Ace Combat side story of 5 -The chained war- 作:びわ之樹
重々しい沈黙が、二人の男の間に漂う。
聞こえるものといえば、仕切り代わりに広げた薄幕の向うで歩くドクターの足音、刻々と秒を刻む時計、そして全てを吐き出し、幾分荒くなった青年の呼気ばかり。エリクと名乗ったそのレクタ軍人は拳を震わせ、残った右目を自らの身体へ伏せている。
息を吸い、止めること数秒。椅子の背もたれに体を預けた男――カルロスは頭を整理するように、大きく息を吐いた。濁りきった脳内の空気を入れ替えなければ、予想外の渦に巻かれた思考を整理することも叶わない。
手を組み、口元を隠すように顎を乗せ、カルロスは目線を床一点へと落とす。15年前に端を発する、『灰色の亡霊』の遠大な復讐劇。青年の口から紡がれたその策謀へ、しばし思いを巡らせるように。
「…まさか、な…。もう15年も経つというのに、ベルカ公国の亡霊がこんな形で生きていたとは」
驚き、そして言い知れない畏れ。おおよそ同じ人とは思えない『亡霊』の執念に、反射的に抱いた感情はその二つだった。
エリクが語った顛末によると、カスパルらベルカ残党は身分を偽りレクタに潜入。その内部で諸国間の戦争を誘発し、かつ継続させるべく活動しているのだという。それに勘付いたエリクの上官はその掌中から脱しようと亡命を画策するも、その最中に察知され、こうして謀殺の憂き目にあった。言うなればエリクは、それらに巻き込まれた不運な人間の一人だったのだろう。
そしてここからは想像だが、おそらくベルカの残党はレクタのみに潜伏している訳ではあるまい。戦争の継続を目的としている以上、明確な勝敗が生じない戦局を作りだす為には、敵味方双方にシンパを潜り込ませることは必要不可欠となるからだ。シーソーは、片方のみに人が乗っては成立しない。
レクタとともに足並みを並べ戦争へ向かうウスティオ、劣勢にも関わらず徹底抗戦を続けたラティオ、敢えてレクタとの緊張関係を崩さないゲベート。サピンにしても、あと一歩でラティオとレクタの戦争が終わるタイミングで武力介入を開始した辺り、ベルカ残党の意志が働いていないとは言い切れない。そもそも大本の戦闘の引き金がオーシアとユークトバニアの手で引かれ、今なお先の見えない泥沼の戦いを繰り広げていることを顧みれば、この二大国にだってベルカ残党が潜入していると疑えば疑えるのだ。なにせ、オーシアはベルカにとって最大の戦力を以て対峙した敵国であり、ユークトバニアもそのかつての同盟国である。ベルカにとっては、両者とも恨み重なる相手であるに違いない。
それにしても、驚くべきはその計画の遠大さである。周辺諸国に潜り込み、戦争を誘発させて共倒れを狙うなど、かつてこれまで大規模に計画しえた者たちがいただろうか。そして何より、15年の年月を経てなお、諸国を滅ぼしてなお余りある怨嗟を抱き続けた者がいただろうか。妄執と断じるにはあまりにも一徹で鋭い恨みを心に研ぎながら、人は生き続けることができるものなのか。
ふと寒気を覚え、カルロスは上着の襟元を掻き寄せる。心に生じた空寒さが、体にまで伝播したのかもしれない。
「…それで、あんたは一体何者なんだ。アルヴィン…いや、カスパルを知ってるのか?」
「面識はない。…が、会ったことはある」
「は?」
「空で、な。…15年前のベルカ戦争の時、俺はサピン空軍の傭兵として、奴と戦ったことがある」
「…!15年前に、奴と…!?」
「当時は黒地に灰色帯の機体を駆り、『グラオガイスト隊』と名乗っていた。ステルス機で気づかない間に接近し、至近距離からの銃撃で落とす戦術を使う強敵だった。ホフヌング近郊で会敵したんだが、俺が所属していた小隊も押されに押されてな。最後の一瞬で何とか逆転勝ちしたものの、一歩間違えていたら俺達が死んでいただろう。本名を知ったのは、後のことだった」
