Ace Combat side story of 5 -The chained war-   作:びわ之樹

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第20話 ‘灰色’の亡霊

 星明り僅かな暗い空の下で、西に傾いた月が朧に雲を照らし上げる。

 

 事前の予報より早く気圧配置が変わったのだろう、眼下の山脈は既に雲を纏い、その頂すらも靄に覆われて判然としない。現高度にして3000と少し、既にこの高度にすら雲が立ち込め始め、視界は時を追うごとに悪くなっている。東の空が微かに白み始め、日の出が近いと窺い知れるのが、今は幾分でも救いだった。ただでさえ視界の悪い夜の雲間飛行と比べれば、いくらかでも太陽が出ていてくれた方がありがたい。

 

《スポーク1、『カルクーン』より各機、飛行行程は順調に消化中。ラティオ軍機の接近はなし。気楽に行こうぜ》

 

 先頭を飛ぶスポーク1――アルヴィン少佐機の後席から、フィンセント曹長が通信を飛ばす。

 暗いコクピットの中、蛍光に彩られたレーダーサイトに浮かぶのは、わずかに機影が6つ。先の曹長の言葉を裏付けるように、乗機『グリペンC』の索敵が及ぶ範囲内には、ラティオやサピンといった敵国の機影は一切見えない。

 暗闇の中に浮かぶちかちかとした幾つもの蛍光は、見えやすいものの大層目に悪い。液晶板の光点を確かめるのもそこそこに、エリクはレーダーから顔を上げ、暗黒に目を慣らすようにしばし周囲を見回した。

 

 目の前には、赤と緑の翼端灯が一つずつ、さらに遥か隔てて先に二つ。振り返れば、左側にも2機分の翼端灯が連なっており、先のレーダー上の配置そのままに機体が並んでいるのが窺い知れる。航跡記録を信じるなら、現在位置はラティオ西郡、ウスティオとの国境を形成する山脈の端に至る直前の辺りと言う所だろう。言ってしまえば敵国の領土上空ではあるが、戦争序盤の余勢を借り、ラティオ西郡は未だにレクタとウスティオの勢力圏内にある。航行予定を俯瞰すれば、エリク達はレクタ中郡ヘルメート基地を離陸したのち真っすぐ西へと向かいラティオ中郡に出た後、針路を変えて北上。ウスティオ国境沿いに飛行してレクタ西郡に入り、目指す新設基地へと向かうことになる。

 

 数日前に降って湧いた、新設されるエースパイロット部隊への異動。すなわち本来であれば国内の基地に移動するだけの事なのだが、わざわざこのような面倒なルートを取るのも不可解といえばそうである。機密保持にしても、仮にも敵国上空を経由するリスクはある訳であり、万全が確保されているという訳ではない。先日の首都コール襲撃を顧みれば、レクタ国内でももはや安全ではないためとも言えるだろうが、それでもラティオに加えサピンの動向にまで気を配らなければならない今の状況は飛ぶ方にとってみれば面倒でもある。

 まったく、何を考えているのやら。

 口中に呟き一つ、エリクは不満を噛み潰す。こればかりは、命令だからと割り切るほか無かった。

 

 さて、飛行行程の半分ほどを消化し、編隊はじきにウスティオ国境付近に達する頃合いである。巡航速度を維持していたため増槽の残量はまだ十分、武装も万が一のための空対空ミサイル(AAM)2基のみのため、軽い機体は大層調子がいい。先日の『パンディエーラ・トリコローリ』との空戦で受けた損傷も突貫で修理され、今の所重大な異変は見られなかった。この調子なら、幾分余裕を持って新たな赴任先には到着できるに違いない。整備が容易い『グリペン』の特性と整備士たちの奮闘に、今は感謝の思いだった。

 

「…ん?」

 

