
そのための試練だ。
今回の試練は、グラナの現在の力量から考えて生存率は限りなくゼロに近い。ましてや数々の難行を突破しきれる可能性など、ゼロパーセントだと断言してもいい。
しかし、だからこそ良いのではないか。
英雄とは強いだけの者ではない。不可能を可能にする者を指すのだ。その背中を仰いだ諸人に夢を見せる者のことだ。この試練に立ち向かう姿はまさに英雄のそれであり、突破できた暁にはグラナはまた一段階成長する。
無論、試練を突破できずに死ぬ可能性の方が高い。だが、そんな些細なことはどうでもいいのだ。冷酷にして残酷。ヒトでないからこその人でなしが神なのだから。女神として神の末端に名を連ねる者として、これもまた正しいあり方だ。
そして同時に影の国の女王でもある。試練を与え、死んだ者には目もくれずに、突破できた者にだけは褒美を与える影の国の女王だ。なればこそ、今行っていることも影の国女王として何らおかしなことではない。
「何より、私がスカアハであるがゆえにな」
英雄を好であるあまりに、自身の手で英雄を作り上げるようになった女。この結末に至るのも当然の帰結だったのかもしれない。
グラナの戦っている姿を見たい。死力を尽くし絶望に抗う姿で魅せてほしい。
試練を突破し、歓喜に打ち震える場面を見たい。称賛の言葉を送り、抱きしめることを考えてやってもいい。
逆に試練に敗れて死ぬ姿も、同じ程に見てみたい。あれだけの傑物が死ぬときには何を思うのか聞いてみたい。あの男の最期を独占できるのならば、未来の芽を摘んでここで殺してしまうのも構わない。
「私は一人の女として、お前を愛してしまったのだ。女神の祝福を受けることに喜ぶのか、強欲な女神に目を付けられたことに後悔するのか。……お前はどっちなのだろうな?」
女王にして女神たるスカアハは玉座にて一人笑い続ける。その脳裏には、第三の城壁を守る門番と戦う、一人の悪魔の青年の姿があった。
牛頭の巨人。しばしばそのように形容される魔獣で、最も有名な種族は迷宮の番人ミノタウロスだろう。体長は約四~五メートル程もあり、武器は両手振りの斧を使い、群れで生活を営む。戦闘力の高さはいわずもがなだろうが、実はその肉は珍味としても知られている。
――では、目の前のコレは何だ?
筋肉という名の鎧に包まれた、十五メートルを優に超える赤褐色の巨体。両手で構えるポールアックスは一目で業物だとわかる。一歩進むごとに小さな地響きが起きて、周囲の物を揺らしていた。
「……コレ、もうミノタウロスとは別種でいいんじゃねえの?」
――ミノタウロスの突然変異体。どうやらそれが、第三の城門を守る番人らしい。ミノタウロスの咆哮と、俺が走り出すタイミングは全くの同時であり、それが開戦の合図となった。
『オオオオオオオオオオオオオオオォォッッ!!』
接近しながらも周囲の状況を観察することも忘れない。敵がこのミノタウロス一体とは限らないし、罠があることもスカサハの性格上あり得るための処置だ。
フィールドはこれまでに突破した二つの城門の門番と戦った時と同じタイプのもののようだ。約百数十メートル四方の結界に囲まれた城門前の広場であり、障害物の類は存在しない。広場に踏み入れた瞬間に展開された結界は非常に頑丈で、全く嬉しくないことに全力の魔力砲を打ち込んだところで傷一つつかない優れものだ。つまり、退路はすでに断たれている。門番を打倒して城門を突破する以外に打開策は存在しない。
「とりあえず、一発食らっとけ!!」
四十メートル。巨大ミノタウロスのリーチの外であり、かつ相手が何をしてこようと対応できると自信を持てる距離だ。俺を迎え撃つためにポールアックスを大きく振り上げたミノタウロスの胸の中央部分目がけて
様子見ということで三割ほどの力しか込めていないが、威力は十分にあるはずだった。例えを出すなら、リアス・グレモリーをぶち殺してお釣りが来るくらいだ。それを、このミノタウロスは回避も防御することもなく受け止める。
「……うん、まあ、わかってたわ」
着弾して上がった煙が晴れた先には、当然のように傷一つどころか、焦げ目すらないミノタウロスの姿がある。これまで二度倒した門番たちも似たようなものだったために、呆れこそすれど、驚くこともなく足を動かし続けミノタウロスの射程に踏み込む。
『ッッ!』
轟ッ!!
