「―――これがお前に稽古をつけてやる理由であり、グラナの為したことだ」
―――私にどうしてここまで指導してくれるのか
影の国の女王――スカアハへと投げかけたその問いの答えは、レイナーレの想像を遥かに超えた壮絶極まりないものだった。レイナーレとて、グラナが何か手を回したのだろうとは思っていた。それは話を通すとか、対価を差し出した取引を持ちかけただとか、そういったものだ。だが、実際にグラナがしていたことはそんな生温いものではなかった。
「やつが突破したのは七つの城門だけではない。心を試す橋を、魔獣の棲み付く谷を、光が一切存在せず見通せない大森林を、そして不毛の平原をも越えたのだ」
「どうして、そこまでグラナがしてくれるのか……教えてもらえますか?」
「……それがあいつなりの『覚悟』なのだろう。眷属を死なせないために『王』が体を張ることに躊躇いがない」
短い時間ではあるが、ともに生活するうちに、グラナがエレインやルルをどれだけ大切にしているかを嫌というほどに見せつけられたし、彼女らのためなら死地にも軽々とグラナは足を踏み入れるだろうという確信もある。だが、まさかその対象に自身までもが含まれているとは、レイナーレは露程にも思わなかった。
再び問うと、スカアハはすげなく言った。
「そんなことまで私が知るものか。知りたいのならば、自分で考えるか、グラナに訊けば良いだろう」
あの問答の後、スカアハによるスパルタ特訓で心身ともに疲れ切り、一歩も動けなくなったところで休憩となった。特訓は慈悲もクソもない難易度ルナティック状態だが、こうして休憩を取らせてくれるところには感謝している。レイナーレには才能がびた一文存在しないので、努力は人一倍必要ではあるが、過ぎればそれはただの無茶となるという話だ。筋力トレーニングにおいて適度に休憩を挟まなければファイブローシスを引き起こすように、無茶というのは逆効果にしかならないのである。
「せっかくの空いた時間だし―――」
影の国の住人は最早、女王たるスカアハのみだ。そのため、娯楽と呼べるものがほとんど存在しない。あるとすれば、城の本か川での釣りくらいではないだろうか。無礼を承知で言わせてもらえば、休憩時間には疲労も合わさって体を休めるくらいしか、やることがない。
そんな寂しくて、ある意味悲しい場所が影の国である。
それを理解したのは、ゴールデンウィーク中でグラナたちも影の国で修行していた頃のことだ。レイナーレだけはゴールデンウィーク以降もこうして影の国での修練に身を
「―――師匠に言われたことについてでも考えてみましょうか」
――グラナがどうしてここまでレイナーレに気を使うのか。
それについて知りたい。レイナーレの胸の内を満たすのはこの一念だ。
ふとした折にレイナーレに向けられた悲哀の籠った眼差し。頭の奥を刺激するような、まるで見覚えがあるかのような横顔。大きく頼もしい背中を見るたびには、どういうわけか喜びで心が満たされる。
レイナーレが知りたいのは、それらの理由だ。きっと、その理由は、グラナのレイナーレへの対応の理由でもあるのだ。しかし、自身ではいくら考えても、まるで思い当たらない。何か頭の片隅に引っかかるような感覚はするものの、その感覚が結果に繋がったことは一度としてない。毎度毎度、『何か』があるとわかっているだけに、結果を出せないことに悶々とした思いが募っていくばかりだ。
影の国に来る以前は、新たな生活に慣れることに苦慮したり、無遠慮に尋ねることで関係が壊れることを恐れてもいた。
それも、もう終わりにする。
影の国に来て、こうしてグラナと離れてみると、一層悶々とした気持ちが募っていくばかりなのだ。こんな気持ちがいつまでも続くくらいならば、いっそのこと訊いてしまえとレイナーレ開き直る。
石畳に座り込んだまま、光を束ねて槍を作る。身の丈ほどの長い柄の先端に小さな穂を付けたプレーンな形状をしている。以前は、投擲を主軸に据えたデザインのものだったが、スカアハに「投擲は上級者向けの技だ。まずは基本からやり直せ」と指摘された結果、現在のデザインに落ち着いた経緯がある。
