「この世界は
前を向けば“未来”
振り向けば“思い出”
どこか一部を切り取れば“物語”となる。
これはそんな物語の一部に過ぎない」
────フロントウィング
『グリザイアの果実』”みちる√”より
「あーっ、あーっ、あーっ!」
絹糸もかくやというサラサラした亜麻色の髪をなびかせ───女がひとり、自らの寝室にて声を上げている。寝室という場所もさることながら、その小さな唇から発せられている声が声なので、第三者がこの状況を覗いていたとすれば、いったいナニをしているのだろうかと首を捻るに違いない。
でも、どうか安心してほしい。この部屋の主は現在ひとりきりなのである───いや、ひとりであればそれはそれでデキルことがあるだろうとお思いかもしれないが、それも大丈夫。彼女にそのような知識はない。なぜなら彼女はただ単にこの寝室の主というだけではなく、”一国の主”でもあるのだから。故に、そういった非生産的なワザを覚えるといったことを彼女の周囲が許さないのだ。
ある一定より上の家柄を持つ者はなにをおいてもまず世継ぎを残すことが求められる。いわゆる「早く孫の顔が見たい」などというレベルの話ではなく。不浄の血が混じることは考えられない、血を途絶えさせることは許されない───より深く、より濃く、次の世代へ次の世代へと掛け合された清廉な血を繋いでいく。その連綿と続く流れこそがそれぞれの時代を生きてきた先祖の証となる。そう信じて疑わないのが貴族と呼ばれる者たちであり────この国において、そのトップに君臨する女性が彼女なのである。
残念なことにこの時点で本人にそこまでの気負いというか、責任感があるとは到底言えない。本来ならば全国民からのプレッシャーを一身に受け、常にナイーブになってしかるべき。それなのにも関わらず、当の彼女はどこ吹く風の様子で実にのほほんとしたもの。
「コホン、あーっ、あーっ、あーっ!!」
だから、今もひとり寝室で奇声を上げている。
あぁ、おいたわしや。
しかし───生まれながらにして女王に
本筋から外れるため、その諸々にまつわることをこの物語で詳しく触れることはないが、そういった独特な人間味を持っていた彼女だったから「イギリスはこのころ最も栄えていた」と後の世の人に言われるようになったのかもしれない。
在位は63年と7か月、国内歴代二位の長さを誇る治世を今後担っていくことになる────
────そんな彼女の謎の奇声が止んだ。かと思うと、
「───ウォーミングアップ終わり。じゃ次…」
スーッと息を大きく吸い、自身の豊かな胸をさらに膨らませた後、
「Peter Piper picked a peck of pickled peppers.
(ピーター・パイパーは1ペックの酢漬けの唐辛子をつまんだ)
A peck of pickled peppers Peter Piper picked.
(ピーター・パイパーがつまんだ1ペックの酢漬けの唐辛子)
If Peter Piper picked a peck of pickled peppers,
(もしピーター・パイパーが1ペックの酢漬けの唐辛子をつまんだら)
Where's the peck of pickled peppers that Peter Piper picked?
