それは、輝きを求める物語   作:豚汁

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2話 勇者と海の音

 

 

 俺はふと気が付けは、布団の中で眠りについていた。

 

 目を開いて布団から身体を起こすと、今の状況を思考できるぐらいには段々と意識が覚醒してきたのを感じるが、一体何時から眠っていたのかと思い出そうとするも、起きかけのボーっとした頭が考えるモヤのかかった思考では、自分の昨日の行動をよく思い出すことが出来なかった。

 

 しかしそんな状態でも、何故かさっきまで見ていた夢の内容だけは鮮明に思い出せた。

 

 それは、お父さんの運転する車にお母さんと一緒に乗って、遠い海にまで家族みんなで遊びに行くという夢で、人からすれば何の変哲もない普通の夢かもしれない。

 

 けれどもその夢は、俺にとって何よりも温かいもので……同時に、悲しくて胸が張り裂けそうになるものだった。

 

 

 ――今日は、起きたくないな。

 

 

 そう思い俺は、寒い外気から身を護るように深く布団を被り直す。

 そして俺はそのまま、さっき夢の続きが見たくて再度眠り直す事を決意した。

 

 

 しかしそんな俺の二度寝は、威勢の良いしわがれた声で阻止される。

 

 

 

『ほら、もう朝だよいつまで寝てるんだい! 起きな恋虎(れんが)!』

 

 

 

 その声に俺は目を開けて、自分を起こしに来た人物の顔を見た。

 するとそこには、齢七十代の白髪でありながら、そのしわが無数に刻まれた表情に若々しい活力を感じさせる老婆が居た。

 

 

 ――ああ、俺、まだ夢の中にいるんだな。

 

 

 その人――おばあちゃんの顔を見た瞬間俺は、自分がまだ夢の中にいる事を理解した。

 

 俺は眠い目をこすりながら布団から起き上がると、自分の手足が異様に短くなっている事に気付く。

 

 どうやら俺は今、自分が小学生だった頃の記憶を夢に見ているらしい。

 もしかして、これが明晰夢(めいせきむ)ってやつなのだろうか……? 話には聞いた事あるけど、ここまでハッキリ見えるなんて初めて知った。

 

 そんな事を考えていると、俺の顔を見たおばあちゃんは言った。

 

 

恋虎(れんが)……またお父さんとお母さんの夢をを見たのかい? あーあ、そんなに泣いてまぁ……コイツを使いな』

 

 

 おばあちゃんはそう言うと、俺に向かってティッシュの箱を放る。俺はそれを受け取って初めて、俺は自分の頬を伝う涙に気が付いた。急いでティッシュを二、三枚取ってごしごしとふき取る。

 

 

『――よし、男前になったね。いいかい恋虎、男が過ぎた過去を振り返ってメソメソ泣いてちゃいけないよ……あの親不孝者のアタシの馬鹿息子とその嫁もきっと、忘れ形見のアンタにそれを望むだろうさ』

 

 

 おばあちゃんはそう言って、年を全く感じさせない晴れやかな笑顔で俺の頭をワシワシと撫でる。年を取って肉付きが薄くなった骨ばかりの手だったけど、それでも俺はその手に、あったかい温もりを感じた。

 そして、しばらくの間撫でられるがままにされていると、俺が落ち着いたと感じたおばあちゃんは言った。

 

 

『さぁ、元気になったならサッサと行くよ恋虎!』

 

 

 ――どこに? と俺が問うと、お祖母ちゃんはニヤッと笑った。

 

 

『――海に、だよ! ほら、分かったなら四十秒で支度しな!』

 

 

 そう言ってさっさと身支度を始めるおばあちゃんに、俺が四十秒以内で出来たことは、テーブルの上の食パンを牛乳で胃に流し込んで朝ご飯を終え、洗面台で顔をサッと洗った事ぐらいだった。

 

 

 そしてその一時間後俺は、おばあちゃんが運転する大型バイクに乗り、東京の早朝の首都高で風になっていた。

 

 

『ヒャッホォォォ! やっぱりこの時間帯の首都高をバイクでかっ飛ばすのはたまらんわ! 気分が若返るようだよ! どうだい恋虎、今の気分は!? 最高じゃろ!?』

 

 

 大型バイクを高速でかっ飛ばしながら、イキイキとして後ろの俺にそう聞いてくるおばあちゃんに、俺はその腰に強くしがみつくことで応じた。

 

 ――そういえばそうだった、おばあちゃんは年に似合わずおっきなバイクを乗り回すのが大好きな人だった。一緒に暮らしてた頃は、よくこうして色んな所に連れて行ってもらったっけ。

 おばあちゃんの腰にしがみつきながら、俺はそんな事を思い出していた。

 

 

『おやおやなんだい? この程度でビビっちまったのかい? 男がなさけないねぇ、ほらほら、まだまだ年寄りの趣味に付き合って貰うよ――かっ飛ばすぜベイべーーー!!』

 

 

 そう叫んでさらにスピードを上げたおばあちゃんの運転に、俺は悲鳴を上げながら必死でしがみつく。

 

 そうしてその後、地獄のような二時間を過ごし、やっとおばあちゃんは高速を降りてくれた。

 高速を降りた後もしばらくおばあちゃんはバイクを走らせ、そして目的の場所に着いたのか、おばあちゃんはそこでバイクを止めた。

 