燃え盛る避難民のキャンプ。飛び散る鉄塊と肉片。闇に溶け込む灰色の帯。そして、炎に包まれ消えていく友軍機。脳裏に蘇る赤と黒、血と死の記憶を飲み下しながら、カルロスは邂逅の様をかいつまんで口にした。その名の通り姿見せぬ亡霊のような戦術も、薄皮一枚を残しての辛勝も、いずれも嘘では無い。
確かに嘘では無い、が。
その後の出来事を――連合諸国…否、世界に対し叛旗を翻したクーデター軍『国境なき世界』との戦闘の顛末を、カルロスは咄嗟に隠した。事実としては、上述の戦闘の後、カスパルは『国境なき世界』の一員として戦争の最終局面に参戦し、自分達と交戦。激しい空戦の末に僚機1機を失い、その後行方を晦ませるという結末を迎えている。
もっとも、咄嗟にそれを隠した理由はといえば特に深いものがある訳ではない。確かにカスパルの深い怨讐を語る一事でありこそすれ、『国境なき世界』との戦闘は諸国間で未だ公然の秘密として扱われており、当然ながら参戦各国においても公式に語られていないのである。カスパルの顛末を説明すれば当然その『秘密』にも言及せねばならないため、その面倒を避けただけに過ぎなかった。
「そうか…。なら、あんたも復讐の対象の一人かもな」
「奴が今更たった一人に固執するとも思えないがな。…ともあれ、貴重な話を聞けた。ありがとう」
「ちょっと待て。…この話、どうする積もりなんだ?」
「あいにく俺は一傭兵だ。こんなことを上申した所で、与太話として握り潰されるのがオチだろう。…幸い、正規軍のそこそこの地位に旧友の
「奴と…ベルカ残党と戦うのか!?」
「サピンに実害があればだ。いずれにせよ、この話が事実なら多かれ少なかれ、サピンに影響が出る可能性は否定できない。当面は内部調査に時間が割かれることになるだろう」
「………」
サピンが、ベルカ残党と対抗するかもしれない。
そんな希望を抱いたらしいエリクの顔が、こちらの言葉の前にみるみる明るみを失い、夏を過ぎた向日葵のように項垂れていく。機体も帰る場所も、全てを失ったエリクにとって、ここサピンは言うなれば最後の希望。その縋るべき糸の前で無下に遮られれば、エリクならずとも当然の反応だろう。
だが、相貌を陰らせる青年の様に思わず憐憫の情を抱く半面、カルロスはその点を譲る積りは無かった。そもそも、傭兵とはいえ、自分は今やサピン軍の一員である。たとえベルカの残党が周辺諸国全てを敵視しているといえども、サピンを第一と考えなければいけないというのが、偽ることの無い今の立場だ。こう言うと酷なようだが、現状敵国であるレクタやウスティオの混乱は、サピンにとっては利益とも言えるのである。
それきり、ぷつりと途切れる言葉。真相に触れる会話の句点を察し、カルロスはベッドの脇から腰を上げた。今の所サピン国内で表立った動きは無いにせよ、真実ならば事態は深刻である。急ぐのは、他国にも派遣されているレオナルド&ルーカス安全保障の同僚を通じた情報共有、日頃取引している中古機械取扱い業者への内々の問い合わせ、そしてサピン正規軍にいるニコラスとの接触。前線の人間とはいえ、正規軍の少佐に当たるニコラスの弁があれば、幾分でもこの話が上層部に届く可能性は上がるだろう。
遠大な陰謀を前に、頭脳は巡り、思考は回る。確証を得るには。『国境なき世界』との関わりは。そして他に繋げておくべき相手は。
黒く回る渦のようなその思惟をせき止めたのは、項垂れた顔を再び上げた青年の声だった。
「待て。…あんた、傭兵って言ったよな。それなら、俺を雇う気はないか?」
