「……やっぱり夢じゃなかったのね」
レイナーレがリアス・グレモリーに殺されかけ、グラナに助けられ、そしてグラナの眷属となった怒涛の一日の翌日。
レイナーレは新たなホームとなったグラナの城で――自身に与えられた私室のベッドの上で目を覚ました。
頬を叩いて強制的に眠気から解放した脳が、周囲の状況を認識する。机、椅子、その他諸々の家具に天井や壁に至るまで、レイナーレに馴染みのないものばかりだ。今まで住んでいた場所とは全く違う様相が、レイナーレの生活が一変したことを告げている。
暫し、そのことを感慨深く思っていると部屋をコンコンとノックする音が聞こえてきた。誰が来たのかさっぱり予想もつかないが、とりあえず入っていいと返答する。
「朝食の用意ができたから、昨晩、夕食を摂った広間まで早く来い。わかったな?」
扉を開き、足音もなく部屋に入ってくると訪問者は言い切った。まるでレイナーレの意見など聞く気がないかのような態度、というより実際にないのだろう。訪問者の双眸には、レイナーレに対する興味が微塵も感じられない。
容姿は黒髪黒目の二十前後、その身に纏った執事服の上からでもわかる起伏に富んだ肉体が女性らしさを表現している。全体を見ても美人だと評せる外見だが、切れ長の目が唯一の欠点だろうか。昨晩の夕食の席で初対面を果たしたエレイン・ツェペシュも切れ長の目をしていたが、彼女の印象は『冷静沈着』『落ち着いた雰囲気』だった。それに対して、眼前の女執事は、眼光の鋭さは刃物を、冷たさは氷を連想させる。
「ええ、大丈夫よ。それと、あなたの名前を教えてくれる?」
第一印象として取っ付き難そうに思ったが、だからと言って尻込みするわけにもいかない。これからは、ここが居場所になるのだから使用人とも良好な関係性を築いていきたい。
「……ふん。アイン・ペイルドークだ。好きに呼べ」
若干、ほんの僅かにだが彼女の雰囲気が軟化したように思えた。新入りで為人もわからないレイナーレのことを測るためにわざと尖った雰囲気を出していたのか。軟化した状態でもかなり冷たい雰囲気なので、素の部分もあったのだろう。しかし、こうして目に見える形で僅かなりとも認められるというのは気持ちの良いものだ。
所変わって広間。卓に着いているのはレイナーレの他に、グラナ、ルル、エレインの三名、昨晩と同じメンバーだ。昨晩は天井に星空が映されていたが、朝ということもあってか別の景色になっていた。橙、緋、紅、赤、黄、など様々な色の光の球体が飛び回り、宙に次々と幾何学模様を描いていく。球体が通った後に残る淡い軌跡と舞い散る光の粒子に目を奪われる。
「ふぅ」
思わず感嘆の息が漏れる。原理だとかはまるで見当もつかないが、その美しさに心を奪われたのは事実だし、仮にも研究機関に属していたおかげで、使われている技術がかなり高度なものだろうと察しがついたからだ。
機を窺っていたのか、レイナーレが頭上で繰り広げられる光景に讃嘆し、そして一呼吸ついた時にグラナが声をかけた。
「レイナーレ。お前には、今日この城の中を回ってもらう。これから住む場所の構造が把握できてないんじゃ不便だろうからな。で、案内役は―――」
言葉を区切って生まれた空隙の内に出した、結論を出したのだろう。レイナーレではなく、件の人物に対して目をやって告げた。
「―――アイン、お前に任せる」
「承知しました」
レイナーレにはあれほど鋭い気配を向けていた執事が、グラナの言葉には恭しく頭を垂れている。その様子は演技だとは思えず、アインがグラナに対して高い忠誠心を持っていることの証明だ。
(あんな癖の強さそうなやつを従えるって、グラナも大概よね)
パンを齧りながら、視界に捉えた主従をそう評す。仕事を任され、期待に身を震わせているとか、グラナに熱い視線を向ける執事とかはあえて意識からシャットアウト。ただでさえ、身の回りの状況が変わってレイナーレ自身も混乱しているので、これ以上価値観を揺らがせるようなことは御免なのだ。
「行くぞ」
一体いつから待機していたのか、丁度食事を終えた後の歯磨きを済ませたタイミングでアインが声をかけてきた。
「朝ご飯はもう摂ったの?」
「無論だ。グラナ様に任せられた仕事に全力で取り組むためにエネルギーの補給は欠かせない」
