『小夜啼鳥が血を流す時』   作:歌場ゆき

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『何やら急いでる様だな、お前さん?』

「…」

『なぁ、一つだけ質問させてくれ。』

『どうしようもないクズでも変われると思うか…?』

『誰でもその気にさえなれば良い奴になれると思うか?』
 

────Toby Fox
『Undertale』(非公式翻訳)より








「Crime and Punishment」

 

 

 

 薄暗い部屋。

 

 見る者が見れば、ここは牢獄のようにも感じるかもしれない。

 決して広くはないスペースに腐食した書類や粗悪で手入れのされていない家具や食器、そのほか──暗がりではおよそ判別のつかない物体がところ狭しと散乱している。塗料のはげた床板には黒ずんだ染みが多く目についた。

 まるで肌にまとわりつくようなじめじめとして淀んだ空気────

 息の詰まる室内で鼻腔を満たすのはカビの臭い…だけではなく()えた鉄の匂いが混じる。

 常人であればその嫌悪と不快感に数秒と経たず退去するであろう──そんな室内において。

 

 男がふたり、小さなテーブルを挟み向かい合う形で座っていた。

 

 距離を考えれば、病舎の喧騒が響いてきてもおかしくないところに存在するこの場には、ただ静寂だけが転がっている。

 ともすれば耳鳴りが聞こえてきそうにもなる無音だけが今この空間を満たしている。

 

 ふたりはまるで微動だにしない。

 ──それもそのはず。

 

 男のうちのひとりには意識がなかった。

 両の手は後ろ手を組まされており、縛られたうえで椅子に固定されていた。

 猿ぐつわをかませられていたり麻袋をかぶせられているわけではないが、正しく──男は拘束されていた。

 

 そして、

 

 もう一方の男は腰かけた椅子の上で腕を組み、考えている。

 ぴたりと両の瞳が閉じられているために傍目からは眠っているようにも見えるが、男はその目蓋の裏に彼の半生を映し、また同時にこの先の筋道について思いを巡らせていた。

 

 

 

 自分が用意した歯車は既に噛み合い、回り始めている。

 大局的な情勢に影響を及ぼすほどではないものの、今はそれでいい。

 むしろ、()()それがいい。

 

 表で物事を動かす必要はないのだから。

 もう誰にも動かしようのないほどに裏側の趨勢が決まりきったとき…そのときに初めて盤面をひっくり返す──それこそが最善。

 

 万事が万事ではないが、現状は机上に描いた絵の通りの流れで事が運んでいる。

 

 かつて──それは理想論であるかもしれないが今や空論などではない。

 まだ理想であるというならばそれを地に引きずり下ろし、必ずや現実のものとしてみせる。

 そのためにこれまでを費やして。

 

 また、これからも同様に……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それらを踏まえた上で─────

 

 

 

 

 ──今、ここで。

 

 ──”自分はどうするべきなのか”。

 

 ──否、問いと答えはもっと単純明快で…。

 

 ────”()()()()正しい判断なのか”。

 

 ────ただの二者択一が眼前にあるのみ。

 

 しかし────、

 

 男は迷っていたし考えていた。

 脈動とともに脳髄をガンガン叩く懊悩と葛藤。

 

 はたして自分の心の置きどころはどこにあるのか。

 白と黒の両方の間で揺れる針の向く先を座して見極め続けていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局────、

 

 針の行方が定まる以前に物理的な動きが表れた。

 男の内なる問答は中断を余儀なくされる。

 

 

 

 

 

 

「ぅぅう…ぐっ」

 

 

 

 

 

 

 拘束された男がくぐもった声を上げる。

 

 ──どうやら意識が戻ったらしい。

 それほど強く殴ったわけでもないのに、存外覚醒に時間がかかっているからこれは、もしや”やってしまったか?”と思ったものだが…。

 

 

 

 まぁ、とりあえず、よかった。

 

 

 

 そんなことを思いながら、あらかじめ用意していた言葉を目覚めたばかりの男にかける。

 