 

『ほら、ついたよ恋虎。見てごらん!』

 

 

 そう促されて俺が見ると、目の前一面に透き通るような白さの砂浜と広がっていて、そしてその砂浜と対極のような色合いを持つ、(あお)く澄んだ海が水平線の彼方にまで続いていた。その海の水面には太陽の朝日がキラキラと反射していて、まるで万華鏡を覗いているような感覚を覚える。

 ここが夢の中であると分かっていても尚、素晴らしいと感じてしまうその光景に、俺はいつの間にか心を奪われてしまっていた。

 

 

 ――思い出した。確か小学五年生の頃、こうしてここに連れて来てくれた事あったっけ。そうか、今見てるのはその日の夢か……ってか、よく覚えてたな俺……懐かしい……。

 

 

『どうだい、綺麗だろ? 恋虎に一度この海を見せてやりたかった。

 ここは、静岡県の内浦という所の海でな、アタシは昔ここで爺さんにプロポーズされたんだよ……ああ……あの時の爺さんは本当にカッコよかったわぁ……』

 

 

 そう言っておばあちゃんは俺の記憶にある通りのセリフを言い、内浦の海の遥か彼方の水平線を眺めながら、幸せそうな笑顔で昔の事を語ってくれた。きっとおばあちゃんにとってその記憶は、何よりも大切ものなのだろう。

 

 俺がそう思っていると、不意におばあちゃんが真面目な顔になって言った。

 

 

『――なぁ恋虎や、聞いてくれんかい?』

 

 

 その問いに小学生の俺は素直に頷いていた。当時の俺は随分おばあちゃんっ子で、おばあちゃんの話になんでも興味があったから、今度は何を教えてくれるんだろうかとわくわくしてたんだ。

 それを見て、おばあちゃんは話し始める。

 

 

『恋虎は……人が、なんで恋をするのか知ってるかい?』

 

 

 俺は首を横に振る。

 そんな俺に、おばあちゃんは水平線の向こうを指差しながら言った。

 

 

『それはね……人はみんな、アレを求めてるからなんだよ』

 

 

 おばあちゃんの指先を見つめると、そこには朝の街を照らす輝く太陽がそこにあった。

 

 

『――そう、お日様だよ。お日様はすごいよ……眩しくてあったかくて、思わず手を伸ばさずにはいられなくなる……そんな存在さ。本当の恋をすると、まるで人は心に太陽を貰ったような気持ちになって、生きる気力が湧いてくるんだ。

 アタシはそれがあったから、日本がアメさん相手に戦争しとった時に、配給が足りんで飢えて死にそうになっても、草むらで跳ね回るイナゴを貪って意地でも生きてやろうって思えたんだ……だから、恋は素晴らしいものなんだよ』

 

 

 そう言って朝日を見つめながら昔の自分を語るおばあちゃんの顔は、朝日に照らされてキラキラと輝いて見えた。

 

 ああそうだ思い出した――小学生だったその時の俺は、そんなおばあちゃんがとっても眩しくてカッコいい存在に見えたんだっけ。

 

 そしておばあちゃんは、そんな俺の視線に気づいたのか気付いていないのかこちらに振り向き、俺の目をしっかりと見据えながら言った。

 

 

『だから恋虎、お前さんがいつか運命の人を見つけて、本当の恋をした時は……その時はその子を全身全霊で愛し抜きな。

 ――お前さんだけの輝きを見つけたら、それを決して離さないようにするんだよ……分かったね? おばあちゃんとの約束だよ』

 

 

 だから当時の俺は、自分もおばあちゃんみたいになりたいと思って、真剣な眼差しで俺を見つめるおばあちゃんのその約束に応じるように、強く頷いてこう言ったのだ――

 

 

 

『うん! おれ、ぜったい、うんめいのひとを見つけて、本当のコイをする! そして、おばあちゃんみたいにキラキラした人になるんだ!』

 

 

 

 無邪気に笑ってそう答える俺を見て、おばあちゃんは満足そうに笑う。

 

 

 

 ――そして、その笑顔を最後に、俺の夢は途切れたのだった。

 

 

 

 

 

 そうか……そうだった。思ってみればこの日からだったかもしれない。

 

 ――俺が“運命の人”を求めて、恋をするようになったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

■ ■ ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピンポーン! ピンポピンポーン!

 

 

 

 

 

 家のチャイムが連続で鳴る音で俺は目を覚ます。

 

 うるさいなぁ……こんな朝に俺の家にまで来るなんて一体誰だ? 折角さっきまで懐かしい夢が見れてたのに……。

 

 と、チャイムの主にそんな感想を抱いていると、チャイム音と共に外から声が聞こえて来た。

 

 

 

「レン君ー! 何時まで寝てるのー? もう起きないと学校遅刻しちゃうよー!」

 

 

 

 その声の主は、どうやら寝坊したらしい俺を起こしに来てくれた梨子(りこ)だった。

 そうだった。こんな朝に俺の遅刻を心配して家にまで来るようなお節介焼きは、梨子以外にいる訳が無い。

 

