視える。
いつか辿り着くのであろう未来の『僕』の姿が、視える。
トチ狂った頭が見せる幻影ではなく、確かな根拠の基に映し出される未来だった。
それが視えるようになったのは、言ノ葉さんに認められていたことを知り
僕は人よりも劣っていると自覚して絶え間ない努力をし続けた。
誰かに認められるような自分になりたいと、その一心で努力していた。
だけど、今の僕こそが理想なんだと告白されて。あぁ、確かにそうかもしれないと妙にすんなりと納得できた。
僕が一生を掛けてでも追いつきたいと思った人からその在り方が良いのだと認められたのだ。
どれほど辛くとも
すとんと腑に落ちたら不意に見える世界が変わった。
暗雲立ち込める山頂から一筋の光が差したかのような、そんな先見の明が視えるようになった。
この光に向かっていけば必ず幸せになれると、誰に言われるわけでもなく確信した。
言ノ葉さんにも同じものが視えているのだろうか。
きっとそうに違いない。
こんな気持ちを知ってしまったら
答えが視えているのだから当たり前だ。
だけど、何も見えずにただ闇雲に修行していた今までが無駄なのかと言うと、決してそういうことではない。
むしろ何も知らずに迷っていて良かったとすら思う。
たくさんの遠回りをしたけれど、そのお陰でたくさんの出会いを得られた。
僕を愛してくれる最愛の妹。
僕の在り方が好きだと言ってくれた誇り高いルームメイト。
僕の理想を体現した無二の親友。
最短の道を歩いていたら絶対に出会えなかった彼女たち。
彼女たちからは欠け替えのないものをたくさんもらった。
それに助けられながら歩いたからこそ、僕はここに辿り着いたのだから。
────今度は僕の番だ。
僕と出会えて良かったと思えるものを送りたい。
もらったもの以上のものを彼女たちに送りたい。
それが今の僕の願いであり、理想だから。
◇◇◇
「────わかった。手配しておこう」
「どしたん?」
「ちょっとした頼み事をされてな。大したことじゃない」
電話を仕舞った黒乃に対して「ふーん」とどうでも良さげな相槌を返した寧音。
しかしその直後、優れた気配察知で事情を把握する。
「……あぁ、そゆこと。ずいぶん物騒な頼み事だぁね」
「ふっ。豚が走り込まなきゃ意味のないことさ。精々奴が潔い男だと願っておこう」
黒乃は真っ黒な笑みでくつくつ笑う。
めっちゃイラついてたもんなーと内心を察しながら後方の席を見遣れば、そこには勝ち馬に乗った気分で踏ん反り返っている赤服の中年がいた。
「ま、そのためには黒坊が勝たなきゃ話になんねーけどな」
「そうだな……。かなり消耗していると聞いたが、果たしてどこまでやれるものか……」
険しい顔を作る黒乃におどけた老人の声がかかる。
「ひょっひょっ。まるで負けが前提の口ぶりじゃな」
「南郷先生!いらっしゃったのですか」
「うむ。弟子の成長を……と言うより黒鉄の者を観にな」
《闘神》南郷寅次郎の登場。
だが言われてみれば不思議なことではなかった。
寅次郎にとって黒鉄は永遠のライバル。切っても切れない縁がある。
己の弟子がライバルの倅と刃を交えると聞けば来ざるを得ない。
「して、黒鉄のは何処に?」
「それが諸事情により遅刻しておりまして……。もうすぐ到着すると聞きましたが」
その時会場に設置されたスピーカーから甲高いノイズが走る。マイクが入った音だ。
いよいよ開始が近づいたと知ると一層会場がどよめく。
「黒鉄一輝といったかの。黒鉄にその名を持つ者はおらんかったと思うが」
「家庭の事情により一族の中で迫害を受けていたそうでしたから、存在を隠していたのかもしれません」
「なるほどのう。『奴』無き黒鉄は見るに耐えん」
それは一輝の身を案じた発言ではなく、かつてのライバルのような惹かれる存在がいないという意味の嘆きだった。
正直なところ寅次郎は黒鉄一輝に期待していなかった。
今回観戦しに来たのは惰性的なもので、黒鉄龍馬の面影を追う儀式のようなものだった。