繰り出されるのは大気を引き裂き、悲鳴を上げさせる一撃だ。当たれば一瞬にして真っ二つにされるだろう振り下ろしを、半歩ステップすることで躱す。斧が石畳を割って飛び散った石礫が全身を叩くのが地味に痛く、風圧に囚われそうになる体を無理やりに動かして跳躍。ミノタウロスの頬を全力で蹴りつけ――
「がっ……」
――るよりも早く、俺は吹き飛ばされた。
俺がミノタウロスの頬を蹴ろうとしたときにはすでにミノタウロスはポールアックスから手を放していた。そこから裏拳を放ち、俺を吹き飛ばしたのだ。俺にできたのは咄嗟に右腕を体の前に持ってきて急所を守ることだけだ。拳を受けた前面と、吹き飛んだことで結界に叩き付けられた背面の痛みが酷い。口内を切ったせいで溢れた血を吐き出してから立ち上がる。
(パワーは凄ぇが、それだけじゃない)
俺の蹴りに対する
「このミノタウロス、スカアハのやつが自前で育て上げたわけじゃねえよな」
口から出たのはただのボヤキだ。言葉と裏腹に、このミノタウロスはスカアハに指導されたものだと確信している。でなければ、ミノタウロスが武術の技量を持っているはずはなく、ミノタウロスを鍛えることができるのは、世界広しと言えどもスカアハくらいのものだからだ。
『ウウウウッ』
追い打ちをかけるべく近寄ってきたミノタウロスと、再び相対する。こうして真正面から見るのは二度目だが、やはりその姿は異様なものだと感じさせられる。そして、それがただの見掛け倒しで無い事もこの身を以って教えられた。
脅威の身体能力と頑強さ。本来ならばあり得ないだろうに、女神の手によって植え付けられた武技。しかも、まだ目にしてはいないが、魔獣なのだから所謂『野生の勘』のようなものまで持っていると思われる。
「強いな……けど、強すぎるわけでも、勝機が無いわけでもない。通してもらうぜ、ミノタウロス!!」
『ヴオオオオオオオォォッッ!!!』
横薙ぎに振らわれる大斧を前転することで、体を斧の下へと潜り込ませて躱す。髪が一房切られて宙を舞ったことに肝を冷やす暇もなく、起き上がると同時に脇目も振らずに走り出す。壁際では、あの巨体は脅威だ。あの頑丈さとパワーを持つ巨体の体当たりで結界とサンドイッチにされたら確実に即死してしまう。それゆえの逃走だ。
「威勢よく啖呵切ったのは言いけど、勝つ手段がまだ思いついてないんだよな、っと!!」
背後から振り下ろされる大斧を、今度は横に飛び
「ちっと早いが、第二ラウンドの始まりだ」
ミノタウロスへと振り返ると同時に亜空間から一本の魔剣を取り出す。グラムやアロンダイトほどに有名ではないし、力もない。銘すら与えられることのなかったこの剣は、魔剣の中でも最下位に位置するものだろう。
世界各地を飛び回る傍らに強力な魔剣や聖剣、その他諸々のアイテムを収集してはいるが、それらは冥界にある城の宝物庫にて現在も保管されている。俺は剣術を使うが、その際には力を封じた刀を用いる。あれがかなりの業物なだけに、伝説の魔剣やらなにやらを亜空間に入れて携帯する必要もなかった。しかし、現在、あの刀はスカサハによって没収されてしまっている。よって、旅先で拾ったはいいが、宝物庫で保管するほどの価値はなく、かといって捨てるのも面倒で亜空間に放置しっぱなしになっていただけの木っ端魔剣では若干以上に心許ないが、何もないよりはマシだと思って振るしかない。
『オオオオオオオオオッッ!!』
