Ace Combat side story of 5 -The chained war-   作:びわ之樹

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第32話 巣立ちの刻

「無理だ」

「…だよな。期待してなかったけど」

 

 柔らかく陽光を落とす太陽に、2人分の男の影が薄ぼんやりとアスファルトの地面に縫い付けられている。

 12月の山間には珍しく、晴天が続いたとある日の午後。エリクとカルロス、2人の男の姿は、ヴェスパーテ空軍基地の機能を司るコンクリートの箱――司令部棟の傍らにあった。正面を向くエリクと、それに斜めに構えて受け流す姿勢のカルロス。エリクがいささか諦念と失望を覚えるほどに、カルロスの口調はそっけない。

 

 ルーメン・メディエイショナル・エージェンシー--通称L.M.A.の黒スーツ女ことサヤカ・タカシナが『とある目的』で司令部棟を訪れる間、折よく捕まえたカルロスに話を持ち掛けた末の第一声が、このカルロスの反応であった。内容は言うまでも無く、昨日サヤカから打診された一件。すなわち、サピンの傭兵を辞め、新たに護衛部隊のパイロットとしてL.M.A.に移籍したい、という旨である。

 

 いうまでも無く、これはただの転職ではない。カスパルと同じにならないために、奴の思想に打ち勝つために、ベルカ残党の計画を阻止し、報復の連鎖を断ち切る。そのためにはサピンのために動かざるを得ない傭兵の立場から離れ、民間企業の下という一種自由な立場である必要がある。そのような必要に迫られての結論であった。ことエリクに関しては新たな乗機『クフィルC10』を安価でサヤカに用意して貰った事情もあり、いずれにせよ傘下に入ることは避けられなかったと言っていい。

 

 それでも、エリクが決断を下しカルロスに切り出す覚悟を決めたのは、その理由以外にもう一つ。すなわち、独自にベルカ残党と戦う部隊である『ラーズグリーズ』の存在と活動をサヤカから聞いていたことが大きいだろう。エリクと同じようにベルカ残党の策謀で母国オーシアを追われながら、人の縁と運に拾われ、報復の念に囚われることなくベルカ残党に対抗している。その姿と立場は、今のエリクが求めるものと完全に一致しているものだったのだ。

 

 それだけに、カルロスのにべもない返答は、エリクを失望させるに十分だった。

 

「俺に社外の人間に対する人事権は無いが、おそらく基地の重役も同じ事を言うだろう。お前とサピンとの契約は満了しておらず、当然ながら違約金が必要になる。傭兵は金に汚くすぐ裏切ると世間には思われているかもしれんが、傭兵稼業は基本的に信頼第一だ。契約を蔑ろにする傭兵は、いくら腕が立とうと雇われることは無い」

「…まぁ、だろうな。傭兵だからフラフラできる、とは思っちゃいないさ」

「ならいい。おまけに、今戦争は膠着状態…いや、『カリヴルヌス』の沈黙と昨今の情勢を考えれば、サピンが不利ですらある。お前が復活したのは幸いだ。すぐにでも通常任務に戻って貰わんと、この基地は持たん。この前までの無気力だった状態でも、新聞やニュースで情勢くらいは把握しているだろう」

 

 こんこんと諭すようなカルロスの言葉にじりじりとした苛立ちを覚えつつも、正論たるその内容には首肯せざるを得なかった。契約の途中破棄を言い出す以上、非があるのはどう見てもこちら側なのだ。

 

 何より、サピンが一人でも多く戦力を欲しているのは、ここ数日で起こった大きな変化が原因であった。

 海の向こうではユークトバニアとオーシアの前線が膠着しており、オーシア東方諸国でも親オーシアのレクタとウスティオ、親ユークのラティオ、仲介する第三勢力のサピンがそれぞれ拮抗する現状。それを読み、東方諸国の北に位置するファト連邦が親ユーク勢力として参戦、親オーシアの立場にありつつも中立を守っていた隣国ウェルバキアに対し侵攻を開始したのだ。公式にはウェルバキア領内に駐屯するオーシア軍が誤爆を行ったことに対する報復として喧伝してのことだが、地理的に考えても誰の目にも不自然であることは言うまでもない。

 

 ここで一旦、脳裏に地図を俯瞰して整理してみると、各国入り乱れた勢力図がよく分かる。

 オーシア東方諸国の一つであるラティオは、その長靴型の国土をやや前傾にして諸国の南に位置している。この『長靴』の西側――すなわちつま先から脛にかけてはサピンが接しており、ふくらはぎに当たる北東にはウェルバキア、長靴の履き口である国土北端の北にレクタ、西にウスティオが隣接する形である。レクタの北にはゲベート、ウェルバキアの北にはファトがそれぞれ連なり、ファトとウェルバキアのさらに東に接する形でノルドランドが横たわっている。言うまでも無くノルドランドの向こうには海が広がっており、その先にはエルジアが位置することになる。