(ピーター・パイパーがつまんだ酢漬けの唐辛子はどこにあるか?)」
一気呵成にとある文言を懸命に言い放った。
……一応注釈しておくと、誰かを呪おうとしているとか、そういったことではない。むしろ、事の本質は逆に近い。
「よしっ、一息で言えた、いいぞわたし!」
誰も見ていないことをいいことに寝室でいきなり訳のわからないことを言って、ひとりガッツポーズを決める女王。サラサラの髪がふわりと揺れ、まだ発達段階ながら整った容姿も手伝って美しく見えなくもない。しかし、やはり行動が意味不明である。
見る人が見れば────たとえば、彼女お抱えの女官がこのシチュエーションに遭遇しようものなら、驚きのあまり腰を抜かしてしまうだろう。もしや気でもふれたのか、と医者を呼ぶ騒ぎになりかねない。
ただし、繰り返すようだが彼女は今ひとりなのである。他人に迷惑かけるでもなし、これぐらいの挙動不審はどうか大目に見てやってほしい。
そして、まだこの茶番が続くことも許してやってほしい。
「”わたしの言うことが聞けないって言うの?”」
「うーん」
「…なんか違うな…こんなんじゃ全然駄目だ…」
そうひとりごちるが、それでもめげずに─────、
「”貴方のためにやってるんじゃないんだからねっ!”」
「”す、好きなんて言ってないじゃない! ち、調子に乗らないでよね、バカ!”」
「”別に怖くなんかないわよ! …でも、どうしても貴方が一緒に行きたいって言うなら…付き合ってあげなくもないわ”」
「”お家に、だだだだだっ、誰もいないって聞いてないんだけどっ!?”」
「──────────────」
「”嫌いだったら、そもそも相手になんかしないわよ!”」
「”あ、あああ、明日は私、偶然、予定がないだけだからねっ”」
「”さ、寒くなってきたから、仕方ないじゃない”」
「”べつに貴方の心配なんてしてないんだからっ!!”」
「……………………」
最初の
中にはそもそもどういう状況に使うのか彼女にはよくわからないものも含まれているが、言い方や間の取り方に加えてイントネーションにも気を配って取り組む様子は必死そのもの。
場合によっては少しどもったりするのがいいらしいということも聞いているので、そのあたりのニュアンスも要所要所で手元のカンニングペーパーを見ながらぬかりなく。
さて、賢明な者ならば、もうお気づきかもしれないが。
彼女は”既に”女王なのである。
王女ではなく───女王。
一国の主。
先王であるウィリアム4世が崩御してから、18歳の若さで女王に。
それからさほど間を空けることなく、彼女は自らの煌びやかな寝室で人払いを行ってまでこのようなことをしている。
幸か不幸か──今の彼女にはまだ伴侶と呼ばれる存在がいなかった。けれど、それに準ずる候補はもう既に列挙されていたし、対面も済ませてある。彼女はそういう人種なのだ。それなのに─────。
箱入りも箱入り、マトリョーシカもびっくりな箱入り娘にありがちな、周囲の大人に勝手に決められたレールの上を走りたくないという可愛げのある願望と見れば、まだ救いもあるが─────。
先述させてもらったが、彼女の女官がこの様子を見ていたとして、いの一番に心配しなければならないのは奇妙な言動でもその内容でもなく─────今の彼女の顔である。
──────その顔は完全に恋する乙女のそれなのだから。
ハノーヴァー朝第6代女王ヴィクトリアが浮かべていい部類の表情ではない。
───────────────────────────────────────
戦時大臣を任ぜられるようなハーバート家は当然の如く名家と呼ばれるに相応しい家柄を持ち、ヴィクトリア女王の先王のその前の前の前の……といった具合にその時々の国王から信頼が厚い家系であった。
ハーバート家は国王が催すパーティーに毎回のように呼ばれ、養子としてハーバート家に迎えられてからジョンはその家族の一員としてパーティーに出席していた。つまり、ジョンは幼少期からヴィクトリアと面識があった───どころか、持ち前の女好きな性格が幼少のころより発揮されており、パーティーの度に王位継承権を所持している王女ヴィクトリアに声を掛けるという不敬を働いていた。
子どものすることだと周囲の大人は捉えた上、信用の置けるハーバート家の子であること、そしてジョンとヴィクトリアそれぞれの歳が近いこともあり、ふたりの距離が近づくのにさほど時間は必要なかった。
ただ、ふたりがそのあと数年に渡り、幾度となく秘密裏に会っていることを知ればそのときの大人たちはどのように思うだろうか。彼女が国王になってから警備がより厳重になったこともまるで関係ないかのように。
ふたりの密会が成立するのはジョン・ハーバート個人の手練手管によるものが大きいのだが、ヴィクトリアも自身を特別扱いすることのないジョンを好ましく思い、その協力を喜んで行っていた。