左方から俺の首を斬り飛ばさんと迫るポールアックス。それを軽々と振るうミノタウロスの怪力も凄まじいが、武器自体の重量も馬鹿にできない。まともに受け止めれば、魔剣は一瞬にして砕けてしまうことだろう。技術云々の話ではなく、それだけ武器の質の差が大きいのだ。
「ふっ」
上体を下げて、魔剣をポールアックスの刃に沿うように這わせる。猛然と殺意が迫る中でも、いや、迫る中だからこそ焦っては失敗するだけだ。できて当然だと、呼吸のようにできるものだと自分に言い聞かせて、少しずつ魔剣を動かしていく。
位置の調整に角度の修正。失敗すれば即死確実の、恐らくはミリ単位の作業は心臓に悪い。早鐘のように響く心音は、意識すればするほどに大きくなることを経験上知っている。
だから、俺は努めて心音を意識の外へと追い出し、『最強の自分』を脳裏に描く。このミノタウロスに勝利し、いくつもの難行を突破する姿をイメージする。
「ああッッ!!」
そしてイメージ通りに、魔剣の軌道を僅かではあるが、確かに逸らして受け流すことに成功した。
『ッッ!?』
ミノタウロスもまさか、己より遥かに小さく、しかもつい先ほどには思いっきり殴り飛ばした相手に、攻撃を反らされるとは思っていなかったのだろう。その視線から、全身の強張りからは驚愕の気配が滲み出ていた。
「はああ!!」
魔剣を一度真上に放り投げて右手を空けて、亜空間から取り出したナイフを指の間で掴み取り、すぐさま投擲する。魔剣でも聖剣でも何でもない、ただのナイフでは、このミノタウロスの肉体を傷つけることはできないとわかっている。が、それは場所にもよる。どんな生物にも防御力が全く存在しない部位というのは必ずあるのだ。
「今まで、魔獣は数百体と戦ってきたけどな――目と喉が斬れねえやつには会ったことがねえんだよ」
ミノタウロスは振り切った大斧をすぐさま握り直し、体の前面で回転させることで、さながら円盾のようにして四本のナイフを弾いた。スカサハが育てただろう相手に隙を突いた程度の小細工で倒せるとは思っていなかったので、思考の妨げになることも無い。
この行動からわかったことは二つ。一つ目に、目の前のミノタウロスは予想外の事態に直面し、体が硬直した隙を狙われても即座に対応するだけの状況判断能力を持っており、また技量はその判断についていける水準にある。二つ目は変異種とは言っても、純粋な生物であることに変わりはなく、やはり眼球と首筋には攻撃が通るだろうということだ。でなければ、わざわざ武器を戻して防御することは無く、初撃の
「本命は首と眼球、次点で手足の腱か脈ってとこか」
急所といえば心臓も挙げられるが、心臓はあの分厚い筋肉の奥に仕舞われているので除外だ。正直、本来の獲物無しにあの筋肉を斬り裂ける気がしない。空中散歩から戻って再び右手に収まった木っ端魔剣では弾かれるどころか、剣身が真ん中からへし折れるのではないだろうか。
『オオオオオオオオオオオッッ!!』
分析を続け自分から攻める気がないとミノタウロスも悟ったのか、咆哮を上げながら大斧を振り下ろしてくる。そこから始まるのは、暴風のように苛烈な攻撃の連続だ。
振り下ろしをステップで回避する俺に向けて、地面に刃先を埋めた大斧を強引に振り回すことでミノタウロスは追撃の一閃を放ってきた。飛び上がって回避し、空中で一回転することで態勢を整えて着地する。そこでまた追撃だ。今度は反対方向から斜めに振り下ろされる大斧の軌道を、魔剣を使って少しだけ逸らした。回避行動の直後だったせいで最適の動きができず、逸らした大斧は俺の左足のすぐそばのところに刃先を埋めた。直撃こそしなかったが、やはり砕けた石畳の礫が全身を打ち据えて地味に痛い。