 その時だった。

 立ち込めた雲が先行するスポーク隊の姿を遮った一瞬、ロベルト大尉…もとい少佐の『グリペンC』が不意に機体をバンクさせたのだ。針路はそのまま、機体だけを左右に揺らすその操作は、多くの場合は有視界で何らかの注意を促したり、あるいは通信封鎖下で意志疎通を図るものである。だが、たかだか眼前の雲に対してバンクで注意を促す必要は無く、念のため目を走らせたレーダー上にも特に警戒を要するものは認められない。何より、先程のフィンセント曹長の通信もあった通り、今は通信封鎖下ではない。

 

 つまり、全体への通信を介さずして、何か伝えたいことがある。

 頭の上に疑問符一つ、エリクは通信回線の周波数ダイアルを回し、小隊内用の周波数へと合わせた。これまでも何度か使ってきたものだが、大抵は哨戒時の暇な時に雑談に用いる程度であり、戦況が逼迫した最近ではめっきり使わなくなっていたものである。周波数が異なる回線なので、周囲はおろかスポーク隊に聞かれる心配も無い。

 戦争が始まる前、平時はこの回線で愚痴を言い合ったり冗談を飛ばしたり、緊張感を持ちつつも適度に楽しく飛んでいたものである。出発前に散々愚痴と文句を言っていた隊長のこと、大方この場でも溜まりかねて何かしら吐き出す積りなのだろう。長らく根を張った基地から、上の声一つで植え替えられるのだ、自分より遥かに長く基地に在籍した隊長がそう思っても不思議はない。

 

 ざ、ざ、と雑音が混じる通信回線から、隊長の声が零れ始める。

 だが、その内容は、楽観に満ちたエリクの想像を遥かに超えたものだった。

 

《エリク、ヴィルさん、クリス。聞こえるか》

「こちらハルヴ2、感度良好。久々ですねこの回線。どうしました?」

《ハルヴ3、同じく。確かに、珍しいですね、隊長》

《えっと…確かこれ、で。…あっ、はい!ハルヴ4聞こえます!》

《よしよし。…んじゃ、単刀直入に言うぞ。――俺ぁこれからレクタを脱走してサピンに亡命する。付いて来ないか?》

「…………え?」

 

 脱走、亡命、サピン。予想だにしなかった言葉の羅列に、そしてその中身に、エリクの頭は硬直した。

 

 『ロベルト・ペーテルスには気を付けた方がいい』。

 『もし大尉がサピンや周辺国内の同志に情報を漏らしているなら、これからの戦いは一層辛くなる。獅子身中の虫を飼って勝てるほど、戦争は甘くない』。

 

 脳裏に、パウラの声が蘇る。頭が巡り始め、先の言葉と現実とを結びつける。

 ロベルト少佐の来歴への疑問、裏での言動、そして情勢と現実の裏付け。それらを基に推測を重ね、パウラは少佐を『周辺諸国に復讐を誓うベルカ残党の一味』と断じ、常々エリクにそれを告げて来た。少佐に恩義を抱くエリクにとっては信じるに値しない讒言の類に他ならなかったが、パウラが様々な証拠を以て告げるにつけ、その奥底で疑念が生じなかったかと言えば嘘にはなる。だがその度に、エリクは半ば縋るように少佐を信じ、その疑惑を心の奥深くに埋めて否定して来たのだ。

 

 ――だが、それを。

 必死に埋めて来た疑惑を、裏切りを裏付けるようなその言葉を、あろうことかロベルト隊長自身の口から聞くことになるとは。信頼をあっけらかんと裏切る言葉を、ここで聞くことになるとは。

 

 足元が崩れるような錯覚に囚われ、言葉にできない黒い感情が心の中でのたうち回る。

 ロベルト隊長機まで、距離400。無意識のうちに指を動かしていたのだろう、機銃の安全装置は既に解除されている。至近と言っていいこの距離である、隊長が本気で脱走を企てれば、その瞬間に機銃で撃ち抜ける自信はあった。

 今まで築いてきた信頼が、今も消えかねているその感情が、指を止めなければ。

 

