Ace Combat side story of 5 -The chained war-   作:びわ之樹

32 / 45
第30話 ウツセミ

 西の空が、まるで血を吸ったように赤く染まっている。

 滑走路のくすんだ鈍色に映えるのは、同じように西の空を見上げるいくつかの人の影、地に墨色を落とすレクタの国旗、そしてアスファルトの外れで横転し大破した『グリペンC』の翼。月を象る塗装を施したそれは、しかし今や黒焦げに辛うじて判別できるに過ぎず、元の黒地に黄金色という色彩はもはや見る影もない。言うまでも無く、パイロットは即死だった。

 

 朱を纏う風が冷たさを増す中、少女――パウラ・ニーダーハウゼンは、無為にも似た切なさを紛らわせるように彼方へと目を向ける。

 不安と焦りを覚え、西の空を見上げる人の影の先。格納庫からちらりと覗く外側に開いた尾翼の機体は、間違いなく自分のF-35A『ライトニングⅡ』のものだった。本来ステルス機らしい平滑な表面を持つ機体ではあるが、今は無数の矢弾がささくれのごとく突き立った見るも無残な姿となり果てている。至近距離で高速のフレシェット弾を浴びたのだ、当たり所が悪ければ基地に帰れず墜ちていたと考えれば、あの程度で済んだのはまだ幸運だったと言っていいだろう。自分が今こうして生きていられるのも、被弾直後にこちらの損傷を見て取り、すぐさま後退するよう指示を下したカスパル少佐のお蔭だった。

 

 ――胸が、ずきりと痛む。

 そう。私は、カスパル少佐とオットーを敵の只中に置いて逃げてきてしまった。それも、私たちに怨恨を抱いているであろうエリクの眼前に置いたまま。

 仲間を失い報復に燃えるエリクと、故郷ベルカのため身命を賭して『カリヴルヌス』を狙うカスパル少佐。私が撤退したのち、そこに死闘の戦端が開かれたであろうことは想像に難くない。そしてその結末は、両者いずれかの死。敵意と恨みが折り重なり、もはや後には引けない二人の間に、それ以外に結末があるとは到底思えなかった。

 では、その死神の魔手から逃れ得たのは――。

 

「おい、西に機影が見えるぞ!」

「…っ!」

 

 脳裏に過ぎる最悪の予断。それを振り払うように、空を見守る兵の一人が声を上げた。反射的に西の空を仰ぎ見れば、朱に染まった空を背景に、確かに黒い点が一つ、徐々に大きくなってゆく。

 カスパル少佐。オットー。

 口中に名前を噛み締めながら、パウラは知らず、一歩、一歩と足を踏み出していた。

 

「救護班急げ!負傷しているかもしれん!」

「機種は?誰が還って来たんだ!?」

「ちょっと待て、まだ遠すぎてわからん!」

 

 兵たちの顔に歓喜が浮かび、我先にとパウラを追い越して滑走路へと向かっていく。帰還機が途絶えたこの基地にあって、それは彼らにとって待ちわびた光景に違いない。

 掌を翳し、さらに一歩。

 目を凝らしたパウラは、しかしすぐさま失望に沈むこととなった。

 夕焼けを背にした機影は、ゆっくりとそのフォルムを明瞭にしてゆく。

 機首の大きなカナード翼、垂直に立つ1枚の尾翼、そしてデルタ翼と、小柄な機体。パウラが待ちわびたものとは裏腹に、間違いなくその姿はレクタ軍正式採用機『グリペンC』。すなわちカスパル少佐でもオットーでもなく、グラオモント隊の誰かに違いなかった。

 

「グラオモント4…サイツ中佐だ!帰還機はエドワルド・サイツ中佐の『グリペンC』!」

 

 整備兵の一人が双眼鏡を手にし、機番を確認して声を張る。

 歓声、称賛、それを背にふわりと滑走路へと降り立つ『グリペン』。耳を聾するエンジンの轟音と肚に堪えるブレーキ音に顔をしかめつつ、兵たちの顔には生気が戻り、喜びが満ちている。ただ一人、帰還の歓声の中で目元を曇らせる少女を除いて。

 