 

 すなわち、今回のファトの参戦は、これまで東方諸国の中央以南西に留まっていた戦火が北東へと広がったことを意味している。本来であればファトとウェルバキアの戦端には、サピンと共同歩調を取る隣国ゲベートが介入すべき筈であるのだが、現在の所ゲベートは静観を決め込んで動く気配もない。対レクタでの動きの鈍さといい、ゲベートが漁夫の利を狙っていることはもはや明白であった。この調子では、サピンとの協調もいつ崩れるか分かったものではない。

 

「けど、よく考えてみろ。サピンが大変なのは分かってるが、その大本はカスパル達ベルカ残党の仕業だろ?サピンを護らなきゃならない気持ちは分かるが、今は元を断つのが先決なんじゃないか?」

「だとしても、今の俺はサピンの指示に従って動く以外には無い。サピン軍部が『ベルカ残党を討て』と命令を下すならよし、そうでなければひたすらサピンの防衛を続けるだけだ」

「分かったよ…じゃあせめて、俺が動くことくらい同意してくれたっていいだろう?あんたが動く訳じゃなし」

「…まずは司令部の決定を待て。さっきも言った通り、俺が同意した所で物事が動く訳じゃない。そして俺の立場としては、サピン防衛を考慮して反対を表明することしかない」

「……」

 

 留まるところを知らない戦火、そして隣国に対する疑心暗鬼。引き金が出所不明の攻撃である点といい、今回もベルカ残党の策謀が疑われる節がある。カルロスもそれは十分に理解しているのだろうが、傭兵としての在り方を第一に説くカルロスに、対ベルカのために率先して動こうという気配は全く感じられなかった。

 

 胸に、むくむくと苛立ちがこみ上げる。

 カルロス本人もかつてベルカ残党と戦い、おそらく自分以上にその手強さと厄介さを知っているだろうに、なぜ道理を盾に動こうとしない。確かに道理は重要だが、かといってそれで自らを縛り続ければ動くこともできなくなってしまうだろうに。

 目の前に重大な問題があるというのに、何故動かない。何故、俺が行くのを認めてくれない。

 そうでなければ、俺が折角見つけた戦う目的が、信念が、果たせないというのに――。

 

「いい加減現実を見ろよ!あんたが能書き垂れて動かない間にも、ベルカ残党の連中は暗躍してるんだぞ!?あんただって危険性は分かってるだろうに!」

「現実を見ていないのはお前だ。傭兵としての契約がどれだけ重いか、甘く見て貰っちゃ困る。サピンは目の前の戦争が何より最重要だ。『ラーズグリーズ』とかいう対ベルカ残党を標榜する連中がいるのなら、ベルカ残党はそいつらに任せておけばいい。そいつらが担う以上、お前や俺がわざわざ関わる必要もないだろう」

「…!……復讐を果たして潰れた俺を、あいつは再起させてくれた。それだけじゃなく、俺はカスパルとの闘いを経て、あいつの情報を聞いて、新しい目的を…あんたの言う信念を見つけたんだ。ここで安穏としてちゃ、絶対に叶わない信念を」

「…信念、だと?」

 

 ぶつけた生身の感情にすら眉一つ動かさなかったカルロスの顔が、『信念』の語にわずかに動く。

 意思を見定めるような凝視。

 避けることなく交わす視線。

 もう逸らすことも、復讐に燃える意思で拒絶することもない。自らの胸の中にある『それ』は、カルロスの瞳に確かに応えている。

 

 カルロスが、何か言おうと口を開いたその瞬間。紡がれかけた言葉は、ばたぁん、と勢いよく開いた扉の音で呑み込まれた。

 

「もう、もう、もう!頭のお固い殿方ばかり!」

「サヤカ!交渉は終わったのか。…首尾はどうだった?」

「あら、エリク様。それにカルロス様もご一緒でしたか。わたくし殿方から出待ちされるなんて久しぶりで、照れてしまいます」

「…いいから早く言え」

 

 司令部棟の扉を蹴破る勢いで出て来たのは、案の定サヤカだった。常通り隙の無い黒スーツ姿ながら、普段と異なるやや粗い口調とふくれ面は、交渉が下首尾に終わったことを物語っていた。

 

「どうもこうもございません。ヴェスパーテ幹部の方は皆さま頭がお固いのでしょうか、わたくしのお願いはにべもなく却下されてしまいましたわ。もう、あのピザデブファッティー司令殿やバーコードヘッド参謀殿のお顔を思い出すだけでわたくし思わず激おこでございます」