「何?」
「奴らへの復讐のためには、力が…機体がいる。そのために、金も場所もいる。俺も戦闘機乗りの端くれだ、あんたらの力にはなれる」
「聞いたことが無いな。復讐の為とはいえ、敵軍の傭兵に志願か?」
「向こうのベッドの男…あんたの同僚だろ?一人欠けてるなら、その穴を埋める人間は必要じゃないのか?」
「…!」
思わず、カルロスは息を呑んだ。
突拍子も無い傭兵志願の言葉もその一つ。希望を見出す相貌に、復讐を誓う暗い気配が垣間見えたこともまたその一つ。だが、その最大の要因は、わずかな会話の断片から、向こうのベッドで寝ている男を自分の同僚と察して見せたことだろう。
確かに、向こうの男は読み通りニムロッド隊の2番機――オズワルド・ベイカー曹長相当官である。数日前の『円卓』における空戦で、ウスティオ・レクタ連合軍の輸送機への襲撃作戦に参加した折、護衛に就いていたレクタ戦闘機の攻撃で負傷したのである。忘れるべくもない、中小国レクタの中ではエース部隊として名が知られる、『三日月』の塗装を施した部隊だった。
若い見た目の割に、目端はよく利くらしい。
予想外の動揺を胸の皮一つ下に押し隠して、振り返ったカルロスは青年へと言葉を重ねた。
「俺は一兵士で、雇用者じゃあない。俺の一存では決めかねる。それに、『確かめる』ためには何かと時間も必要だ。…いずれにせよ、その体を治すまでは動くにも動けんだろう。今は、身体を休めていろ」
「…今の俺には、
「……」
目端は、確かに利く。
しかし、危うい。
暗い光を宿した一つの瞳にぞくりとするものを感じ、カルロスは心にそう呟いた。求めるものこそ違えど、その姿は一つ事を求め、徹し、それ故に死んでいった多くのエース達とよく似ている。
15年前のベルカ軍エース『ヴァイス1』、YaK-141『フリースタイル』を駆っていた名も知らぬベルカ残党のパイロット、そしてかつての同僚フィオン。彼らは皆徹し切った故に鋭く、強く、それだけに脆さも併せ持っていた。復讐だけを生きる糧に、その他に残った全てを捨て去ろうとしているエリクの姿は、今は亡き彼らの姿ととてもよく似ている。
暗い響きに答えられぬまま、カルロスは背中越しに手を振るう。
思わず吐き出た溜め息は、全容明らかでないベルカ残党の陰謀という重圧のためか、それともエリクの末路に抱いた一抹の危惧ゆえか。
自らの中に答えを得られないまま、カルロスは扉を開き、寒々とした基地の廊下を渡っていった。
******
ジェットエンジンが回転数を上げ、耳をつんざく轟音が狭い敷地に響き渡る。
遠景には、山頂に雪を被りはじめた山々の稜線。晴れ渡った空は常以上に遠く、開けた光景と相まって、基地の規模以上に広大な印象を与えた。立ち上る白い息も、エンジンから撒き散らされる騒音も、この空や山肌に吸い込まれて消えていくことだろう。
格納庫から這い出て、滑走路に立ち並ぶ機体は合わせて12機。
翼端を黒く染めたMiG-21UPG『ディビナス』を先頭に、サピンの国籍マークを記されたSu-25『フロッグフット』や、見た事のないカナード付きデルタ翼の機体などが機首を揃えて控えている様が認められる。多くは爆装こそしているものの、一貫性の無い雑多な機種構成は、まさに外れ者の傭兵部隊という印象を際立たせていた。
先頭の1機が、タキシングから離陸に入る。一足早く冬が至った山間に、三角翼は風をみるみる孕んで、遠景の白雪を背にふわりと宙へ舞い上がっていった。
主翼下にガンポッドとフレアディスペンサーポッドを装備したあの機体は、カルロスの駆る『ディビナス』だろう。以前『円卓』で交戦した『蝙蝠のエンブレム』の部隊――その一番機がカルロスだと知ったのは、つい数日前のことだった。戦場で交戦した間柄とはいえ、特に問われなかったこともあり、自分の素性はまだ知らせてはいない。