「……ただ、対応できないわけじゃねえってわかったのはデカいな」
結界の端から広場の中央に来るまでの間、ミノタウロスの攻撃を避け続けることができていたのはマグレではなかったらしい。初っ端から、裏拳で吹っ飛ばされたために自信がなかったが、あれは意識的には不意打ちに近かったから対応できなかっただけと見ていいようだ。
ミノタウロスが武術を使うと心得て構えていれば、十分に対応できる。まして、こうして常にミノタウロスの全身を視界の内に留めている間はその精度も上がり、相手の戦闘力を分析するだけの余裕も生まれる。
『オオオオオオオオッッ!!』
一度、後方に跳躍して距離を取る。寸前まで俺の立っていた空間を大斧が轟音を立てながら通り過ぎた。俺が跳躍して取った距離を、この冗談のような巨大ミノタウロスはたった一歩で詰めると、再度大斧を振りかぶった。
振り下ろし、薙ぎ払い、袈裟斬り、逆袈裟。大斧を縦横無尽に振るうその姿は脅威そのものだが、それだけではなく、斬撃に混じって蹴りや体当たりまで仕掛けてくる。その全てを回避、もしくは防御して無傷でやりすごす。振り下ろしはステップで躱し、薙ぎ払いと逆袈裟はしゃがんで回避、袈裟斬りは魔剣で僅かに軌道を逸らし直撃コースから外れる。体当たりは予備動作が大きいために、余裕をもって普通に走って回避した。逃げる際には起爆性の魔道具をプレゼントしてみたが、やはり筋肉の鎧は突破できず、相手を煙に包んでフラストレーションを高めるだけに終わった。
――そして、蹴りはこうして凌いでみせる。
『オオオッッ!』
終末の怪物レヴィアタンは、陸のビヒモス、天空のジズに対して海の怪物と呼ばれる存在だ。そして悪魔の魔力の特性は子孫に受け継がれるということを踏まえれば、俺の魔力が水を支配するのはある種当然のことだろう。
左方から迫る、大木のように逞しいミノタウロスの脚。その軌道上に、俺は魔力で作り出した水を盾のようにしていくつも設置する。
バシャリ。そんな音と共にミノタウロスの蹴りに敗れて、破れた水の盾は数多の滴となって地面に落ちた。そして、ミノタウロスの脚は
俺が設置した水の盾は一つではなく、合計で四つ。水でできた盾なので一つ一つの物理的な壁としての防御力はまるで期待できないが、勢いを減衰させることはできる。それを四回も繰り返せば、いくら剛力の巨大ミノタウロスの蹴りであろうとも、目に見えて速度は落ちる。
俺は軽く跳躍し空中で体を横たえて、ミノタウロスの脚に靴底を向けるような態勢となる。勢いを半分以上殺されていればミノタウロスの蹴りに合わせることも難しくはない。その脚を足場にして、俺は蹴りの残された勢いを利用しながら
数十メートルもの距離を水平跳躍するのは初めてのことだが、悪魔の翼での水平飛行ならば何度も経験がある。その経験に基づいて、空中で体を捻り両足から着地する。勢いを殺しきれずに何メートルも滑走し、石畳と靴底の不協和音が辺りに響いた。
「じゃあ、今度は俺のターンだ!」
ミノタウロスに向けて一直線に駆けていく。ミノタウロスも俺に合わせて、体の向きを変えて正面から待ち構える。
ミノタウロスの射程に踏み込んだ途端に先手必勝とばかりに振るわれる大斧。ミノタウロスの尋常ならざる怪力とリーチを考えれば、守勢に入るよりも初めから押していくほうが向いている。スカアハが長所を生かしきれるように指導したに違いない。
――まあ、だからどうしたのだ、という話なのだが。