やはり忠誠心がカンストしている。この場に本人がいないのに、アインが口にするグラナの名にはほとんど交流の無いレイナーレでさえ察することのできる敬意が込められているのだから筋金入りの忠誠だ。
「そう、じゃあお願いね」
――どうしてそこまでグラナに忠誠を誓っているのか
思わず口から零れかけた質問を呑み込んで、代わりに承諾の意思を返した。会って間もない今、踏み込んだことを訊くのは適切ではないだろう。気になることなら、心理的距離をもう少し詰めてからでも遅くはないはずだ。
心持ちを新たにしたレイナーレは、アインに先導されて城の中を歩いていく。アインの迷いのない歩きぶりを見るに、目的地はすでに定まっているようだが、そこに向かう間も口頭で説明を受ける。
「『不屈にして不敗の城塞』という理念の元にエレインとグラナ様が一から設計し何度も改築を繰り返したのがこの城だ。冠した名は、理念を由来としたイモータル」
「このイモータル城は大きく分けて、北と東西、そして中央の四つの棟から構成されている。そこに南の城門を加えて風水の概念における四神に見立てた術式を展開しているのだ。
イモータル城が建つ場所はちょうど龍脈の交錯する場で、そこから吸い上げたエネルギーを効率よく運用するための方策だな」
「……それって」
龍脈とは、大地を流れる気の道のようなものだ。エネルギー源ではあるが、強力すぎるせいで使い勝手が悪いとされるそれを使おうとする発想からすでにおかしい。龍脈に流れる気は濃厚で、しかも大量なのだ。これを個人が運用するということは、風呂を沸かす際にマグマを火山から引いてくるようなものである。
そこで持ち出したのが、四神に見立てた設計、というよりは術式か。神の名を冠する四体の獣をモデルにした術式は、なるほど強力に違いないだろう。こうして城全体を媒介にして発動させたのならば、相応の力を持つ術となるはずだ。
しかし、
「そうして吸い上げたエネルギーを動力として、この城は動いているのだ。様々な機能があるが、例を上げるとするなら広間の天井のあれもその一つだ」
夕餉の際の星空、今朝の朝食の際の光の乱舞。魅了されていただけに、アインの出した例がレイナーレにはわかり易かった。
「……あれ、本当に綺麗だと思ったけど……。せっかく利用できる龍脈の力をそんなことに使ってて大丈夫なの?」
「非常時には、ああいったものは停止させられるから問題ない。そもそも、平時では魔力が有り余るほどで、その余剰分を使っているだけに過ぎん」
必要のない魔力を回しているだけなら、問題もないだろう。それに、そうして生み出された美しい景観は精神衛生的にも良好だ。無駄も省けて一石二鳥と言ったところか。
「ふぅん、成程ねぇ」
その後は、アインによる『崇高なるグラナ様講座』が始まったが、それについては割愛しよう。刃物のような印象を持つ女が、目に狂信的な輝きを持ちながら話す姿はレイナーレに少なくないトラウマを与えたのである。思い出したくもない。
うっかり狂気が伝染しそうな時間を耐え抜き、ようやくたどり着いた先にあったのは巨大な扉だった。素材の良さを引き出した、上品な木製の二枚扉をアインの後に続いて潜り抜ける。
「なにこれ……」
本、本、本。右を見ても、前を見ても、左を見ても、視界に移るのは本棚に収められた無数の本。上へと視線を向けてみると、天井が驚くほどに高く、吹き抜けの構造になっているのだと理解できた。上階も内容は変わらないようで、置かれているのは本棚ばかりだと見てわかる。
まるで神殿、ある種の聖域のようにすら感じた。これほどの蔵書量は国一番の図書館でもあり得ない。本を好む者にとってはまさに天国だろう。本を好まない者でも、この光景を前に何も感じずにはいられまい。
「ここは――」
一体、何なのだ。レイナーレが声にするよりも早く、それを引き継ぐ者が現れる。
「図書館さ。歴史書から魔術書、果ては私やグラナが個人的に研究したものの論文や資料まで置かれている、情報の宝庫とも言える場所だよ」
ただ歩いて寄ってくるだけなのに、どこか気品のようなものと色気の漂う赤目の美女。照明の明りを反射して煌めく金色の髪を三つ編みに束ねて肩口から降ろし、口元からは鋭く尖った牙が覗いている。
「エレイン、あなたがどうしてここに?」
