『小夜啼鳥が血を流す時』   作:歌場ゆき

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「私が王位につくのが
 神の思し召しなら
 私は全力を挙げて国に対する
 義務を果たすだろう。
 私は若いし、多くの点で未経験者である。
 だが正しいことをしようという
 善意・欲望においては
 誰にも負けないと信じている」

────女王即位の日、ヴィクトリアの日記より






「Love wants nothing return」

 

 

 

「…などということもありましたね────陛下」

 

「…うるさいわね、いつの話よ」

 

「いつとは、また異なことを仰る。僕はあの日のことを昨日のことのように感じているというのに。あのとき、慌てふためいた陛下は”国王命令”だなんだと言って、妄想の再現をなされたじゃないですか。いやはや───陛下の肌の感触がまだこの手に残っているようで…」

 

「…………」

 

 

 玉座の前に跪きながら手をワキワキとさせる僕に対し、額に手を添えてあ”ぁ”ーといった嘆きの表情を隠そうともしない女王。

 かつてと異なるのは、彼女がその頬を朱く染めたりすることはないということ。このウィンザー城にて、それだけの年月を過ごし、経験を積んできたのだろう────彼女の顔は久しく見ていなかったが、元気そうでなにより。

 

 あまりの懐かしさに口元や目元のあたりの皺が増えたような…などと要らぬ口を叩こうものなら、今度という今度こそ首を落とされかねないのでやめておく。

 

 

「で? ハーバートの家の威光まで借りて、今さらのこのこ現れた貴方はなにをしに来たと言うの?」

 

「おや、陛下ともあろうかたがこちらの用向きをご存知ではない、と?」

 

「────言葉に気をつけなさい、雑兵。以前のわたしと貴方と…その関係性のままではないということ理解していないわけでもないでしょうに」

 

「はっはっは、それもいつしかの秘密特訓の成果ですか、陛下。声を震わせて少々どもることをお忘れのようですが」

 

「この男は……、本当に殺されたいのかしら」

 

 

 なにを隠そう───彼女との再会は十数年ぶりである。

 

 

 ある日────、

 たとえ婚姻はかなわなくとも直属の近衛(このえ)としてそばに仕えてほしいと直々に懇願され────忘れもしない、同じベッドで長い夜を共に過ごした翌朝のことだった────いろいろと思うところ、考えるところがあり、結果として僕はそのあと女王の前から姿を消すことにした。

 

 こちらの真意が彼女に伝わっているかどうかはわからないが、近衛になるとしても自分の実力──軍内部から成り上がることで彼女の支えとなりたかったのだ。

 

 そうしなければ、僕は彼女の荷物にしかならないと思ったから。ろくな力も持たず、なにも考えずに生きるだけの木偶の坊になってしまうと思ったから。彼女はそれでいいと言ってくれるかもしれないが、ただそばにいるだけの男でいることが僕にはきっと耐えられない。

 

 

 

 そして、なによりも────、

 

 ────それでは僕の目論見は果たされないから。

 

 

 

 理由を口にすることなく彼女から離れることに心が痛まないでもなかったが、自分の不甲斐なさを恥じて一からやり直すなどと今さら彼女に言うことはできなかった。今まで散々権力に笠を着て、やりたい放題だったのだ。

 

 それを性根から叩き直そうと自分なりにあがいてみようと思った。それでこそ───いつか彼女の隣に立つに相応しい男になれるはずだ、と。

 

 まさか、その道半ばで───女王は結婚し、子どもが産まれ、伴侶とともにうまく(まつりごと)を取り仕切るようになるとは思いもよらなかったが。まさか自分以外にこの()()()()()を乗りこなす者が出てこようとは…。

 幾度か拝謁したこともあるけれど、さすがはアルバート殿下というか。

 

 これにて────安全、安心、安泰の後方勤務と国の中心から革命を起こしてやろう大作戦は露と消えたわけだ。

 

 

 

 ……そんな過ぎたことを馬鹿馬鹿しくも考えていたから、少し油断した。女王の”取り扱い”には慣れていたつもりだったのに、ご無沙汰だとこうも勝手が違うのかと僕はこのあと悔いることになる。