レイナーレのために、俺はこの影の国から脱出するという難題をこなさなければならないのだ。こんな序盤の三つ目の城門の門番にいつまでも手を焼いているわけにはいかない。勝たなければならないから勝つ。シンプル・イズ・ベストというやつだ。
走りながらも胸部が地面につくほどに上体を倒して、大斧を回避し、ミノタウロスの側面へと足を踏み入れる。地面に魔剣を突き刺して、ここまで走ってきた勢いのベクトルを強引に転換、弾かれるようにしてほぼ直角に曲がってミノタウロスの背後へと回り込んだ。魔剣からミシリと、不安を煽る音が聞こえたが、努めて無視する。
この巨大ミノタウロスの長所は巨体ゆえの重量とリーチ、及び武器の重量とリーチ、そしてそれらを支える超怪力だ。その性質上、白兵戦では適切な距離を取ってさえいれば、相手からの攻撃は届かずに一方的に攻撃できるというワンサイドゲームを展開できる。
が、その反面で、長大すぎるリーチは至近距離まで近づかれた際には重荷にしかならない。あのポールアックスがいい例だが、懐にまで入り込んだ敵を払うのに振るのは些か以上に勝手が悪いだろう。また、あれだけの巨体のため、必然的に死角も増える。
つまり、このミノタウロスの攻略法は、ポールアックスの脅威を恐れることなく搔い潜り超至近距離の戦闘に持ち込むことだ。
――と、思ったら大間違いである。
スカアハが、そんなわかり易い弱点を克服させていない
上空から見下ろすミノタウロスの視線から逃れる術はない。障害物がないこの場所では身を隠すことはできないし、幻術を発動させる時間もない。
上空から重力に従って落ちてくるミノタウロスはすでに大斧を構えていた。全体重と落下の勢いを合わせた一撃は、これまで幾度となく繰り出された攻撃のどれよりも強力であることは想像に難くない。必殺どころか、オーバーキルの域にある。レッドランプが点灯し、脳内アラートが甲高く鳴り響くピンチ。しかし、『ピンチの時こそ、最大のチャンス』のような格言が古今東西にあるように、この瞬間こそが、逆転の一手を打てる機会であり、勝利するために必ず通らなければならない道なのだ。
『ヴオオオオオオオオオォォッッ!!』
咆哮を以って咆哮を制す。起死回生の好機を必ずものにしろ、と己を互いに鼓舞した。宙から地面に向けて落ちるミノタウロスと、地面から宙に向けて飛び出す俺。
「うおおおおおおおおおおおッッ!!」
ミノタウロスの握ったポールアックスが振り抜かれる。空中では回避もできない、だから勝ったとでも思ったのだろう。ミノタウロスからは勝利を確信した歓喜が気配として伝わってくる。
――だが甘い
俺が水の盾を使って威力を減衰させたミノタウロスの蹴りを利用して距離を取る前。あの時に、俺がわざわざミノタウロスにとって最適の間合いで攻撃を捌き続けたのは、単なる伊達や酔狂ではない。
ミノタウロスにとってあの距離が最適の間合いであったように、あの距離は俺にとっても最適の距離だった。攻撃を躱し、逸らし、捌き続けながらもミノタウロスの全身を常に視界に捉えることのできる、あの距離はミノタウロスの攻撃を分析にするのに最適だったのである。
ミノタウロスの全力の速度、重さ、威力、軌道、リーチ、更には癖に至るまですでに分析済みだ。たとえ、悪魔の翼の使用さを禁止され、碌に動けない空中であろうとも、ミノタウロスの攻撃を捌けるほどに。
「ああああああッッ!!」
魔剣を這わせて軌道を逸らした大斧の斧頭に足を着ける。剣に限らず、刃物は刃で切る物なのだから、それ以外の場所に殺傷性はない。見切ることさえできれば、刀身の腹なり斧頭なりに乗ることも可能だ。