 とにかく、わざわざ起こしに来てくれた幼馴染の好意を無駄にする訳にはいかない。

俺は急いでベットから起き上がって自室の窓を開け、外に居る梨子に言った。

 

 

「ごめん梨子、今起きた! 四十秒で支度するからちょっと待っててー!」

 

「もう、やっぱり寝てたの? なんで四十秒なのか知らないけど、とにかく早く出てきてねー?」

 

 

 梨子に急かされるようにそう言われ、俺は急いで制服に着替えて机の上にあるカバンを掴み、キッチンから食パンを一枚とって家の廊下を駆け足で玄関に向かう。

 

 

――おっと危ない、朝の挨拶を忘れる所だった。

 

 

 自分で宣言した約束の四十秒は過ぎてしまうが、俺は玄関に向かう足の向きを変え和室に入る。

 

 

 

そして俺は、部屋の隅にある仏壇の前に正座し、(りん)を鳴らして手を合わせた。

 

 

 

 仏壇に飾られた写真立ての中に、さっきの夢でみたのと同じ笑顔を見つけ、俺はそれに笑いかけながら今日もいつも通り宣言する。

 

 

 

「おはよう、おばあちゃん、父さん、母さん! 俺――赤井橋(あかいばし)恋虎(れんが)は、今日も一日、恋のために生きる事を誓います!」

 

 

 

 

 

 ――こうして、俺の一日はまた始まった。

 

 

 

 

 

 

 

■ ■ ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 学校の終業のチャイムが鳴り、放課後の時間になった。

 

 今日も俺はいつも通り―――

 

 

 

「毎日動物のお世話をしている君の心優しさにやられてしまいました! だからどうか、俺と付き合ってください!」

 

 

 

 ウサギ小屋の前で俺は、新しく出会ってしまった“運命の女の子”に、一世一代の告白をしていた。

 

 ちなみに今回の俺の運命の女性は、眼鏡をかけた後輩の女の子で、飼育委員の仕事で毎日ウサギ小屋で餌をやっていたり掃除したりしている、優しいおっとりとした感じの子だ。

 

 下校途中で小屋の前を通りがかった時に見た、餌を与えながらウサギを愛でるその、慈しむような優しい瞳に俺はフォーリンラブイット。想いを三日間募らせ、こうして今告白するに至っている。

 

 そして俺がドキドキしながら相手の子の反応を窺っていると、その子は言った。

 

 

「ごめんなさい……私、気持ちは嬉しいんですけど、その……なんていうか……先輩の事、よく知りませんから……」

 

 

 やっばーい、もう速攻でお断りの雰囲気出てるぅ……。

 だ、だがしかし! 今回はここで終わる俺じゃないのさ!

 そう思って俺は、この日の為に三日もかけて用意したものをカバンから取り出そうと探りながら、その子に言った。

 

 

「待ってくれ! 俺、君に少しでも俺の想いが届いたらって思って、ラブレター書いてきたんだ! せめて……それを読んでからでも考えてくれないか?」

 

「えっ……? 私に、ラブレターですか? ……じ、じゃあ、読むだけなら……」

 

 

 そう言ってその子は、ほんの僅かにだが期待するような表情でこちらに手を差し出した。

 

 ――よっし、思ったより好感触! やっぱり、手書きのラブレターを貰ったら女の子は嬉しいんだって聞いた噂は本当だったんだな! 一生懸命書いて良かったぁ! これで……ついに俺にも念願の彼女が……!

 

 そう思いながら鞄の中から白い便箋を取りだし、俺はその子にそれを手渡した。

 女の子は自分の手の上にある“それ”を見て、訝しげな表情で首を傾げながら言う。

 

 

「あの……すいません先輩、“コレ”って……一体何ですか?」

 

「え? さっき俺ラブレターって言ったじゃん、それがそうだよ!」

 

「え……あ、あの……それは分かってるんですけど……な、なんですかこの、()()は?」

 

 

 そう言って彼女は手に持ったその封筒の、辞書ほどの厚さをアピールするように指でつまんで俺に差しだしてきた。俺は胸を張って答える。

 

 

「ああ……俺のこの胸に溢れる情熱は、とてもラブレターの用紙一枚程度には収められる気がしなくてな……だからその中にA4サイズの用紙、()()()()()()()()()()()()()()()()()()! ……どう? これで、俺の君への熱い気持ち伝わってくれたかな!?」

 

 

 俺がワクワクしながらそう聞くと、女の子は口をワナワナさせながら言った。

 

 

「ウェェェ……気持ち悪いよぉぉぉぉぉ………!」

 

「――――なんだってぇ!?」

 

「ひっ……!」

 

 

 俺は、あんなに優しかったはずの彼女の口から出たその言葉が信じられなくて詰め寄ると、その子は物凄い速さで後ずさった。

 信じられない思いで俺がもう一歩距離を詰めると、彼女はジワッとその両目を涙で潤ませた。

 

 

「嫌ぁっ! こっち来ないでぇぇぇーーー!!!」

 

「ま、待ってくれーーー!!!」

 

 

 そしてそのまま、逃げる彼女と追う俺の、熾烈な追いかけっこが始まった。

 校舎周りをグルグルと何周も走り回り、校舎の中庭を突っ切るという縦横無尽なコースをその子と俺は駆ける。

 ……というか、君そんなに体力あったんだね、知らなかったよ。もしかして火事場の馬鹿力ってやつかな? そんな火事場発揮するほど俺って怖いのかな? 俺、泣いていいかな?