 

 

 

 

 

 

「……裏切られたと思ったでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 それはにわか雨のごとく。

 不穏な空気は一際トーンダウンした一言とともに突然やってきた─────

 

 

 

 

 

 

「……」

 

「当然よね、貴方を近衛に誘っておいて、舌の根の乾かぬうちに結婚してしまったんだもの───」

 

「…………」

 

「でも、貴方だって悪いのよ!? だって急にいなくなるんだもの、なにも言わずに連絡を寄越さなくなるんだもの。ハーバート家にも使いをやったのに、家を出て軍属になってから足取りが掴めないと言われたわ。わたしがどれだけ寂しくて、苦しんで、涙を流したか───貴方にわかって?」

 

「………………」

 

「そんなわたしにアルバートは優しくしてくれたのよ。最初は傷心につけこむ気なのかと警戒もしたけれど、そもそも──彼はわたしと貴方の関係を知らないし、誠実な人なんだってすぐにわかった。…どこかの誰かとは違って」

 

「……………………」

 

「後からきちんとゆっくり考えてみたら、なにも言わずに去ったのは貴方なりのけじめだったのかもしれないって、本来必要な手続きを踏んでいないズルを嫌っただけのことなのかもしれないって、そうも思えるようになったけれど────そんなの言ってくれないとわかんないわよっ!」

 

「…………………………」

 

「アルバートと一緒になったことは後悔してない。彼はわたしを愛してくれているし、わたしは彼のことを愛している。子どもたちもとても可愛い。周りの人にも支えられて、政務もしっかりとこなしてる。そう、なにも困ってないの、わたしは幸せ。だから─────」

 

「………………………………」

 

「だから…、だからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだから……そうっ、なの───だから」

 

「……………………………………」

 

 

 

 

「─────貴方はもう必要ない」

 

 

 

 

 言いたくないことを無理やり口にするかのような──苦悶の色を浮かべた女王の相貌を直視することはできなかった。

 

 

 …ああ、結局はこうなってしまうのか。こういう展開になることは避けたかったから、軽薄な感じを装って要点だけ伝えて帰ろうかと思っていたのに───そうこちらが思っていても、もともと土台無理な話だったのかもしれない。彼女は

 

 ”以前のわたしと貴方と……その関係のままではない”

 

 と言ったけれど。

 では、”この状況”はなんなのだろうか。

 

 

 

 

 

 この玉座の間には────近衛もいないどころか、女中もいない。

 

 人払いを完全に、完璧に済ませてある。

 

 こちらに信頼を置いているというよりは、僕になら殺されても構わないとでも思っているようで。

 

 

 

 それはまるで、()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんとか言いなさいよ! ジョン・ハーバート!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────であれば、その楔はここで断ち切らなければ。

 

 

 

 

 

 

 ────()にはそれができないというのなら。

 

 

 

 

 

 

 ────僕がやるしかないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「陛下、”その名”は捨てたのです。今の僕の名は────ジョン・スミス」

 

 

 

「は──────?」

 

 

 

「そして、勘違いは正されなければなりません。かつての僕は……陛下を利用しようとしていたのです。陛下はご存知なかったかもしれませんが、僕はハーバート家の”養子”なのです。元々、この身は────()()()()でした」

 

 

 

「…………………………」

 

 

 

 

 

 

「そして僕は、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 なんでも結論先述型というのがプレゼンテーションの基本であるらしいが、こんなにも口が重く、そして気の重たくなるプレゼンテーションが他にあるだろうか。

 

 これでは被告人による意見陳述のようだ。

 

 しかし───、あながち間違ってもいまい。

 

 

 

 これから、

 

 自分に好意を寄せてくれる女性を袖にしようというのだ。

 

 被告人とも呼ばれても言い返せまい。

 

 

 

 

 

 

 気分としては一世一代の告白を断るときと同じ。

 

 

 

 決して、慣れるものではない。

 

 

 

 無論、慣れたくもないけれど。

 