そして駆ける。斧頭から柄へと、全身を叩く風に耐えて今もミノタウロスの剛腕に振られるポールアックスの上を走り抜ける。俺の木っ端魔剣ではミノタウロスの筋肉を斬り裂けない、逆に言えば筋肉以外ならば、筋肉の少ない部位ならば斬ることも可能だということだ。いくら巨体といっても指一本の大きさはたかが知れており、備わった筋肉量も相応のものでしかない。ミノタウロスの胸の丁度正面辺りを通り過ぎる際に、大斧の柄を握りしめる右手の親指に狙いを定め、骨の隙間である関節に魔剣を差し込んで容易く斬り飛ばす。同時に、狙いを完遂できたのだからわざわざ敵の懐にいる必要もなくなり、一段と足に力を込めてポールアックスの柄から跳躍。
巨岩が叩き付けられたかのような音を背後に、数秒ぶりに地面を踏みしめる。
『ヴオオオオオオッッ!?』
振り返った先には悲鳴を上げるミノタウロスの姿がある。たかが指一本と侮るなかれ、親指は五指の中でも物を握る際に最も重要な役割を果たす指だ。それを渾身の力を込めている時に斬り飛ばされた痛みは凄まじいものがある。
またポールアックスは両腕で振るう武器である。目の前のミノタウロスが変異種で、いかに巨体で怪力持ちであろうと、その体格に合わせて造られたポールアックスも相応の重量だということはわかっている。親指を失い、右手で物を握れなくなったミノタウロスに扱うことのできる代物ではないのだ。
「さて、と。これでだいぶ楽になったな」
とりあえずは凶悪すぎるリーチと攻撃力の大半を削げたと見ていいだろう。武器を手放してもなお、あの怪力が脅威であることに変わりはないが状況が好転したことに間違いはない。
ポールアックスが地面に落とされ、周囲に地響きが広がる。何度か試した結果として、左腕だけで使えないとわかったのだろう。徒手空拳の心得があるのなら、この潔さも納得だ。
『――――!』
互いに油断は欠片もない。あるのは目の前の敵を打ち倒さんとする闘志のみ。
「――――!」
前蹴りを放つミノタウロスの脚を足場にして、首を断ち切ろうと飛びかかれば横から拳が飛んでくる。数メートルも吹き飛んだ割にはガードが間に合ったおかげでダメージは少なく、着地と同時に走り出す。
ミノタウロスが目潰しとして、断ち切られた親指の根本から流れ落ちる血を飛ばしてきた。対して俺は即座に魔力を使って水を展開し、いくつもの血液の粒を回収、水を一か所にまとめ背後へ放り捨てることで視界を遮られることを防ぐ。
右から迫る、回し蹴りをしゃがんで躱しつつも脹脛に魔剣を這わせる。鈍い、まるでゴムの塊を斬りつけたかのような重い感触だ。だが、ミノタウロスの蹴りの勢いは凄まじいものであり、ただ刃物を添えておくだけで表面を斬り裂くことくらいはできる。
ミノタウロスの脚が通り過ぎ、障害物の消えた道を駆ける。
「――――
ミノタウロスは放たれる一条の魔力砲を、両手を交差して受け止める。スカサハに育てられた戦士が、急所への攻撃を無防備に受けるはずはないとわかっていた。
そして、俺にとって防御されようとされまいとどちらに転んでもでも問題ないのが今回の策だ。
俺はこれまでに顔面か頸部を狙う攻撃を何度もしてきた。そして今回、
故にミノタウロスは交差していた両腕を力任せに外側に向けて振り払う。頸部を斬り裂こうと飛び上がっていれば確実に左右どちらかの腕で放たれた裏拳を喰らっていたに違いない。
が、生憎と俺は今も地面の上を走っている。いかに超怪力と言えども、自身に害があるとは思えない遥か頭上で発揮された物にはまるで恐怖を覚えない。