仮にも幾多とあった選抜戦を無敗で切り抜けた実績があるので、どれくらい刀華に食らいつけるか、くらいにしか見ていなかった。
そこで、実況の紹介と共に青ゲートより一輝が姿を見せる。
半死半生とは思えないほどしっかりした足取りでリングへ上がる一輝に会場が野次を飛ばす。
誰もが遅まきながら登場した渦中の人についてあれこれと喋る中、逆に口を噤んだ者がいた。
「────ほう」
「南郷先生?」
一輝の姿を認めた途端ピタリと会話を止めリングに視線を注いだ。
先程までの好々爺の振る舞いを捨てた寅次郎の姿がそこにあった。
その眼差しの変化に黒乃は気付く。
物見遊山にやってきた老人から幾多の死闘を制した《闘神》へ。
いつの間にか寧音も私語を慎み、口元を扇で隠し平坦な表情で静観していた。
《魔人》という人としての頂点に至った二人。
落第騎士に一体何を見たというのか。
「……奴から何か感じるのですか?」
恐る恐る黒乃が尋ねた。
自分にはわからない。
黒乃の目には普段と同じように見える。
逸らすことすら惜しいと言わんばかりに視線を釘付けにする寅次郎はその姿勢のまま答えた。
「
「心に、ですか」
「異な事よな。彼奴は技より先に心が出来たようじゃ。倒錯した歪な成り立ちだが、なかなかどうして良い心構えをしておる」
少し外れた返答をした寅次郎だが、もともと黒乃の問いに答えていたわけではなく、自分の所感を述べただけだった。
眼中にあるのは
弟子の成長や黒鉄の姓など塵芥に等しくなった。
如何様に化けてくれるのか、ただそれのみに集中している。
「大穴じゃな。どんな男かと思えばとんだ異端児よ。これはもしかすると、もしかするかもしれんぞ」
いよいよ答える気がないとわかった黒乃が寧音に「解説しろ」とせっつく。
「んだよ良いところなのに……」
鬱陶しそうに顔を顰めたもののなげやりな口調で言った。
「心技体のうち一番成熟に時間がかかるのは心だ。こいつは技と体の発展に伴って成長していく部分だが、たまに
さらりと述べられた恐るべき事実。
「ま、待て。それは……!?」
「
「冗談だろ!?」
そんな軽い調子で《魔人》が生まれるはずがない。
そもそもつい一週間前まで『少し変わった学生』にすぎなかった一輝がこの短期間で激変したことが解せない。
しかし寧音は、むしろなぜわからないのか不思議といった様子で黒乃に言った。
「狂うきっかけなんてそこらじゅうに転がってたろ。いつそうなろうが不思議じゃなかった」
「だったらとっくの昔にそうなっていただろう!なぜ今更狂うなんてことになる!?」
「さぁ?そこまでは知らんよ。けど、うちは逆だと思うけどね」
「逆?」
広げていた扇を綺麗に閉じきり、その先を一輝に当てがう。
「
黒乃も一輝に視線を向ける。
一輝は強い精神の持ち主だったが、ときおり道に迷った子供のような気弱さが感じられた少年だった。
だが、今はどうだ。
ネガティブな感情がすっかり消え失せており、瑞々しい活力に漲っていた。
死に体で公開処刑を迎えるはずの少年のはずなのに、この場にいる誰よりも幸せそうに見えた。
その顔を、どこかで見た覚えがあった。
「うちら以外の奴らが気付けねぇのもしゃーない。ありゃ
「……あぁ」
そうだ。
手探りで探し出した魔の扉を前にした時の苦悩を思い出す。
選択を間違ったと思ったことは一度たりともない。
が、その先が気にならないかと言えば嘘になる。
「そっから逃げた先輩として応援の一つでもしてやれよ」
皮肉が効きすぎている嫌味に渋面を隠せない。
寧音は黒乃がやって来るのを信じて疑っていなかった。
こいつとならどこまでも行けると確信していた。
だが、黒乃は止まった。
自分以外の有象無象のために、自らの命と誇りを投げ捨てた。
裏切られた怒りと哀しみは未だに根強く残っている。
無意識のうちに歯を食いしばる。
「……ちくしょう。羨ましいなぁ……」
痛々しく細められた目は一輝に注がれているが、彼だけを見ているわけではなかった。