 

 

 

 

 

 ───そうして既に終わっていたはずの関係に、改めてとどめを刺すのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう。

 告白をお断りするときの常套句のひとつに便利なものがあるんだけれど、それがなんだか世の人は知っているかな。

 

 

 

 

 後学のために覚えておくといい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────他に好きな人がいます、って言うんだ。

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────。

 

 

 ────────────────。

 

 

 ───────────────。

 

 

 ──────────────。

 

 

 ─────────────。

 

 

 ────────────。

 

 

 ───────────。

 

 

 

 

 

 

「────なによ、それ。くだらない」

 

 

 すべてを語り終えた僕にかけられたのは、そんな言葉だった。文字面とは裏腹に温かな響きを持ったそれに、そっと胸をなでおろす。

 

 

「くだらないくだらないくだらない……ほんと、くだらない」

 

 

 …いいかい? 文字面とは裏腹なんだ、それは間違いないから。

 

 

()()()()()()()()()、貴方が…。そうよ、べつにそこまでしなくたって……」

 

「陛下、これが疑いようのない一番の近道なのです」

 

「……誰もそれを望んでなんてないじゃない。当のナイチンゲールだってそんなことは────」

 

「僕がそれを望んでいます──僕の目的のためです。ひとりよがりだと言われても構いません」

 

「───わたしが軍部に圧力をかけて貴方を止めれば…」

 

「ハーバート家に僕が属していたころならばいざ知らず、この戦時下において、ただの一兵卒のレベルにまで陛下の影響力が及ぶとは考えにくいですね」

 

 

 あくまで王家は王家、軍隊は軍隊。繋がりがあると言っても、その隔たりの深さは陛下だからこそ感じ入るところもあるだろう。カビの生えたしがらみや手垢にまみれた慣例だってどれほどあることか。僕から具体的に反駁されるまでもなく、その点では手の打ちようもないことを痛感した様子の陛下は溜息をこぼした。

 

 

「はぁ。…なんでよ、どうしてそういうことになるのよ───シドニーは? シドニー・ハーバートは貴方を止めなかったの?」

 

「大馬鹿者と怒鳴られて、止められましたよ。……でも、最後には背中を押してもらいました」

 

「なによそれ。義兄弟揃って馬鹿じゃないの?」

 

「ええ、そう思います」

 

「軽々しく肯定してるんじゃないわよ。そもそも貴方は────」

 

 

 それからというもの、女王は必死に僕を止めようとした。僕のやろうとしていることがいかに馬鹿馬鹿しくどれほど愚かであるかを論理的に説明した上、それでは足りないと思ったのかところどころで感情論を持ち出して情に訴えかけることもした。

 

 対する僕は、論理には論理を以てそれを否定し、感情論には頑として頷かなかった。それでは今日この場に来た意味がないのだという意思を堅く貫く。

 

 

 

 義兄のときと同様にこの話し合いの結末は最初から決められていること。筋書きはどうあっても変わらない。それでもなお、言葉を尽くして説得してくれようとする女王には感謝しかないし、僕も最大限の謝意を以て返事を並べていく。なにも変わらないからといって、互いに言葉の積み重ねの放棄はしない。

 

 これはふたりにとって必要な工程だから。

 

 

 

 

 

 

 窓から顔を覗かせる太陽の角度を見るに、謁見終了の時間が迫っているらしい。

 

 言葉が途切れた女王に差し出がましくも願望を挟み込む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────最後にひとつ、お願いだけ。

 

 

 

 ──────ナイチンゲールをどうか()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───もう、ほんと貴方がなにが言いたいのか、さっぱりだわ。よろしくってなんなのよ…」

 

 

 

「どう捉えていただいても結構です」

 

 

 

「あぁ、そう。じゃあ────よろしくした末に、わたしが彼女を潰すって言っても?」

 

 

 

「構いません。僕は信じてますから」

 

 

 

「…ふ~ん、えらく信頼しているみたいね」

 

 

 

「ええ。もちろんです。ナイチンゲールのことも──陛下のことも」

 

 

 