 

「お目覚めですか、長官殿────」

 

「ぅん? …なんだね、君は? それにここは……!?」

 

「僕ですか、僕の名前は”ジョン”。スクタリに派遣されたしがない一兵卒です。そして、この場所については僕などよりも長官殿のほうがよくご存知でしょう。なんとも素敵な部屋ではありませんか」

 

 

 ぬ? なんだ──ぉ、おい、この拘束は貴様の仕業か──! という喚きを遮る形でそんな答えを返す。

 

 

「───────」

 

 

 長官殿と呼ばれた男──スクタリ病舎最高責任者であるホール軍医長官は絶句する。

 

 

 

 対面する男と自分との間に位置されたテーブルの上にペッパーボックスピストルと呼ばれる拳銃が置かれていることに気がついた。

 

 

 

 拳銃…、

 凶器……。

 人を殺傷するための道具。

 簡単に人の命を奪ってしまえるもの。

 そんなものが嫌でも視界に入るところに無造作に置かれている────。

 

 そして、拘束され十分な身動きが取れないという自らの状態。

 

 そこに加えて、()()()()は─────────!

 

 なんなんだ、これは。

 いったいどういう状況なんだ。

 

 額から流れる汗を拭おうにも、腕が縛られていてはそれもかなわない。

 

 混乱するホールの頭にある気絶する前の記憶は──長官室で酒を飲みながら行っていた傷病者や死者の記録の改ざんと国から寄越される支給品と経費をいかにちょろまかすかを画策する…という”いたって普段通りのこと”。

 

 あとは、そうだ…。看護婦団のことをどうしたものかと考えていた。

 どうやら便所掃除を皮切りにして、いらんお節介を病舎の各所で焼いているようだが、これ以上つまらん火種を増やしてもおもしろくない。また、あのナイチンゲールとかいうのが余計なことに気がつかないとも限らない。

 反乱分子は早めに潰しておくに限る。場合によっては”事故死”してもらう必要もあるかもしれん。

 

 なんせ今は戦争中だ──死体の十や二十、珍しくもなんともない。

 

 ほくそ笑みながら、そんなことを考えていたためにいつもより酒量がほんの少し増えていたかもしれない。

 

 そういえば、

 

 長官室にある

 秘密の保管庫に

 入れた覚えのない酒があったことも

 深酒の原因に────────

 

 そうして、そこからの記憶がまるでない…。

 

 

 

 

 

 

 

 今、ホールの中に浮かぶ疑念は大きくふたつ。

 

 …なぜわたしは拘束されている?

 …この男はどこまで知っている?

 

 重要なのは言うまでもなく後者。

 ここはいわゆる都合の悪いモノの始末部屋で──カギはわたししか持っていないはずの()()()()()()に連れてこられ、拘束されている時点で──目前の男に、都合の悪い情報が握られていると覚悟するべきだ。

 もし、もしもの話──このジョンと名乗った男がわたしの行いについての一から十を知っているというのならば…。

 まずい、まずいまずいまずい、まずいまずいまずいまずいまずいまずい────

 申し開きのしようもなく、ここでわたしの全ては終わる。

 

 しかし、身動きが封じられてはいるものの、見たところ相対したジョンからの敵意は感じられない。

 軍服を着ているところから、軍人であることは間違いない────軍部からの監査か?

 

 場にそぐわない飄然とした雰囲気から伝わる得体の知れなさは不気味だが、言ってしまえばそれだけだ。

 加えて、わたしを断罪しにやって来たというのなら、ひとりだけというのはどうにもおかしい。

 事情が漏れているならば、いきなり囲まれてリンチにあう…といった目に合っても今更文句は言えない。

 

 そもそも──わたしを気絶させておきながら、目を覚ますまで待っている必要はないはずだ。

 ……なんならその隙に殺してしまえばいいのだから。

 

 

 

 ホールはそっと、

 眼前の人物から目線を外し、机上の拳銃にピントを合わせた────。

 

 

 

 だが、そうはなっていない。

 つまり、怨恨や正義感に駆られたゆえの行動ではないわけだ。

 

 ならば……と。

 ふと思い当たる節がなくも──ない。

 

 そこで、ホールは自分がジョンの立場であればと考えた。

 

 なるほど、そうか、わかったぞ──!