《え…な、……何、言ってるんですか、隊長。や、やだなぁ、やめて下さいよ…こんな時に冗談なんて》

《悪いなクリス、俺も尻に火が着いちまってるんでね、大マジなんだよ。時間も無い。…だからよ、その銃下ろしてくれるか、エリク》

「……裏切っていた、って事ですか。レクタも、俺達の事も。ベルカ残党として、諸国に復讐するために」

《………》

「答えて下さい、隊長!!」

 

 信じたい。

 最後の一抹の思いを込めて、エリクは叫んだ。疑惑と信頼の、責務と感情のせめぎあいの中で、疑惑へと傾きそうな心を信頼へと傾けたいがために。たとえズボラでも適当でも、人として好きなロベルト隊長の背中を、この手で撃ちたくないがために。

 照準を合わせ、引き金にかけた指とは裏腹に、エリクは信ずるための言葉の腕を、懸命に隊長へと伸ばした。

 

《パウラの嬢ちゃんが吹き込んだらしいな。…真実と理由。それを話したら、見逃してくれるかね?》

「…内容次第です」

《…ははっ、しっかり者に成長してくれたモンだ。時間が無いってのによ。…いいだろ。長いんで適当に端折るから、よーく聞けよ》

 

 隊長の苦笑いが、嬉しくもどこか寂しそうに響く。続く口調は普段通りの軽いものだが、その響きは低く重く、普段の明るい様子は感じ取るべくもない。先日の『円卓』における空戦の時と同じ、どっしりと構えた凄みのあるその声は、まさに本気のものだと知れる。

 ごく、り。

 重い吐息を呑み込み、エリクはその時を待った。

 ロベルト隊長の口が、そして真相の扉が開かれるのを。

 

《まず先に断っておく。俺はベルカ残党の復讐者じゃあない。確かにベルカ出身で、いくつもの嘘を重ねて今に至るが、お前たちを裏切ろうと思ったことも無い。あくまで俺自身に危険が迫ったから、それに備えての亡命だってことは信じてくれ》

「………」

《…最初に白状しよう。俺は元レクタ軍でも、ロベルト・ペーテルスって名前でもない。ベルカ戦争で戦死した、風貌の似た独身の軍人の戸籍を、後で入手したものだ》

《な…!?なんですって!?隊長が…偽名!?》

《順を追って説明するぞ。15年前――ベルカ戦争の時、俺はベルカ空軍のとある航空部隊に所属してた。…もっともその部隊は『円卓』で例の『鬼神』相手に全滅して、俺と隊長以外は全員死んじまったがな。お蔭で今もスーデントール住まいの隊長とは愚痴言い合う仲よ。しがないバーガー店の雇われ店長でな、俺一人しか部隊で生き残ってないんで、他に愚痴のやり場がないんだとさ》

 

 のっけからの嘘の告白、そしてその出自の暴露。息を呑み衝撃を受けたエリクだったが、その中で一つ二つ、繋がった事もあった。

 以前パウラが言っていた、『隊長が時折電話しているスーデントールの人間』とは、おそらくこの元隊長のことだったのだ。また、ロベルト隊長が先代『円卓の鬼神』ことガルム隊を知っているらしい点に対しても、実際にベルカ空軍として矛を交えていたとしたら納得がいく。先日の『円卓』制空戦での言葉の端々も、時折見せる空戦指揮の冴えも、高い練度知られた元ベルカ公国空軍出身と考えれば頷けるものだった。

 

《と、話が逸れちまったな。…ともあれ、ベルカは敗けて軍は縮小し、俺は軍を辞める羽目になった。その時、隊長の誘いに乗って仕事務めでもしてればこうはならなかったんだろうが…たぶん、空で飛ぶことを無意識に求めてたんだろうな。隊長からの誘いを断って、俺は東部小国解放義勇兵として諸国を転々とした後、アヴァロンダムでの空戦で行方不明扱いになっていたレクタ軍人の戸籍を入手した。それでもって、表向き軍に復帰した(てい)にしてまんまとすり替わったって訳さ》