サピン王国北東部、第二ヴェスパーテ空軍基地。
ノースオーシア州やウスティオ、ラティオ西郡にほど近い山岳地帯の隠れ里――。けして広いとは言えない山間のその基地こそが、サピン軍に救出されたエリクが運び込まれた地であった。元々付近には初代ヴェスパーテ基地があったというが、15年前の戦争以来放棄され荒廃し、ここは数年前に新たに設けられた基地なのだと言う。傭兵パイロットのみを有する、サピンの中でも特異な基地ということだった。
この基地に収容されて数日の間、脱走の二字が頭を過らなかったと言えば嘘になる。だが、病室から出られるようになり、基地の周辺を見渡せるようになって、その字もあっという間に霧散してしまった。
峻厳な山間地。岩肌と雪に覆われた、荒れ果てた大地。陸路での脱走などまず不可能であり、航空機を奪おうにも一通りの警戒はなされている以上難しい。雪を警戒して機体が露天駐機されていないこともあり、機体の奪取は困難と断じる他無かった。軍事基地にしては捕虜への監視が緩いように感じていたが、それも納得という所か。
12の機影が飛び立ち、静寂が戻った滑走路。飛び去った影を見えなくなった後も追い続けながら、エリクは見えぬ『これから』に、しばし思いを馳せた。
『傭兵として雇わないか』。ダメ元でカルロスに頼んだ件は、以降数日を経ても音沙汰ないままである。半ば請われ、半ば希望に縋るようにカスパル達の陰謀を暴露した訳だが、『情報』という交換条件が果たして奴らにどれほど有効かどうか。何せ、相手は金の為ならば裏切りも躊躇わない傭兵なのである。
こちらの希望が通ればよし、通らなければ一か八かの脱走も考えなければならない。自由の身でなければ復讐も覚束ない以上、こればかりは譲れない一点だった。捕虜として生きながらえ、戦争が終わるのを待つなどという不確定な未来を当てにすることはできない。
必要なのは、自由と、力。報復を可能とし、奴を殺せるだけの力。それを得るためならば、どんな汚い事に手を染めようとも、悪魔に魂を売り渡しても構わない。力の対価が魂や心だというのなら、いくらでも売り払ってやる。
天を睨み、握りしめた拳。その拍子に、右手の指に固い感触が触れた。
右手首に巻いた、月の装飾入りのブレスレット。まだ皆が仲間として健在だったころ、休暇の折にクリスとともに買った思い出の品。転落の中で久しく忘れていた思い出が、反射した月色の光とともにエリクの脳裏に蘇った。クリスも、皆も、俺の背を押してくれているのかもしれない。
今や苦みの入り混じった、甘く楽しかった思い出。
そんな追憶の去来に終止符を打ったのは、唐突に鳴り響いたけたたましいサイレン音だった。
《空襲警報!空襲警報!方位005より機影6接近中!距離4000、直進!迎撃要員はただちに搭乗せよ!繰り返す!方位005より…》
「空襲!?方位005…ウスティオ軍か!」
「もう目と鼻の先じゃねえか、ボロレーダーめ!」
「マズい時に来やがって…!回せー!」
静寂がにわかにさざめき立ち、混乱の入り混じった熱狂が基地を包む。
開く格納庫のシャッター、何事かを叫ぶ基地要員。兵士が受け持ちの対空砲へ走り、待機要員と思しきパイロットがエンジン点火を指すように腕を回しながら、基地施設から走りだしてくる。サイレンと管制官の声は割れた音を響かせ続けており、人の精神をかき乱して止まない。
しかし、近い。
山陰に沿って接近したのか、敵の位置は予想以上に近い。既に北の彼方には浮かぶ黒い機影が6つ、肉眼で見えるほどにまで近付いて来ている。
