「あーあ。せっかく面白そうなことやってると思って来てみたのに……。ヴァレンシュタイン先生もうやられてるじゃん」
フードを目深に被った人影。
僅かに覗く童顔から、それが少年であることが見て取れる。
少年は素足のまま、雨の日にはしゃぐ子供のように……しかし、水たまりではなく“血溜まり”へと躊躇なく飛び込んだ。
赤い雫が、ぴしゃりと飛び散る。
「わお、グッシャグシャ。アハ アハ アハ。胴体なんて半分千切れてるし。いい気味だね、先生!」
死に体の剣聖の姿を見て、少年は声を上げて嗤っていた。
「……でも、なんか気に入らないなぁ。満足そうな顔しちゃって」
剣聖の表情は無念に沈んだ人間が浮かべたモノではなく。
実に満ち足りた、憑き物が取れたかのような貌をしていた。
「ムカつくし、とりあえずバラバラにしとこうかな……って、ん?」
少年は顔が血塗れになるのにも構わず、剣聖の胸に耳を当てると。
「……アハ」
次の瞬間、突如剣聖の身体が浮かび上がる。
少年が操る糸の固有霊装。
それが剣聖の身体を、臓物が溢れ出ないように丁寧に、細やかな操作で持ち上げたのだ。
同時に、少年は自らの身体も糸によって浮かび上がらせ、夜のゴーストタウンへと跳ね上がる。
「なぁんだ、先生まだ生きてたんだね」
剣聖の心臓は動いていた。
その鼓動は弱々しく、今にも消えてしまいそうなほど微かではあったが。
早急に治療を施せば、まだ助かる見込みはあると少年は判断した。
故に速やかに、彼は剣聖の身体を運び出す。
しかし、勘違いしてはならない。
この少年は、決して善意で彼を救おうとしている訳ではない。
——この少年が、善意で他人を助けることなど有り得ない。
「このまま死んじゃうよりもさぁ。先生は——“ボクに命を救われる方が、よっぽど屈辱的だと思うんだよねぇ”!」
悔いもなく死んでいく姿など“面白くもなんともない”。
少年が彼を助ける理由はそれだけだ。
この少年は、およそ良心と呼べるものを持ち合わせてなどいなかった。
「正々堂々の決闘の末に……とかじゃなくてさ。もっと無様に! もっと残酷に! もっと愉快に死んで欲しいんだ、先生にはさ!!」
少年は、誰に語るでもなく垂れ流す。
——自身の胸に宿る、醜悪な悪意の発露を。
「陽気に、愉快に、痛快に! どうせなら、もっとボクを楽しませてから死んでよね、先生! アハ アハ アハ!!」
*****
「——さて、これは何の真似だ、御両人。今から我が弟子の好敵手たる皇女殿の試合が始まる……私としては、無闇に騒ぐつもりもないのだが……」
七星剣武祭準決勝第一試合。
《紅蓮の皇女》ステラ・ヴァーミリオンと《風の剣聖》黒鉄王馬の戦い。
ステラにとっては、自身に土を付けた王馬に対する雪辱戦。
世間的には、“いま小次郎の両脇を固めている《夜叉姫》西京寧音と《世界時計》新宮寺黒乃”以来の学生Aランク騎士同士の決戦だ。
小次郎はいつものように会場で試合開始を待っていたのだが。
「そう言うなよ、色男。ウチなんて解説返上して来たんだぜぇ?」
「貴様は放置しておくには危険と判断した。——《十二使徒》を打倒できる戦力が連盟の首輪も無しに近所をウロチョロしているような状況では、おちおち観戦もしてられん」
寧音も黒乃も、霊装こそ顕現していないが、警戒心を隠すそぶりすら見せない。
真夜中に行われた二人の剣士の殺し合いは、邪魔こそ入らなかったものの、小次郎が考えているよりも多くの場所で把握されている出来事であった。もっとも、その詳細を知る者は居らず。剣聖の“遺体”も回収されてはいないのだが。
もはや、小次郎は無名の剣士ではない。
《隻腕の剣聖》という世界的に見ても強力な伐刀者。
彼を下したことにより、侍の存在は日の目を見ることとなった。
「剣武祭が終わるまで、私達“三人”が貴様を見張る。妙な真似は出来ないと思え。“夜の散歩”も禁止だ」
そう、三人だ。小次郎を見張るのは彼女達だけではない。
「なるほど、やはり通りすがりという訳ではないのだな。——南郷殿」