「なんだって、わざわざそんな事を…」

《さっきも言ったろ?空で飛ぶことを無意識に求めたって。…空に魅せられた飛行機乗りってのはな、どうしようもなく空を求め続けるのさ。軍縮が進むベルカじゃ今更再雇用は望めない、かといって傭兵で稼ぐには元手が無い。そんな時に、またパイロットとして飛べるチャンスを手に入れたんだ。危ない橋とは分かってたが、そうせずにはいられなかったのさ》

 

 疑惑が、まるで陽に照らされた氷のように徐々に融けてゆく。

 つまり、隊長が出自を偽り、別人になりすましてレクタ空軍に入ったのも、その動機は『空で飛びたかったから』という純粋なものに過ぎなかったのだ。傍から見れば子供っぽい、単純に過ぎると謗りも受けそうだが、飛行機乗りにとっては、それは至上命題と言っていい渇望とさえ評せるものである。もし自分が同じ立場だったら、果たしてどうしていたか。それを考えれば、隊長の行為は少なくとも自分にとって、何ら指弾するような点は無かった。

 だが、残るは氷の中心。根本たる疑念である。

 

「…しかし、納得できません。それなら何で、今更脱走するなんて言うんですか?」

《それよ。エリクお前、さっき言ってたよな。ベルカ残党による復讐がなんたらって。それもアレか、嬢ちゃんの話か?》

「……はい。ベルカ残党としてサピンやラティオと通じた隊長が、情報を漏らしたり戦争を煽っている、と」

《そうか…。…おそらくはな、それも真実だ》

「…どういう事です?」

《素性を偽ってレクタに入ったのは、実は俺だけじゃなかったって事さ。俺とは別口でレクタに入り込んだベルカ残党が、裏で戦争継続を煽っている。そう考えりゃ、いろいろと納得できるだろ?》

 

 一度融けた氷が、別の所で再び固まり始める。それも鋭く硬い、別の何かとなって。愚にも付かないそんな印象を抱きながら、エリクは改めてこの戦争を顧みた。

 言われてみれば、この戦争では不可解なことがいくつか起きている。例えばサピンによる幹線道路空爆の際に、主要な道路のみをサピンが知り得た理由は何だったのか。また、『三色旗』がレクタの防衛網を縫うように進み、首都コールへ到達できたのは何故だったのか。そしてそもそも戦争の発端となった、ラティオ軍機に対する出自不明のミサイルは、一体誰が放ったのか。その全てが、まるでレクタを――周辺諸国を戦争に引きずり込み、それを長引かせんとする意志があるようではないか。

 戦争の発端となった、ウスティオ・ラティオとの国境上空。あの戦場にいた者といえば。

 

「…誰なんです、そのベルカ残党って」

《俺も首根っこは掴んじゃいない…が、その尻尾は捕まえてある。元々ベルカにいた時に、戦術くらいは知ってたからな。隊長にも当時の顔写真を頼んでてな、この間の研修の時に近くに寄ったんで、それを貰って確証が取れた。――俺が脱走を急いだのは、それだ。今日このまま赴任先に着けば、俺は確実に殺される。よく見知った連中にな》

 

 隊長の言葉が進むにつれ、エリクの中でもその『答え』が形作られていき、同時に身を震わせる戦慄へと変わってゆく。

特異な戦術を持ち、発端の戦場にいた、身近な人物――否、部隊といえば。

 

「まさか…!!」

《ほう、よく調べ上げたものだ…ハルヴ1》

 

 電子音。接近警報。

 唐突に鳴り響いたその出所を確かめる暇も無く、エリクは咄嗟に操縦桿を右へと引いた。

 方位、真正面。こちらの編隊を切り裂くように、デルタ翼の機体が2機、機銃を放ちながら中央を突っ切ってゆく。

 エリクは、その疑惑が確信へと変わり、衝撃すら忘れて息を呑んだ。

 真正面から襲い掛かり、こちらの後方へと抜けた、大型のカナード翼を持ったデルタ翼の機影は。緑を主体に、不規則なツートンカラーに染まったダズル迷彩は。――そしてレーダー上の識別信号と、何よりその声は。

 