 

 俺が女の子を追いながら涙で潤む瞳を袖で拭った頃、ようやく追いかけっこの決着がついた。

 逃げた彼女の向かった先は学校の焼却炉だったのだ。そこには丁度燃えるゴミを処理していたのか、用務員のおばちゃんが居た。

 

 

「用務員さーーん!! コレお願いしますぅぅぅ!!!」

 

 

 俺の制止を振り切り彼女は、その華奢な体型からは想像できない程の綺麗なフォームで、おばちゃんに向かって俺のラブレターを投擲した。

 俺のラブレターは綺麗な放物線を描いておばちゃんの元にまで飛んでいく。

 

 

「――あいよ! 任せときなぁ!」

 

 

 そして、おばちゃんは意気揚々それをキャッチし、焼却炉の中に勢いよくダストシュート。俺の想いは、燃えるハートのようにメラメラと燃え盛ってあっという間に真っ黒コゲになってしまった。

 

 

「おっ……俺のラブレターがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」

 

 

 そして、その場から悲鳴を上げて逃げ去る彼女を尻目に、俺は焼却炉の前で叫ぶ。

 

 

 

 

 ――こうして、俺の通算58人目の“運命の人”への告白は、またも失敗に終わってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

■ ■ ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

「おおゆうしゃよ、ふられてしまうとはなにごとだ」

 

「……前回とパターン変えてきたね……なんで俺が、またフラれたってわかるんだよ……梨子(りこ)?」

 

 

 

 俺が、またもや運命の人にフラれてしまったその翌日の土曜日。

 

 前に行くと約束した通り俺は、梨子と共にピアノコンクールがある会場に電車で向かっていた。

 普段なら梨子はこういったコンクールの時は会場まで親の車で送ってもらうのだが、今日は二人共他に用事があるらしく、俺がおじさんとおばさんの代わりに梨子を送る役目を頼まれたというわけなのだ。

 

 そして俺は、電車の座席で隣に座っている梨子に、またもや教会で迎えられるような台詞を言われてしまった――という次第である。

 

 尋ねる俺に、梨子は呆れながら言う。

 

 

「もう……だってレン君、朝からずっと世界の終わりって言わんばかりの顔してたもん。誰だって分かるよ。そんな顔されちゃったら、演奏前なのに気分が滅入(めい)っちゃうからやめて」

 

「でも……だってさ梨子……せっかく三日もかけてラブレター書いたのに、焼却炉に放り込まれたんだぜ? なにも燃やさなくても……」

 

「――ところで、そのラブレターの枚数は?」

 

「そりゃあ勿論、バッチリ気持ちを込めて百枚書いたさ!」

 

「…………それはフラれて当然だって私は思うけど」

 

「な、なんでだよ梨子! 気持ちは沢山籠ってた方が良いに決まってるだろ!?」

 

 

 そう言って俺は、自分の書いたラブレターの正当性を主張した。

 そんな俺に、梨子は怒ったように言う。

 

 

「込めすぎ! レン君絶対その子にストーカーか何かかって勘違いされたよ? 確かに気持ちが籠ってるのは嬉しいけど、多すぎると逆に怖くなっちゃうものなの!」

 

 

 そんな梨子の説教に、俺はハッとなった。

 

 

「そうか……卵焼きの砂糖だって入れ過ぎればマズくなるのと同じって訳か……くっ、今回は失敗して当然だったんだな……」

 

「そうそう、気持ちを伝えたいなら量より質が大事なんだよ? そんな大量のラブレターもらっても、普通の女の子は喜ぶより怖くなっちゃうんだから――」

 

 

 俺は梨子の意見に納得し、悔しさで唇を噛む。

 くそっ……今回フラれたのはそれが理由か……なら仕方ない! 理解したなら次に生かせばいいだけの話だ。だったらこれ以上クヨクヨするな! 前向きさだけが取り柄なんだろ俺! この失敗をバネにして、次こそは運命の人を彼女にしてみせる!

 

 ――と、俺がそんな意気込みを新たにしていた時だった。

 

 

 

「レン君からそんなの貰って喜ぶのは……私ぐらいだよ」

 

 

 

 俺の隣で呟くように梨子が何かを言った気がしたが、小声過ぎてよく聞き取る事が出来なった。

 

 

「あの……何か言ったか梨子?」

 

「う、ううん、何でもない! それより、そのラブレター随分熱心に書いたみたいだけど……書いてる間レン君はちゃんと勉強してたの?」

 

 

 すると、慌てて誤魔化すように梨子がそう言った。

 俺はちょっと梨子の態度を不思議に思ったけど、気の所為だと思い直して今回のラブレターに懸けていた情熱を語ってやる事にした。

 

 

「当然、やってない! 学校の授業中も構わず書いて、寝る間も惜しんで書いてたからな! おかげでここ最近はずっと寝不足なんだぜ!

