『小夜啼鳥が血を流す時』   作:歌場ゆき

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「雌伏もまた静かなる戦いなのである」

────早乙女貢「風雲児列伝」より






「Good luck with your first job in hell」

 

 

 

 誰もがやりたくない、誰もがやりたがらない仕事というものがある。

 

 

 ───汲んできた水をできる限り無駄にしないよう効率的にまく。

 

 

 誰かがその仕事をやらなければ皆が困ることになるのに、そこから目を背けて自分以外の誰かがやってくれるのを待つ。

悲しい話だ。

それは往々にして「キツイ・危険・汚い」といった烙印が押されがちな仕事であり、世の中の厳しさを感じざるを得ない。

 

 

 ───ブラシと称するのもお粗末な、捨てられていた棒と布切れで作成した混合物を用い、床面をこする。

 

 

 私が現在従事している仕事が「危険」かどうかはさておくとして「キツイ」と「汚い」は、なるほどその通りだった。これは、ザ・肉体労働と言って差し支えないだろうし、目に見える汚さはもちろんのこと、特有の刺激臭が鼻につく。不意に深く息を吸ってしまったときなどには、えづきそうにもなる。

 こんなことを進んでやりたいとかと言えば、やりたくはない。が、そうして誰もが忌避する仕事であり、誰もやらないことで皆が不利益を被るのであれば、私がやろうという気にもなる。外圧的要因による動機ではあるが、こうして胸のうちにふつふつと生じるものがある。

 

 

 ───汚れがこそげ落ち、水と伴って自分の意のままに床面を移動していく。

 

 

 ただし、あまりにあんまりな仕事内容に「逃げない精神を養う訓練なのだ」「自分を成長させるチャンスかもしれない」「ともするとこれは心の掃除なのかもしれない」などといった精神衛生をなんとか保つ方便も脳裏に浮かんでくるようにもなってくるのもまた人の(さが)。さもなければやっていられない。

 

 

 ───手にした混合物で汚れと水を誘導し、追い込むようにして所定のところへと流し込む。

 

 

 けれど、人間は不思議なもので、このようにしてやりだしてしまえば──初速が生まれてしまえば、何事もある程度の要領を得てこなせるようになるし、作業自体に執心を抱いて取り組めるようになる。以前は発見できなかった汚れに気づいたり、以前よりも早く作業を完了できたりすると、それがどんなことであろうとも自信に繋がるもの。

 

 

 ───最後に自分のこなした仕事内容に不備がないかを抜かりなくチェックを行い、その場を辞する。

 

 

 この時間であれば、上官は二階南側の作業にあたっているはずなので、終了報告のために二階への階段を探す。

 当該の場所に向かう間にも幾人もの慌ただしい様子の人々とすれ違ったり、追い抜かされたり。

 自分もそんな周囲の人に混ざって、()()に来た本分を果たさなければならないはずなのだが、今は邪魔にならないように通路の隅をゆっくり歩くことで精一杯。

 

 

 

 こんなことを自信に繋げている場合ではないというか、そもそもこんなことをやっている場合ではないというのは、従軍してきた看護婦団メンバーの全員の共通認識であろうが、今はこんなことをする他ないし、なによりこれは上官の意向なのだ。それに従っておけば、まず間違いはない。それだけのことを私は従軍前に学んだのだ。身をもって。心の底から。

 

 

 

 

 そうした思考を巡らせながら辿り着いた場所に目的の人物の姿はなかった。

 

 

 

 

 おや? と思う。

 

 

 

 

 今日の自分の作業はなかなかに早かったはずだ。対して、上官のほうは他の人への伝達事項があって、作業開始がかなり遅かった。この場を終えて、もう次の場所へ行っているなんてことがあるわけはない。

 

 そう疑いつつ、まさかと思って向かった次の作業場所にも上官はいない。やはり、いない。

 

 

 ただ────おかしい。そんなことがあっていいのか。

 

 

 あまりに作業が早すぎる。

 もしかすると、記憶違いで上官の担当箇所を間違って覚えているのかもしれない。そう考えたほうがまだ自然……いや、でも、これは────。

 

 次に使用して、また汚してしまうことが躊躇われるほどの清掃具合である”便所”を覗き込みながら、思う。

 これほど行き届いた清掃を行える人物はひとりしか心当たりがない。

 

 

 

 

 

 ある種の諦念の気持ちを抱いて最後に私が向かったのは、私たちの控え室で───正式名称を物置部屋。この病舎において不必要なものを室内に入るだけ詰め込んだ足の踏み場もない空間…のはずだったのだが。

 

 絶望的に立て付けの悪くなっていた扉は最早邪魔だと考えたのか外されており、なにも遮るもののなくなった入口から入室すると、室内は今朝がた見かけたときとは比べ物にならないほどの整理整頓と清潔清掃が徹底された場所になっていた。