「…………」

 

 

 

「陛下は国益を損なうようなことをするかたではないでしょうから」

 

 

 

「…本気で彼女がそこまでの人物だと?」

 

 

 

「────間違いありません」

 

 

 

「……約束は───しないわ。彼女の噂はかねてより聞いているし、クリミア従軍の件も既に知ってる。その上であくまで公正に、必要だと判断すれば惜しみなく援助を行うし、彼女にとっての障害を取り除く協力もさせてもらいましょう。けれど、それに値しなければ放っておくし、邪魔だと思えば遠慮なく潰す」

 

 

 

「そう言葉にしてもらえただけで結構です」

 

 

 

「…………なーによ、馬鹿みたい。……貴方がわたしに、会いに来るって言うから、近衛になるために───ようやくようやくようやくようやくようやく!! 頭を下げに来たのかと思ったら…。思い違いもいいところじゃない」

 

 

 

 

 

 ────もういいわ、十分よ。下がりなさい

 

 

 

 

 彼女はそう口にして、ぷらぷらと疲れたように手を振る。

 その仕草は悲しげで、寂しげで。それでいてどこか憐れむようでもあった。

 

 

 これがジョン・スミスと女王ヴィクトリアの再会の顛末であり、最後の会話─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────となるはずだったが、退出しようと踵を返した僕の背に女王は言葉を投げかけた。

 

 

 

 

 

 

 

「───ねぇ、()()()。振り向かなくていい。そのまま聞いて、そのまま答えて」

 

 

 

「根拠は? そこまでナイチンゲールを貴方が評価する…その拠り所は─────」

 

 

 

 

 

 

 

 ─────貴方はナイチンゲールのことをどう思っているの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうか、女王はそれを尋ねるのか。

 

 

 言うまでもなく伝わっていると…互いに認め合っていても、それをきちんと形として聞いておきたい、と。

 

 

 そうしてなにも思い残すことなく、僕と訣別しようとしてくれるのか。

 

 

 

 

 ”────そんなの言ってくれないとわかんないわよっ!”

 

 

 

 

 そう言えば、そうだ。

 

 

 女王は僕の言葉足らずに苦しめられたと言っていた。

 

 

 同じ過ちは繰り返せない。

 

 

 きっと僕は正しい形で彼女の思い出にならなくてはいけないのだろう。

 

 

 ならば、ここに残る不義理を破り捨てよう。

 

 

 事実は胸に抱えたまま墓場まで持っていくつもりだったが、誠意とともにそれを提示するとしよう。

 

 

 やはり、それはふたりのために。

 

 

 

 

 

 

 

 ───互いの背中を未来へ押し合うとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もしかすると、()は知らなかったかもしれないけれど。僕にはね”女性を見る眼”があるんだ。こいつには少しばかり自信がある。これが彼女を評価する一番の根拠だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────僕はフローレンスに恋をしているし、彼女を愛しているから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで…たぶん、これは君も知っていたと思うんだけど───」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君は僕の初恋だったよ、ヴィクトリア」

 

 

 

 

 

 

 ───────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 そう言い残し、振り返ることなく玉座の間を退出すると、そこには人払いによりあるはずのない人影があった。

 

 

 

 ────ヴィクトリア女王陛下の夫であるアルバート殿下。

 

 

 

 扉を完全に閉め切ったところで、こちらから声をかける。

 

 

()()()、おいででしたか────アルバート殿下」

 

「───ああ、ヴィクトリアの命であろうとこればかりはな。今日の人払いの件について周囲の者にその詳細は明かされなかったが、彼女の顔を見ればそれとわかるさ。貴様が来るのだろうと思ったよ」

 

 

 それでこちらに控えていたというわけか。

 

 ───正しい判断だ。殿下と同じ立場であれば、僕もきっと同じようにする。…僕のような、言わば間男がやってくるというのだから。女王が結婚してから関係を持ったことはないが、そんなことは勘案のうちには入らないだろう。

 

 といったようなことを言葉にしてしまうのは、さすがに憚られるのでこの場は沈黙を以て同意を表明する。

 