格納庫から迎撃機が2機、のそりと歩き出て来る。全てのパイロットが格納庫の詰め所にいる訳では無かったのか、残る2人のパイロットがコンクリートの上を格納庫へと走っていく。
遅い。接近する敵の速度を省みると、人の走る速度も、ようやくタキシングに入った迎撃機の速度も、まるで地上を這い回るように遅い。馬鹿が、何で近い所に待機していなかった。
迫る。空から敵機が迫る。
迎撃機が滑走路を走る。
パイロットが格納庫まであと一歩の所へ走り寄る。
火線、二筋。地上の対空砲。
全てを睥睨しながら、敵機は悠々と降下してくる。
速い。
遅い。
間に、合わない。
轟音、一拍遅れて銃声。
咄嗟に身体を地面に投げ出し、エリクは両手で頭を覆う。
頭上を掠めるエンジン音。それらが過ぎ去り頭を上げた先には、銃弾で粉々となった肉塊が二つと、爆発の炎に包まれる機体が2機、赤と黒に濡れて転がっていた。
「……!!」
目の前に広がる血と鉄の海に、かつての記憶が蘇る。
忘れもしない、ラティオとの戦争が始まった最初の日。真夜中の空襲、無残に人の形を失いバタバタと倒れていく兵士達、離陸することすら叶わず落ちていく機体の姿。国と立場の違いも忘れ、かつてその時の無念と怒りが、今再び心に宿る。
レクタにとって、ウスティオは同盟国。
そんな最低限の理性すら忘れ、エリクはかっと激した。
「…回せ!回せー!!」
人の痕を越え、血の足跡を踏み、エリクは格納庫へと走り込む。
機体は、と中を探るまでもなく、エンジンを回している機体は2機しかいない。デルタ翼と高い尾翼に、細く詰まった機首。第4世代機以降主流となるカナード付きデルタ翼機と異なり、機動性と揚力を補う機首のカナードは装備していないように見える。元の乗機『クフィル』をより簡素にしたようなその姿は『ミラージュⅢ』に似ているが、機首はより細く、些か頼り無さげにも見えた。
間近で搭乗員の死を目の当たりにしたためだろう、頭を隠す者、司令塔へ連絡を取る者、奥へ走り込む者など、格納庫の中は混乱の極致にある。エリクは人をかき分けながら迷うことなく稼働状態の1機に駆け寄り、たん、と地を蹴って機体へと脚をかけた。
「おい!こいつ使えるか!?」
「な…お、おい、誰だお前は!?」
「そんな場合か!いいから早くストッパーを外せ!」
「…!インターセプトだ、チェーン引け!早く!」
「班長!?」
「どうせ他に上がれる人間はいないんだ。いいから、急げ!また反転してくるぞ!…おいお前、『ダガー』…もとい『ミラージュ5』の経験はあるか!?」
「いや、ない。系列機なら、『クフィルC7』は愛機だった」
「十分だ。運動性も出力も『クフィル』には劣るが、軽い分加速性はいい。ただしレーダーは無いから、周りをよく見ろ」
レーダー無し、軽量、加速性はミラージュ譲り。パイロットの傍らから拾い上げていた血濡れのヘルメットを被り、計器類に目を走らせながら、エリクは整備班長らしい男の言葉を詰め込むように反芻していく。燃料計、回転計、いずれもよし。細い機首ゆえか『クフィル』より視界は広い印象だが、計器類の配置や機体の高さは『クフィル』や邀撃待機で使ったことのある『ミラージュⅢ』と瓜二つだった。旧式とはいえ癖を熟知したミラージュシリーズならば、ある程度の機体性能を覆せる自信はある。
残る問題は、滑走路の無事。そして、反転してくるであろう敵の第二波攻撃。
「敵は!?」
「5機が反転して来ている!…くそ、今出たら狙い撃たれるぞ!」
「了解…!奴らが行ったらすぐに上がる!合図頼むぞ!」
叫ぶように言い放ち、エリクはキャノピーを閉じて迫る敵に備えた。
レーダーも無く外の音も聞こえないため確かめようがないものの、頭を庇いながら壁や柱の陰に隠れる整備員の様が、その到来が近い事を告げている。