「まあ、そうだろう。幹部連も昨今の国際情勢は正しく把握している。東方諸国筆頭の地位すら揺らぎかけている今、余計に戦力を手放すことはできないだろうからな」

 

 おっとりと、しかし頭から湯気でも出しそうな勢いで、サヤカは結果を口にする。

 カルロスの読み通り、案の定と言うべきか移籍は認められなかったらしい。サヤカにしてみればたかがパイロット一人、それも今に至るまでこの基地と繋がって来た縁も最大限に活かして説得すれば何とかなると踏んでいたのだろうが、予想以上の抵抗によってその目は潰されてしまったのである。普段より些か荒い、砕けつつも容赦ない言葉選びが、彼女の苛立ちを如実に物語っていた。

 

「ともかく、話は終わりだな。俺は行かせてもらう。ブラッドに押し付けた事務作業が大量に残ってるんでな」

「あ、待って、待って下さいカルロス様!…もぅ!甲斐性なし!痍顔(スカーフェイス)!」

「まぁ落ち着けサヤカ。何か別の手を考えないと、『ラーズグリーズ』と連携するどころじゃなくなる。なんにせよ、一旦戻ろう」

「うーん、うーん、…むー。少しお時間をくださいませ…」

 

 要件は済んだとばかりに踵を返し、カルロスはこちらに背を向けて去ってゆく。

 片や、残された二人が足を向けるは、ひとまず司令塔向かいの格納庫。歩いてゆく最中でも、サヤカは顎に手を添えたままああでもない、こうでもないと独り言を垂れ流している。

 いつもは飄々と底が知れない雰囲気のサヤカが珍しく焦り没頭する様は、傍目に見るエリクにとっては可笑しくてならなかった。同時にどこか安心したのは、やっと彼女の人間らしい部分を見ることができたためでもあるのだろう。これから下に就くことになるのだ、こうした人間らしさや弱さも見ておかないと、いざという時に信頼できはしない。

 …格納庫の庇をくぐって後、思索に没入していてなお、散乱している工具や行き交う人々に全くぶつからない辺り、やはり得体の知れなさは残ったままだが。

 

「うーん。それなら…いや…でも…うーん…それだと…」

「おい、控室は左手奥だぞ」

「むー、うー、むむむ」

 

 物思いに夢中になったサヤカはそのまま壁にぶつかり、額を壁に合わせたまま停止する。立ったまま前傾して、全体重で額で壁に寄り掛かる特異な光景だが、これはサヤカなりの『考え中』を示す姿勢なのだろうか。歩行から壁にぶつかり停止したその様は、まるで方向ボタンが故障したゲームの操作キャラクターが、壁に向かって延々と歩きモーションを取るのにも似ていた。

 

「待てよ…それなら、…いや、でも予算が…」

「…そこがいいならそこでいいが。コーヒーでも持って来ようか?」

「そこを…うん、それで…ホットにミルクでお願いします…だとしても…それなら…」

「…了解」

 

 考え事をしていても一応周囲は把握できていたらしく、返答が混じった呟きが帰ってくる。…人間味を感じた気がしたが、何だか再びサヤカのことがよく分からなくなった。

 文字通り壁に向かうサヤカを残し、エリクは左側の搭乗員詰所へと向かう。整備中らしく、格納庫に溢れるのは機械油の匂いと電動音、時折金属が床に触れる音。それらを背に歩を進めた所で、入り込んだ斜陽に影を落とす機体が目に留まり、エリクはしばし歩を止めた。

 

 機体尾部に覗く単発ジェットエンジン、低翼位置のデルタ翼。目をより前方へとやれば、『ミラージュ』系列を彷彿とさせる半円型のエアインテークと、その上部に設けられたカナード翼が見て取れる。

 サヤカによってもたらされた、エリクの新たな乗機『クフィルC10』。図らずもそれは、エリクがレクタ空軍時代に初めて駆り、『ハルヴ隊』として名を馳せるきっかけとなったかつての乗機『クフィルC7』の近代化改修機に当たるものだった。

 外観上は、先代の『C7』とほとんど違いは無い。ハードポイントの数、位置、短時間の出力強化機構『コンバット・プラス』を搭載したエンジン、いずれもC7型と共通のものである。唯一異なるのは、機首の形状だろう。細くスマートに先端へ絞られてゆくC2型やC7型と比べ、このC10型の機首は一回り太い。これは機首のレーダーが換装されているためであり、従来運用できなかった高機能中距離空対空ミサイル(XMAA)の使用を可能たらしめているのである。何の因果か、このレーダーはかつてカスパルらスポーク隊が運用していたF-5E/Fの改修型『タイガーⅢ』と同じものだというのが些か皮肉でもあった。