 

「───私は有無を言わせず、貴様を殴りつけるべきなのだろうな」

 

「…殿下にはその権利がおありかと存じます」

 

「そうだっ! そしてそれは、ヴィクトリアの伴侶である私の義務でもある!! 先ほどのやりとりを聞いておきながら、ただ黙して行動を起こさない夫は舌を噛んで死ぬべきだとさえ思うよ。しかし────」

 

「しかし?」

 

 

 そこで彼は一度言葉を区切る。この場で口にすべき表現を吟味することで、己の冷静さの手綱を手放さないようにしているのだろう。そうして自らの怒りを頭から押さえつけてコントロールしている様が見て取れる。

 

 

「───しかし、私は暴力によってこの場で貴様を屈服させようとは思わない。そんな小さな、くだらない男の矜持などというものには唾棄しよう。我を忘れてしまいそうになる憤りに身を任せることで、この身を衝き動かさんとする本能に従うことで──私は幾分か気を晴らすことができるとしても。……そうはしない理由がわかるかね?」

 

「…………」

 

「わからんだろうな──ああ、わかってたまるものか! 貴様は知るよしもないだろう。私がヴィクトリアと一緒になって以来────彼女の唇から貴様の名がどれだけこぼれ落ちたかっ! そのことに自ら気がついた居心地の悪そうな彼女の顔を何度見たかっ! 来訪予定のない玉座の間に浮かない表情を浮かべて彼女が幾度座していたかっ……!!!」

 

 

 

 

 ────それらを聞いて、見て、感じて、私が──私がどんな気持ちであったか……。

 

 

 

 

 殺意さえ込められたような憎しみに満ちた瞳を携えながらも、やはり殿下は拳を振り上げようとはしなかった。苛立ちにわなわなと肩を震わせようと、直接的な暴力行使をしなかった。それはおそらく────

 

 

「ヴィクトリアはこの扉の向こうで泣いている。私にはそれを慰める権利と義務がある。そちらのほうが私にとっては大切だ───それをこそ切にしたいと思っている。だから、貴様を殴りつけた手で彼女の涙を拭うような真似は絶対にできない」

 

「───陛下が泣いている…?」

 

 

 僕がそう呟いた瞬間────、胸倉をつかまれて壁際に追いやられ、勢いそのままに壁に叩きつけられる。

 

 

「貴様にはっ、反吐が出そうだよ! そんなこともわからない男に我が妻は心奪われていたのかと思うと!! あまり舐めてくれるな───貴様がっ……貴様の口から、身の上話を聞かされ、直接別れを告げられ、他の女を優先したいと言われ…………心より慕った男から戦場に、それも──────」

 

 

 

 

 

 

 ─────最前線に行くと伝えられてっ!!!!!

 

 

 

 

 

 

「それでヴィクトリアがなんとも思わない女だと、そんな薄情な女だと本気で思っているのか────────!?」

 

「…………」

 

「なぜなんだ、どうして彼女の手を振り払える? どうしてナイチンゲールを選んだ? どうして自ら死に進んで行こうとする? 貴様はそこまで馬鹿な男だったのか!? よもや私に気を遣っているわけでもあるまい────答えろ、ジョン・スミス!! 答えろっっ!!!」

 

「……」

 

 

 気道を絞め上げる力は強くなる一方で呼吸すらも苦しくなってくるが、女王の件に関してこちらは語るべきものを持たない。それについては先ほどの謁見で直接言葉を尽くした。

 

なので、この場では別の筋を通すべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 ─────殿下は、人が死んだらどうなると思いますか?