言葉端が滲んだその呟きは誰に向けられたものなのか、黒乃は容易に察した。
だがその心からの嘆きを敢えて聞かなかったことにして、親友に尋ねた。
「……勝てるのか。黒鉄は」
黒乃の見解では
実力面では一輝にアドバンテージがあるが、騎士としての総合力は圧倒的に刀華が上。
加えて一輝のクロスレンジは伝家の宝刀《雷切》の間合い。これを破るのは至難の業だ。
かといって持久戦を狙えば雷撃による遠距離攻撃が待っている。
ここまで大きな不利を背負っているのにダメ押しと言わんばかりにフィジカル面のハンデが重なっているわけだ。
いくつもの逆境を乗り越えてきた一輝と言えど刀華戦は最も厳しいものになっているだろう。
その考えには寧音は同意見だった。
「最短ルートを走れるっつっても、まだ出だしだ。今の黒坊には荷が勝ちすぎる。勇んで突っ込んだところで真っ二つに斬り捨てられるのがオチさね」
「ならどうすれば……!」
「だからこそジジイもうちも楽しんで見てるっつーわけ。
◇◇◇
外野が登場した二人の姿に盛り上がる。
その渦中、リングの上で刀華と向かい合った一輝が彼女に声をかける。
「東堂さん。僕はあなたに謝らなければなりません」
「私にですか」
「大事な選抜戦をこんな形でやらされることになってしまい申し訳ありませんでした」
普通学園内に報道関係者が入ることは禁止されている。
だがご覧の通り溢れんばかりのマスコミが会場にやって来ている。たかが一学生の選抜戦を晒し上げるためだけに。
なんの関係もない刀華も同様に観衆の目に晒されるハメになっているのだ。
刀華は緩やかに首を振った。
「気にしてません。どうせ試合が始まれば気にすることすら出来なくなりますから」
瀕死の一輝を前にして刀華は油断していなかった。
否。むしろ警戒していた。
理想に憧れたからという理由だけで『例外』に挑み続けていると聞いた時、たしかに直感した。
黒鉄一輝という男はこんなところで終わるタマではないと。
「そして、私も貴方に謝らなくてはなりません」
そう言って刀華は目を伏せた。
「私はずっと貴方が今日この場に来なければいいと思っていました。そう思って妹さんに棄権を促すようにとお願いすらしました。……ですが、そんなに散々偽善者ぶったことをしておきながら、私という騎士は、貴方を前にしてこの戦いが楽しみで仕方がない……!」
口の端を吊り上げて裸眼を見開く。
そこには心優しい生徒会長の姿はどこにもない。
強敵を前にし血沸く凶暴な武人。
敵を思う優しさだけではなく、敵を情け容赦なく血の海に沈める残忍さと凶暴さを兼ね備えた者こそ東堂刀華という女だった。
「失望しましたか?」
「……いいえ、安心しました。東堂さんならそう思ってくれているだろうと思ってましたから。僕を尊敬していると言ってくれたあなたなら。……だからこそ、僕も敬意をもって言わせてもらいます」
人の良い笑みを浮かべながら、一輝は続けた。
「
「────」
「僕が『僕』になるために、あなたという強敵を倒します」
傲岸な宣言。
格下の存在からの宣戦布告に、刀華は──
「受けて立つ!
大気に稲妻が迸り、その稲妻が刀華の手に収束し《鳴神》を形作った。
誰にも破られたことのない切り札。それを乗り越えてみろ。
そう言い返したのだ。
一輝は堪え切れない喜びを顔に浮かべ、《陰鉄》を顕現させ切っ先を突きつけた。
「僕の
頂点を歩み続けてきた少女と底辺から這い上がってきた少年。
七星剣武祭代表枠を賭け、最後の戦いが幕を開けた。
◇◇◇
開幕の合図の瞬間。
一輝は刀華に向かって駆け出した。
その身に一切の魔力を纏わずに。
会場にいる全ての人間が信じられないモノを見たかのようにどよめいた。
当然だ。死に体を走らせたところで隙しか生まない。何の勝機にも繋がりやしない。
ある者は無謀な賭けに出たかと思い、ある者は愚策だと断じた。
だが、その対峙者である刀華だけは違った。
(止められないッッ!!)
