20歳にも満たない一輝だが、一般人より濃度の高い人生を歩んできて、それ相応の経験と努力を重ねてきた自負があり、それ以上の負けず嫌いである。
たとえ何百回と負け続けても「勝てない敵じゃない。修行を続ければ必ず勝てる敵だ」と考えるほど、一輝は勝利に食い下がる。
だが、そんな彼でも、一目見た瞬間に「勝てない」と思い知らされるモノがあった。
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少し先に立つ白いバトルドレスを身に纏う女性。両手に対の剣を下げ無造作に立ちはだかるその存在。
それに一輝は心の底から畏怖をした。
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彼我の実力差はもとより、勝機の道筋を往く一歩目すら視えない常闇。一輝の照魔鏡の如き観察眼を以ってしても一切見切ることの出来ない、闇に包まれた未来。
自分の人生における最強の敵・綴を相手にした時ですらこんな経験をしたことはなかった。
武の極地に達したあの人を超える人がいるのか。その事実が何よりも恐ろしかった。
「お兄様、大丈夫ですか?」
一輝が立ち止まった事により珠雫が声をかけてくる。
珠雫は気づかない。目の前の敵が何者かに。剣気はおろか闘気すら見せず、ただそこにいるだけなのだから。仮にそれらを放っていたとしても、敵との実力差がかけ離れ過ぎていて気づけなかっただろう。
「わからぬ者は敵に能わず。わかる者は我に挑まず」
天使の囁きのような神秘さを持つ声で発せられたその言葉が全てを表していた。
「ですが一宿一飯の恩がある手前、賊を見過ごす訳にもいきません」
純白の魔人は一歩を踏み出した。
「珠雫。走るんだ」
「えっ?」
一足ずつ近づいてくる『死』から目を逸らせない一輝が鋭く叫ぶ。
「後ろを向かず、アリスを助けることだけを考えて走るんだ」
否定を許さない声音と、今までに見たことがないほど強張った表情を見て、遅れて珠雫が気づく。
眼前の敵は暁学園のメンバーなんかと比べ物にならない敵なのだと。そして、自分がここにいれば足手まといになるのだと。
その事実が珠雫の心の疵を嫌らしくえぐるが、今自分がここにいる理由を押し付けて蓋をした。
「……お気をつけて」
その言葉とともに暁学園本校舎へ踵を返す。その瞬間、背後の大気が二つの斬撃によって引き裂かれる音が大きく鳴り響く。珠雫は反射的に振り向こうとする顔を必死に前へ固め全力で駆けた。
その背を見届けたエーデルワイスは鍔迫り合いを弾き、一輝を突き放す。
「この程度なら防げますか」
「何とか、ですがね」
《一刀修羅》により蒼い光を放つ左腕で冷や汗を拭う一輝。
一分という厳しい時間制限のあるこの技を初見相手に初手で使う。通常であれば悪手そのものだが、このエーデルワイスだけは『例外』だ。
《一刀修羅》を使って初めて戦いが成立する。強化状態で臨むのが大前提なのだ。
その甲斐あって、この状態であれば神速の斬撃を捉えることが出来た。
だが、そのことが逆に一輝に強い不信感を抱かせる。
先の通り、一輝にはエーデルワイスが次に何を繰り出してくるか、その一手すら読めずにいる。あまりにもかけ離れた力量差。それが一輝の眼をも曇らせる。
しかし今の一撃はどうだ。確かに一輝を以ってしても防ぐので精一杯な斬撃だったが、それでも確信を持って防ぐことが出来るレベルだった。
本来であれば防御すら許されず終わっていたはずの交錯。エーデルワイスの真意を読み取るきっかけすら与えられない一輝は伏して受け入れる他ない。
再び迫るエーデルワイスが無音の踏み込みと共に両の腕を振るう。
都合十。閃光の如き斬撃が完全なる静寂のもと襲いかかる。
「っく!」
苦しい嘆息が漏れる。が、一輝は体に刻み込まれたノウハウに従い、無音の剛剣を次々と凌ぐ。
一刀を弾くごとに大鐘を打ち鳴らすかのような金切り音が炸裂し、その度に一輝の体が左右後方へピンポン球のように弾かれる。
そこを追撃するようにエーデルワイスの猛攻が襲う。
「ぅ、ぉおおおッ!!」
雄叫びをあげ、洗練されすぎた暴力を捌く。反撃に出る隙など一片もありやしない。眼前に迫る一手一手をやり過ごすことに全神経を持っていかれる。
その脳裏で一輝は努めて冷静に現状の危機を把握する。
今はなんとか持ち堪えているが、一撃を凌げば次の一撃を受けざるを得なくなるという負の循環に閉じ込められているのだ。荒々しい剣戟の裏に超絶的な身体技術の裏付けがあるように、暴力的な乱打は緻密な計算により全ての攻撃が次の攻撃に繋がるセットアップになっている。