まさかエレインまで城の案内をするために来たのか。そんな思いを孕んだレイナーレの問いに答えたのは、エレインではなくアインだった。
「ここがエレインの仕事場の一つだからだ。彼女の役職の一つは、この図書館の司書なのだ」
「………役職の一つってことは、他にも何かやっているの?」
「ああ、この図書館近くにある研究所はもう見に行ったかい? 私はあそこでグラナと一緒に魔法やらなにやらの研究を一緒にやっているんだ。その過程で生まれたマジックアイテムの一部は市場に流して財源の一部にもなってるのさ」
図書館の司書。魔法の研究員。成程、どちらも学者のような雰囲気を持つエレインに見合った職に思える。
「研究所はまだ見に行っていない。順番としてはこの後に行くつもりだ」
グラナ様と並んで研究できるなんて……。答えを返しつつも、ぐぬぬぬぬと隣から歯軋り混じりの呻き声を上げるアイン。字面にすると可愛らしいが、レイナーレは全くそんな思いを抱くことができなかった。ただでさえ鋭いアインの眼光が、今では殺人鬼でも一目で逃げ出すほどに強力なものとなっているのだ。ある程度アインの眼光に慣れていたから良かったものの、そうでなければ悲鳴を上げていただろうと確信できる。
そんな目に射抜かれても、余裕の態度を崩さないエレインには敬意を覚えざるを得ない。それとも、エレインが豪胆というわけではなく、アインの強力すぎる眼力がここでは日常なのか。後者だとすると、この城はとんだ魔境である。まともな者では数日で精神がどうにかなってしまうのではないだろうか。
「ああ、言い忘れていたが、城の外を無闇に出歩かない方がいいぞ。決して晴れることのない霧に覆われた谷に始まり、魔獣巣食う山に今でも活動している火山などの危地が集まった地帯のど真ん中にあるのが、この城だからな。素人が城から出れば、三日と経たずに死体すら残るまいよ。広大な冥界の中でも魔境と呼ばれる土地なだけはある」
城の中が魔境なら、外も魔境らしい。散歩に出かければ死亡するとは物騒すぎる。こんな土地に住み着くとはグラナも大概頭がおかしいのではないだろうか。悪魔陣営の中でも敵がいると言っていたが、それでももう少しまともな土地に住んだほうが良いと切実に思った。
「そう青い顔をしなくていいよ。野生の魔物がこの城に近づけないようにグラナが手を打っているからね。この城の中にいる限りは安全だ。話を戻すが、研究所にはマジックアイテムの試作品も多く置かれているから楽しみにしているといい。まあ、その前にこの図書館の中を見て行ってくれ」
「アイン、構わない?」
「ああ。ただ場所を覚えるだけでは意味もないだろう。どういったものが置かれているのか――この図書館ならば、どの分野の本が豊富で、逆にどの分野の本が不足しているのか、そういったことまで把握しておいて損はない」
「レイナーレもここを利用するときが来るだろう。その時のためにも予め、どういった本が置かれているのかを知っていた方が君のためになる」
先ほどの険悪な雰囲気とは打って変わり、息の合ったアインとエレインの言葉。冷徹と冷静、方向に若干の違いはあれど根は似ているのだろう。二人が並んで話す様子は自然なものに思えた。
「じゃあ、ちょっと見て回らせてもらうわね。いいでしょ、アイン?」
「他にも回る場所が多いから、そう時間は取れんがな。精々、二十分といったところか」
案内人の許可も取れたので、早速レイナーレは図書館の中を巡ってみる。特別好きというわけではないが、空いた時間に読む程度には本が好きなこともあり、心が期待に湧きたつ。
「歴史書、歴史書、……これも歴史書。この階にある本は全部が歴史書みたいね」
三大勢力に関する歴史書だけでなく、人間界の国家の歴史書まである。現存している国は当然として、数千年前に滅びた国の歴史書などどこから持ってくるのか疑問が尽きない。堕天使や悪魔のような異形の存在は、言語を自動で翻訳する能力が備わっているが、それは言葉だけで文字には適用されない。この階に置かれている歴史書は悪魔文字以外で記されている物も多数存在しているようだが、まさかグラナや司書のエレインはこれら全てが読めるのだろうか。