 違う。少佐でも、オットーでも無かった。

 一人醒めた心のまま、パウラはそれでも縋るように、人々が群れる『グリペン』の下へと足を踏み出していった。

 

「よかった…!おかえりなさい中佐!待っていましたよ!」

「他のメンバーはどうなりました!?サピンのレーザー兵器は!?」

「………」

 

 キャノピーを開け、ヘルメットを外すエドワルド中佐。パウラの目に入ったのは、錆びたように固く風を受ける褪せた赤髪と、悲憤を噛み締める横一文字の唇だった。中佐の視線の先には、先に帰還し大破した、無残に転がる『グリペンC』の翼がある。

 

 一抹の希望と胸を苛む不安を呑み込みながら、一歩、一歩と機体へ近づくパウラ。

 群れる人の中で、視線を落とした際にこちらを見つけたらしい。機体から地に降りたエドワルド中佐は、開口一番にこちらへ目をやった。

 

「パウラ准尉、生還していたか」

「………中佐。…カスパル少佐とオットーは」

「…………。二人は戦死した。オットーは峡谷内の戦闘で雪崩に巻き込まれ、同志カスパルは中破した所をヘッドオンで墜とされた。殺ったのはサピンの『ミラージュ5』だ」

「っ……!!」

 

 カスパル少佐が。

 死んだ。

 

 体が、平衡を失う。

 血液がさっと頭から引き、目の前が真っ暗になる。

 脚から力が抜け、体が重力の重みに崩れ落ちそうになる。

 もう、少佐がいない。小さなころからずっと傍にいた、寄り添う樹のようなあの人が。いつも標を導き、私の道をも示してくれた少佐が。

 そんなことが、あっていいのか。

 

 胸の疼痛すらも消え、ただただ虚無だけがパウラの心に満ちていく。

 その瞬間、パウラは己の肢体も、脳裏の意識すらもつかの間見失った。

 

「……………そう、…ですか」

「そんな…!カスパル少佐が!」

「グラオモント1と2も乱戦の中で撃墜された。『グラオヴェスぺ』戦術を徹底できなかった私の過ちだ。…グラオモント3は無事か?」

「…亡くなられました。着陸時に機体が横転し、直後の爆発で…」

 

 答えるごとに声が小さくなり、最後には涙声になる兵の声が耳に入る。それすらも煩わしくなり、パウラは外界を遮断するように目を瞑った。

 本当ならば、耳も塞いで座り込んでしまいたかった。心の中にぽっかりと生じた空虚はあまりにも大きく、言葉も意思も反響せぬまま呑み込んでいく。自分でもどうすればよいのか分からず、意思はそのまま停滞し、音と化した声だけが右から左へ流れていった。

 

「そうか…。…だが。我々は止まる訳にはいかない。――聞け!同志カスパルは確かに散ったが、その死を賭した鉄槌で以て、目標『カリヴルヌス』の沈黙に成功した!もはやレーザーの脅威は無く、サピンの防衛能力は半減したのだ!カスパル少佐の死を無駄にしないためにも、今は戦い続けるのだ!『我ら』の勝利の日まで!」

 

 声を張り上げるエドワルド中佐、そして歓声を以て応じる兵たち。我も我もと加わる声すらもパウラの心に響くことは無く、全てが心の虚無へと沈んでいく。何を考え、何を支えに生きるのか。そんな自らの心の在りかさえ、今のパウラには分からなかった。

 今まで、戦う目的を与えてくれたカスパル少佐。あの人が、もういないのだから。

 

「パウラ准尉。長く苦楽を共にしたカスパル少佐の死、察するに余りある。…だが、少佐の遺志はこう言っている筈だ。『戦え』『報復を果たせ』と」

「………」

 

 ――本当に、そうか?