 

 

 

 

 

 

 壁に押さえつけられながら抵抗せずされるがまま彼の目を真っ直ぐに見据え、質問を遮って質問を述べる。非礼は承知の上で、こちらの真摯な想いを相手にぶつける。それこそが殿下に対して示せる誠意の形だと信じて。

 

 それが伝わったのか、非礼を咎めることもなく殿下はこちらの問いに答えてくれる。

 

 

 

「…………死ねば、そこで終わりだ。なにも残らない。あるとしても───それは”無”だよ。であるからこそ、ヴィクトリアは今を生きるこの国の民の幸せを願ってやまない。彼ら彼女らの憂いのひとつでも多くを取り除きたいと労を惜しまず政務にあたっている。……また、そんなヴィクトリアを私は幸せにしてやりたいと思っている」

 

 

 

 やはり、この人は善良な人だ。

 語る言葉に虚飾の色は見えないし、自分には女王を幸せにできると確信している。そこには驕りも慢心もない。

 

 ならば、僕はこのままこちら側の話をするまで。

 

 

 

「───”無”ですか。なるほど、その通りですね。きっとそれが真理であり、間違いのない確かさというものなのだと思います。僕もそうだと思っていました」

 

 

 

 深呼吸をひとつ。

 自分でも愚かだとわかっているが、もう決めたこと。だから、自信を持って朗らかに所信を表明するとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────ただ、そうじゃないとフローレンスは言うのですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 ────命には続きがあるのだと豪語するのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───僕はそれに騙されてみたいと思いまして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───彼女の言う、命の果ての続きにはなにがあるのか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…だから、殿下。どうか僕には────貴方がたとは違う道を行かせてください」

 

 

 

 

 城外へ繋がる廊下に目をやりつつそう言って、胸倉を掴んでいる殿下の指をほどく。対面の男の怒気を物ともせずにやわらかく優しく丁寧に目前の人間と対峙し、血の通った言葉を送る。それまでの緊張感が嘘だったかのように、この場の空気が弛緩していく。

 

 貴族ならではの気位の高さを備えているが、人として、男として、夫として、なにが大切なのかを心底から理解し、それを体現されようとしている。であればこそ──彼に敬意を。

 たとえ、彼が怒りに囚われることがあろうともそれは愛する妻のためなのだから。

 

 そして───力の籠った拳はついに振るわれることはなかった。

 

 

 

「陛下には貴方が必要です。……彼女が悲嘆していると確信しているのであれば、やはり殿下がいるべきなのはここではないでしょう」

 

 

 

 ハッとした表情を浮かべて少し逡巡しながらも玉座の間の扉へと向かう殿下。

 

 扉の前で立ち止まり、開こうと手を掛けたところで

 

 

 

「…ふん、いいだろう。納得したことにしてやる。私は貴様の生い立ちに同情などしないし、貴様の思惑などまるで興味がない。ナイチンゲールの元へなり、クリミアの最前線なり、どこへなりとも好きに行くがいいさ。そして、私たちとは無関係のところで死んでくれ……二度とその顔を我が妻の前へ晒してくれるな────」

 

 

 

 背中を向けたままそう言った。

 

 扉が閉まり殿下の姿が見えなくなった後、玉座の間に背を向けて城外への道を歩み出す。

 

 

 全く酷い言われようではあるが、ここにはない思いやりが正しい人に向けられるのであれば、それはきっと喜ばしいことだろう。僕がナイチンゲールを優先したように、殿下は女王を優先しているということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────それに、君が泣いていると気がつける男なら心配はないね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 余計なお世話かもしれないけれど。

 僕はね、少し心配していたんだ。

 僕のような大馬鹿者を好きになるような女性だから、

 もしかすると”男性を見る眼”がないのでは、と。

 

 

 

 ────でも、そんなことはなかったね。

 

 

 

 

 

 

 

 ボタンが外れ、妙な形に歪んでしまった軍服の襟を軽く整えながら、少し微笑(わら)った。

 

 

 

 

 

 




 


 誤字脱字、ここの文意がワケワカメ、展開に対する苦情等ありましたら、気軽にご連絡いただけますと幸いです(反映するかはこちら次第だがな!
 ハーメルンからでもTwitterからでも構いません。作品をよりよくするためにご協力のほどお願いいたします。




 ジョン・スミスの”終活”の一環には、ハーバート家とはまた違うこういうお別れも含まれていたよ、という例。


 言わずもがな、4話と5話では「LOVE」の訳が違いますのよ、奥さん。



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