気になる点はいくつもあるものの別の機会に訊けばいいと、この場では飲み下す。限られた時間の中で歴史書を眺めていても楽しくもなんともないので、この階層に早々に目切りを付けたレイナーレは堕天使の翼を広げて上階へと移動する。
ゆっくりと上昇しつつ各階層の本を眺めていってわかったことは、どうやら階層ごとに違う分野の本が置かれているということだ。一階は歴史書、二階は武術書、三階は魔道書、……といった具合に各階層には特定の分野に合致する古今東西から集められた本が並べられているのだ。
「………あ、これ」
充満するインクと紙の匂いを楽しみつつ、棚に収められた本をあっちからこっちへと見聞しているうちに漏らした声。これだけ巨大な図書館なのに、自分のお気に入りの本が収められていると予想していなかったことに内心自嘲しつつも、件の本を手に取った。
「『七つの恋』」
新進気鋭の女流小説家、レイ・ヴァンプのデビュー作だ。この著者は特定のジャンルに拘ることなく、様々な小説を出しているが、レイナーレは中でも『七つの恋』が一番のお気に入りだった。レイナーレもいっぱしの女なので、恋愛やら、愛やらには興味津々なのである。
『七つの恋』はジャンルで言えば、恋愛短編小説だ。七人のヴァルキリー、それぞれの恋愛を描いた七つの短編から一冊の小説となっている。どの物語も恋愛ものではあるが、その実、内容は全くと言って良い程に違いがあり、一つ一つの話を最後まで楽しめる。また、読み込めば、七つの物語が水面下で繋がっている伏線にも気付く。そのため、一度目と二度目に呼んだ時で全く違う感想を抱かされるのだ。また、七つの短篇がそれぞれ全く違うストーリー、結末を迎えるので、読み手のそのときの感情によっても感想が変わってくるという傑作である。
「……ちょっとだけ読みましょうか」
特別、読みたい本を探していたわけでもない。ただ何となく図書館の中を歩き回るよりも、偶然出会えた好きな本を読む方に心を惹かれた。表紙を捲り、開いた目次の中から最も好き な短篇のページを探し出す。
図書館に留まっていられる時間は二十分だけと制限されてしまっているせいで、一つの物語と言えど最後まで読むことはできないだろう。しかし、幸いにしてここは図書館だ。読み切れなかったのならば、借りればいいだけだ。今は時間の許す限り楽しめばいい。
そう思っていた過去の自分を張っ倒したい。レイナーレはひとえにそう願う。
「なんだ、お前は時間さえ守れんのか」
眼前には相も変わらず、人を目線だけで殺せそうなアイン。苛立たしさを隠そうともしない声音と眼力には閉口するしか、レイナーレにできることは無かった。
「たかだか二十分目を離しただけでどこかへと消え、声を張り上げても返事をしない。大層な身分だな」
結局、あの後、レイナーレは『七つの恋』を読むのに夢中となり、時間の感覚を忘れて読書に没頭してしまった。その結果が、アインの怒気である。全面的に自身に非があるとわかっていることもあり、レイナーレには反論の余地さえ残されていない。
というか、普通に怖い。長いものに巻かれろ理論に則り、体の強張りを強引に振り切って頭を下げる。
「本当に申し開きのしようもございません」
しばらく頭を下げていると、怒気が収まる気配がした。実力者でもなく、気配なんてものを碌に感じ取れないレイナーレにさえ察知できる怒気とはこれ如何に。
下らない疑問はさておいて、ため息を吐くアインと再度目を合わせるとギロリと睨まれ、つい竦み上がる。
「次の場所に行くぞ。それと、その右手に持っている本を借りるつもりならエレインに一言告げてからにしろ」
時間が推していることに反して、本を借りる程度の時間は待ってくれるらしい。気遣い、なのかもしれないが、だとすれば無器用すぎる。まあ、あの鋭すぎる眼光から考えて、気遣いという線があり得るか否かは半々といったところか。
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
一言、礼を言って踵を返す。この場所には、町の図書館のように受付のようなものがあり、本の貸し出しを申し出る際にはそこにいる者に告げてからにするのだとすでにエレインから説明されている。
向かった先の受付には、司書としての仕事中なのか、エレインが座っていた。手元の紙に何か書き連ねているが、角度と距離が悪くその内容は判然としない。