今日も彼と彼女は会う手筈となっており、今はそのときのための
そして、それは突然に──────
「”言葉に気をつけなさい、わたしは───”」
「どうも、女王陛下。貴女のジョン・ハーバートが参上いたしました」
「うわああああああっ!!!」
とても一国の王とは思えない悲鳴を上げるとともに、3メートルほど後ずさる女王。
そして、寝室の外からニヤニヤした顔を覗かせる青年。
「ぃつ、つつつ……から、いい、いたの?」
「───たった今来たところですよ」
「…本当に?」
「本当ですとも、僕が貴女に嘘をついたことがありますか? ───失礼しますね、陛下」
そう言って男はするりと部屋の中へ歩を進める。その所作はいかにも勝手知ったるといった具合で、唐突な男の登場に慌てる女王もそれを咎めるといったことはない。そんな雰囲気からもふたりの関係の深さをうかがい知ることができると言っていい。
「いや、でもっ。それならそれでノックぐらいしてくれたらいいじゃない。…えと、あと、その、ふたりきりのときに敬語は───」
「ああ、そうでした…じゃなくて、そうだったね。ノックはしたよ。なにやら忙しそうで全然気づく様子はなかったけれど───”あーっ、あーっ、あーっ!”と叫んでいるときなんかいったいなにをしているのかと」
「……それって、ほとんど最初からいたんじゃないのぅっ─────!!」
キメ顔で『僕が貴女に嘘をついたことがありますか?』なんて言うから騙されたけど、そう言えば貴方は嘘ばっかりじゃない! と羞恥を混じらせて憤る女王に対し、男は追い打ちをかける。
「えー、なんだったか───そう、”わたしの言うことが聞けないって言うの?”だったかな」
「あぁぁぁああああああああああ」
「あとは、”お家に、だだだだだっ、誰もいないって聞いてないんだけどっ!?”とか」
「うぇぇぇぇええええええええええええええ」
「”あ、あああ、明日は私、偶然、予定がないだけだからねっ”」
「やめてよぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
と叫ぶと同時に女王は傍らのベッドにへたり込むように背中から倒れ、朱く染まった顔を両手で覆う。
「ヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイ」
「ごめんごめん。君に対してこんな物言いは失礼かもしれないけど───あまりにも可愛らしかったので。しばらくの間、入室を控えてしまったよ」
「うあー。……あれ、ちょっと待って、そうよ。そもそも今日はここに貴方が来るの、軍の用向きでもう少し時間がかかる予定だったじゃない? だから、わたしは……練習を、その、ひとりで…」
「────軍務のほうは可能な限り速やかに終わらせて駆けつけさせていただきましたよっと。少しでも早く───
「はうっ」
”男性を虜にする台詞”を練習していた自分のほうが”女性を虜にする台詞”にやられてしまうなんて。ああもう、ジョンがまたいかにも純粋な感じで、決して狙って言ってるわけじゃないのが、すごくいい…。
─────というのは垣間見るまでもない乙女の心情。
「それにしてもヴィクトリアが僕のいないところであんなことをしているなんて、ちょっと嬉しいね」
ベッドの上に身を投げ出している女王に音もなく近づいている男。男の声の発生源が存外近かったことに驚きつつ、言葉を返す。
「べ、べつに貴方のためってわけじゃないわよ」
「あー、もしかして──”それ”も練習の成果?」
「ちがっ、いや、違ってはないけど……、これはそういうのではなくて…」
「ん? じゃあ、本当に僕以外のために練習していたのかな───なんだか嫉妬してしまうな」
「ひぁ、いえっ、そういうことではないの、ええ違うのよ」
言葉の応酬の
綺麗に整えられたシーツがふたりの移動に伴って歪んでいく。
それまで顔に注がれていた男の視線が手足、胸部、首筋、唇、腰回りといった体の部位へと移っていることを女王は感じ───途端、自らの着衣が乱れていないか気になり始め、身につけたネグリジェの表面を体のラインに合わせて指を這わせる。
そうしていると少々薄着だったかもしれないと後悔の念も滲み出す。ただ、それは男に対する恐怖や嫌悪感を基礎とする感情ではなく、はしたない女だと思われたくないという憂いからくるものだった。
互いの体温が上昇しているのがわかったときには、もう男は女王の頭を挟むようにして手を置き、片膝を彼女の脚の間に滑り込ませる形で覆い被さっていた。
こういった空気はいくら回数を重ねても慣れることはない────いや、もしかするといつの日か慣れてしまうときがくるのかもしれないけれど。今、漏れ出てしまいそうになる声を生唾とともにコクンと飲み込んだ女王には関係のないことだった。
「
