「愛するということは、
お互いに顔を見あうことではなくて、
いっしょに同じ方向を見ることだと」
───アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
『人間の土地』より
「病識」という言葉をご存知だろうか。
読んで字の如く、病を
この言葉はなにも病にのみ当てはまるものではなく────直面した困難な現状を打破するために現在悪さをしている事象はなにか、どうすればそれを排除できるかといったことを正しく認識する際にも使用できる概念である。
そして本来、自分が病的状態であるにも関わらず病的状態であることを認めようとしない患者に対して「この患者は病識がない」と表現するように、”病識がない”場合に際して用いられることが一般的ではあるが─────。
そういった意味で、クリミア従軍前──半年間の猶予のうちにあるナイチンゲールには
現在、自分に与えられた状況を俯瞰の視点をもって正確に捉え、どこが問題点でありなにが解決策なのかを速やかに判断し行動に移す。仮に十全の成果が得られないのであれば妥協できるポイントはあるのか否かを探る。今よりも現況を改善する───そのためにしなくてはならないこと、してはならないことを常に思考する。
────
あらゆる点を線で結び、面を描き、立体を構築していく。そうして浮かび上がる物事の全体像をクリアにしていけばいくほど、あまり直視したくはない現実がそこにあることに気づかされる。
はっきり言って、非常にまずい。
問題を解決したかと思えば、すぐさま別の問題が生じ───それを解決するためにはまた別の問題が……。といった具合にやらなければならないことが多すぎる上、妥協できるところがほとんど存在しない。なにしろ最前線の兵舎病院に向かうための準備──人の生き死にに関わることなのだから用意周到にしていて、し過ぎるということがないのだ。
とは言え、時間が限られた状態ではなにからなにまで完璧に、と言っていられないのもまた事実。
絶望する他ない見通しだろう。
ようやく掴んだチャンスなのに。ようやく私の力で───看護婦の力で専門的医療知識がいかに重要であるかということを世界に訴えることのできる場を与えられたと思ったのに。
この有様ではクリミアへ行ったところで、ろくに力を発揮できずにとんぼ返りさせられるのがオチだ。どうにかひとつ大きな手を打たなければ、なにかこの状況をひっくり返すような……。
しかし、そんな一手が打たれることはなく、時間を消費するほどに降り積もるのは徐々に詰まされていく実感だけ。それを少しでも遅らせることぐらいしかできない自分に悔しさを滲ませながら。それでもできることを限界までやり尽くす。
なにかを得るためにはなにかを諦めて殺さなければならない場合が必ず出てくる─────、
ならば、私は少しでも多くのものをこの手に残すために、
───躊躇いなく自分を殺す。
それがひとりでも多くの命を救うことに繋がるのであれば。
半年という時間で尽くせる最善を尽くすために─────殺せる自分を殺し尽くす。
現地でともに働くスタッフ・救援物資の用意・人と物の運搬ライン・活動を裏から支えるパトロン的存在・なにをするにしろ根本のところで必要になる資金……。これらのもの───埋まらない絶対的な不足を前に。
粉骨砕身の思いで、文字通り身を削りながら必死に駆けずり回るナイチンゲールの様子は界隈にてすぐさま噂となり───彼女の力になりたいと立ち上がる者もいれば、そのあまりにあまりな気勢に立ち去る者もいた。
常人であればとうに諦め、すべて投げ出すような窮地に立たされていても、己を奮い立たせ、ただ為すべきことを為し続ける。
そのひたむきな祈りにも似た献身を神が見ていた─────
────かどうかはいざ知らず。
───────それでもあの男はしかと見届けていた。
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「…あなたに付き合っていられる時間は皆無です」
彼女は氷のような女だと思う。いついかなるときも冷静で、目的のために必要なことを過不足なく遂行する。一瞬の油断が致命的になることをよく知っているからか、なにかに情けをかけるといった隙を見せることがない。物事に厳しく、他人に厳しく────なによりも自分に厳しい。
おそらく、それが一般的な彼女の評価であるように思う。
しかし、それはあくまでも上っ面に過ぎない外側の彼女の評。無慈悲・冷徹・不愛想の三大元素で構成された外皮装甲で覆われている肝心要の内側では──常に熱風と灼熱が渦巻いている。さながら今にも飛び出さんとする凶器を思わせる焔がそこには
冷気と熱気。
相反するそれらを併せ持ちながらも瓦解することなくバランスを保ち、まるで機械の如く駆動し続ける───それがフローレンス・ナイチンゲールという女性。
その彼女に疲労の色が見えてきたのはハーバート戦時大臣からの辞令を知らせてから、二ヶ月が過ぎたころ。
大通りでばったりと出会い”やあ、ナイチンゲール。今日も綺麗だね、少し時間をもらえるかい”と話しかけた僕に対して、やはり彼女はにべもなかった。
「まあまあ、そう言わないでくれ」
しかし、である。
今まで僕が声を掛けたとしても愛想がないどころか、一瞥をくれて足早に去って行くか、気づかないフリをして去って行くか、本当に気づかずに去って行くか───そのどれかだったのに、今回は立ち止まってくれるとは。
…どうやら本当に疲れているらしい。
「ご用件があるなら、手短にお願いします」
「うん、用件はあるよ」
「だからそれはなんな、んむぐぅ─────」
はい、突然ですが─────
ここで僕のとった行動はなんでしょう!