 この他にもコクピットの計器類が、従来の計器盤が並ぶアナログ方式から液晶に集約表示される『グラスコクピット』へと換装されており、操作性が大きく向上している。C7型からの変更点としては、以上2点が大きな部分と言えるだろう。

 

 エリクにとっては性能云々よりも、かつて愛用していた『クフィルC7』から二点しか変わっていない(・・・・・・・・・・・)というのが非常に大きなメリットだった。

 レクタ空軍に所属してから『クフィルC7』はずっとエリクの乗機であり、数年に渡るその搭乗歴は過去の『グリペンC』や『ダガーA』よりも遥かに長い。それだけに『クフィル』系列はエリクにとって最も慣れ親しんだ機体であり、まさに手足のように扱える機種なのだ。正規軍と異なり最新鋭機を得られるチャンスは極めて低い今となっては、サヤカが選んだ『クフィルC10』という選択肢は最適解と言ってよい機体だった。

 

 主翼を見上げれば、右翼にはサピンの国籍マーク。報復を果たした今となっては、復讐を誓った星の塗装は、もはやそこには無い。片や左翼には、黒地に黄色の三日月が『一つ』。かつて4つ重なっていた三日月は今や一つとなり、幅広な月はまるで鎖すら断ち切る(メッザルーナ)にも見える意匠となっている。

 これまでの軌跡を振り返り、独りとなった自身を受け入れ、そしてなお先へと向かう信念を――報復の連鎖を断ち切る意思を刻んだ三日月。まさに自らの分身となった機体を、エリクは眩しそうに見上げた。

 

 ――間にして、数十秒。機体を見上げる脳裏にサヤカが去来し、我に返ったエリクは慌てて搭乗員詰所へと足早に向かった。いけない、サヤカのことを忘れて自分まで物思いに耽る所だった。

 …もっとも、サヤカが待ちくたびれるかも、という心配は杞憂に過ぎたかもしれない。コーヒーを注いだ紙コップをトレーに載せて戻って来た先では、サヤカは先ほどから一寸たりとも変わらない姿のまま、壁に向かって呟き続けていた。

 

「…おい、大丈夫か?一旦休憩してから作戦を練ろう」

「でも…それなら…。…そうか、待てよ、なら…」

「……まあ、好きなタイミングで飲んでくれればいいさ。ミルクは持ってきたから好きな量を…」

 

 呆れ半分、可笑しさ半分。苦笑いを浮かべたエリクは、サヤカ用に持ってきた紙コップへと目を落とす。

 それが、エリクにとって致命的な隙となった。

 エリクは気づかなかった。

 その一瞬、サヤカの呟きが止まるのを。

 その糸のように細い目が大きく開かれるのを。

 そして瞬間を経た後、俯いていたサヤカの背と腕が、まるでバネのごとく弾かれるのを。

 

「――閃きましたわ!!」

「へ?――おわちゃちゃちゃちゃ!熱うっ!」

 

 弾かれたように大きく広がる腕、反る背中。その腕の軌跡上にエリクの体とトレーがあったのが、全ての不運だった。サヤカの腕はトレーを弾き、その上にあった淹れたての熱いコーヒーが衝撃で飛んで、まるで連鎖反応のようにエリクの顔面にぶちまけられる結果となったのである。

 

 悶絶し転がるエリク、からんからんと音を立てるトレー。それらも意に介さず、サヤカは祈るように手を合わせ、喜びに堪えぬように天を仰いでいる。

 

「お前な、何を急に…!」

 

 言い終わる前に、エリクとサヤカの目が合った。

 にっこりとほほ笑むも一瞬、サヤカはその場で一回転、二回転。三回転とともにしゃがんでこちらの手を取り、ぶつかりそうなほどに顔を近づけて来た。その目は、まるで子供のようにきらきらと輝いている。

 

「エリク様、わたくしいいことを思いつきました。正攻法で移籍を考えるのがそもそもの間違いだったのです」

「は…?」

「思いついたのです。あと腐れなく、穏便にエリク様を移籍させる方法を」

 

 ぎゅっと握るサヤカの手に力が籠る。静かに、しかし確信をもって話すその様は、相当の自信があるのだろう。

 エリクは、あまりいい予感はしなかった。

 

******

 

 灰色の雲を割く朧な朝日が、格子で補強された窓越しに瞼の薄絹を透過する。

 

 支給品の安毛布に身を包んだまま、カルロスは起き抜けの朧な意識を耳へと向けた。

 壁を伝って届く、ひゅんひゅんという耳障りな高音は、遠くで稼働する航空機のエンジンのものだろう。いくつものエンジンが重奏を演じる重い音は、やがて徐々に遠のいて、意識の彼方へと消えてゆく。大型機――おそらくは輸送機が離陸したのだろう。今この基地に存在する大型機といえばL.M.A.のC-130を於いて他に無く、発注品調達のために早々に上がったのに違いない。