「なんだ、レイナーレか。借りたい本でもあったかい?」
足音で彼女に近づく存在に気付いたのだろう。レイナーレが声をかけるよりも早く、顔を上げた得エレインが問うた。
「ええ。この本を」
と言いながらレイナーレは右手に持っていた本をエレインへと差し出す。表紙を見たエレインの目が驚いたように見開き、そして口元には笑みが浮かんだ。
「どうかしたの?」
その反応の意味がわからず、問いかける。そんなことをした動機はただの興味本位でしかない。答えが返ってくるのなら疑問が晴れる、答えがなかったとしても別段レイナーレに実害があることでもないので今日の夜には忘れているだろう。どちらに転んだとしてもデメリットがなく、駄目で元々程度の軽い気持ちでの質問だっただけに、意外すぎる回答に驚愕を隠せなかった。
「うん。新たな仲間が私の著書を読んでくれるのだと思ったら嬉しくてね」
「……ん? なんて? もう一度言ってくれる? なんか私の耳、調子が悪いのか聞き間違えちゃったみたいで」
若き鬼才としてその手の界隈では名を知られるレイ・ヴァンプ。その人気は留まるところを知らず、人間界だけでなく、堕天使の間でもかなり高い。これまでに出版されたレイ・ヴァンプ出版の本の中でどれが一番の良作かと議論されることはよくあり、次回作の発売が決定されれば瞬く間に予約の枠が埋まるという。
今、一番ホットな作家。それがレイ・ヴァンプだ。その正体が、まさか新たな同僚だなんてことがあるわけ――
「ペンネーム レイ・ヴァンプの正体は私で、君が借りようとしている『七つの恋』は私の執筆した作品だということさ」
――あるわけあった。
これまで性別しか判明してこなかったレイ・ヴァンプ本人に、偶然転がり込んだ先で出会うなどどんな偶然だ。レイ・ヴァンプの著書の中にはヴァルキリーの他にも、悪魔や堕天使のような人外が多く登場する。本人が元吸血鬼の悪魔ということや他種の人外と出会った経験を作品に反映させていたということだろう。グリゴリにいた頃のレイナーレはもちろん、上司や同僚もただの偶然だと思考停止していたが、そう考えれば、妙に『裏』の世界の描写について正確だったことにも納得がいく。
「おや、まるで信じられないとでも言いたげな顔をしているね。う~ん、では私が小説家レイ・ヴァンプだというちょっとした証拠を上げよう。このペンネームは結構安直でね、レイは本名の『エレイン』から、ヴァンプは『ヴァンパイア』から取っているのさ。確証には遠くとも傍証にはなるだろう?」
「……あ、あー」
確かに。レイナーレは心の中で手をポンと打った。訊いてみれば納得できるものだ。また今まで明かされなかったペンネームの由来、エレインが語ったそれは即興のものとは思えないほどに筋が通っている。
天秤の針が大きく傾いていく。
そもそもエレインにレイナーレをだます理由がないことは考えるまでもない。レイナーレが疑いの声を上げてしまったのも、本心から疑っていたわけではなく、反射に近いものだった。
それ故、こうして論と証拠を示されれば疑惑から信用へと容易く変化する。
ちょっとした憧れを抱いていた相手と思わぬ出会いを遂げたことに気分は右上がりとなるレイナーレ。だから、まあ、話し込んでしまうのも仕方ないはずだと、レイナーレは自分に言い聞かせて
「『七つの恋』の七つの短篇の中には実話をそのまま使っているものはある。実話を少しばかり脚色したものもね。それも大筋まで変えたわけではないから、実話だと言っていい」
「脚色って、例えばどんな風に?」
「七人のヒロインの種族が最たるものさ。いくら私が『裏』の住人だとしても、他神話の人員の恋愛事情を七つも把握しているはずないだろう? モデルとなった実話では、七人のヴァルキリーではなく、堕天使や悪魔、人間など様々な種族の七人の女性の恋愛模様だったんだ」
「はー。成程ね。でも、どうしてそんな風に変えたりしたの? 物語の大筋に変化がないのなら、わざわざ変える必要なんてないと思うけど」
「うん、まあ、ね。……本当の種族で書いたりなんてしたら、モデルとなった本人たちが特定されかねないからだよ」
「確かに、それじゃあ変えるしかないわよね。今の情勢でそれは危険すぎるもの」