 フラれて家に帰った日に夕方から今日の朝まで寝込んでたから、それが唯一ロクに寝た記憶だな」

 

「はぁ……やっぱり……もう、レン君は受験生の自覚足りてないよ? そんなので本当にあの音ノ木坂に受かるつもり? あそこ、今年けっこう入試倍率高いみたいだけど大丈夫?」

 

 

 梨子は心配そうにそう言って、とある高校の名前を出す。

 

 “音ノ木坂”というのは『国立音ノ木坂学院』という名前の高校であり、結構最近まで女子高だった過去を持つ、共学の公立高校だ。

 

 その高校は昔、入学者数が少なく廃校の危機と言われた過去を持つものの、当時の理事長が“女子校”から“共学校”にと経営方針をガラリと変えるという、博打に近い勇敢な改革を行ったり、そして名前こそ聞いた事はないが、“伝説”とまで称されるようになった学校のアイドル――『スクールアイドル』の活躍のお陰で、学校の名前が有名になり、なんとか入学者数を持ち直し廃校を脱したという、なかなか波乱万丈な歴史を持つ高校だ。

 そして今現在は入学者数も毎年安定して増加の一途を辿っていて、都内でそこそこ人気のある高校だと言える。

 

――そう、まさに俺と梨子はその高校、音ノ木坂学院を第一志望にしているのだ。

 

 

「大丈夫大丈夫、梨子は心配性だな。ほら、俺はやれば出来る子だから! それに今日来れたのだって、あの小テスト合格したからだろ? こう見えてテスト前は梨子のノート見て頑張って勉強したんだぜ俺!」

 

「そうだよね、レン君はやれば勉強できるんだよね……あーあ、レン君はその集中力のままでずっと勉強出来たらいいのに……」

 

 

 梨子はそう言うと、まだ心配なのか呆れたようにため息をついた。

 むむ、梨子め、せっかく俺が小テストの結果を例にしたのにまだ危ないと思ってるな。わかったよ、だったらもっと説得力のある事言ってやる……。

 そう思って、俺は口を開いた。

 

 

「なぁ……梨子……俺が、女の子いっぱいの高校生活を目の前にして、みすみすそれを逃がすような男に見えるか?」

 

「うーん……そう言われちゃうと説得力が増すのがレン君だから困るよね……」

 

 

 どうやら今度は一瞬で納得してくれたらしい。

 あれ? なんだこれ……いくら普段の行動がアレだからとはいえ、そこまですんなり納得されるとちょっと悲しいものがあるぞ。俺って、そんなに梨子から軽い男だと思われてた? ――いや、思われてそうだな、うん。

 

 

 まぁ……とはいえ、梨子がそう納得してしまうのも分からない話じゃない。

 

 なぜなら音ノ木坂学院はさっき言った通り、共学化してから暫く経つとはいえ、女子高だった過去を持つので、今だ生徒の男女比は3対7ぐらいと、まだまだ女の子の方が多い状況にあるのは事実だ。

 だからこそ、“運命の人”を求めて恋をし続けている俺にとっては、まさにうってつけの高校だと言える。

 

 ちなみに噂では、これでも男女比はマシになった方だと言われており、過去に音ノ木坂が共学化を始めるにあたって、設備や教育制度などの問題を調べる為に募集した『共学化試験生』という制度で入学した男子の数は……なんと、一人だけだったらしい。

 それを聞いて俺は、なんだよそのラノベ的展開は羨ましい――と思ったのと同時に、ソイツの真似は出来ないなと、その入学した男子に畏怖の感情を覚えた。

 

 流石に、どんだけ女好きでも女子高に男一人は心細すぎるだろ、その入学した奴はよくやったよな……ひょっとして、俺なんかよりもよっぽど勇者なんじゃねソイツ?

 

 ――と、まぁ、音ノ木坂の男女比率に対する話はここまでにするとしよう。

 過程はどうあれ、大事なのは俺が、その女の子でいっぱいの高校生活を目指しているということである。そしてそんな不純な入学動機は、梨子にしてみればお見通しなんだろう。

 

 

 でも本当は……俺は、そんな理由だけで音ノ木坂を目指している訳じゃないんだ。

 

 

 俺は出来る限り真剣な表情を作り、梨子の瞳を真っ直ぐ見つめながら、()()()()()音ノ木坂に通いたい理由を言った。

 

 

 

「それに俺……梨子と、一緒の高校に行きたいんだ」

 

 

 

 ――そう、女の子との出会いを目指すのもあるが、俺が音ノ木坂に行きたい一番の理由はそれだった。

 

 音ノ木坂学院は音楽に力を入れている高校で、梨子は親の薦めもあり、その学校にピアノの一芸入試で合格を狙っている。

 だからそれを聞いて俺は、音ノ木坂学院を第一志望にしたのだ。

 だって、俺は梨子と小学生の頃から今までずっと一緒に居たんだ。高校に行ったら離れ離れになんて……そんなの、考えただけで寂しすぎて死んでしまいそうだったからだ。

 

 すると、俺のそんな想いの籠った言葉を聞いた梨子は、しばらくぼーっとした表情で俺の顔を見つめた後、急いで目線をそらして下を向き、頬を真っ赤に染めながら言った。

 

 

「……うん。私も……高校でもレン君と一緒に居たい」

 

 

 どうやら、梨子も俺と想いは同じようだった。

 梨子は暫く下を向いていた後、ガバッと顔を上げて言う。

 