 まどろみの中、数分の間を経て再び聞こえるエンジン音は先と比べて些か小さく、それでいて音は高い。こちらは待機中のグレイヴ隊の機体だろう。しばらく動いたその音は、一際音階を上げてから離れ始め、同じく雲の先へと消えていった。

 

「むぅ…」

 

 寝返りを打ち、壁掛け時計を確かめる。

 午前7時に少し届かない、冬の夜明け直後。まだまだ待機当番の交代には時間がある。事実、相部屋となっているオズワルドとブラッドは、未だに布団を被って眠りこけていた。ベッドの下段にいるはずのアレックスの気配がないのは、早起きして日課のジョギングでもしているのだろう。余談ながら、基地側の配慮で女性のフラヴィは別の部屋である。

 

 サピンが緊張状態に入って久しく、殊ベルカ残党の暗躍があってからは気が休まる暇もない。瞼に掌を押し当て目脂を拭ってから、カルロスはぼんやりと上半身を起こした。長らく傭兵稼業で鍛えた体だが、ここ最近は疲労の回復が遅くなった気がする。空戦技能は経験でもって日々磨かれる一方で、体の方は20代の頃ほど無理も効かなくなってきた。

 

 年かな。

 口元に浮かぶのは、30代半ばらしからぬそんな自嘲の呟き。自らを省みると、やはり20代のフラヴィやブラッドが羨ましい。まして18歳、身体の全盛期であろうアレックスに至っては眩しいほどである。

 

 不意に、廊下の方からぱたぱたと音が聞こえてくる。ゴム底で固いタイルを足早に叩くその音は、誰かが廊下を走っているのだろう。音はやがて荒い息遣いを伴って近づき、部屋の前で停止。それは間髪入れずドアを勢いよく開ける音へと変わり、首にタオルを巻いたアレックスの姿をドアの先に顕した。

 

「隊長!ブラッド軍曹!」

「ふがっ!?――奇襲!?敵襲!?」

「落ち着けアレックス。どうした、何かあったのか」

「先ほど、エリク・ボルストが『クフィルC10』で緊急離陸していきました。なんでもL.M.A.が機密を持ち出した証拠を掴んだから、すぐに追撃するんだとか…。隊長は、何かあの人に指示されましたか?」

「……な…!?」

 

 頭を覆っていた眠気が、かけら一つ残さず吹き飛ぶ。

 エリク。L.M.A.…サヤカ。許可を得ない緊急離陸。そもそも現在奴は当直ではなく、仮に追撃を行うならば待機中のグレイヴ隊が担う筈である。もとより、サヤカが機密を持ち出したというのも怪しい。いくら奴がやり手といえども、基地のセキュリティは外部からおいそれとアクセスできるものではないのだ。

 傭兵からの移籍を図っていた二人組。人目を憚るような早朝の離陸。そして虚偽の追撃理由。要素が全て絡まり合い、一つの答えを描き出す。

 すなわち、その結論は――。

 

 冷や汗一筋、カルロスはアレックスに答えるべく口を開く。

 その言葉を瞬時に呑み込ませたのは、追い打ちをかけるような内線電話のけたたましいコール音だった。

 

「アレックス、少し待て。…こちら第4集合居室、カルロス・グロバール。どうした」

《カルロス少尉!ただちにニムロッド隊を以てエリク・ボルストを追撃しろ!奴は無許可で離陸し北進、こちらの通信にも一切答えない。脱走を図っていると思われる!》

「グレイヴ隊は?」

《パイロット2名は詰所で念入りに縛られた上簀巻きにされて発見された。命に別状はないが、解除に手間がかかりそうだ。急ぎお前たちで追撃しろ!》

「了解。ただちに上がる。ブラッド、アレックス、緊急出撃だ。オズワルド、フラヴィを呼んでくれ」

 

 受話器を置き、ベッドの上段から飛び降りながらカルロスは指示を下す。ブラッドとオズワルドは泡を食って布団から這い出す一方で、アレックスは早くもフライトジャケットに足を通していた。

 案の定だった。エリクの奴は移籍に埒が明かないことを察して、手っ取り早く脱走を選んだのだ。それもおそらくは、サヤカと共謀の上で。追撃するにしても早すぎる離陸の間隔が、それを如実に物語っている。

 あの、バカが。

 舌打ち一つ、カルロスは再び受話器を取った。コールする先は、ニムロッド隊が機体を置く格納庫である。

 

