山百足は脚を地に伏せ、ぴたりとその動きを止めていた。
僕は黒く明滅する視界の隅に、ヒサグの白い手を捉えた。手招きするようにひらひらと掌を動かすヒサグの唇が、何かを伝えようとするかのようにゆっくりと開閉した。
僕は目を擦りながら、耳を澄ました。ヒサグは丸みを帯びた唇を僕の耳に近付けて、風の音に吹き飛ばされそうなくらい小さな声で囁いた。
「セブキ君、気付いた?」
「何が、だ」僕は目を瞑ってしばし痛みを堪えた。目の奥のほうに土くれが所在なさげにごろごろ転がっているのが感覚できて、それが溜まらなく気持ち悪い。
「あいつ、音に反応してるんだわ」
間を置いて、ヒサグは唇を舐めた。
「大きな音がしたら、その方向に向かって体を射出してる。そうよ、根賽先生が言ってたもの。山百足の仲間は視覚が退化してる代わりに、聴覚が敏感なんだって……」
ヒサグは尚も喋りたそうにしていたが、段々と声が上ずって来ていたので制止してやった。僕は黒い闇の中で点滅する色とりどりの光に目を凝らして考えた。
「ヒサグ、荷物を」僕は瞼をこじ開けて、ヒサグに言った。彼女は察しているのかいないのか、迷いなくすぐに背嚢を肩からそっと下ろした。
「あっちに投げ捨てるんだ」僕は崖を指差した。「奴が反応して崖の方に向かったら、すぐに下流に逃げよう」
ヒサグの顔を逡巡が走り抜けた。
僕らは今、生きるか死ぬか、ちょうどそういう局面にいるのだ。駆け引きに勝てば、ほんの僅かの間かもしれないけれど、儚い望みと命をつなぐことができる。負ければ、死ぬだけだ。
「ヒサグ頼む、やってくれ」
「ここで死ぬかもしれないってことだよね」
ヒサグの声は氷のように冷たかった。彼女は昏い視線を僕、微動だにしない山百足の順に向けて、それから、決意したように言った。
「じゃあ最後に言わせて」
「うん」
ヒサグは息を吸い込んだ。胸が膨らんだ。
「わたし、林間法級がずっと楽しみだった。セブキ君と二人きりで、その、ちゃんと話せるかもしれなかったから」
「うん」
僕は口元を拭った。
「だから本当は、こんな時だけれど、セブキ君と一緒にいれて、わたしは……」
そこまで言ってから、ヒサグは俯いて顔を隠した。今までただのことばの連なりとしか思えなかったヒサグの声が、初めて胸の中にすっと入ってきた気がした。
すぐに、日焼けした腕から背嚢がむささびのごとく放たれて、枝間をすり抜け落ち葉が堆積する崖下に落下する。
失敗だったのは、僕が急ぎ過ぎたことだ。
僕はここから逃げ出すことにばかり気をとられていて、細かなことに注意が向かなかった。そういう意味では、ヒサグの方が状況をよく見ていたのかもしれない。
僕は背嚢がヒサグの手から放たれるやいなや、だっと地を蹴って川沿いに駆け出していた。ヒサグが真ん丸に口を開けて手を伸ばしていたことにも気付かなかった。途端に、それまで石のように動かなかった山百足が、止まった時間から解放されたかのように脚をくねらせて僕らを追い始めた。
僕は無我夢中だった。痛む目頭を右手で拭いながら気狂いのようにめちゃめちゃに躰をばたつかせて走り、そして斜面で脚を滑らせて盛大に転んだ。ずざざざっと落ち葉の流れに飲まれ、ふくらはぎを泥で擦り、僕は川面に投げ出された。
あまりにも水が冷たくて、僕は喉の奥から悲鳴とも喚き声ともつかぬ音を絞り出した。水深はかなり深い。爪先が川底の石を掠めてじたばた動き、僕はげほげほと咽いだ。
背後に首を回せば、岸にヒサグが立ち尽くしている。背後の木には、山百足が節を中継して頭部を覗かせていて……
「飛び込め」
それだけ言ってから、僕の頭に大きな衝撃があった。
意識がぷつんと途切れる。
長い夢の中にいた。