小次郎達が居る場所から離れた位置。
辛うじて声が届く程度の距離を保ち、《闘神》南郷寅次郎が佇んでいた。
「……つーか、じじい遠くね? 何してんだよ?」
「むしろ、それはこちらの台詞じゃよ」
そう言って南郷は、これ以上小次郎に近寄ろうとはしなかった。
彼はその場から動かずに生徒であった二人の騎士を見やると。
「ワシはここで良い。その男が可笑しな真似をしたら斬り合わねばならんのだろう? ワシとしては、平然とそこに居るお前さん達二人の方が信じられんがの」
日本最高齢にして、生ける伝説たる魔導騎士。
彼の眼は、侍が巧妙に偽っている実力を見抜いていた。
否、正しくはこれほどまでに近くで向き合っておきながら正確な実力を悟らせず。尚且つ驚くほど付け入る隙を見せない小次郎の立ち姿から、“最低限それが実行出来るだけの実力”を導き出したのだ。
戦技に長けた南郷だからこそ、とも言えるが……彼からすれば、それを加味しても寧音と黒乃は迂闊過ぎた。
一輝の師匠という肩書き。
並外れて優れた審美眼を持つ《無冠の剣王》が信用できると判断した人物。
便宜上見張ってはいるが、本当に事を起こすとは考えていなかったが故の隙であった。
しかし南郷からすれば、彼は全くの他人。得体の知れない、正体不明の伐刀者だ。
恐らくは、真に“明鏡止水”の境地に辿り着いている剣士を前にして、僅かでも油断など見せられはしない。
「その男の間合いの中にいては、先に得物を抜いたとしても手遅れだろうて。気づいたときには首と胴体が泣き別れとる」
南郷の言葉に、うすら寒いものを感じる二人。
だが、その警告はこの上なく正しいのだろう。
佐々木小次郎は《比翼》のエーデルワイスと同じ種類の伐刀者だ。
——決して、クロスレンジで戦ってはならない相手。
いま南郷が立っている位置にしても、そこは彼が小次郎に奇襲を受けたとしてギリギリ対応出来ると判断した場所だ。
摩擦を操り、物理攻撃を無効化する《隻腕の剣聖》を、あろう事か剣技で倒したと思われる怪人物だ。Fランクの魔力しか持っていない以上、それは間違いなく事実と考えられる。
ならば、技量は比べようもなく劣っていると推測出来る。
故に争うならば自身の伐刀者としての能力を行使しなければならないが……寧音と黒乃が居る位置では、その前に斬り捨てられるだろう。
彼女らと小次郎の実力に、覆せないというほどの隔絶した差は無い。
しかし、この間合いで問答無用の殺し合いを始めたならば勝負は一瞬で決まるだろう。
強者との熾烈な死合いを望む小次郎が、それを実行するかどうかはともかくとして……だ。
「大体お前さん……一体どういう存在じゃ? お前さんみたいなのが“生きていて良い”のは戦国時代とか、せいぜい明治の初めくらいまでじゃろう?」
小次郎の放つ雰囲気は、この強きを良しとする世界においても異質なものだ。
南郷は、その“違和感”を注意深く拾っていた。
倫理観に多少の差はあれど、ここが現代世界である以上、近代にも届かない時代を生きた人間である小次郎が持つソレとは比べられない。
彼の生きた時代は、今よりずっと命が軽かった。
たとえ立ち合いの経験は無かったとしても、小次郎は本来……そのような時代の剣豪だ。
「——お前さん、まさか……本物の“佐々木小次郎”ではあるまいな?」
もちろん南郷とて冗談のつもりではあるが。
それでも、三割くらいは本気で口にした言葉だ。
それが分かったからこそ、小次郎は思わずといった具合に笑みを漏らした。
「く……くくっ。いや、南郷殿は実に鋭い。当たらずとも遠からずというところか。しかし少なくとも、“本物”の佐々木小次郎で無いのは確かなことだ」
「ひょっひょっ。いい線いっとると思ったんだがなぁ」
何を馬鹿なことを……と、女性二人は白けたような視線を向けているが、逆に小次郎にはそれが不思議でならない。
「伐刀者の能力というものは、実に多彩だ。変幻自在にして荒唐無稽。であるならば、時を超える能力があっても不思議はあるまい。新宮寺殿とて、時を操るであろう? それと何が違う?」