「カルロスだ。緊急出撃の命令が下った。すぐに『ディビナス』のエンジンに火を入れておいてくれ」

《了解しました!兵装は如何しますか?XMAA、セミアクティブ空対空ミサイル(SAAM)、いずれも準備できます!》

 

 SAAMを。そう言いかけて、カルロスの唇はふと止まった。

 

 『あんただって危険性は分かってるだろうに!』。

 『復讐を果たして潰れた俺を、あいつは再起させてくれた』。

 『新しい目的を…あんたの言う信念を見つけたんだ』。

 脳裏に蘇る、エリクの言葉。抜け殻にしか過ぎなかったエリクが、ようやく見出した信念。それはカルロス自身も戦いの中でかつて見出した、空で生きるのに不可欠なたった一つの芯でもある。ここにいては叶わないであろう、その信念を。信念のありかを見つけたあいつの可能性を。

 

 俺が、サピンが、ここで奪っていいものだろうか?

 

「……」

《少尉?》

「いや、何でもない。今回は追撃戦、機体は軽い方がいい。短距離空対空ミサイル(AAM)以外は追加兵装も増槽も不要だ」

《は?…はっ、ではそのように》

「すぐに向かう。…行くぞ。あのバカに傭兵の流儀を叩きこんでやる」

 

 口早に通話を切り、慌てるブラッドを急かすようにカルロスはフライトジャケットを着込む。冷や汗が滲んだシャツにごわごわとしたジャケットの感触は、少々気持ちが悪い。

 怪訝そうにこちらを見やるアレックスと、カルロスは目を合わさなかった。

 

******

 

「まったく、とんだ無茶を…」

《あらあら何をおっしゃいますエリク様。よく言うではありませんか。絡みに絡んで解けなくなった糸玉はいっそハサミで切ってしまいましょうって》

「いや初めて聞いたけどな」

 

 サピン領内ヴェスパーテ空軍基地より北方、ラティオ領内ウスティオ勢力圏の国境近く。

 眼下が平原へと移り、頭上を薄曇りが包んだ灰色の空に、L.M.A.のエンブレムを施したC-130『ハーキュリーズ』と、それから数百mを隔てて連なる『クフィルC10』の姿が浮かんでいる。

 新しい機体ながら見慣れたコクピットの中で、エリクは怪訝に顔を顰めた。いざ意を決して亡命したはいいものの、その計画の詳細は立案者たるサヤカから『お楽しみは後にとっておきましょう』の一言で一切聞いていないのである。詳細を聞いて計画を練り上げる時間が無かったのは確かなのだが、それにしても不可解な点は多い。

 第一、オーシア領内の本拠地ルーメンを目指すのならサピンからは北西の方角である。それを最短距離を取らず、ひたすら真北を目指すというのがそもそも腑に落ちなかった。

 

「なあ、いい加減教えてくれ。これからどうする気なんだ?」

《あらあら、焦ってはいけませんよエリク様。焦らしプレイはお嫌いですか?》

「お前な!」

《ふふ…。でしたら、後ろの方々をしばし凌げたら、ということでいかがでしょう。いずれにせよ、『仕掛け』まで場所も時間もまだかかります》

「何?――っ!!」

 

 サヤカの不敵な言葉は、句点を踏む前に警戒警報によって阻まれる。

 対空レーダーによる捕捉。位置は後方。何より、ここまで早く追跡してくるとすれば、相手は自ずと決まってくる。

 右旋回。方向舵が傾き、機首のカナードが空を切る。振り返った先の機影は4、いずれも小型。国籍信号はサピン。遠目ながら、そのいずれもが葉巻型の胴体と切り欠きデルタ翼を持っている。

 その姿は、間違いなく。

 

《そこで引き返せ、エリク。今引き返せば脱走の罪は不問にする》

「ニムロッド隊…!流石に早いな!」

 

 カルロスの声が、射るようにエリクを打つ。早晩追いつかれることは覚悟していたが、まさかこれほど早いとは思わなかった。流石に有事即応の傭兵部隊という所だろうか、2機ずつの変則雁行に分かれた4機は、明らかにこちらに対する攻撃態勢を取っている。

 

《エリク!あんたどういう積もりだい。やっと復活したと思ったら、とっとと尻まくって逃げる気かい!?あんたそれでも男か!》

《回答しろ、エリク・ボルスト。回答が無い場合、逃亡と見なし撃墜する》

「……」

《答えろ。引き返すか。…それとも貫くか》

 

 激しさの中に親しみが籠ったフラヴィの声が、短い中に万感を込めたカルロスの言葉が耳朶を打つ。

 レクタから追われ、復讐を遂げ、そして今。サピンで彼らと過ごした日々は、短くも得難いものだった。ロベルト隊長たちとはまた違った意味で、それは実りがあるものだったと言えるだろう。この日々で、俺は様々なものを得たのだから。