ヒントは彼女の後半の言動だね。
選択肢は以下の三つだ。
1.キス
2.ベーゼ
3.チュウ
さあ、どれ!
…………。
………。
……いや、まあ。
言いたいことはわかる。
けど、どうやらそれは目の前の彼女が代表して言ってくれるらしいから、どうかここはぐっとこらえてもらいたい。
「───馬鹿じゃないですか?」
汚物を見るような目で(物理的には見上げてるのに)見下げてくる彼女は、彼女の頬を包むようにしてぎゅむっと挟み込んだ僕の両の掌を瞬時に叩き落とした。うん、顔が少し赤いのもポイントが高いね。
あ、もちろんキスもベーゼもチュウもしてないから。乙女の柔肌にそれはそれは紳士的にタッチしただけだから。
───なんて、冗談は置いておこう。
「場所を移そうか」
そう言った僕は彼女の腕を取り、引っ張ろうとするが───もちろん、素直に引っ張らせてくれるわけもなく、
「…あの、本当にいい加減にしてください。連日、視界に入ったかと思ったら毎回声を掛けてくるので、今日はいよいよ仕方なく、用件を短くに伺ったのに────。貴方も私の事情はわかっているはずでしょう!? こんなことをしている場合ではないとっ」
「だから、用件を伝えに来たんだ────君は少し休むべきだって」
「そんなこと…、ああ、もう、本当になにを言って……。休んでいるような暇がないことは誰が見たってわかるではありませんか!」
「まあまあ、カリカリするなよ。ただでさえ”高熱”があるというのに、君はそのまま倒れるつもりかい?」
「───は、なんで貴方が……知って…?」
「……」
「…あ、先ほどのはそういう──」
「そういうこと。素直に聞いたって君は強がるだけだろうからね。荒療治というか──荒触診? まあ、そんなものだから、他意はない。うん、ない」
「熱がなんだと言うのですか、これぐらいのことで…」
「ふーん、君がそれを言うのか───看護婦の君が」
「…………」
「まあ、いいさ。看護婦の心得やらを今ここで説いたところで仕方がない。それこそ釈迦に説法とやらだろうしね。───それに、自分の不調を押してでも君にはやらなければならないことがあるというのは、ある程度理解するし…」
「だったら────!」
「それはそれ、これはこれだよ。毎日のように君の様子を伺っていたのはなんのためだと思う? 今日のような日のためだ。僕は医者ではなく軍人だが、君が限界のときは医者に代わってドクターストップをかけようと思ってね」
「私が、限界だ…と?」
「──ああ、その通りだよ。とにかく、このままだと埒が明かないから───よいしょっと」
掛け声とともに、それまでずっと掴んでいた彼女の腕を利用する形で背中に彼女をおぶる。体調不良に重ねて僕との言い合いでへろへろだった彼女は大した抵抗をすることなくおぶられる────
「な、ちょ、まって…く、ださいっ」
───まではよかったけれど、背中に登るとさすがに少し暴れる。女性の年齢に関してとやかく言うのはご法度だ、そこを詳しく言うつもりはないが成人して数年どころではない歳月を経た大人が誰かにおぶられるというのは、かなり気恥ずかしいものらしい。
いや、そりゃあそうか。
───いや、それでも。
「うるさい、黙れ、病人。両腕で荷物を抱えるようにして──無理やりに運んでもいいんだぞ」
途端、彼女は大人しくなる。いわゆる”お姫様だっこ”はお気に召さないようで。ならば、このぐらいの羞恥心は我慢してもらおう。なんせ緊急事態なのだ。
「とりあえず、君の自宅で構わないかな? ───ああ、大丈夫、家までの道のりは正しく僕の頭の中に入っているよ。大通りを行くよりもそこの細い路地を入ったほうが近道だという補足情報もね。日々のストーカーの賜物だ。道案内は不要だから、君は安心して背中で休んでいるといい」
「…今の発言のどのあたりに安心できる要素があったのか、まず教えてもらってもいいですか」
と言いながら、歩き出した僕の頭を数発小突く背中の彼女。
「あいてっ、いたたたた」
それほど力は入っていないはずなのに彼女は人体の急所を知り尽くしているとでもいうのか、そこそこ痛い。
うん、なかなか良い拳をお持ちだ。
「…………」
「…………」
殴り続けるのも疲れたらしく、不意に背中に体重を預けてくる。
「───重くはないですか」
「全然だよ。今みたいに体重を預けてもらえるとこちらとしても負荷が軽くなって助かるしね。あと、もっと言うなら、君の腕を僕の体の前で組んで体制を固定してもらえると、よりありがたいかな」
「えっと、こうでしょうか」
「あぁ──、そう。それでおーけー」
より密着して荷重が軽くなったように感じられる。
惜しいのは、この体勢では今の彼女がいったいどんな顔をしているのかがわからないといったことだけれど。
それはやむを得ない。
彼女の顔を見ることができるというのは、すなわち僕の顔も見られてもしまうということだから。
これでよかったのだと思う。
───ふむ、なかなか良いモノをお持ちだ。
この状況でそれを口にしなかった僕は叙勲モノの働きをしたと言っていいのではないだろうか。
誤字脱字、ここの文意がワケワカメ、展開に対する苦情等ありましたら、気軽にご連絡いただけますと幸いです(反映するかはこちら次第だがな!
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ふたりの絡みについて。
要はお約束の様式美をやりたかっただけとも言う。
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