《ち、一手遅れたな。…ベルカ残党は、やっぱりアンタか。アルヴィン少佐…いや、スポーク隊の諸君》

 

 スポーク隊の『グリペン』。

 その確信を待つまでもなく、隊長によって突き付けられた言葉に、エリクは胸を押し潰される感覚に苛まれた。いくつもの戦場を越え、信頼を覚えた無二の仲間。そう信じた相手が、実はレクタを裏切り戦争を扇動する裏切り者だったのだ。

 反射的に増槽を捨て、エリクは右に引いていた操縦桿を、そのまま手前へと向ける。右旋回の弧を描いた翼は、明るくなり始めた東の空の光を受け、微かに灰色に浮かび始めていた。

 

《な…!いきなり何を!ハルヴ3よりスポーク隊、こちらは味方です!》

《嘘…、嘘ですよね…!?そうでしょ、アルヴィン少佐!》

「…どうして…!アルヴィン少佐、フィンセント曹長!…パウラ!!」

《………》

《真相を知られた以上、3人には死んで貰わなければならない。だが、君だけは別だ、ロベルト少佐。練度を重んじるベルカ空軍の中でも名を馳せ、エースパイロット部隊の一員を務めた君の技量は、我らにも必要なものだ》

《…へっ、なかなかどうして。そっちこそ、よく調べ上げたモンじゃないですか。うまいこと隠しおおせた積りでしたが》

《我々の戦術で君が感づいたように、君の戦術もまた当時のままだ。各国の同志には、君の顔を知っていた者もいる。…共に来い、ロベルト大尉。――いや、敢えてこう呼ぼう。『グリューン2』――ファビアン・ロスト。ベルカに仇なす者たちへの復讐の為、君の力が必要だ》

 

 ファビアン・ロスト――それが、ロベルト隊長の本名。門外漢には窺い知れない情報や名が飛び交う中で、それだけがエリクの心に音を残してゆく。元より、予期せぬ事態の急転に混乱する頭では、それ以外の情報など枝葉に過ぎなかった。

 無感情に『殺す』と言って見せたアルヴィン少佐。そして明確な殺意を以て、こちらの周囲を大回りに旋回する緑の『グリペン』。それが冗談でも、まして単なる恫喝でもないことは主翼に穿たれた一穴の弾痕が無言のうちに物語っている。アルヴィン少佐は、…そして、パウラは。確かにこちらを殺す積りなのだ。

 

 なぜ、パウラが『ベルカ残党』という真相に迫る言葉を仄めかしてまで、度々ロベルト隊長への疑念を煽ったのか。そして、謀殺の絶好の機会であるこの移動に、最後まで反対していたのは何故なのか。もはやそんな疑惑を顧みる余裕も無く、エリクは絶望の目を緑のダズル迷彩に彩られた『グリペンC』へと向け続けた。裏切りと偽りの色に染まった、憤ろしいほどに鮮やかなその主翼へと。

 今までかけられた言葉も、信頼も、そして思いも。その全てが偽りだったというのか。

 

《そんな事言って、後で囲い込んで俺も殺す肚でしょう?真相を知った者っていう不確定要素を生かしておくほど、あんたたちは甘くはない筈だ》

《そんなことは断じてない。オーシアもユークトバニアも、全てを滅ぼす為の力は既に我らの手中にある。残るは、君のような空を制する力だけなのだ。誓おう。君の安全は、私が保障する》

《誇りを無くして、なりふり構わない復讐者に落ちぶれた男の誓いなんてのァね、ちり紙ほどの信用も無いんですよ。それにたとえ俺がついて行った所で、こいつらは生かしちゃおかないんでしょ?第一、復讐とか恨みとか、そんな重っ苦しいモノ載せて飛んだ所で、楽しくもなんともない。そんなものは、俺の求める空じゃあないんですよ》

《…ほう》

《そんな訳で、ロベルト・ペーテルスとしてお答えしますよ、アルヴィン少佐。『クソ喰らえ』ってね》

 