 

 散乱していた資料と書類は使用可能な壁際の棚に綺麗に並べられ、医薬品の数々はまだ使えるものがあったらしくいくつか()り分けてあり、廃棄せざるを得ない物品は端の方にひとまとまりに。そうして、足の踏み場がきちんと確保されている。

 

 この状態ならば、ここにやってきた看護婦団も全員が入室し、ミーティングも行うことが可能だろう。

 

 そんな部屋に────果たして、上官はいた。

 

 従軍前からわかっていたことではあるが、こうなると改めて思ってしまう。

 

 

 

 誰よりも早くかつ人よりも数倍多い担当ノルマの清掃作業を終え、この物置部屋の整理までこなしてしまうのだから、この人はいよいよおかしい。

 

 

 

 

 

 

 いや、おかしいと言うならば──────、

 

 これほど有能な人物に便所掃除と物置掃除なんかをさせている現状がなによりおかしいのだけれども。

 

 

 

 

 

 

 立ったまま、なにかの資料に目を通しながら集中している様子の上官に声をかける。

 

 

()()、探しましたよ」

 

「…? あぁ、メリッサですか。作業が終わりましたか、早かったですね」

 

「──あの、婦長にそう言われましても…」

 

 

 …最早、お世辞にも聞こえない。

 

 

「他の皆さんの中で一番早かったですから、十分優秀です。貴女のことですから、清掃のほうも抜かりはないでしょうし。問題は……ミランダですね。彼女はやること為すこと全て丁寧で正確なのですが、いささか時間を掛け過ぎるきらいがあります。後で様子を見てきたほうがよいかもしれませんね」

 

「ミランダの様子は私が見てきますので、婦長は…その、続きをどうぞ。ちなみにそれは──どういった内容の?」

 

 

 先ほどまで上官が目を通していた資料を指して尋ねる。埃の被りかたからして、おそらくはこの部屋に埋もれていた資料ではあろうが、この人がそんなものから真剣に学ぶことなどあるのだろうか、と疑問から生じた問い────

 

 ────ではあるのだが、それは本当に訊きたいことを訊くための前振りのようなものだった。

 

 

「───こちらですか。さすがは最前線の病舎ということもあって、なかなか貴重な医療論文があるようで、少し拝見していました。しかし、それがこのようなところにこんな状態で放置されているのは大変嘆かわしい…という他ないですね。大方、不意に生じてしまった余剰予算を使い切るためにもっともらしく論文を請求したのでしょうけれど」

 

「…なるほど」

 

「こちらに記載された知識は役立ちますから、後ほど、内容を共有することにしましょう。…では、ミランダのほうをよろしくお願いできますか? 私は次の場所の清掃に向かいます」

 

「了解いたしました…………ところで────婦長、()()でいいのでしょうか?」

 

 

 そこまで口にしたところで、唇が固まった。

 

 

 

 

「──────────」

 

 

 

 

 対面の人物の色素を感じさせない白磁の肌が一層冷気を増す。

 

 周囲の空間を凍てつかせるかのようなピンと張った冷たい空気。

 

 こちらを覗く双眸が(うろ)を思わせる深いものへと変貌する。

 

 ああ、これは。

 まずい。

 

 理性で認知するよりも早く、本能が理解を強制させる。

 

 

 

 

「メリッサ。()()とはなにを指し、貴女はどうすべきだと────?」

 

 

 

 

 ぐしゃぐしゃぐしゃ、と。

 上官の手に握られた論文が込められた力によって形を変える。

 

 おそらく、本人は拳にそれほどの力が入っているとはわかっていない。

 知らずにわなわなと肩が震えるほどの力が拳にかかっている。

 

 

 こちらにぶつけられているのは単純明快、純粋な殺気である。

 

 

 いわゆる、地雷を踏んでしまったというやつで。

 目の前の上官はブチ切れている。

 

 それがわかれば、しなければならないことはひとつ。

 プロセスを誤らずにこなすだけ。

 それだけなのだが、本気で殺されかねないという質の殺気を向けられると人は本当になにもできなくなってしまう。

所詮、弱い物は強い者に屈するしかないのだという動物としての危機本能が作動し、身体が恐怖に支配される。

 

 

「ぁ、っっ…あ、ぅぅう───ぜぜ、前言を、てっ撤回させてくだ、ふぁい」

 

 

 状況を動かすための思考を再起動させるのに数秒、そこから固くなった唾を飲み込んで口を開くまで数秒。

 かなりの間ができてしまった上に嚙み倒してしまったが、これでも早かったし、よく口が回ったほうだと自分で自分を褒めてやりたい。

 

 

「─────はあ、いいでしょう。…ミランダのところへ」

 

「し、失礼いたっしました」

 

 