何のカラクリも仕組まれていないただの突進を、刀華は我慢して受け止めなくてはならなかった。
なぜなら────
『斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬斬斬斬斬斬斬────』
《閃理眼》が読み取ってしまった。
雷撃を放つためには刀を抜く必要がある。
指揮刀のように標的に向かって振り払わなければ雷撃が飛ばないからだ。
見えないわけじゃない。むしろはっきりと見える。
それくらいの速度で突進してきているのに、刀を抜くという動作の隙に間合いを詰められ斬り捨てられる。
大きく後ろに逃げてアウトレンジを取ろうにも、その踏み込みの隙に斬り捨てられる。
黒鉄一輝という男が『例外』に挑戦しているとわかった瞬間、刀華の頭から搦め手を用いる考えは一瞬で吹き飛んだ。
(《雷切》でしか勝ち目がない!!他は全て死に繋がる!!)
零。
それは武の最果てにある理想論。
いかなる状態からであろうと
あの男はそれを成そうとしている。
技術も遠く及ばず、身体すらままならない状態で、それを成そうとしているのだ。
出来るのか?今この場で。
その疑問を考える必要はない。
出来ようが出来まいが関係はない。
あの男がそうしようというのなら、こちらもそうしなければ絶対に勝てないのだから。
スタンスを大きく広げ《鳴神》を納めた鞘に稲妻を送り込む。
構えるは伝家の宝刀。
放てばただ一人の例外もなく斬って落としてきた不敗の一撃。
まだまだ完成には程遠いけれど、師匠の零に憧れて編み出したモノ。
同じ零を目指す者として、《雷切》で正々堂々と戦う。
一輝が一歩踏み込むまでの時間が途轍もなく長い。
一秒を何十倍にも引き伸ばしたかのような体感時間が刀華を襲う。
永遠にも似た地獄の中、刀華は一切の集中を切らずに待った。
一輝がその足を間合いに踏み込むのを、ただひたすら待った。
間合いより外であっても内であっても負けるゆえに。
ピタリと線が重なった瞬間のみが自分に残された唯一の勝ち筋ゆえに。
そして、靴が地面を踏んだ時。
刀華は一人の男を殺す鋼の稲妻を撃ち放った。
◇◇◇
万全の僕では《雷切》を打ち破れなかっただろう。
殺してしまう覚悟で放たれた《雷切》を見て、改めてそう思った。
しかし、今なら。
体がボロボロの今なら、《雷切》を破れる。
限界に近いからこそ、この上ない最適解を最高の状態で叩き出せる。
万全だと視えない道が、今なら視える。
光り輝くプラズマの刃が制服を焦がしたと同時に全ての魔力を解き放つ。
だが普通に垂れ流すわけではない。
僕の魔力総量をバケツ一杯だとするならば、《一刀修羅》はバケツを一分間一定に傾け続ける技だ。
血の滲むような努力をして一定を保てるようになったわけだが、今回はそれが無用だ。
ただ何も考えずバケツをひっくり返してしまえばいい。
あいにく魔力を吐き出すことは得意だ。なにせ、そうしようと思わなくても勝手に全部吐き出しちゃうほど魔力制御がなってないのだから。
全ては零に注ぎ込むために。
何千何万と強化倍率が上がるのを感じながら、それでも冷静に判断を下す。
届かない。零には遠く及ばない。
これでも無限に広がる小数の海を泳ぎきることはできない。
零の海岸は水平線の向こうにある。
当たり前だ。一生涯分の時間を費やしてようやく泳ぎきれるものをこの一瞬で泳ぎきろうと考える方がおかしい。
魔力のブースト程度で何とかなるものなら誰も苦労はしない。
でも、一生涯の時間に等しいものを僕は持っている。
回り道をしてきたなかでかき集めてきた技術がある。
自分で編み出した技術がある。
習得するまでに費やした執念と経験がある。
四百を超える敗北と進化がある。
それらすべてをかき集めて注ぎ込めば、一回だけ、ギリギリ指が掛かる程度のものになる。
すぐに荒波に飲まれて離れてしまうようなものでも、たった一回だけなら届く。
注ぎ込め。