 脳裏にちらりと挟まった疑問も、泡沫のごとく闇の中へと消えてゆく。

 そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。目的のために全てを切り捨てる峻厳な顔と、時折見せる優しい顔。そのどちらが本当の少佐だったのか、それともどちらとも本当で、あるいはどちらとも嘘だったのか。

 わからない。わからないわからない。

 今まで、一心に少佐を信じて戦ってきた。少佐の言うことが絶対に正しいと信じて戦ってきた。その少佐がいない今、何を信じて戦えばいいというのか。

 

「我らは止まらない。宿願を果たすその日まで戦い続ける。生き残った我らで、その気概を見せつけてやろうではないか。君にとっては大恩あるカスパル少佐の敵討ちでもある。今後一層、『祖国』のため、共に励もう」

「………は、…い」

「重畳だ。期待している。…ホラルド、すぐにグランダー社へコンタクトを取れ。ヴィリッツ、システム班総出で例のシステム構築を急がせろ。残存した全ての『ワイバーン』へ10日以内にセットアップを完了してくれ」

 

 立ち尽くす身体、立ち竦む思考。

 意思を示し、それぞれの役割に向けて散ってゆく人々の中で、パウラは一人、夕闇に影を落として佇んでいた。

 

 自らの意思でなく、周囲の意思で戦う自分。空虚な自分を抱え、意思なく生きる自らを、静寂の中少女は顧みる。

 嗚呼、まるでウツセミのよう。

 還らぬ者はついぞ走路を踏むことなく、少女の呟きは風に呑まれて消えていった。

 

******

 

「次の出撃は30分繰り上げだ。敵の勢いが増している」

「『カリヴルヌス』を失った代償は大きかったですね…。一応、隊長の機体以外は爆装に転換している所です」

「終戦まであと一歩だった筈が…忙しくなってきたねぇ、まったく。コーヒー飲む暇もありゃしない」

 

 火薬と焦熱の名残が、言葉の最中に鼻を打つ。

 先日の『カリヴルヌス』攻防戦から数日後、サピン空軍第二ヴェスパーテ空軍基地は以前にも増した喧騒に包まれていた。

 格納庫内を慌ただしく行き来する整備兵の姿。ノイズ交じりの声をまき散らす備え付けの拡声器。そして、ふわりと着陸しては休む間もなく装備を付け替えるSu-25『フロッグフット』の姿。

 横殴りに吹き抜ける着陸の余波に顔をしかめながら、男――カルロス・グロバールは部下の言葉に頷いた。戦況とミーティング内容を纏めたバインダーを手に語る一人――アレックスは、なおも言葉を続けてゆく。

 

「ラティオ北部ツィラス平原の前線は、レクタ陸軍が増強されたことで後退しつつあります。当のラティオ軍は戦力回復がおぼつかず、自衛で精一杯とのこと。我々の反復攻撃で少しでも敵の足を止めないと、展開中のわが軍にも損害が生じかねないとのことです」

「って言っても、限度がありますよねぇ。戦闘機隊(ウチら)じゃそれこそ足止めが限度でしょうし」

「だからこその反復攻撃だろう。…社にも以前のようにMiG-27M(フロッガーJ)があれば、少しは楽ができたかもしれんが」

 

 アレックスの言葉に、例によって気の抜けたような声で続けるブラッド。とはいえ埒の明かない現状を憂うのは同感であり、カルロスも首肯しつつ言葉を返した。

 アレックスの言う通り、現状はサピンにとって明るいとは言い難い状況になりつつあった。

 先日の戦闘でサピンのレーザー兵器『カリヴルヌス』は稼働不能に陥っており、サピンの国土防衛に大きな穴を生じさせていた。『カリヴルヌス』の脅威が無くなった隙を突き、睨み合いが続くラティオ北部でレクタ軍が攻勢を仕掛けてきたのである。じわじわと、しかし確実に勢力圏を広げるレクタ陸軍部隊に対し、サピン前線は数日前から徐々に後退を始めていた。噂では、レクタが対ゲベート警戒に割いていた北部方面軍をラティオ北部前線に投入したとも言われているが、いずれにせよこの先に待っているのは先の見えない長期戦。血濡れのシーソーゲーム以外にその先があるとは思えなかった。

 『カリヴルヌス』を守り切れば終戦まではあと一歩。もはや切り札を失ったサピンにとって、そんな早期決着の目は完全に画餅に帰したと言えるだろう。

 

「…ったく、こんなクソ忙しい時に。我らが『三日月』サマは何やってんだか!」

 