「ああ。三大勢力は今も対立状態にある。こんなときに、他勢力とのつながりを見つけられれば、組織からの追放もありえる。彼女たちは知らない仲でもないし、それは私の望むところではなかったんだよ」
「……世知辛いと言うか、何と言うか。物語の裏側には、現実的な事情があったのね」
意外だった。そして、感慨深くもある。件の小説の一ファンとして、こうした裏事情を知れたことは素直に嬉しく思う。
ここで終わりなら万々歳。しかし、現実は無常であり、そうは問屋が卸さなかった。
「――何を呑気に話し込んでいる?」
――ああ、やってしまった
つい先ほど失敗したばかりだと言うのに、似たようなことをこの短時間で二度もしてしまうなど、と後悔しても後の祭りだ。
レイナーレは背筋を震え上がらせる剣呑な声に振り返ると、予想通りに鋭利な目をしたアインが立っていた。
「時間がお前のせいで押してしまっている。さっさと行くぞ」
再度、こっ酷く説教を食らった、レイナーレはすごすごとアインの後ろについていく。不機嫌オーラが目で見えそうなほどになっていることもあり、次にアインを怒らせるようなことがあればうっかり殺されるのではないだろうかという危惧が頭から離れない。
この雰囲気のまま行動を共にしていくのは、胃に悪すぎる。僅か数時間の内に胃に穴が空いてしまいかねないほどだ。
地雷原に飛び込むような真似だとしても、このままではジリ貧だ。意を決してアインに声をかける。
「ねえ、ちょっといいかしら」
「………なんだ」
たった一言にもレイナーレの心を折るには十分な拒絶の意思が込められている。すでに後悔し始めるが、ヤケクソとばかりに言葉を紡ぐ。
「私があなたに怒られている時に、私を見ていたエレインの目が少し変だったんだけど……心当たりはない?」
口角はつり上がっていたし、瞳にも喜悦が浮かんでいたように思える。しかも、舐め回すような視線は、まるで盛った男が異性に向けるもののようだった。
アインには思い当たる節があるらしく、低く告げる。声の調子から、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべていることがありありと想像できた。
「あいつはバイなのだ」
「………は?」
「バイ。つまり、バイ・セクシャル。両性愛者だ、あの女は」
思わず問い返したが、再度告げられる答えは無情なもの。予想の斜め上を行き過ぎである。
「えぇ………、じゃあ、もしかしてさっきの視線は私に対して……」
「ああ、性的に興奮していたのだろうよ。エレインは女を相手にするときはSになるからな」
「……んん? その言い方だと、まるでエレインが男を相手にする所を見たことがあるような感じね。それに、そんなことを知ってるってことは彼女が女を攻めているところも見たような――」
「言葉の綾だ」
「いや、そんな食い気味で言われてもまるで説得力がないんだけど」
「言葉の綾だ」
「だから、ね? 何て言うか、こう、もっとほら、言い方ってものがあるじゃない?」
「言葉の綾だ」
「………」
(これは、あれね。駄目ね)
痛い沈黙が空間を支配した。居心地の悪さを解消するために始めた会話なのに、さらに状況が悪化してしまうとは痛恨の極みである。しかし、悔やんでも遅い。ならば、前向きに考えるべきだと無理矢理自分を納得させたレイナーレは、状況の悪化という失敗を頭の中から追い出し、成功と呼べるだけの何かを探し始める。
(……そんなのないわね)
まあ、都合よくあるわけもない。考え始めて数秒と経たない内に導き出される結論は至極真っ当なものだった。
図書館ではアインを怒らせること二回。そしてエレインが性的にテンションを上げることが一度。レイナーレがお気に入りの小説『七つの恋』を借りた。起きた事例を挙げればこの三つしかないのだ。アインを怒らせて良かったと思えるはずもなく、エレインが興奮していたことについてはアレだなぁと思うくらい。そして最後の小説に関しても、レイナーレにとっては良い事だが、会話の種とするには心細い。アインが本に興味を持っているかどうかわからないし、この重い空気の中で恋愛小説について語るのは難易度が高すぎる。