槍を杖代わりにして立ち上がると、軽く動作を確認するために槍を振るう。突き、薙ぎ、振り下ろし、切り上げといった単発の動作から、それぞれを繋げた連続技。その次には派生として、手首を軸に槍を回転させて放つ変則技など、スカアハから教わった基本の動作を一通り行った。
こうして改めて確認してみると、スカアハの言っていた言葉の意味が良く理解できる。基本からやり直せ、それは以前のレイナーレは基本さえもできていなかったということだ。槍のデザインを改め、基本動作を学ぶだけで、レイナーレは自身の動きが大分変わったことを実感した。
真面目に鍛錬に打ち込むのは、まあ、スカアハが怖いというのもある。あの女王は模擬戦の際には死ぬかどうかのギリギリのラインを見極めた攻撃を放ってくるのだから、自主的な特訓にも身が入る。
けれど、それだけが理由ではない。
影の国での鍛錬、その環境を整えてくれたグラナへの義理立てやしばしば「才能がない」と言ってくるスカアハへの対抗心もある。
そして、最たるものが、あの知りたいという気持ちだ。
どうしてあんな眼差しを向けるのか。胸に湧く既視感と喜びは何なのかと問いただしたいのだ。けれど、グラナはここにはいない。ここにあるのは鍛錬の毎日のみ。ならば、それにひたすら打ち込んで結果を出す。グラナの元へ戻った時に、「どんなものだ」と言ってやり、そして聞きだすのだ。
――隠さないで教えて欲しい。過去に何があったのかを
レイナーレが質問するだけでは――要求を一方的につきつけるだけでは道理が通らないし、わざわざ修行の場を整えてくれた恩にも反する。
結果を出したことの『褒美』として情報を開示させる。これがレイナーレの最近の目標である。
影の国での時間の流れは、人間界の約三十倍。人間界での一日は影の国での三十日となる。
グラナは去る前に、夏に若手悪魔の集まりがあるため、修行期間はそれまでだと伝えてきた。影の国に入ったのはゴールデンウィーク、つまり五月の初めからだ。終わりは八月頃。人間界では約三ヶ月足らずの時間だが、影の国ではその三十倍。実に九十ヶ月――約七年半だ。
才能がないことくらい、レイナーレ自身、良く理解している。特別な血筋でもなければ、特異な能力も持たない、ただの平凡な下っ端堕天使。劣等感に苛まれる時期もあったが、もう言い訳の時は過ぎた。
特別な血筋でないから何だ。世の中の大半は特別な血筋ではないのだ、別に気にするほどのことでもない。
特異な能力がないからどうしたと言うのだ。堕天使としての基本的な能力しかないが、それで十分ではないか。翼で飛べるし、光で武器も作れる。この基本を高めた結果、幹部にまで上り詰めた者がいるのだ。レイナーレもそれに習えばいい。
平凡な下っ端の何が悪い。世の中の大半は凡人なのだ。組織で最も大きな比重を占めているのは下っ端なのだ。世の中を回しているのは凡人だ。組織を支えているのは下っ端だ。凡人も、下っ端も舐めるんじゃない。
この七年半の歳月を費やして、必ずあの高慢ちきな女王に一泡吹かせてやろう。予想を超えた成長を遂げて、あの鼻先に槍を突きつけた時の驚いた顔を想像するだけで活力が漲ってくる。
「…………」
その姿を見せたら、きっとグラナは喜ぶだろう。その場面を想像すると、あの理由のわからない喜悦が心を満たしたが、不思議と不快感はなく受け入れることができた。
今回は皆大好きレイナーレの心情を明らかにする話です。眷属入りして以来、彼女が優しさを見せていたのはこういった思いを抱いていたからですね。いずれはその根源も明らかにしていきたい!
そして女神の元での七年半の修行がスタート。修羅道を地で行くケルト神話が誇る武神スカアハの元での鍛錬がレイナーレにどんな変化を与えるのか。ここからレイナーレさんの魔改造が始まるのだッ!!!