 

「だっ……だから、私はレン君にはしっかり勉強してほしいの! ……わかった!?」

 

「うん、わかった。梨子にそこまで言われたからには、しっかり勉強頑張るよ」

 

「……本当に分かってるの?」

 

「大丈夫大丈夫、心配しなくても絶対合格してやるからさ!」

 

「……うん、だったら私、レン君の事信じてるからね」

 

「おう! 任せとけ!」

 

 

 念を押す梨子に、俺は自信満々にそう答えてやる。

 やれやれ……いつも家に帰ったら告白のイメージトレーニングのために純愛映画見てたけど、これからは真面目に勉強するのも悪くないかな。

 

 

 ――と、梨子と話しながらそんな事を考えていると、ようやく目的の駅に着き、俺と梨子は電車から降りた。

 そして駅から会場ホールまで歩いて到着し、そこで梨子とは手続きや衣装替えをしに行くため一旦俺と別れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

 俺が会場ホールの観客席に着いてしばらくして、ピアノのコンクールが始まった。

 

 事前にコンクールの宣伝がされていたのか、ホール内の観客席はほぼ全てが埋まってしまっていて、それだけ注目されている大規模なコンクールなのだという事が、ピアノの世界をロクに知らない俺でも簡単に察する事が出来る。

 

 そして舞台に出て来た司会進行の挨拶の後、早速番号と共に演奏者の名前が呼ばれると壇上に真っ黒な燕尾服姿の男性が現れ、そしてピアノの演奏が始まった。

 

 その人が奏でるピアノの音色は、流石この大会の出場可能基準に選ばれただけあって綺麗で繊細であり、それでいて尚且つ力強い重厚感のある演奏をしていて、それだけで素人目であっても高いレベルに居る奏者であることを簡単に想像させた。

 

 そしてさらに、さっきの人が特別なのかと思えばそうでなく、その男の人が演奏が終わってって次に現れた女の人も、その次の人もほぼ同じレベルの高さの演奏を難なくこなし、俺はこのコンクールのレベルの高さを否応なしに実感させられた。

 

 なんて凄いんだ、こんなコンクールに出場できるなんて、梨子お前やっぱスゲェよ……お前ならいつか絶対プロのピアニストになれるよ。

 

 しかし、そう思うと同時に、俺にはある一つの不安を覚えた。

 

 

 ――こんなハイレベルな大会で、梨子は本当に大丈夫なのだろうか?

 

 

 今、発表順番を待ちながら梨子はこのレベルの高い演奏を聴いているはずだ。梨子はプレッシャーに強い性格はしてない、その所為で、必要以上に緊張してしまったりしてないだろうか?

 

 勿論、梨子の実力を疑ってる訳じゃない。でも昔、おばあちゃんが言っていたんだ。人は緊張したら思うように身体が動かなくなってしまうものだって……だから、本番で小さなミスをしてまったり……最悪、この会場の空気に飲まれて……なんてこともあり得る。

 

 いや、そうじゃないだろ。梨子の事を信じろよ俺。

 梨子は、クラスメイトから『恋愛勇者』とまで言わしめた鋼メンタルを持つこの俺の幼馴染なんだぞ――だから、こんなプレッシャーぐらいでどうにかなるような奴じゃない。だから……きっと大丈夫なはずだ。

 

 そして、ついにその時は訪れた。

 

 

 

「――五番、桜内梨子さん。曲は、『海に還るもの』」

 

 

 

 ピアノのコンクールのプログラムはつつがなく進行が進み、ついに梨子の演奏の番が来たことを告げる司会進行のアナウンスがコールされた。

 

 会場の観客の拍手に迎えられ、舞台の壇上に発表用の薄桃色のドレスに身を包んだ梨子が現れた。そして梨子はゆっくりと一礼し、壇上のピアノにまで歩いて向かった。

 

 そんな梨子の姿は、先程まで電車内で親しく話していた俺の幼馴染としての面影はなく、一人のピアノ奏者としての雰囲気を醸し出していた。

 そんな梨子を俺は、心配しながら見つめる。

 

 そして梨子はピアノの前の椅子に着席し、一呼吸置いた後、ゆっくりと鍵盤の上に手を乗せた。

 

 

 手を乗せて――

 

 

 

 

 

―――そして梨子は、そこで固まってしまった。

 

 

 

 

 いつまで経っても演奏を始めない梨子に、次第に俺の周囲の観客席がざわつき始める。

 その瞬間、俺は心配していた事が的中したと思い、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚を感じた。

 

 

 梨子……! 負けるな頑張れ! 俺は見てたぞ……お前、今日まですごく練習頑張って来たじゃないか! 昼休みの時間まで削ってずっとピアノ弾いて練習してただろ!? それを……ここで無駄にして良いと思うのか!?

 

 俺はそんな梨子にせめて気持ちだけでも届いてくれと、心の声で必死にエールを送る。

 

 

 ――すると梨子は突然、深く深呼吸をして目線を観客席の方に向け、まるで何かを探しているような雰囲気を見せた。

 

 ――もしかして、俺を探してるのか?