夢の中で僕は栗山法級にいて、級室ではいつもの如く吉条先生が壇にたっている。
吉条先生の話していることはひどく難しくて、僕はよく理解できなかった。後ろを振り向くと、揺れる黒髪の下からヒサグの鼻が突き出ていた。
級室からひとりずつ級徒たちが退出していく。ツガクもハヅルも、キヌイも、ナラズミもスクもいなくなって、級室には僕とヒサグのふたりきりになってしまった。
「ヒサグ―」
思わず名を呼ぶと、ヒサグは椅子をひいて立ち上がった。
場面が切り替わった。僕は把省島を空の上から眺め渡していた。緑に覆われた島の付け根からは、それよりもずっと大きな本土が続いていて、本土の人たちが武器を手に把省島へと攻め込んでいる。
虫たちが焼き払われ、殺されていく。
そうして、島も、森も、みんな死んでいってしまった。
僕は半分くらい瞼を開けた。
ヒサグの黒い瞳が滲んだ絵の具のように白目の中に浮いている。水の中から見上げるようにぼやけて見えていたけれど、やがて散らかっていた焦点がひとつにまとまり、僕は呻きながら寝返りをうった。
「セブキ君!?」ヒサグがぎょっとして、僕の後頭部に手を差し入れて頭を持ち上げた。僕は目を瞬かせて、ああ、土は取れたんだな、よかったな、と思った。
「セブキ君、生きてるの?」
ヒサグは何度も僕の体を揺り起こして鶏のような甲高い声を浴びせかけてきた。
僕はうるさい、と一言呟いてから再度寝返りをうって一時間ほど寝、ようやく身を起こした。まだ頭の芯の方がふらついていて、立つのにもヒサグの手助けが必要なほどだった。
辺りを見回すと、どうやら木の洞らしき場所にいることがわかった。岩のような根や幹に覆われた薄暗い穴の縁からは白い光が僅かながらさしていて、僕には、それが僕らを絶望の淵から救い出してくれた希望の手のように思えた。
僕はふらふらよろめきながら縁に駆け寄り、辺りを見回してみた。
今までいた所とは大分様相が異なっていた。鬱蒼と茂っていた巨木は数を減らし、代わりに丈の低い低木や雑草がそこら中に繁茂している。その間からは牡蠣の殻のような岩肌がまちまちと顔を覗かせていて、見晴らしのいい斜面の向こうからは青空を背後に雪を被った山並みの姿も垣間見える。どうやら山地帯にいるらしいことがおぼろながら僕にもわかってきた。
後ろから、ヒサグが寄りかかってくる。
どうやらまた泣いているらしく、服に涙が沁み込んでいくのがわかった。よかった、よかった、としきりに繰り返し、僕の名を呼んでいる。
「何があったんだ、話してくれ」
僕はそう言った。川に落ちてからの記憶がすっぽり頭から抜け落ちていた。ヒサグは喘ぎ、咽びながら語り出した。
「あの後、セブキ君は岩に頭を思い切りぶつけて、気を失っていたのよ。私も後を追って川に飛び込んだけれど、山百足が水蛇みたいにするする水の中を泳いで近付いてきたの。もう駄目なのかと思ったけれど、そしたら、山百足が掘り起こした土の中の小虫を狙って、蜘蛛蜂や
ヒサグは息をついた。
「何度揺り起こしても、頬を叩いてもセブキ君が起きないから、とにかくここから離れたら岸に引き上げることにして、しばらく流されるままになってた。でもそしたら、今度は
ヒサグはいっぺんに喋りすぎて喉を傷めたのか、げほげほと咳込んだ。
「どのくらい眠ってたんだ?」と僕。
「三日くらい、かな」
僕は愕然とするとともに、その間ずっと傍にいてくれたヒサグに対する感謝やら申し訳なさやらで頭の中が沸騰しそうになった。一言ありがとう、とこぼし、僕は、背嚢を投げ捨てる直前のヒサグの声を思い出していた。
一緒にいてくれる人がいる。ただそれだけのことが、とても頼もしく感じられた。