しかし、そうやって考えること自体がある意味では正解だった。集中して考えることで目の前の険悪な雰囲気から逃れることができたし、時間の経過が体感ではかなり短くなったのだ。
気が付いた時には、図書館の木造りの大扉とはまた別のタイプの――金属製の扉が目の前に鎮座していた。
「えーっと、アイン、ここは?」
「研究室だ。ここに来るまで内部まで案内するかどうか迷ったが、しなくてもいいか」
時間も押しているのだからな、と再度注意を受ける羽目になったが些かアインの機嫌も和らいでいるようで安心した。
優雅に踵を返したアインの後ろをこれまで通りレイナーレはついていく。
「次はどこに行くの?」
「そうだな……。中央棟のほうに一度戻るか」
この西棟には研究室と図書館以外にも、医務室と地下牢と訓練室があるのだとアインは言う。しかし、訓練室と医務室は場所さえ知っていれば事欠かなく、地下牢に行く意味も特にないので無視することと相成った。
「そうだ。まかり間違っても研究室に無断で入ったりするなよ」
スタスタと進める歩を止めることなく、アインは言った。
「どうして?」
「死にかねないからだ」
そして帰ってくる答えは当たり前のように物騒すぎた。何なのだろうか、この城と住人たちは。物騒に行くことが生き甲斐か何かなのだろうか。昨晩、エレインは夕食の席でルルのことを『頭の捻子が緩い』と評していたが、レイナーレからすればこの城の住人たちは皆『頭の捻子が飛んでいる』ようにしか思えなかった。
「研究室には聖水から致死毒まで幅広く素材が置かれているから、下手に触ると『痛い』では済まないのだ」
「何でそんなものまで置いてあるのよ……」
「例えば、聖水は悪魔を害するが、悪魔が作れないわけではない。魔獣やはぐれ悪魔を討伐する際には有用であり、魔道具の材料にもなる………とのことだ」
「あ、グラナの受け売りなのね」
「私は研究に携わっているわけではないのでな。仕方あるまい」
それはそうなのだが。と、釈然としないながらも、微妙な納得を覚える一方で、アインの狂信的な忠義を確信した。
彼女の言う通り、専門外のことについて語るのなら現場の者の声を借りると言うのは一つの有効手段だ。だから、アインがグラナの言葉を引用したところで別に不思議はない。と、言いたいところだが、件の研究に携わっているのはグラナ以外にもエレインなどがいるとアイン自身が言っていた。しかし、数居る関係者の中からグラナの言葉を選んだこと、それを口にするときに浮かんだ歪な恍惚とした笑み。それらがアインのグラナへと抱く想いを象徴しているかのようにレイナーレには思えたのだ。
(うん、放っておこう。触らぬ神になんとやらとも言うんだし)
使徒と戦う巨大ロボ並の精神汚染を撒き散らすアインとまともに付き合っていては精神が持たない。
レイナーレは早々に本日何度目かもわからない決断をして、アインの言葉と雰囲気を右から左へと受け流す。このたった数時間だけでスルースキルが非常に鍛えられたが、これほどに嬉しくない成長も早々あるまい。
「あー、えーと、そうだ」
聞き流すとは言っても、一度は耳に入ってしまっているということでもある。聞き入れることに比べれば精神的負担は遥かに少ないが、無いわけではない。鬱々と辟易とさせられること間違いなしだ。ならばとばかりに、テキトウに思いついた事柄を口に出して話題を強引にでも転換させる。
「これから行く中央棟には何があるの?」
咄嗟に考えたにしては中々に良い質問ではないだろうか。レイナーレは自分を称賛したくなった。
第一に城の案内という、アインが与えられた仕事に沿った話題である。彼女の異様なまでの忠誠心からすれば、グラナから与えられた仕事に貢献できる話題は無視できないはずだ。
第二にこれから中央棟に向かうので、話題に出すことに不自然さがない。第一の理由と合わせて、アインがこの話題を原因に機嫌を崩す可能性は非常に低いと予想が立てられる。
その推論の結果は如何に—————————
「ああ、そうか。まだ説明していなかったな」
―――勝った
思わずガッツポーズを取ってしまい、アインに怪訝な目で見られたことなど些細なことだ。レイナーレが自身の力で、勝利を掴み取った。この世に残った結果はそれだけだ。それに歓喜して何が悪い。
「中央棟には……ダンスホールや応接室、厨房に使用人用の食堂などがある」