 

 その仕草を見てそう思った俺は、反射的に梨子に向かって手を振って『ここに居るぞ』とアピールする。そんな俺に隣に座っている人がギョッとした目線を向けてきたが、それも無視して俺は手を振り続ける。

 

 俺を見つけた梨子は、まるで何かから解放されたかのように安堵した表情になると、俺に向かって笑顔で微笑む。

 

 そこにはもう、一人のピアノ奏者としての梨子は消え去っていて、そしてその場所には小学生の頃から今までずっと一緒にいた、俺の大切な幼馴染がいた。

 

 

 

そして梨子はピアノに向きなおり――ついに、ピアノを弾き始めた。

 

 

 

 演奏が始まると同時、俺を含む会場内の観客の全員が思わず息を呑む。

 

 その、十五歳とは思えぬ程のピアノの演奏技術の高さと、圧倒的な表現力にだ。

 

 彼女の奏でるピアノの旋律は、まるで曲名通りと呼んでふさわしい程に、聴く者全てを海の世界に誘い、包み込むような優しさがあった。

 

 

 ――すごい梨子、本当に凄い……まるで海の中に居るみたいだ。

 

 

 そんな梨子の演奏に俺は、まるで会場の全てが海の中に沈んでしまったかのような光景を幻視(げんし)する。耳を澄ませると、ピアノの音に交じって海の音まで聞こえてくるような気さえしてしまう。

 

 そう感じてしまう程に俺は、梨子の演奏に心を奪われてしまった。

 

 

 そして気が付けばあっという間に時間が過ぎ去り、梨子の演奏が終わった。椅子から立ちあがって礼をする梨子に、会場から大きな拍手が送られる。

 

 

 よかった梨子……おめでとう、演奏お疲れ様!

 

 

 

 観客と同じように拍手をしながら俺は、今日一番頑張ったであろう梨子に、心の中で思いっきりそう祝福したのだった。

 

 

 

 

 

 

■ ■ ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 コンクールが終わった後、俺と梨子は二人で会場から駅に向かって歩いていた。

 

 ちなみに梨子のお父さんとお母さん――おじさんとおばさんはというと、二人は車で来ていたのもあって、今日の梨子のお祝いの為にご馳走を買ってから帰るつもりらしく、俺に行きと同様に梨子を送る役目を任せ、そのまま車で行ってしまったのだ。全く……無責任な話だ。

 

 最初おばさんの口からそれを聞いた俺は、車で来ているのだから、そのまま梨子を乗せて一緒に行けばいいじゃないかと言ったが、おばさんはニッコリと笑顔で微笑んで――

 

『いいから、恋虎(れんが)君は梨子と一緒に帰ってあげて、ね?』

 

 ――と言って、一向に譲る気配を見せなかったので仕方なく折れ、こうして俺は今梨子と一緒に帰っているのだった。

 まぁ……梨子と一緒に帰るのが嫌という訳じゃないから、別にそこまで文句はないのだけれど、おばさんが梨子の送り役を任せた時、俺に向かって意味深な笑顔を浮かべていたのが気になっていた。全く……何か変な事でも企んでなかったらいいんだけど。まぁいい、今はそんな事気にしてないでまず―――

 

 そう思い、俺は隣で歩く梨子に笑顔で言う。

 

 

「いやぁ……それにしても、入賞おめでとう! 梨子!」

 

「ありがとう、でも……最優秀賞が駄目でちょっと残念だったなぁ」

 

「良いじゃん良いじゃん、あんだけスゴイ人達に囲まれて、それでも賞状とれるなんて凄いじゃん! さっすが俺の自慢の幼馴染だな、よっ、未来の有名ピアニスト様!」

 

「もう……それは言い過ぎだって……」

 

 

 梨子はそう言って、褒められて嬉しいような照れくさいかのような表情になって笑った。

 

 ――そう、梨子は先程のコンクールの結果、最優秀賞とはいかなかったものの、それでも見事入賞を果たすという素晴らしい成績を残したのだ。

 これで実質、音ノ木坂学院の一芸入試における進学条件を十分に満たしたと言える。

 

 そしてそれだけじゃなく、さっきのコンクールは年齢によって部門が分けられておらず、梨子ぐらいの年齢で入賞するのは十年に一人居るか居ないかのものらしい。そして、その賞を取った人は今、全員プロの世界で活躍している。つまり梨子はこれで、プロの世界でも通用する存在だと世間一般的に認知されたも同然だった。

 

 だからこそ現在俺は、梨子の事を褒めちぎっている真っ最中なのだ。

 

 そうして俺が褒めていると、梨子は改まったように言う。

 

 

「でも……レン君、本当にありがとう。私が今日結果を出せたのは、きっとレン君のお陰だよ」

 

「えっ……俺?」

 

 

 急にそんな事を言い出す梨子に俺は首を傾げた。

 

 あれ……俺、梨子にそんなお礼言われる事を何かしたっけ? 