このまま続ければすぐに粉砕される。判断するや否や、一輝はインパクトの瞬間に体ごと腕を引き、留めた衝撃を利用して後方へ大きく弾き飛ばされた。
何とか剣戟の嵐から脱出出来た一輝だが、《陰鉄》を握る手に電磁波を流されたような渋い痺れが疼く。これは防御が拙かったことの証左。女性らしいしなやかで華奢な細腕から発せられているとは思えないほどの馬鹿力が、とんでもなく高次元な技術と共に叩きつけられているのだ。
圧倒的差を見せつけられた一輝だったが、今度こそは怯えるような真似はしなかった。
「はぁあああっ!」
世界最強の剣士に攻め込む決意と共に《第七秘剣・雷光》を発動。《一刀修羅》を使うことで初めて使用可能となるこの技は一輝の持ちうる技の中で最速を誇る剣技だ。
名を体で表し、青い稲妻となってエーデルワイスに肉薄した一輝は渾身の袈裟斬りを放った。
《陰鉄》は不可視となり、
「ぐぅ……!」
一輝の攻撃はいとも容易く弾かれたが、今の
「数度剣を交えただけで私の剣を盗みますか」
エーデルワイスの驚愕を無視し一輝は食らいつく。
視えないのならば視えるまで前へ進め。届かないならばよじ登れ。人より劣っている自分にはそれしか生きる道がなかったのだから。
制限時間はもう半分を切った。その間にどれだけこの魔人から知恵を盗み己の糧に出来るか、それが勝負の分かれ目だ。
0から100へのストップアンドゴー。連動する筋肉を全て同時に動かし、一切のロスをすることなく集約した力を剣に乗せる。
エーデルワイスのアクション全てが無音であるのも、力のロスが完璧に削ぎ落とされているからであり、常に100%の速度と攻撃力で敵を切り刻む。
盗んだ《比翼》の剣技を実践し、より練度を高め、この技に込められた発展性を暴き、より高次元へと昇華させる。
まさしく快進撃。気高く飢える一輝はブレイクスルーとも言うべき指数関数的な速度で成長し続ける。
《一刀修羅》、《雷光》、《比翼》の剣技。混沌としたその全てを統合し、一輝は己の形に落とし込んだ新たな技を完成させた。最速を超える最速だ。
だが。
届かない。ここまでしても、まだ届かない。魔力、技術、剣技。己の持ちうる全てを吐き出してなお、エーデルワイスに剣技一つで猛攻をはたき落される。
それは読みの差などではない。ただ純粋に、そして絶対的な彼我の熟練度の差がそこにはあった。
技ひとつ取っても、この隔絶。その隔たりが重なり続ければ必然、誰の目から見てもわかる歪みが生まれる。
「ぁ」
ズブリと、自らの土手っ腹に狂おしいほどの熱を持つ異物が差し込まれる。何度となく打ち合い、空気によって研磨されたことにより超高温を纏ったエーデルワイスの番いの剣が一本、深々と突き刺さったのだ。
傷口から肉の焼ける悪臭と白煙が立ち上り、煮え繰り返る痛みへと変わる。
「終わりです」
エーデルワイスが引き抜いたことにより支えを失った一輝は千鳥足で地を彷徨い、無様に座り込む。
しかしなおその眼は爛々と輝き続け、一輝はエーデルワイスを見つめる。
「まだ……僕は……」
「いいえ。貴方は終わったのです」
冷酷なまでに平穏な物言いでエーデルワイスに告げられる。その意味するところを理解したのは、立ち上がろうとした体が一切動かなかった時だ。
体から立ち上っていた蒼の光は消え失せ、残っている魔力がもう底を尽いていたのだ。《一刀修羅》の制限時間である無情の一分。傷一つ付けるどころか汗ひとつかかせられない。それが一輝の敗北を知らしめた。
「その眼を持つだけはありますね。剣の腕もさることながら、特に迎撃が上手い」
血を振り払ったエーデルワイスは霊装を消し、悠然と一輝を見下ろす。
「攻撃を捌き、次の一手に繋げる技術。それだけならば私にも迫るでしょう。一体誰から教わったのです?」
「親友に容赦のない人がいましてね……。常に馬鹿げた精度を求めてくるんで敵いませんよ」
少しでもミスすれば即負かしにくるような相手を何百回もしてれば嫌でも上達するというもの。
一瞬の瞬きすら許されない対戦経験がなければエーデルワイスの剣技を見切ることは出来なかっただろう。
「良い友を持ちましたね。大事にするのですよ」
「……僕を殺さないんですか」
敵は『世界最強の剣士』にして『史上最悪の犯罪者』である《比翼》だ。
「最初は殺すつもりでしたが、気が変わりました」
「ならばなぜ最初の一手で終わらせなかったのですか。貴方ほどの剣士ならそれが出来たはずだ」
こうして刃を交えた後ですら先が視えないのだ。人の人生全てを捧げて到達し得るであろう零を二回や三回跨いでも届かない世界にいるのかもしれない。