監視対象であることも忘れて、三人の魔導騎士はつい聞き入ってしまう。
彼らには長い年月を伐刀者として過ごしているが故の先入観があり、小次郎のように柔軟な思考は出来ない。
だからこそ、少なくとも見た目では二十代半ばから後半であるこの男が、その歳月だけ伐刀者として過ごしてきたはずの男が……自分達とは違い、先入観を欠片も持っていないことを訝しんだのだ。
「まあ、少なくとも私はこの時代へ時間旅行に来ている訳では無いのだがな」
もっとも、“似たような真似”を意図せずしてしまったのも確かなことだが、それこそ彼以外には知りようも無い事だ。
「私はこの場を引っ掻き回そうなどと考えてはおらぬよ。そのような無粋は、私の主義に反するのでな」
彼にとって、それは忌むべき行為だ。
正々堂々、尋常な勝負を好む彼は、他人のそれに対しても一定の敬意を持っている。
横槍を入れるなどというのは以ての外だ。
「しかし、そなた達がここで私を見張るというならそれはそれで構わぬとも。美しい女が二人も侍っているのだ、不満などあろうはずもなかろう」
などと格好はつけたものの、片やは人妻で片やは見た目少女だ。
不満というならその辺りだが、口にすれば人妻の方はともかく少女の方とは拗れるだろう。
「おっ。なんだよ、中々分かってるじゃねえか色男」
「おい、分かってると思うが……美形だからといって間違っても監視対象に入れ込むんじゃないぞ」
「大丈夫大丈夫。ちょっと今晩ウチの泊まってる部屋でしっぽりとするだけ——」
「それをやめろと言っているんだこの大馬鹿者」
面々は高まった緊張感を解すために、意図して軽口を叩き合う。
今日この場で強さを競うのは彼らではなく、彼らの辿った武の道……その後ろに続く若者達だ。
主役である学生騎士達を差し押して、先達たる彼らが年甲斐もなく逸っていい場面ではない。
「心惹かれる誘いではあるが、今は遠慮しておこう。西京殿は私には勿体無いほどの大輪だが……いまこの時ばかりは、若人達の晴れ舞台故」
小次郎も彼女らの思惑に同調し、声音を穏やかにする。
まあ、とは言っても要するに断り文句な訳だが、風流を良しとする小次郎はストレートな表現を避けた。
「素直に“ガキには興味がない”と言ってやるのが本人のためだぞ、佐々木」
「寧音は可愛いヤツなんじゃが……如何せん色気はのぅ……」
しかし気心の知れた仲である二人は、そんな気遣いなどするはずも無く。
寧音の眉間にシワが寄るのは避けられないことであった。
「だから! ウチはガキじゃねえっつってんだろうがいつもいつも……!!」
険悪な空気が吹き飛ぶ程度には雰囲気が和らいだ面々に、小次郎は苦笑する。
ここのところ、彼の周囲は実に騒がしい。
まだ十代の少年少女を相手にしていたからこそのモノだと思っていたが、そうでもないようだ。
ここ最近、彼の周囲には急に人が増え始めていた。
この世界を訪れてから数年の時が経つが、これまで深く関わった人間は一輝一人だけであったというのに……だ。
「いや……何の不思議もない……」
全ては“弟子”のおかげだ。
一輝を中心に、物事は動き始めたのだ。
彼と関わらねば、小次郎はこの舞台に来ることもなかった。
彼と関わらねば、強敵達とこのように穏やかなひと時を過ごすこともなかった。
——彼と関わらねば、“他人の成長”に喜びを感じることもなかった。
「お三方。そろそろ始まるぞ。若人達の決戦の幕開けだ」
自身の脅威に成り得るというだけの興味ではない。
確かに小次郎は、彼ら彼女らの上達を本心から祝っていた。
それは、いずれ相対する相手に向けただけの味気ないものではなかった。
でなければ……そもそも、“一輝に指導できない自分を悔いる”ことなどあり得なかっただろう。
「……ああ、邪魔など出来るものか」
か細い呟きに、黒乃だけが反応できた。
そんな彼が見せる横顔は、彼女にとって見覚えがあるもので。
(破綻者かと思えば……存外、悪くない顔をするものだな)
まさしく、教え子を見守る——“師”、そのものであった。