 俺がそう思って少し困惑していると、梨子は語り始めた。

 

 

「あの時私……舞台の上で頭が真っ白になって、何をすれば良いのか分からなくなっちゃってた。上手い人達がいっぱいで、私なんかのピアノを聞いてくれる人なんているのかって思って……そう思ってたらだんだん、自分がなんでここにいるのかさえも分からなくなって……」

 

 

 そして梨子は一旦言葉をとめ、俺の方を見て言う。

 

 

「――そしたらね、レン君が来てるのを思い出して……そして、レン君がこっちに手を振ってくれてるのが見えたから、私、レン君のために頑張ってピアノ弾こうって吹っ切れる事が出来たんだよ? だから……ありがとう、レン君」

 

 

 そう言われて俺は、なんだか気恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。

 正直あの時、俺は梨子が心配で必死に行動しただけだった。だから、今にして思えばあの時は随分恥ずかしい事をやってしまったのではないかと考えてしまう。

 俺は動揺してるのが梨子にバレないように、少し見栄を張るように笑顔で言う。

 

 

「そ、そうか……でもさ、結局は梨子が頑張ったからその結果があるんだって、だから……普通に自分の実力に胸張っていいんだよ梨子は。今日のピアノ最高だった、演奏聞かせてくれてありがとう梨子」

 

 

 すると梨子は頬を桜色に染め、微笑みながら言った。

 

 

「……レン君って、本当に優しいよね。私が落ち込んでる時はいつだって傍に居て励ましてくれて、逆に今日みたいな嬉しい日の時は一緒になって喜んでくれて、そして沢山褒めてくれる……。私、好きでピアノ始めたんだけど、そんなレン君が傍に居てくれたから、もっともっとピアノの事好きになれたんだって、そう思うの。

 だから……やっぱり、今日私がこの結果を出せたのはレン君のおかげ。ありがとう……レン君」

 

「そんな……買いかぶりすぎだって、俺は別にそんな大した事――」

 

 

 そう否定しようとした瞬間、急に梨子がスッとこちらに歩み寄り、俺の手を両手で掴んだ。

 

 

「ううん、レン君は大したことしてるよ」

 

「――うわっ! り、梨子、どうしたんだよ一体……ビックリするじゃん」

 

 

 そう言って梨子から視線を逸らしながら、急に鼓動が早くなった胸をもう片方の手で軽く抑えた。

 あれ……? 梨子の手って、こんなに柔らかかったっけ? いつも気軽に触ってたのに、なんでいきなりこんなに心臓がドキドキするんだ……? おかしい、どうしたんだよ俺……?

 

 そう思い俺が自身の心の異変に戸惑っていると、梨子は俺の手を握ったまま言う。

 

 

 

「あのね……だからね……その……私はっ……!」

 

 

 

 梨子はそうやって何かを言おうとして、しかし逡巡するように視線を彷徨わせる。その表情はまるで高熱にあてられたかのように上気していた。

 

 そんな、いつもとはまるで違う様子の梨子に、俺は思わず緊張で唾をのみ込んで梨子の次の言葉を待つ。そして、梨子の発した言葉は――

 

 

 

「…………やっぱり、なんでもなーい」

 

「――へっ?」

 

 

 

 梨子はパッと両手を離し、そしてそのまま俺に背を向けてしまった。

 俺は拍子抜けさせられたような気分で口を開く。

 

 

「な、なんだよ梨子、わざわざこんな事してなんでもない事ないだろ!? 何か重大な話があるんじゃないのか?」

 

「なんでもないったらなんでもないの……ほら、この間レン君が急に私の手を取って一生親友宣言してくれたよね? それのお返し。どう? ビックリした?」

 

「ええ……おいおいふざけんなよ、ドッキリかよ! 全く……梨子は本当に……」

 

 

 俺はそう言い、梨子より先に駅に向かって歩き出す――

 

 

 

「だって……折角ここまで我慢したのに私からなんて……そんなの、我慢した意味なくなっちゃうから」

 

 

 

 すると、後ろから不意に梨子が呟いたその言葉に俺は振り向く。

 しかし、そこにはもういつも通りの笑顔を浮かべる梨子がそこに居た。

 

 

「なぁ梨子、今言ったのってどういう意――」

 

「あ! もうこんな時間! あと少しで電車来ちゃうから早く行こレン君!」

 

 

 するとそう言い、梨子は俺の問いを振り切りながら先を急ぐ。

 そんな梨子に俺は、やれやれとため息を一つ吐き、そしてその後を追うように駅に向かって走りだした。

 

 

 こうして、色々あったがどうにか無事に、梨子のピアノコンクールは終わりを迎えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しかし、この日からそう遠くない未来に俺は、この日の事を後悔する事になる。

 

 

結論から言ってしまえば俺は、梨子の様子がおかしいと感じたこの時に、強引にでも梨子が言おうとした言葉のその内容を尋ねておくべきだったのだ。

 

人生は選択の連続で、選択肢を誤るとすぐに手痛いしっぺ返しを受けてしまう。だからこそ、人は何かを選ぶ時に慎重になり、選択肢を誤らないように細心の注意を払っている。

 

しかし、時として人生には、自分にとってはなんの変哲の無い小さな出来事が、今後の人生を大きく左右するような、そんな重大な選択肢を迫られている事があるのだ。

 

そう、それこそが、俺にとってのこの日だった。

 

 

 

 

その事に俺が気付いたのは、もうどうしようも無い程に全てが終わってしまった後で、そして、取り返しのつかない大切な“何か”が変わってしまった後になる。

 

 

 

 

 

 

 




細かい変更ですが、章番号をchapter-0からchapter-1に変更しました。



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