 考えてみれば難しいことはなにもない、ごくごく単純なことだったのだ。

 

 

 それが最もこの場において最も合理的だ。

 ならば違いない。そうに決まっている。

 

 

 単なる脅しにしては演出過多のきらいがあるが、こういう人間は使えば化ける。

 

 要は、こいつも”こちら側”の人間なのだ。

 

 楽をして甘い汁を吸いたいわけだ。

 

 

 事実、こういった手合いが今までにもいたじゃないか。

 ここまで手荒とはいかずとも、こちらの弱みにつけこむ形で──言い寄ってきた者が数人存在した。

 

 この場ではうまく話を合わせて、使えるだけ使ってやろう。

 なにかあれば、後から()()()()()()()()すればいい。

 今までそうしてきたし、それで面倒な問題はクリアしてきた。

 

 多少ハラハラさせられたが、今回も同じこと。

 よく知った展開だ。

 そうだ、そう判断できる。

 それなら、わたしが拘束されているだけで危害を加えられていないことにも説明がつく────!

 

 

 

 

 …加えて。

 

 たとえ不測の事態が起こったとしても、この状況を一気に好転させる、”あること”に気がついた。

 身じろぎをしている際に、よもやとは思ったが……。

 やはり…わたしの悪運はまだまだ尽きていないようだ。

 さぁ、まずは一勝負─────────

 

 

 

 

 落ち着いて考えることとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────と、そのような。

 

 

 

 

 ────そのような思考に一度辿り着くと、彼のような人間にはもう手放せなくなってしまう。

 

 ────既得権益を守り膨らませることに執着し、欲望のまま貪る輩に成り下がった虫と言うべきか。

 

 ────自らにとってはなによりも都合がいいから、それに縋りつくほかない。

 

 ────それがどこまでも甘やかに(ただ)れた幻想だったとしても。

 

 ────味をしめた虫はそれの甘さを忘れられず、より甘美なものを求めて。

 

 ────丸々と肥えた腹をさすり。

 

 ────下り坂を転がっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────長考の末。

 

 先ほどまでの焦りを忘れたかのように。

 完全に落ち着きを取り戻したホールは、場の主導権を握ろうと切り返す。

 

 

「貴様、なにが望みだ────?」

 

 

 拘束のため、不自由な体躯──それを少しでも大きく見せようと、胸を反らしながら放たれた低い声。

 虚勢やはったりなどではなく確たる自信を持ち、薄く笑みすら浮かべて言葉を続ける。

 

 

「わたしの()()()()に一枚噛ませろ…と言いたいのだろう?」

 

 

 皆まで言うなと言わんばかりの表情で──────

 

 

 

 

 しかし。

 傍から見ると、これほど滑稽なこともない。

 自らの理屈のみで、自らの世界のなかだけで動き回っている哀れな男。

 

 存外、虫かごのなかの虫というものは自分が囚われの身であることに気がついていないのかもしれない。

 

 

「まったく、ここまで脅迫まがいのことをするまでもないだろうに。貴様と同じような思惑で、わたしに近づいてきた者は他にもいたのだよ。どうやら、なかでも貴様は余程の心配性のようだ」

 

 

 こんなことは子どもの遊び──児戯にも等しい。

 出口とは反対の方向に羽ばたく虫が壁にぶつかってその身を傷つける様を──外部から眺めているような。

 

 

 

 

 ただし。

 

 やはりまだジョンは見極められてはいないのだ。

 

 ────”()()()()正しい判断なのか”。

 

 ホールのやったことを考えれば…、否──軍医長官としてやるべきであるのに()()()()()()()()を考えれば。

 ホールは問答無用で即刻、処分すべきである。

 生かしておく価値がない。

 