この期に及んでそんなことを口にする男が女王は小憎らしくて仕方がなかった。だって、女王のほうに選択権はない。かといって、男にも選択権はないのだが。
ふたりとも既に止まれるような状態にはないのである。
────だから、男の台詞は演出の一環。
シチュエーションを盛り上げるためだけに存在する舞台装置。
女王を辱しめて男は悦び、男に辱しめられて女王は悦ぶ。ただそれだけの戯れ。
そう、たったそれだけのことのはずなのに……、なかなか声が出ない。
そこにぶら下がっている紐があるのに、押すだけのスイッチがあるのに。それに手を伸ばして引くだけで、力を込めて押すだけで────それだけで今ほしいものがすぐに手に入るのに。
身体はこんなにも熱く熟れて火照っているにも関わらず、己の喉のみが凍ったように固まって言葉が出てこなかった。
───こういうのは勝ち負けじゃないし、理屈じゃない。
それを口に出したからどうということはないのだから、さっさと口にして楽になってしまえと己の欲望が騒ぎ立てる。そんなことはわかっているけど、なんとなく────本当になんとなく相手の言いなりにはなりたくないとちっぽけプライドが女王の理性をすんでのところで支えていた。
そのせめぎ合いが女王の胸の中で小さな種火となって、ちりちりと胸を焦がす。
痒いような、
甘いような、
苦しいような、
切ないような、
痛いような、
こういうのを──たしかなんて言うのだっただろうか。
身じろぎすれば鼻と鼻がぶつかってしまいそうな距離で互いの目を睨むようにして見つめ合いながら、瞬きも忘れてそのことを考えていた。
できるだけ早くこの時間が過ぎ去って激しい濁流の中に呑み込まれてしまえばいい、そう思う一方でいつまでもいつまでもこの場所に
─────早く早く、一秒でも早く触れて欲しいのに、それが”終わりの始まり”を告げるベルであることを知っているから……まだもう少し、このままで。
今まで必至に保っていた自分が溶けて駄目になっていく感覚をずるずると引き延ばしていたくなる、この感覚の名前は────。
とは言え、もう身体のほうが我慢の限界だと言わんばかりに───女王の片方の瞳からコントロールしようのない涙が溢れ出してくる。
それを目にした男はそれまでと打って変わって、不意にゆったりとした優しい顔になり、ルール違反ではあるものの”合図無しに”手を動かそうとする。
それが女王には
自分に触れようとしている男の手をぐっと掴んで止める。
一旦止めてから───放す。
はぁはぁはぁと熱のある吐息を吐きながら、一度うめくように喉を鳴らす。
それから────、
ようやく──────、
遅きに失したスタートの合図を口にする。
「好きにしなさいよ、…ばか」
「…………了解」
────コンコンコン、とノックの音が室内に響く。
「申し訳ありません、陛下。ジョン・ハーバートです。軍務のほうにかなり時間がとられてしまい、駆けつけるのが遅くなってしまいました。執務室のほうにいらっしゃいませんでしたから、もしやこちらに─────」
いつものように何の気なしにガチャリと開けた男がそこで見たものを事細かに描写するのは、情け容赦がなさすぎるので、端的に一言だけ。
────あられもない姿の女王がそこに。
今回の件から得るべき教訓は、聖書にだって書かれてあるのだから、非生産的なワザなど教えられずとも習得していて当然だということである。
誤字脱字、ここの文意がワケワカメ、展開に対する苦情等ありましたら、気軽にご連絡いただけますと幸いです(反映するかはこちら次第だがな!
ハーメルンからでもTwitterからでも構いません。作品をよりよくするためにご協力のほどお願いいたします。
【みんな大好きハッピージョブシーンについて】
仮にも女王なので、そこまでアクロバットなことしていたとは想定しておりません。精々がまたぐらに片腕を挟みこんで、妄想に耽って(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♡唸ってるぐらいのレベル。本格的なことは流石にひとりじゃできないという感じ。
ほんとはもっとぇろくしてやろうと心情描写だけではなく「色の付いた吐息を吐くとともに、ぴくぴくと小刻みに肩を震わせる女王は~」「濡れた細い指先がきらきらと輝き、その指をさらに~」「それを舐めとった舌を伸ばし、また絡めとりながらゆっくりと味わうように口の中で転がした」みたいなピンク色物理的描写も濃くしてやろうかと思ってたのですが、それをやるとまた文字数増えるし趣旨がぶれると思ったので、あえなくカット。
それは、あれだ。女子校で先生をやってからしばらくして、気が向いたら教師モノで書くよ(ナニ
あと、全人類、グリザイアはやってくださいね。必修です。
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