今まで蓄積してきたすべてを。
僕という人間を構成するすべてのものを。
一体となり、混ざり、互いを爆発的に高め合い、魔力という燃料を得て無限まで飛んでいき、
────そして、零に至る。
そこはあらゆるものが静止した世界だった。
目の前の東堂さんも、刃に走るプラズマも、僕らを見つめる観衆も。
鳥も。人も。空気も。音も。光も。何もかもが石像のように動かない世界だった。
ここが、零の世界。
念願の零の境地を垣間見た僕の胸に飛来したものは、納得だった。
僕はずっと零がゴールだと思っていた。武の結論ゆえに、その先がないのだと思っていた。
だからこそ、言ノ葉さんが零に至ってもなお撃ち続けるのは何故なのかと考えていた。
言ノ葉さんはそこを目指していたのだ。
納得して、少しだけ安心した。
僕の理想とする人はまだまだ先にいるんだと。
持てる限りのすべてを費やしてやって来たというのになお辿り着けない場所に彼女はいる。
なんて。なんて、追いかけがいのある背中なんだろう。
全然手が届きそうにない。自らの限界を使い切ってもその上をいってくれる。
そんな存在が
『こっちに来れるかい?』
どうして君は僕が欲しいと思った言葉を聞かせてくれるのだろう。
彼女からもらったものに相応しいものを僕は返せるだろうか。
いや、返していこう。ちょっとずつでも返していって、そしてそれ以上のものをまたもらって。
そんなやり取りを何万回も繰り返して、いつか返し切れるようにしよう。
「……あぁ。行けるよ。すぐに行くから、先に行っててくれ」
『待ってるよ。黒鉄君』
笑みを残して歩みを再開した彼女が
振り絞ったものが遂に尽きようとしているのだ。元よりこの世界の住民ではない僕が追い出されるのは道理だ。
《雷切》が制服を焼き始め、稲妻が思い出したように走り出した。
時間がない。
挨拶していたら斬られました、なんて笑い話にもならない。
名残惜しいが一旦お別れだ。
視線を切って目の前の東堂さんに向かって大上段に剣を構える。
この世界にやって来れたのは《雷切》という絶対強者を超えようとしたからに他ならない。
すべてを絞り出さざるを得ない強敵だった。
僕の進化を促すための逆境になってくれた東堂さんにあらん限りの感謝を込めて、
「────《第零秘剣・一刀不退》」
直後、弾き出されるように零の世界が遠のいた。
僕は再び海に放り出される。
◇◇◇
キィン、と。
甲高い音が静まり返った会場に響いた。
それは斬り落とされた《鳴神》の切っ先がリングの床を叩いた音だった。
両者完全に振り切った姿勢のままその音を聞き、
「────お見事」
敗北を受け入れた刀華が意識を失うと同時に床に倒れ伏した。
綺麗に真っ二つに斬られた《鳴神》が主人に続き床に転がったのを見て、ようやく一輝は呼吸をした。
瞬間、
「ガッッ!?!?」
酸素を求めていたはずの肺が血を吐き出し、穴という穴から夥しい量の血が噴き出した。
そして全身のいたるところの筋肉と骨が力任せに破壊され壮絶な音を奏でた。
「────ッッ!!」
今まで味わったことのないほどの激痛。
今自分は人間の形を保てているのか心配になるくらい体のあらゆる部位が泣き叫ぶ。
すぐにでも声の限り絶叫してのたうち回りたい衝動に駆られるが、鉄の意志でそれを封じ込めた。
これは無限の海を渡るために払った渡航料。
本来なら許されないルートを強引に押し通った代償なのだ。
その結果を受け入れると決めていたから痛みに叫ぶような真似はしない。
気が遠くなりそうにながらも懸命に意識を留めていると、ふと己の右手から光の粉が舞い落ちているのに気づいた。
腕を持ち上げようとしたら腱が断裂していて言うことを聞かなかったので、仕方なく目で追った。
木っ端微塵に壊れたはずの手がそれでも握りしめていた《陰鉄》の刀身から光の鱗が剥がれ落ちていた。
ポロポロと一枚ずつ剥がれていくそれが刀身の半ばまでくると、耐え切れなくなったように一斉に爆散した。