そんな魔の覇者ならば、あらゆる所作を零に終えることすら可能にするだろう。それが出来ても、むしろ一輝は納得してしまうほどに、このエーデルワイスという魔人は桁違いの存在だった。
「それに貴女の剣技は
「……」
エーデルワイスは黙した。
一輝の分析が正しければ、《比翼》の剣技は未熟者を相手にするための、いわば
なぜならこの剣技には
もちろんマスターすれば零に至るという訳ではないが、少なくともその道の途中で必ず拾うことになる技術ばかりだ。
零の一歩手前の技術。それを最高までに昇華して振るうのが今のエーデルワイスだ。全力はもとより、その一部すら出しているはずがなかった。
「賊に手加減をした理由、教えていただけますか?」
確信を持って尋ねてくる一輝に、エーデルワイスは
「貴方の言い方には語弊がありますが、間違ってもいないところが曲者ですね」
と、困ったように嘆息した。
「私は無駄な殺生を好みません。それが羽化を迎える蛹であれば尚のこと」
「……」
「貴方は手加減をされていると感じたでしょうが、それは正しくありません。貴方と
一輝は形而上的な発言に解せず眉を顰めるが、全くわからなかったわけではなかった。
《比翼》の剣技の不自然さが、今の発言に心当たりを探し当てたのだ。
「もしかして、
七星剣武祭代表生選抜戦で刀華と戦った時、ほんの僅か零の世界を覗いた一輝はそこで
その隔たりと、実際の綴との埋まらない差、そしてエーデルワイスの埒外の力量が彼女の言う生きる次元の違いというものに酷似しているように思えたのだ。
「そうです。それが視えたからこそ貴方は自らの辿るべき光が視えるのでしょう」
そう言い、エーデルワイスは静かに続けた。
「ですから私は期待しているのです。その光が視えるまでに費やされてきた野望や渇望の強さ。そして大切な人のために死を恐れぬ高潔な魂。それがどのような実を結ぶのかを知りたい」
「だから僕を殺さない、と?」
「貴方がそれを望むなら構いませんが」
慌てて首を横に振る。最初は珠雫を先に行かせ、エーデルワイスを足止めするために命を賭さなければならないと覚悟して挑んだが、それが捨てずに済む命だとわかった今変な意地を張る意味はない。
だがそれはそれ、だ。
「こうしている今、アリスは捕らえられ、珠雫はヴァレンシュタインという人と戦っているんですよね。ならば僕は先に進まなければならない」
「その死に体で、ですか?」
「珠雫の望みに付き合うって約束しましたから」
一輝は薄く笑い、体を這わせてエーデルワイスの隣を過ぎようとする。引き摺った跡には決して少なくない血が流れており、泥に塗れて這う姿は弱々しくあるが、それでも止めることを躊躇わせる力強い何かを感じさせた。
「……意志が強いというのも考えものですね」
エーデルワイスはひっそりと息を吐き、一輝の前に再び立ちはだかる。
「恩義だけのものとはいえ、貴方を足止めするのは仕事です。ここを越えるようであれば命の保証はしません」
「そんなもの、珠雫たちはしていない」
しかしここで意外な言葉が飛び出す。
「そうとも限りませんよ」
「……え?」
「校舎へ入っていった少女……シズクと言いましたか。あの娘は只者ではありません。ヴァレンシュタイン卿を相手取っても、少なくとも死ぬことはないでしょう」
「一体どういう意味ですか!?」
エーデルワイスは初見の珠雫の姿を思い出す。彼女の体には
だがそんなことを魔術がからっきしであることが見え見えの一輝に言っても信じられないだろうから、何も言わずに済ませた。
「信じて待っていれば必ず帰ってくるということです」
エーデルワイスの言葉に、やはり不信感を募らせる一輝は言葉を返す。
「ならばなぜ貴女は珠雫を追わなかったのですか? 仲間がやられるかもしれないんですよ」
「そこまで私がお節介をする義理はありません」
「……まるで暁学園とは無関係だと言う口振りですね」
「その通りですよ。私はこの企てのメンバーではありませんから」
あっさり告げられた事実に一輝は目を丸くする。てっきり暁学園の教師陣だと思っていたからだ。
「言ったでしょう。暁学園には一宿一飯の恩があると。私はただの通りすがりなんですよ」
「そんな……」
「そしてその義理は果たしました。なのでこれ以上私が彼らに肩入れする理由もなければ、貴方を欺く理由もない。納得していただけましたか?」
当惑する一輝を隅に、エーデルワイスはすっかり深くなった夜空を見上げた。不安そうにチラチラと瞬く星たちが世界を照らしていた。