 

 日々が脳裏に去来する。夕焼けと灰と戦火の色が、出会った人々の相貌ごと記憶を染め上げる。

 口元に浮かぶのは笑み。不敵でも微笑でもなく、過ぎた休日を振り返った子供が『楽しかった』と言うような快活な笑み。

 エリクは迫る4機を見上げ、言葉を放った。まるで月の黄金色のような、手切れの言葉を。

 

「あんたの胸に聞いてみろ。あんたが俺だったら、引き返したか?」

《……》

「あんたが言ったことだ。信念は、戦い、生きる意味だって。――だから、俺は行く。あいつを超え、復讐の連鎖を超えて、俺自身を肯定するために」

《――ニムロッド各機、攻撃を開始せよ》

 

 2機二組となった『ディビナス』が、上空から機銃掃射を振り下ろす。

 旋回を終え、相対するこちらは直進。左右から挟み込む掃射に真正面から突っ込むよりは、加速して下方を抜けた方がリスクは低く済む。

 

「行かせて貰うぜ!」

 

 機銃の網を抜け、上空に4機をいなし、すれ違った直後に操縦桿を引いて急上昇。ちらりとキャノピー越しに振り返れば、ニムロッド隊のうち2機はこちら同様に急上昇からインメルマンターンに入り、残る2機は眼下を過ぎてこちらの死角に入るべく弧を描いて反転している。このまま相対すれば正面から2機の掃射で蜂の巣、回避のため下降すれば死角の2機が狙い打つという寸法だろう。無防備な上昇での回避は被弾率を上げるだけであることは言うまでもない。

 射程内まであとわずか。

 エリクは手中に陥るのにも構わず操縦桿を横に倒して『クフィル』をロールさせ、正面の『ディビナス』に捉えられる直前に背面急降下。ヘッドオンによる第一波を強引に抜け、高度を利用して鼻先から抜け出した。

 

 迫るは第二波、旋回上昇しこちらの背を狙う2機。操縦桿を引き水平を取り戻し始める機体の後ろで、2機の『ディビナス』は左右に広がってこちらとの距離を詰めてきている。SAAM装備ならばとっくに射程内に入っていた距離だが、今回は装備していないらしいことが救いだった。

 今度は背面降下で抜けるには、ロールを挟むほどの余裕はない。上空では1機が高度を保ったまま反転し、もう1機は分かれてこちらを指し急降下している。

 彼我の位置を見て取り、エリクは失速降下で抜けるという奇策を捨てた。

 当初の予定では背中に2機を引き付けた所で急減速・上昇して失速し低高度へ逃れる積りだったのだが、その手を取れば上空から降りてきている1機が失速中を狙い打ってくるだろう。向こうもそれを読んで、敢えて2-2隊形を崩したに違いないのだ。

 

「そう来るなら!」

 

 読み合いで奇策を封じられたなら、もう一つの手を使うまで。

 肚から声を張ると同時に、エリクはグラスコクピットのコントロールパネルを操作。初めてにも関わらず慣れた手つきで、モード操作選択画面へと移行した。

 指定、エンジン出力。

 モード、通常より変更。

 選択は、かつて『クフィルC7』で慣れ親しんだ切り札――推力強化機構『コンバット・プラス』。

 

 高まる加速に体が押し付けられる。後方の2機はおろか、上空を取る1機すらもその機影を徐々に引き離していく。もとより、下方から旋回上昇する2機や下降を始めた1機と異なり、こちらは急降下を終え加速が乗り切った状態だったのだ。加速性能に優れるデルタ翼の特性と併せれば、いくら軽量なMiG-21系列といえども追撃は不可能に違いなかった。

 

 読み合いを制し、危うい包囲をなんとか凌ぎ切った。

 その瞬間、冷や汗を拭うべく片手を離したのは、ひとえに油断と言う他無かっただろう。

 読み合いのさらに一つ先を読んでいた上空の1機を、エリクは見落としていたのだから。

 

《『敵』の中で、目を離すな!》

「っ…!カルロス!」

 

 上空から迫る1筋の掃射。あたかも光の筋となった23㎜の光軸を、エリクは咄嗟に操縦桿を倒し辛うじて回避した。

 コンマ数秒遅れていれば機首を千切り取っていた――そう遅ればせに実感させる、狙いすました奇襲。こちらが加速性能を活かして振り切ることを読み、わざと降下のタイミングをずらしたに違いない。ご丁寧に当てやすい主翼よりも機首を狙い、旋回を誘発して速度を落とさせたのもその一環だったのだろう。事実カルロスの機体は急降下で下方へ抜け、代わりに3機が再び後方から加速してきている。

 