 ぎ、り。

 通信の中に漏れる、誰かが歯を食いしばる音。それきり声は途切れ、数分にも思われる重々しいほどの沈黙が辺りを包んだ。実際には30秒にも満たない時間だったのだろうが、まるでその重さに時までも引き延ばされたかのように、それはじりじりするほどに長い。

 

 徐々に明るみを帯びる空、曇天から夜色が引き始め灰色に染まってゆく天地。

 持ち前の砕け切った口調で啖呵を切った隊長の――ファビアン・ロストという聞き慣れない名ではなく、ロベルト・ペーテルスという男の機体が、その灰色を切るように翼を翻している。明るみの下、その翼やエンジンカウルに、既にいくつも弾痕が刻まれているのに、エリクは初めて気が付いた。

 

《……それが、答えか。なるほど、15年を経ても素性の悪さは変えられないと見える。ならず者小隊、愚連隊…『グリューン隊』の評判そのままだな》

 

 深く震えた響き、そして絞り出すような声音。怒りを噛みしめたようなその言葉に、冷静沈着な常のアルヴィン少佐の面影はもはや無かった。憤怒とともに吐き捨てられた捨て台詞を、ロベルト隊長は軽く笑い声を上げながら受け流している。

 

 先の隊長の言葉でもあったが、おそらくロベルト隊長にとっては、周辺諸国への復讐などどうでもよい事なのだろう。敗戦は、敗戦。それはそれとして、今更復讐を語り、当時関わりの無かった人々にまで意趣返しを図った所で何の意味も無い。そう割り切って、自分自身は『空を飛び続けたい』という思いの――信念のために、今ここにあるのに違いない。敢えて『誇り』という言葉を使ったその背景には、空を飛ぶこと、そしてあくまで『敵』を落とす為に戦うことという、空軍パイロットとしての矜持が垣間見える。それを意識したからこそ、諸国を無差別に戦争へと引きずり込むアルヴィン少佐に『誇り』は無いと論破したのだ。

 

 怒りに声を震わせるアルヴィン少佐と、呵々と笑い飛ばしてみせたロベルト隊長。かつて同じベルカ空軍に属していたという二人ながら、その生き様は、信念は、鏡のように対照的に見えた。

 

《そりゃどうも、所詮俺は外れ者ですよ。それに、『灰色』のやり口は昔から知ってる積もりです。策謀も、自国民への被害もやむを得ないという自領内への核攻撃も淡々とこなした、ラルド派の急先鋒…タカ派で知られる第3航空師団のやり口はね》

《……!》

《知らない、なんて言わせませんよ。アンタもその一員だった筈だ。第3航空師団第8飛行隊――『グラオガイスト隊』隊長、カスパル・ゲスナー少佐殿》

 

 殺気、一瞬。

 隊長が言葉を区切るのと、スポーク隊の2機が翼を翻すのは同時だった。パウラの『グリペンC』はこちらの斜め上方から突貫し、アルヴィン少佐の『グリペンD』は下降。下端で旋回し、斜め下から遅れて襲い掛かりつつある。

 すなわち、パウラがこちらを崩し、その隙を少佐が討つ手。

 

《エリク、下!1-3!》

「了解!」

 

 必要最低限の、短い通信。その中に全てを察し、エリクは編隊を離れて背面から下降。隊長を先頭とした3機は上昇し、パウラと正面から相対する姿勢に入った。これならば正面火力でパウラを圧倒でき、こちらは少佐の追撃を防ぐこともできる。

 

 正面、少佐の『グリペンD』。距離1100。

 針路、相対。切り上げるように急角度を取って上昇する機動。

 武装選択、30㎜機銃。この針路ではAAMを放ってもフレアで回避される。

 距離、800。

 ミサイル警報。

 正面、1発。放ったフレアに遮られ、それはこちらの鼻先を逸れてゆく。

 距離500、400。照準器の中心。アルヴィン少佐の顔。

 ――仲間と信じた人の顔。

 

「――ちっ!」

 