 一同の足が宛がわれた格納庫へと近づいた所で、憤懣を込めたフラヴィの声が炸裂する。その声音には明らかに幾分の苛立ちも混じっており、聞えよがしに『そちら』の方へと向いていた。

 

 その方向――すなわち格納庫の脇に当たる、不要な箱や資材が乱雑に積まれた廃棄物の一時置き場。大規模な戦闘を経て乱雑の極地と化したその空間に、固いコンクリートに寝そべり、古タイヤに頭を預けて空を仰ぐ青年の姿があった。

 着崩したサピン軍服、胸元や頭を覆う白い包帯、そして包帯から覗く金髪と瞳。まさしく『三日月』――エリク・ボルストその人であるのだが、今は外観からの判別は些か困難となっていた。

 

 重傷者よろしく、頭や胸元まで包帯でぐるぐる巻きとなっていることもその要因の一つとして間違いではない。先日のピレニア山脈上空における戦闘で、宿敵『グラオガイスト隊』と雌雄を決したのち、エリクは途切れ途切れの意識で以て奇跡的に基地へと帰還。着陸すらままならない中破した『ダガーA』で胴体着陸を敢行し、満身創痍ながらも生還を成し遂げたのであった。腕や胸部への負傷に加え『ダガーA』も完全に大破する結果となったが、大規模な空戦で負傷しながらも生還できたことは奇跡としか評せないだろう。

 

 だが、今のエリクの姿がかつてと似ても似つかないのは、その包帯姿によるだけではなかった。

 その目に、光が無いのだ。

 失明した、という意味ではない。しかし、かつて抱いていたのであろう青年士官らしい希望に満ちた光も、復讐に煌々と燃える決意と憎悪の光すらも、その目にもはや宿ってはいなかった。宿すもののない瞳は深淵を臨むかのように黒く深く、虚無を湛えたガラス玉としか見えない。

 

 『オイ、聞いてんのかいエリク!』

 棘を持って飛ぶフラヴィの大声にすら、その瞳は空を見上げたまま揺らぐことは無かった。

 

「ったく、たかだか敵のエース落としたくらいで燃え尽きるとはね。見上げた腕前の奴かと思ってたら、期待外れもいい所じゃないか」

「そう言ってやるな、フラヴィ。信念の在りようを伝えきれなかった俺の落ち度でもある。…あいつは、純粋過ぎたんだろう」

 

 信念。戦いの空に身を投じ続けるために必要な、自らを支える柱。

 今のエリクの有様を改めて目にして、カルロスは嘆息とともに、自らの指導者としての非力を痛感した。

 『仲間を死なせず、自らも死なずに戦い抜く』、『勢力もイデオロギーも越えて、ただただ好きな空を目指し飛び続ける』、『目にしたこともない、強いパイロットと戦うために空にあり続ける』。自分も、そしてかつて(まみ)えて来たエース達も、その信念は漠然としつつも遠大な、容易には達成しえない目標を据えていた。遠い高みに目標を据えることで、男たちはそこへ近づくための信念を軸に戦い、生きることができたのだ。

 

 しかしエリクは、その信念に当たる位置に、カスパルへの復讐という『目的』を据えてしまった。

 その目的を軸にしている間、確かにエリクは一徹にその目的へと進み続け、必要なもの以外は全て捨て去ってきた。結果、その力量も比類ない高みにまで達しえたことは否定できない。

 しかしそれが達成でき、信念たる位置を消失してしまった以上、エリクに残ったものは何一つ無くなった。信念を失った今となっては自ら戦うための目的も消え失せ、母国を追われた身では国や人々を護るという受動的な目的さえ抱きようもない。生きながらえた意味すら失った以上、自らのために金を稼ぐという最低限の目的すらも抱けないに違いなかった。

 

 信念とは、『何のために戦い』、『どのように生きるのか』。その命題に対する答えである。

 かつてジョシュア大尉――ウィザード1はそう言い、自分の中にその炎を灯してくれた。それに対し、自分はエリクに対し、何ら与えることはできなかった。ジョシュア大尉に及ばない、自分の力量不足の結果でもあるかと思うと、今のエリクの姿を見るのも心苦しい。