戦闘のこれまでの経過と視線等から、相手の思考をミスリードしその隙を突く。単純明快な作戦だから二度は通用しない類のものだが、一度目は通用するということでもある。現にミノタウロスは見事に引っ掛かった。
「おらあああッッ!」
ミノタウロスが俺の狙いに気付いたときには、もはや手遅れだ。全力で横薙ぎに放った一閃が、ミノタウロスの左足のアキレス腱を断裁する。
『ヴォォオオオオオオオオオオオオオッッ!!?』
バツン! 太く、そして大きい音が鳴り、わずかに遅れてミノタウロスが絶叫した。唐突に片足の支えを失ったことには流石に耐えきれずに、ミノタウロスは転倒する。
ズズゥン、という鈍い音。巻き上がる土煙。
「チェックメイト――にはまだ早いか。……チェックってところかね」
右手は物を握ることも叶わず、片足のアキレス腱が斬れたことで立ち上がれもしない。中々に長引いた戦いだったがようやく終わりが見えた。
『ン、オオオオオオオオオオオオオオオオッッ!! オッ! オオオオッッ!!』
「いくら気合を入れても無駄だぜ。お前の左足の腱は完全に機能を停止してる。片足立ちくらいなら誰でもできるが、それは平常時の話で……。片足が唐突にまともに動かなくなったら立ち上がれねえよ」
重要部位を破壊されたことによる激痛が脳を蹂躙し、戦闘の最中だというのに倒れて隙を晒すことと、起き上がれないことに対する焦りが精神を苛む。アキレス腱が切れれば足をまともに動かせないので平時のバランス感覚とのズレもあり、それを修正できるだけの余裕と時間もない。
「超一級の戦士なら立ち上がれたかもしれねえが、お前には無理らしいな。もう諦めろ」
結末は簡単なもので、碌に身動きの取れなくなったミノタウロスをちまちまと削っていくことで俺の勝利となった。
ミノタウロスが絶命するとともに結界は解除され、俺は早々に第三の城門を開けて先に進む。いつまでも留まって居ようものなら、後ろから新たな魔獣が来ないとも限らない。結界が消えた以上、戦闘になることは確実であり、余計な消耗を避けるための判断だ。
俺がいる場所は第三の城門と第四の城門の間にある街だ。魔獣に発見されることを避けるために、薄暗い路地裏を足音を殺しながら歩いている。
「……この辺りには魔獣もいないみたいだな」
建物の壁面に背中を預けて、ずるずるとへたり込んだ。正直、もう体力切れだ。一度休憩を入れなければどうにもならない。丸一日戦い通しで疲労困憊、おまけに多量に出血したために意識が危うい。気を抜けば立ったままでも眠ることができそうなくらいだ。
睡魔に応じ瞼を閉じて、眠りに落ちる際にも意識を完全に手放すわけにはいかない。周辺に魔獣がいないことは確認済みだが、この状況がいつまでも続くとは限らず、熟睡している最中に襲われでもしたら溜まったものではないからだ。
眠りは浅く、それこそ小さな物音一つでいつでも飛び起きて、すぐさま臨戦態勢を取れるようにしておく。
気を緩めることは許されないのだ。
まだ第三の城門を越えただけ。試練は始まったばかりなのだから――――
スカアハはfateのスカサハ師匠とは全く関係ないです。サーヴァントを出したい思いはあるんですが、ルシファー眷属に思いっきり沖田とかベオウルフがいるし……。すまないさんとか旗の聖女とか魔拳士を出すとすれば英雄派とかいう厨二集団になってしまって、それだとfateキャラに合っていないように個人的には思うのですよ。
まあ、だからといって完全に諦めたわけではなく、宝具名をそのまま技名に転用するくらいはする予定です。