 無意識の舌打ちに籠もった感情は、果たして何だったのか。

 気づけば、エリクは無意識に照準をずらしながら機銃を発射。放たれた一筋の光軸は、『グリペンD』の右カナード翼を粉々に切り裂き、緑色の破片を灰色の空に散らした。

 銃声、上空からも4筋。見上げた先ではパウラ機から破片が飛び、ロベルト隊長達の機体が真正面から馳せ違っていくのが目に入った。エリクは機首を上げ、その隣へと機位を向けてゆく。

 

《ぐっ!》

《…で、どうします、これから?御三方で俺達を抹殺でもしますか?》

《………》

 

 高度を失ったアルヴィン少佐機にパウラの『グリペンC』が並び、揃った2機がこちらを見上げる。先ほどの交戦の結果だろう、パウラの機体にもいくつか弾痕が刻まれているのが、エリクの目には見て取れた。

 手ごたえは、確かにあった。スポーク隊が赴任して来た頃は演習で軽くあしらわれてきたものだが、幾多もの空戦を経て、様々な戦場やパイロットとの戦いを経験してから、自分自身も腕前は着実に上がって来たと感じる。何より、今は機数で言えば4対2、おまけに機種も同じときている。戦力で勝っている今の状況なら、教導隊として高い技量を誇るスポーク隊相手にも五分以上の勝負ができる自信はあった。ロベルト隊長も先の一航過でそれを感じたのだろう、その言葉には自信が見え隠れしている。

 

 沈黙漂う灰色の空、静まり返る空気。

 それを破ったのは、低く、それでいて笑みと憎悪を噛み殺したような、くっくっくという喉の響きだった。

 

《いや…今の君たちには、もはや我ら2機では歯が立つまい。たとえ力が拮抗していても、数という要素がそれを崩すだろう。かつてベルカ公国が、数多の国々に囲まれ蹂躙されたようにな》

「……?何を…」

《そう、我々2機だけならばだ》

《…まさか…!》

《……た、隊長!…あ、あれ…!方位090、機影多数!》

 

 勝ち誇ったアルヴィン少佐の声に、動揺したクリスの声が重なる。

 ぞくりとした胸騒ぎを呑み込み、振り向くは方位090、すなわち真東。目が奔り、眩しさに目を顰めたその瞬間、エリクは遅ればせながらにその意味を理解した。

 

 山の輪郭を照らし、白く昇る朝日。それを背に、いくつもの機影が浮かんでいたのだ。

 機数にして約20、レーダー上の識別信号はレクタ国籍。しかし、この空域を20機もの機体が作戦行動するという情報は何一つ聞いていない。その全ての飛行ベクトルがこちらを向いていることからも、その意味は自ずと明らかだった。

 

《夜明けだ》

「………!嘘、だろ…!」

《ベルカが再び昇り、仇なす国々が余さず沈む、ベルカ再生の夜明けだ。レクタ、サピン、ラティオ…この白日の下、各国は戦争を続け、戦火の下に亡滅してゆく。諸君の死は、その先駆けの焔だ》

 

 迫る。

 東から、無数の機影が徐々に迫る。まるでアルヴィン少佐の声を受け、宣告を告げるかのように。

 

《朝日が来り、夜は去る。戦場を覆す月も、栄光を忘れた梟も、これからの世界にはもはや不要だ。不相応な輝きの月など、朝日を妨げるものに他ならない。この輝かしき陽光の下――沈め、『三日月』》

 

 裁きを告げる暗い声。主を護らんと警報を鳴らし続ける機体。それに次ぐ言葉を、誰一人として紡ぐことはできなかった。

 

 昇る太陽の輝きに空は染まり、急速に衰えた夜の黒を追い散らすように、空を覆う灰色が鈍く映える。放射熱に冷めた眼下の山肌は霧を帯び、ラティオはおろか、遥か先のレクタの大地すらも覆い隠すように広がり始めていた。

 

 頭上を押さえる無数の翼。降り注ぐ警報の雨。

 翻った西の空では、月が霧の中へと呑まれて、地平の先へと沈んでいった。

 


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