「ちっ、さすがに一筋縄じゃ…!」

《エリク様、聞こえますか?こちらの『準備』が整いました。こちらへ向けて直進してきて下さいませ。…ええ、なるべく急いで、一目散に》

「言われなくても全速で向かうさ!1対4は流石にしんどいからな!」

《ニムロッド2、逃がすな!加速すればまだ追いつける!》

《応!》

 

 唐突なサヤカの通信に応えるように、エリクは燃料も構わずフルスロットルで『クフィル』を駆る。迫る『ディビナス』も加速を重ね、それはさながら最終コーナーを抜けたサーキットのような様相を呈していた。装備分の重量が軽いためか、その距離は徐々に縮まってきつつある。その末路は、自ずと明らかだっただろう。

 ――そう。この戦場に存在するのが、エリクとニムロッド隊だけだったならば。

 

 爆発。黒煙。

 唐突に、彼方の地平線にそれは爆ぜた。低くなった山岳の端や丘陵で阻まれながら、それらは絶え間なく天地を彩り、時折赤い爆炎が上がっている。

 空には、幾何学模様を描くいくつもの軌跡。片やF-16『ファイティングファルコン』を中心に構成され、白、黒、赤の三角模様を記された一群。片やF-104『スターファイター』やMiG-29『ファルクラム』で構成され、赤、白、緑の旗で翼を彩る一群。省みることもなく、それらは空に地に舞い、戦火を散らしている。

 

「これは…!?」

《た、隊長!まさか、これ…!》

《ニムロッド各機、引け!……ウスティオ軍とラティオ軍、か…!》

 

 息を呑む気配が伝わり、後方の機影が惑ったように旋回する。

 ウスティオとラティオの戦闘。どうやら、いつの間にかラティオ領内へと侵入していたらしい。サピンに移ってからは意識の外だったが、そもそもはレクタ・ウスティオとラティオの戦争は今も継続中なのである。サピンにしてみればウスティオとは交戦中であり、対ラティオでは主だった交戦こそしていないものの、かといって同盟を結んでいる訳でもない。サピンに属するニムロッド隊が、両軍を刺激する可能性の高い戦場を躊躇するのは当然といえば当然だった。

 

《エリク様、追撃が緩みました。この隙に戦場を突っ切って下さいませ。大丈夫、両軍とも乱入者どころではありませんから》

「作戦、って…まさか、これか!?」

《はい。実は先日かの『ケストレル』に赴いた際、ぽっちゃり系ナイスミドルな殿方にお話をお伺いしたのが着想の由来でございます。なんでも、『今回の脱走劇は昔と比べれば楽だったよ、何せ『彼ら』がいたからね。15年前は身一つで逃げたから大変だったものさ。円卓での乱戦に紛れ込まなければ、私も生きてはいなかっただろうね』と。すなわち木を隠すなら森の中、身を隠すには大乱戦の中、という訳でございます》

「……まさかとは思うが、この戦闘は…」

《いえいえ、わたくしは少し『手助け』させて頂いただけですわ。丁度ファト連邦の参戦でウスティオ軍が戦線縮小を行うとお聞きしましたので、それとなーくわが社のエージェントがラティオ側にお話しただけでございます。『昨日からウスティオの航行制限が厳しくて商売あがったりですよー。車両も山ほどウスティオ方面に向かっているし、何でしょうね?』…という次第でして》

「…………」

 

 いっそここまで来ると得体が知れないどころの話ではない。もはや絶句する他無く、エリクはやけくそ気味にフットペダルを踏みこんだ。

 呼応するエンジン、高まる鼓動。元来の加速性能に『コンバット・プラス』による強化が加わった機体は速い。銃弾のいくつかが機体を掠め、戦闘機がこちらを探るべく旋回するさまも見えるが、それらも本来の敵機に追われ踵を巡らしてゆく。時折こちらを狙って爆炎が爆ぜるが、致命傷を与えるには至らなかった。

 

 もう少しで、戦域を抜けられる。

 『コンバット・プラス』の稼働限界を見て取り操作盤に手を伸ばしかけたその瞬間、機体の通信回線は声を拾った。外の戦火にも掻き消えず、確かな響きを持ったその声を。

 

《いずれにせよ、もう追いつけん。――行け。信念を忘れるな》

 

 ――コンバット・プラス解除。

 伸ばした手はそのまま操作盤を辿り、サピン周波数宛ての通信回線を切った。きっと、もう返答はいらないであろうから。

 

 戦域を抜けるその瞬間、エリクは操縦桿を左へ倒し、機体を一回転ロールさせた。

 翼端が描く、螺旋のような軌跡。

 それを後方に振り切って、エリクの『クフィルC10』は彼方へとその航跡を引いていった。


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