 以上のやりとりを終え、物置部屋────ではなく、看護婦団待機部屋を後にする。

 

 はぁはぁ、と肩で息をしながら廊下の壁に背を預け、胸を押さえて呼吸を整える。

 ガタガタと震える膝で今にも腰が抜けそうな下半身に力を込め、壁を支えにしてなんとか立っている状態。

 

 ()()上官を従軍前に何度か見たことがあるけれど、そのどれもが自分と関わりのないところだった。それでも十分に肝を冷やしたものだったが、直面するとその比ではないことがよくわかる。

 

 

 

 ”子を失う親のような気持ちで、患者に接することのできない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場から去りなさい”

 

 

 

 過去にそう言って、看護婦団の中からひとりの看護婦を追い出している。

 

 終始やる気を感じさせない酷い勤務態度であり、お世辞にも看護スキルや医療知識に秀でている人ではなかった。おそらく箔をつけるために従軍志望したのだと専らの噂で、名家からの奉公人であるがゆえに誰もなにも言えなかったという女性。

 

 その女の胸倉をつかんで、上官は激怒した。

 

 彼女がなにをしたのかはよく知らない。担当患者に対して礼を失する物言いをしたのだとか、医療器具をぞんざいに扱った上に破損させたのだとか噂されているが、そんなことは当時どうでもよかった。

 

 いつか上官の雷が落ちるのではないかと周囲が危ぶんでいたなかで、とうとう例の女が地雷を踏んでしまったことに他のメンバーは身を縮めていたのだが、それは上官が怒ったことに対してではなく、名家からの圧力で看護婦団が解散させられてしまうのではないかという危惧に対してだった。

 

 その後ろ盾があったからこそ彼女は周囲に対して大きな態度を取っていたわけで、人手が少しでも欲しい上官も今まで怒りを抑えていたのだろうけれど、ついに事態は起こってしまった。

 

 案の定、

 ”実家のほうにこのことを報告させてもらう”と喚き散らし始めた女と上官の間を割るような形で、どこからか登場した軍服を着ているのに馬鹿みたいに軽薄な謎の男が二言三言話すと────、喚いていた女は顔を真っ赤にして走り去って行き、男がその場に残った上官をなだめつつも叱っていたのだとか。

 

 その事件の顛末を知る者は皆一様にスッとしたと話し、そのときの上官を目撃した者は誰かに怒られている上官は可愛らしかったと、本人には絶対に言えない見解を表明しており─────

 

 ────ともあれ。

 

その男の活躍によってなのかは定かではなないが、看護婦団が解散に追い込まれることもなく、無事にクリミアへやってきた。

 

 患者の命に関連することで私たちが誤った判断を下すと、上官は我を忘れて、ああなってしまうことがある。

 今回の私の質問もそれに類する、または準ずることだったのだろう。

 

 しかし、だとすると、やはり腑に落ちないことがあるのだが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 病舎の中でも隅の隅に追いやられたこの部屋から、ミランダの担当作業箇所は少し遠い。また縦横無尽に動き回っている医療スタッフや兵隊の邪魔にならないように端のほうを移動しつつ、進まなければならない。

 

 

 

 ────どこか遠くのほうから子どもの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 

 

 

 ……本当に、この状況はなんなのだろう。

 

 ロンドンからクリミアへやってきた。

 噂に違わぬ劣悪な環境のなか、負傷した兵隊が次々に運ばれてくる。

 人手はどれだけあっても足りないはずなのにも関わらず、私たちに与えられた命は待機。

 助けを乞う人がいる、痛みに苦しむ人がいる。

 そんな人々を救うために私たち看護婦団はやってきたはずなのだ。

 それなのに、便所掃除に勤しむことが今できる最善だとは。

 こんなのはおかしい、間違っている。

 

 ───今すぐ、そう叫んで周囲の医療行為に介入したい

 

 それを最も強く思っているはずの上官──フローレンス・ナイチンゲールが歯を噛み締めて耐えている。

 今は忍耐のときなのだと、看護婦団を統率している。

 

 一体、どうして。

 今もなお死に逝く生命がそこにあるのに。

 あれほどの憤怒を抱えていながら、彼女が目前の患者に対して動かないのはなぜなのか。

 

 ───それがわからない。

 

 

 

 複雑な思いを抱えながらもミランダのところへ向かうために、私は廊下の端を歩く。

 

 

 

 

 







 誤字脱字、ここの文意がワケワカメ、展開に対する苦情等ありましたら、気軽にご連絡いただけますと幸いです(反映するかはこちら次第だがな!
 ハーメルンからでもTwitterからでも構いません。作品をよりよくするためにご協力のほどお願いいたします。



 ナイチンゲール率いる看護婦団のクリミアでの初仕事は便所掃除だったんですよ、マジで。



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