 

 だが、まだ間に合うのなら。まだ、光を宿すことができるのなら――。

 

「…隊長?」

 

 ざ、と靴を鳴らし、カルロスは不意に立ち止まる。怪訝なブラッドの声を背に、カルロスは踵を返してエリクへ数歩、近寄った。こちらを見上げるエリクは、しかしその目に自分の姿が映っているのかどうかも怪しい。遠い焦点の瞳は、果たして像を結んで――今という現実を見えているのだろうか。

 胸にこみあげるものを押し殺して、カルロスは口を開いた。光を取り戻すために、敢えて厳しい言葉で以て。

 

「エリク。今のままでは、お前はあのカスパルと同じだ。かつての友軍に牙を剥き、あらゆるものを捨て去って復讐の鬼になり、今一人潰れようとしている。根本の目的は違いこそすれ、それは奴と何ら変わりがない」

「………」

「お前は、このまま潰えていい人間じゃない。自分自身を見つめ直すんだ。…何のために戦い、どのように生きるのか。それは確実にお前の中に…これまでの生きざまの中にある。復讐だけではない、もっと大きな信念が、確かにあるはずだ」

「………」

 

 伝えるべき言葉の整理がつかず、半ば心に渦巻く単語の羅列となった言葉。それでも、エリクの瞳を見据えた言葉に全てを籠め、カルロスはそこで口を閉じた。

 一瞬、虚無に閃いた光。

 しかしそれは、瞳に一瞬陽光が反射したゆえの錯覚に過ぎなかったのか。

 瞬間の期待も得るものはなく、瞳は元の虚無へと戻って、全てを呑み込む黒へと帰していった。

 

「………」

「…隊長。そろそろ出撃の刻限です」

「…………分かった。…悪かった、邪魔したな」

 

 言いようのない、痛み。

 抜け殻となった今のエリクには、もはや言葉は届かないのか。

 踵を返すカルロスの胸を、絶望に似た痛覚が苛んだ。

 

「…ウツセミ、か」

「え?何ですか隊長?」

「いや、不意に思い出した言葉だ。東洋では、セミの抜け殻を『空蝉(ウツセミ)』と呼ぶらしい。現世や生者といった意味もあるようだが」

「…ウツセミねぇ。…ハッ、今のあいつには洒落過ぎてる言葉ですよ」

 

 悪態を突くフラヴィの目に一瞬宿る、寂しそうな色。同じエースでありエリクの技量にも一目置いていた辺り、今のエリクの姿が悲しいのはフラヴィも同じなのだろう。

 姿を保ったまま、空虚となったセミの抜け殻。確かに今のエリクの姿には、悲しすぎるほどに洒落が効いている。

 

「…行くぞ。時間が押してきている」

 

 だが、いくら悲しもうと、辛くとも、現実は待ってはくれない。今も前線ではレクタの機甲部隊が進軍を続け、友軍は頽勢を迫られているのだ。

 足早に向かう格納庫の中に待つのは、戦場と言う名の現実。カルロスはヘルメットを受け取り、ガンポッドとフレアディスペンサーを搭載した自らの乗機『ディビナス』へと、その身を乗り出した。

 ヘルメット装着、ヘッドアップディスプレイ(HUD)オン。計器類チェック、火器管制異常なし。通信回線にも異常は認められず。あとは車輪止めを外し、タキシングへ入るのみである。

 

「ニムロッド隊より管制室、出撃準備よし」

《管制室よりニムロッド1、もう少々待て。現在民間の輸送機1機が着陸準備に入っている》

《民間機?》

《ルーメン・メディエイショナル・エージェンシーのC-130だ。丁度いい、サヤカ・タカシナを名乗る人物から通信も受けている。カルロス少尉へ仲介する》

 

 …あの女か。

 毎度予想外のタイミングで登場するサヤカだが、出撃直前の今に、それもこちらへ通信を送ってくるとは一体何を考えているのか。頻繁に補給物資を運んでくるお得意様である以上、基地側も強くは言えないのであろうが、それにしても。

 頭を抱えたくなる気持ちを抑え、カルロスは通信回線へと耳を傾けた。

 