勝利の余韻を味わいつつも、レイナーレは抱いた疑問を即座に口に出す。
「ダンスホールって……なんか意外」
貴族社会が今でも続く悪魔の世界の上流階級の住人だが、破天荒を地で行くように思えるグラナが踊っている様子は、レイナーレには想像もつかない。踊るとしても、社交ダンスではなく、
「ダンスホールは、客人を招き入れ、歓迎する場だ。二重の意味でな」
二重の意味。
一つ目は恐らく、そのままの意味だろう。客を招待してパーティーを執り行う。グラナの上級悪魔としての身分や場所の名称がダンスホールということから鑑みれば自明の理と言っても良い。グラナには似合わないが。
では、二つ目の意味とは何か。『客人を招き入れ、歓迎する』この文言が何かしらの暗喩となっているのだと推測できるが、正直、ヒントも無しでは答えが思いつかない。
アインに問い質してみれば——――
「さあな。自分で考えるがいい」
と、凶悪な笑みを浮かべながら告げるのみでヒントも答えも教えてくれそうになかった。
「――あれでよろしかったでしょうか?」
「ああ、問題ない。一日、レイナーレの案内してくれてご苦労だったな」
「いえ、グラナ様の勅命となれば苦労など。しかし、彼女は信用できるのですか? 城の内部を子細に明かしてしまいましたが、もし外部に漏れでもすれば……」
「その外部とやらに、漏らす当てがあると思うか? 魔王の妹の直轄地で問題を起こしたんだ、
「……レイナーレには、もはやここしか居場所がないということですか」
「そういうことだ。まあ、他神話なら問題を起こした過去を気にしないでくれる可能性もあるが、他所の神の目に留まるほどに何かを持っているわけでもない。後は、まあ……犯罪組織とかなら受け入れてもらえるだろうが、わざわざそこまで堕ちる必要もないだろ」
「流石の慧眼です」
「いや、別に慧眼ってほどでもないけどな……」
「ご謙遜を。私にはわかっております」
「うん、まあ、お前がいいなら、それでいいわ」
『イモータル城』
龍脈のエネルギーを利用するための四神術式の他にも様々な仕掛けの施された、超巨大魔法道具。障壁を張り外部からの攻撃を防ぐことはもちろん、侵入者の逃亡を許さない転移阻害に迎撃術式など多岐に渡る。
侵入者をそのまま返したことはなく、およそ七割が城の中で死に、残りの三割ほどは生きて城から帰ることを許されるが、その場合は捨て駒として使い潰されるだけなので結局は死亡する。極々稀に自身らを害そうとした罪を不問にするほどの『何か』を侵入者に見つけた場合に限って、グラナが配下に勧誘することがある………かもしれない。
『中央棟』
本館とも言うべき建物で、『城』としての機能の多くはこの棟に集中している。ダンスホールでは、客人を歓迎し、ショーやパーティーが開かれることがしばしばある。
『東棟』
グラナ、眷属、使用人。城の住人全員の私室が収められた棟。寝ている間に暗殺者が来ることもあるが、これまでにグラナの寝室までに辿りつけた者はいない。
『西棟』
研究所、図書館などの施設が集まった棟。図書館に収められた魔導書から召喚された魔獣が暴れ出したり、研究所が実験によって爆発に包まれるなど騒ぎが最も多い建物。地下牢では悲鳴と呻き声が絶えず、捕らえた敵対者から情報を引き出すために苛烈なお話が行われることが当たり前となっている。それに対して、医務室は寝台に薬などの医療設備が整えられており、地下牢とは真逆の清潔な空間となっている。
『北棟』
武器庫、食糧庫、宝物庫などの倉庫関連のものがまとめられている棟。宝物庫には決して奪われてはならない物も仕舞われているため、城の中でも特に警備が厳重となっている区画。ちなみに宝物庫にも武器は収められているが、それは貴重だったり、とりわけ強力な物に限られ、量産品や失敗作は武器庫に放り込まれている。既にグラナは次なる標的に目を定めているので、宝物庫の中身が増える日もそう遠くはないのかもしれない……?
『城門』
門からぐるりと、城全体を囲うように城壁が立ち並んでいる。城壁、城門ともに強度が非常に高く、最上級悪魔でさえ破壊には手間取る上に、防御用に障壁を展開したり、迎撃用の魔力砲台まで設置されているので力技で突破することはかなり難しい。