「とおさかー。とおさかー」
リビングから士郎の声が聞こえる。
私は「なぁに?」と声を出そうとして───止めた。
何も無かったかのように、読みかけの雑誌に視線を戻した。
「とおさかー? 入るぞー」
ガチャリ、と寝室のドアが開く。
「とおさかー……いるなら返事してくれよ」
士郎は不満げに息を吐く。
「士郎……貴方」
一切の喜怒哀楽を表情から消し、淡々と私は呟く。
「この部屋に遠坂姓は2人いるんだから、ちゃんと判る様に呼んでよね? ね───遠坂士郎くん」
「う……」
目に見えて士郎が狼狽する。
対して、私は我ながら意地の悪るそうな笑みを浮かべる。
「凛───」
「なあに、士郎」
「晩飯、できたぞ」
士郎は顔を真っ赤にしながら、ぶっきらぼうにそれだけ告げて、パタパタとリビングへと戻っていった。
2人での夕食。
今までも同棲してた訳だし、何が変わったという事もない。
けど。
私の心に広がるコレは何なのか、まだ良く判っていない。
良く判らないモノを心地よく楽しんでいる、と言った方が正確かもしれない。
「凛───本当に良かったのか?」
士郎が聞いてきた。
私は一度箸を置き、丁寧に答える。
「ええ。私も士郎も天涯孤独の身───まぁ私には桜が、士郎に藤村先生がいるけど───そんなに大々的に式を挙げる事もないかなーって。時計塔の連中は基本的にライバルだし、将来的には敵だしね───」
私はそこまで言ってから、箸を持ち、
「けど───今日はいつもより献立が豪華ね。士郎のそういう所、好きよ?」
いつもより3段階は豪華な夕食をツンツンしつつ、ウィンクしながらそう言った。
士郎は顔を赤くして黙ってしまう。
「けど、お世話になってる人には、挨拶はしなくちゃね……明日、一緒に行きましょう?」
「ああ……そうだな」
士郎は、ふ、っと息を吐き、普段の表情に戻る。
「シエロー!? 何てことでしょう!! あぁこの女狐に何を誑かされたのですか? 私でよければ除霊して差し上げますわシエロー!」
「ルヴィアさん……いえ、誑かされただなんて……なぁ、凛?」
俺は思わず頬を掻きながら、凛に助け舟を求めた。
しかし、
「凛ですって!? シエロ! どうしてこんな女を親しげに呼ぶのです!? うぅぅ」
完全に激昂してて、聞く耳を持ってくれない。
すると、
凛が俺の左腕を掴み、ルヴィアさんの眼前に突き出す。
俺達の薬指には、当然ながら───
「──────ッ!!」
ソレを見たルヴィアさんは、フラフラと倒れ込んでしまった。
「じゃ、そーゆー事だから、大家様。なるべく、夜は静かにするようにするけど、騒がしかったら御免あそばせ」
凛はそれだけを一方的に告げて、俺の腕を引っ張りルヴィアさんの応接間から出ていった。
「ほう……結婚か」
「ええ、そうよ。悪い?」
凛は嫌そうに眼前の師に向かって悪態を吐く。
「いや……好きにするといい。それで───まだ暫くは
「そのつもりよ。それから先は士郎と決めるわ」
ニコニコ顔の凛と、いつも通り不機嫌そうなロード。
ロードが俺の方を見る。
「……君は……」
「俺ですか? えみ……遠坂士郎です」
「ミスター・トオサカ───君とは以前、話した事があったな」
「ええ。推薦を断った日の事ですね」
たしか1年程前だ。
俺はともかく、時計塔で最優と呼ばれているロードが俺との会話を憶えていた事に少しばかり驚いた。
「ミスター・トオサカ。あの時口にした言葉は───」
それは。
あの時、思わず口にした、呪われた理想、救われない希望の事。
「ええ。俺にはもう届かない理想なのかもしれませんけど───けど、それに負けない程大切なヒトを得たんです。それは───」
俺の新たな希望なのだと。
「構わんよ」
訥々と何とか自分の言葉を紡いでいたけど、一言で切って捨てられた。
「人とは、移ろいゆくものだ。必然的に人が抱く理想、希望、願望───それらも刻と共に移ろいゆく。故に───」
「人を、抱く理想の貴賤で評価する事は、意味を為さない」
「…………」
ロードが何を言いたいのか掴みかねていると、
「君が時計塔への在籍を望むなら、私の下へ来い」
俺に向かってそう告げると、くるりと背を向けて歩き出した。
「え……?!」
俺は絶句する。
「ちょっとアンタ! どーゆーつもりよ!?」
凛も意図が掴めないのか、自分の師をアンタ呼ばわりして問い質す。
「勘違いするな」
あくまで淡々とした口調。
「貴様の妻は時計塔に残るのだろう? 貴様が居ればミセス・トオサカも少しは大人しくなるだろう……日本では『猫の首に鈴とつける』と言うのだったか」
「失礼ね! それと諺の意味、違うから」
「知っている。私なりのジョークだよ、ミセス・トオサカ。だが貴女が大人しくなるなら、安い買い物だ」
「ぐぬぬ……」
凛はそこまで貶される理由に覚えがあるのだろう、敵意剥き出しな唸り声を上げている。
「すみません、凛と少し相談してからで構いませんか?」
俺はそんな中途半端な答えを返す。
「士郎!?」
凛が声を上げる。
「構わんよ。その時は私の研究室に来たまえ」
そう言って、時計塔屈指の講師は去っていった。
「で、どうするの? 昼間の話」
自宅に戻ってきて、開口一番、私は最も気になっていた件を問う。
「うーん。そうだなぁ……」
士郎はしばし逡巡した後。
「俺だけじゃなく、凛もあの人に借りを作っちゃう事になるけど……凛がまだ数年
「そうじゃなくて!」
私は思わず声を荒げる。
「士郎がどうしたいかって聞いてるの」
それは即答だった。
「凛の隣が、俺の席だから」
何の迷いもない、真剣な眼差し。
「…………ッ!!」
思わず声が止まる。
「正義の味方に───アイツを超えるどころか、背中にも追いつけないだろうけど───それでも───」
私はそう告げた士郎の顔を見て、冷水をぶっかけられた気がした。
「いい。もう判った」
けど。
うまく言葉が出てこない。
恐ろしくぶっきらぼうな言葉がやっと出ただけ。
けど、
士郎には私の気持ちは伝わったようだ。
「……うん」
満面の笑みで頷く士郎。
「とりあえず夕食を作るわ。今日は私が腕を振るうから、士郎はゆっくりTVでも見てて───」
そう言ってキッチンに向かう私。
「ああ、ありがとう」
そうして。
俺達はいつもどおりの夜を過ごし───
明日、新たな一歩を踏み出す事にしたのだった。