避けようの無い運だけが生死を左右する、一瞬の間。その瞬間、エリクは祈った。
かつての開戦のあの日は神へ。そして今は――仲間に裏切られ、救いという神に見捨てられた今は、悪魔へ。復讐を司る魔へと、エリクは祈った。
跳弾。
火花、注ぐ陽光、そして血飛沫。がん、がん、と機体にもいくつか衝撃が走るが、幸いに致命傷には至っていない。ひとしきりの弾雨は過ぎ、敵の航過を無言の内に物語る。
助かった。
安堵の息一つ、キャノピーから見降ろす先に、うずくまる影が見える。
先ほど機体に取りついていた整備班長。右肩から先を吹き飛ばされながら、それでも残った左腕で外を指し、懸命に何かを叫んでいる。
『行け』。
口の動きが、そして心が伝えたのは、短くも決死の意思が籠ったその言葉。
エリクは深く頷き、ブレーキを解除して操縦桿を押し込んだ。
機体が、ゆっくりと歩み出す。
影から陽の下へ出、タキシングウェイから伸びる滑走路へと舵を切る。路は一つ。滑走路上で燃え盛る2機の残骸の間。まっすぐ伸びた白い破線の真上。
エンジンの回転数が上がる。
振り返った先で、反転した敵機のうち2機がこちらを指す様が映る。
止まるか。止まってたまるか。
右目を真正面に戻し、エリクはフットペダルを目いっぱいに踏み込んだ。
「申告省略、迎撃機離陸する!滑走路上への対空砲火を止めてくれ!」
《な…!?ちょっと待て、お前は誰だ!?官と姓名を…》
「…上がるぞ!」
加速。機体を揺らす振動、徐々に後ろへ流れていく光景。
踏み込む深さとともに、機体に速度が乗り、翼が風を孕み始める。
後方、2機。近い。目算にしておおよそ800、ぎりぎりの距離。こちらの離陸直後を狙い撃つ算段と窺い知れる。
――それなら。
ふわり、と機体を包む浮遊感。接近し、後方より迫る光軸。
それらを感じると同時に、エリクはフットペダルを踏み込んだまま操縦桿を左手前へ引き上げて、上昇する機体を強引に左捻り。機体が失速注意のアラートを鳴らすのも構わず、機銃弾の隙間を抜けるように『ミラージュ5』を捻り上げ、機体を強引に離陸させた。視界のすぐ前には、油断と速度差でオーバーシュートをしてしまったウスティオのF-16Cが2機。残った右目と照準器、それを結んだ、光で描かれた十字の中心――。
「まず、1機!」
『ミラージュ』シリーズに搭載された30mm機関砲は、命中さえすれば並みの戦闘機などひとたまりもない。いかに優秀な第4世代機として知られるF-16Cといえども、低空にして低速という致命的な条件下に置かれた状態ではその性能を発揮することは叶わず――灰色の胴体に30mm弾を穿たれ、爆散。暴力的に広がる爆炎を抜けながら、エリクは眼前のもう1機へと狙いを定めた。そちらは横旋回に入り始め、低空域でも分のある格闘戦に持ち込もうとしている。他の4機のうち1機は上空に退避し、3機は施設攻撃後の反転中であるため、こちらを射界に捉えるにはまだ及んでいない。
――ならば。
エリクは操縦桿を右へ倒し、右旋回に入るF-16の鼻先へ機銃弾を発射。回避の為敵機が左へと舵を切るのを見越して、その頭上へと『ミラージュ5』を加速させた。そう、あたかも機体ごとぶつけるように、胴体で覆いかぶさるように肉薄しながら。
振り向くパイロットの顔が凍りつく。
ダメ押しに、機銃弾数発。敵機の翼を機銃が掠め、すぐ下に迫った地面へ着弾の火花を爆ぜさせる。
高度にしてわずか300。こちらを機銃弾で狙う距離にまで降下し、かつ低速のまま旋回したことも相まって、F-16の高度は先ほどよりさらに低い。逃げ場のないこの状態で頭上を抑えられ、衝突警報を鳴らすほどに急接近で脅かされれば、その結末は一つしかない。