光の鱗の下から現れたのは真っ黒な地肌だった。
湖に浮かぶ月のような刃紋がなびいて日光を切り裂く。
明らかに今までと違う様相を呈する己の霊装だが、不思議と驚くことはなかった。
霊装とは己の魂の具現。ならば魂が変われば霊装の姿も変わるだろう。
一輝はその変化を当然のこととして受け入れた。
「イッキーーーー!」
まるで窓の外から聞こえる雨音のように遠くに聞こえるが、それでも確かに耳に届いた。
ゲートの向こうから三人の人影が見える。
一人はせっかくの可愛い顔をぐしゃぐしゃにしながら駆け寄ってくる妹。
一人は首から提げた物とは別のメダルを片手に満面の笑みを浮かべるルームメイト。
一人は知っていたとばかりにサムズアップしている親友。
その誰もが誇らしげに一輝を迎えに来ていた。
彼女たちの姿を見て、一輝は
(思いに応えられるのってこんなにも幸せなんだな)
その幸福感に気を緩ませ、意識を落とした。
◇◇◇
《鳴神》の切っ先が宙を舞ったとき。
「やりよったな」
「あぁ。やっちまったな」
魔人二人は雛の産声を静かに見届けた。
「綺麗な心を持っておるわ……。曇り一つない。真に生きるべき道を邁進すると覚悟したのじゃろうなぁ」
あの男に良く似とる、と弛んだ皮膚で細くなった目で一輝を見つめた。
語る言葉は少ない。これ以上何を言っても余分にしかならない。
今胸に燻る興奮をむやみに減らしたくなかった。
切っ先がリングを鳴らしたことにより息を吹き返した会場を見回し立ち上がった。
「さて、良いもんも観れたし帰るとするかのぅ。刀華は相手が悪かったとしか言えんが、この程度でへこむタマでもあるまいて。我が弟子に恥じぬ戦いだったと伝えといてもらえるかな、黒乃君?」
「……あ、はい。そう伝えます」
「なんじゃ。そんなに意外じゃったか?黒鉄のが勝つことが」
呆然としていた黒乃をからかう寅次郎。
その言葉を「恥ずかしながら……」と認めた。
「久しく忘れていました。ああいう戦いをしていた時期が、それを心から楽しんでいた時期が私にもあったのだなと」
封印していた思い出が蘇る。
自分の命すら惜しくないとすべてを賭けて戦ったあの日。
もう二度と戻ってくることのない日々だ。
「……戻ってくる気になったのかよ」
「どうだろうな……。今は無理だが、遠い先でなら────」
直後、一輝の勝ちを理解した観客たちが一斉に湧き上がった。
完璧に塗り潰された黒乃の言葉だったが、
「……そーかよ」
そっけなく答え、パッと扇を開いて顔半分を隠した。
寧音は聞き返すことはしなかった。
だが、その横で、
「ば、馬鹿なぁぁあ!こんな馬鹿げた話があるかァ!!アイツは半分死んでたんだぞ!!それなのに、こんなの、何かの間違いに決まってる!ああそうだ、間違いだ!手違いだ!こんな結果認めてたまるかァぁぁ!!」
赤座だけは目の前で起こった事態を受け止められず、悲鳴を上げながら駆け出す。
どてどてと走っていく丸い背中を見送った寧音は鼻で笑った。
「あーあ。挽肉になりに行きやがった。養豚場から出荷される豚を眺める気持ちってこんなんだったんだなぁ」
「何というか、憐れだな。あの先に何があるか何も知らずに走っていく様は」
赤座の姿が見えなくなってその数秒後、黒乃の電話に着信が入った。
ディスプレイに表示された名前を寧音に見せ二人は肩を竦めあった。
「私だ。……了解した。壁を破らん限りその部屋でいくら過ごそうがこちらの世界の一秒にも満たないことになる。好きにやれ」
部屋を閉めるぞ、と伝えた直後に電話が途切れた。
こちらの世界から隔離された空間には電波が届かない。
しっかりと密閉した証拠だった。
「くーちゃんもエゲツないもん用意したねぇ」
「ふん。これでも足りないくらいだ。直接私の手を下してやりたい所だが、そこはあいつに任せるとしよう」
それっきり二人は赤座の姿をすぐに忘れた。
数秒後には見るも無惨な姿に変わり果てているであろうから。