《あー、あー。ごきげんよう、カルロス様。毎度おなじみルーメン・メディエイション・エージェンシーのサヤカ・タカシナでございます》

「こちらカルロスだ。悪いが今出撃準備で手一杯だ。要件なら後にしてくれ」

《あら、あら、あら。それは大変失礼いたしました。それでは、取り急ぎ一件だけ。先日手配させて頂きました『例の機体』、組みあがっておりますでしょうか?》

 

 相変わらず人を食った声音に辟易しながら、カルロスはちらりと格納庫の端へと目をやる。

 サヤカの言う『例の機体』――先日の大規模作戦の最中に、前触れなく送られてきた機体の部品。作戦終了後に整備班が合間を縫って組み上げたのが、まさに格納庫端に駐機するその機体であった。今はシートを被せられており、はみ出たデルタ翼以外にその姿を傍目にうかがい知ることはできない。

 

「…ウチの格納庫の端に駐機してある。言っておくが、乗る人間はいないぞ」

《あら?カルロス様やエリク様は…》

「ウチの社に余計な金が無いことくらい知っているだろう。エリクはこの前の作戦で潰れている。…精神的にな。とても飛べる状態じゃない」

《あら、あら。そういうことでしたか。それではご心配なく。わたくしがエリク様を発奮させてみせますわ?》

 

 …は?

 思わずそう返しかけ、カルロスは慌てて口を噤んだ。確かに純粋なデルタ翼の『あの機体』はエリクに合っているだろうが、それにしても本人が復活しなければ無用の長物である。着目点は分かるが、信念を問いかけても暖簾に腕押しだった今のエリクを、サヤカならば発奮させることができるというのか。

 

「…無茶はしてくれるなよ。あいつは今相当に参っているんだ。おそらくあんたの予想以上にな」

《ご心配なく、わたくしエリク様のためにお土産も持ってきていますので。…それにわたくしこう見えても、幸運の女神さんですから?》

「…………好きにしろ、もう」

 

 ――胡散臭い。

 結局いつも通りの感想へと着地して、カルロスは先とは別の意味でため息をついた。ここで無理をされてエリクが再起不能になってしまっては元も子もないが、かといって出撃間近の今となっては自由に行動するサヤカを止めることも叶わない。

 そもそも、なぜああも自信満々なのだろうか。まるで自身の『お土産』でエリクが発奮すると、信じて疑わないように。

 

 頭痛がしそうな頭を抱えながら、カルロスは大きく息を吸い、目の前の光景へと目を向けた。

 無機質な計器類の向こうで、戦場と言う名の現実は、格納庫のシャッターの形で大きく口を広げている。

 

 遠くをC-130の巨体が横切り、続いて砂ぼこりが流れてゆく。

 ジェットエンジンの噴射に押され、滞留したものが舞い上がったのに違いなかった。

 

******

 

 蒼い。

 空が高い。

 

 それ以上の言葉を結ぶ気になれず、青年――エリクは瞳を遠くへ向けた。

 

 空へ向かって手を伸ばす。包帯が目立つ指の間を、雲が千切れて流れてゆく。

 からっぽとなった心には、風も、空も、雲も、何の感慨をも抱かしめない。

 

 耳に響く高周波の轟音は、よく聞き慣れたMiG-21UPGのエンジン音。車輪止めを外したのだろう、音の位置はわずかながら徐々に前進し、出撃の時が近いことを物語っている。

 

 頭上の空。高く遠い空。

 あそこを飛んでいたロベルト隊長も、ヴィルさんも、クリスも。カスパルも、フィンセントも、パウラももういない。同胞を殺し、自ら捨てたレクタに還ることもない。あとはきっと、あの雲のように消えていくのに違いない。

 

 掌の雲を掴み損ねて、伸ばした手が地へ落ちる。

 腕を追って落ちる視線。

 その先に、遠くに駐機した輸送機と、そこからこちらへまっすぐ歩いてくるスーツ姿の女性が目に入った。

 

 ウツセミ。信念。頭の片隅に残った残滓が、ほんのわずかに渦を描き始める。

 それは、見覚えのある人の姿だった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。