視界の端で急旋回し、下方に消える機体。次いで響くは衝撃、振動。
機体の下から硬盤を削るような轟音を感じ、エリクは操縦桿を引き上げる。
左旋回から見降ろしたその先では、退路を塞がれた『ファイティング・ファルコン』が、褐色の地面にめり込むように主翼をへし折り、地上に横たわる様が見て取れた。
低空下での威嚇と機動制限を織り交ぜた無力化戦術の一種――マニューバキル。弾丸を使わずに敵を無力化する術として話に聞いたことはあったが、実際の空戦で使用するのは初めてだった。離陸直後を狙う為敵機が低速で降下しているという好条件が揃わなければ、おそらくこう易々と成功はしなかっただろう。
見上げた空では4機が集い、明らかに惑った挙動でこちらを見降ろしている。
見定められた限り、残る敵の編成はF-16『ファイティング・ファルコン』タイプとF-4『ファントム』タイプがそれぞれ2機ずつ。本来のこちらの戦力と基地の規模、敵編成を見る限り、この基地の戦力を探りあわよくば漸減しようという意図を持った、強行偵察という所だろうか。敵の油断もあり2機は何とか落したが、残る4機に一斉にかかられれば、流石に『ミラージュ5』では心もとない。
互いに出方を探る、沈黙数秒。
まるで数分にも感じたその時間の後、敵編隊は翼を翻し、元来た北の方向へと機首を向けて行った。偵察と一定の戦果を上げた以上、長居は無用ということなのだろう。懸命な敵の判断に、エリクはようやく安堵の息を漏らした。
《ニムロッド1よりヴェスパーテ管制室。要請により急遽引き返して来た。無事か?》
《あ…ああ、こちらヴェスパーテ管制室。迎撃隊の活躍により、敵部隊は撤退した。…が…迎撃待機のパイロットは全員戦死したと連絡が入っている。――管制室よりそこの『ミラージュ5』!誰だ、お前は!?》
「俺?…ああ、世話になってたレクタの捕虜だよ。機体、勝手に使って悪かったな」
《な、何ぃ!?レクタの捕虜!?》
《…お前…エリク!?…何なんだ、お前は、一体…》
緊急電を受けて戻ってきたのだろう、MiG-21UPG『ディビナス』が2機、基地全体を俯瞰するようにゆっくりと旋回しているのが目に入る。それはまるで滑走路で燃えるサピン軍機も、撃墜されたウスティオ機も、そして唯一空を舞うこちらも見定めて、たった今起きた状況を探るような挙動だった。先のコールサインが聞き間違いでなければ、相手は黒い翼端で揃えたニムロッド隊の1番機、すなわちカルロスに違いない。
基地管制室へ向けた通信を切り、エリクはカルロスだけに向けて回線を開いた。そう、まるで隠していた悪戯を告白する子供のように。
「よく知ってるだろ?円卓でも手合わせした仲じゃないか。俺は、エリク・ボルスト元レクタ空軍大尉。…『三日月(メッザ・ルーナ)』部隊こと、ハルヴ隊の2番機だ」
《……!!お前、が…!?あの、レクタの『三日月』!?》
「黙ってたのは悪かったよ、聞かれなかったしな。…で。俺を雇うかどうかっていう前の話、どうなった?」
おそらく聞き覚えているであろう『三日月』の名を出した瞬間、ヘルメットのバイザー越しに、旋回するカルロスと確かに目が合った。機体も、場所も、立場すらあの時とは異なるものの、互いの飛び方とその様は、『円卓』の空で邂逅したあの時そのままである。
確かに、通じた。その感覚一つを胸に、エリクは一足早く視線を外し、『ミラージュ5』の翼を翻した。翼の下では、燃え盛る残骸に向け消火隊が集い始めている。
《………考えておく》
「期待してるよ」
エンジン音に入り混じった、男の声。
一抹の暗さが滲んだ笑みを口端に佩きながら、エリクは大きく機体を旋回させ、滑走路の侵入位置へと機体の鼻先を向けていった。