 同胞の無念を、遺された者の慟哭を思えば。

 

 であるのに。

 事と次第によっては、ホールを逃がしてもいいとさえジョンは考えていた。

 もちろん看護婦団の邪魔にだけはならないように首輪はつける…という条件付きではあるが。

 

 

「いくつか確認させていただいても構いませんか?」

 

「構わんが…先に拘束を解いてもらえんかね。窮屈でかなわん」

 

「すみません、念には念をということで。そちらは話がまとまってからということにさせてください」

 

「…ふん」

 

 

 全ては、フローレンス・ナイチンゲールに関係してのこと。

 彼女の存在こそが、

 単純なはずの問いをがんじがらめに──答えを複雑にさせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───たとえば、こんな疑問。

 

 ───彼女が人を救う一方で、

 ───自分が人を殺めるというのは許されることなのだろうか。

 ───彼女のために誓った身で。

 ───それは酷い矛盾ではないのだろうか。

 

 ────といった、疑問。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦場に駆り出されている兵士がいまさら綺麗事を…と思われるかもしれない。

 彼自身、くだらないこだわりだとはわかっている。

 

 けれど、それはそれこれはこれだと簡単に割り切れるような者にフローレンス・ナイチンゲールの隣を歩む資格はあるのか。

 

 

 

 

 また、今なおスクタリ病舎で苦しんでいる同胞──果ては尊き命を散らした同胞に思いを馳せる。

 もしかすると、彼らは救えるかもしれないし、救えたかもしれない。

 人の身で、救う命を選択する傲慢さ……。

 それは────────────────

 

 

 

 

 ……どちらにせよ、思考放棄はできないと────

 彼は考えていた。

 

 

「まずはそうですね。長官殿が立場を利用して──いや、ここに至っておべんちゃらも必要ないでしょう──言わば、スクタリ病舎の長官として横領を行い、得られる利益はどれほどのものなのでしょう?」

 

「……ほう? こちらも話が短くて済むのは助かるが、いきなりそこからか」

 

「仮に長官殿の話に乗ったとして、分け前がいかほどのものになるのかを明確にしたいもので」

 

「なるほどなぁ。はっはっはっ…いやいや、欲望に素直な人間は嫌いじゃないぞ。仲良くやっていけそうじゃないか──君の名はたしかジョンだったね。安心してくれたまえ、ジョン君。この()()()はわたし以外誰も知らんよ。つまり、分け前はきっかり半分にできるということだ。無論、君にもがんばってもらわねばならん。元のわたしの取り分をふたりで分けたのでは、わたしだけが貧乏くじだからな。ふたりで”うまみ”を倍々にしていこうじゃないか」

 

「そうですか、それは重畳なことで。ただ…、僕のほかにも無心を迫った人が過去にいるという話でしたが、その方々は?」

 

「…………それは、あれだ。わたしは頭の足りん人間を信用しない性質でね。有象無象の者どもは適当にあしらったのだよ。ここまで手の込んだことを計画し、実行に移す貴様のような人物であるならばまだしも」

 

「ということは──、僕は長官殿のお眼鏡にかなったと考えても?」

 

「ああ…、もちろん。そうだとも」

 

「…感謝、申し上げます」

 

 

 そこから、ジョンはひとつずつ確認を行っていった。

 ホールの協力者は誰か、誰がどこまで知っているのか、軍部の監査にはどう対処しているのか────

 加えて、前線の状況とそれに伴う患者数の変動、病舎内の情報掌握の具合など……。

 

 聞けば聞くほど、叩けば叩くほど──この男からはほこりが出てくる。

 

 ────それもそのはず。

 

 ホールには切り札があった。

 故に──本来は隠しておくべきようなことでも洗いざらい喋った。

 

 さも自らが罪状を読み上げる検察官であるかのように。悪事の数々を並び立てていく。

 仮にも軍医長官にまで登り詰めた者である。

 それなりの警戒心を持ち合わせており、ジョンを完全に信用しているわけではない。信用を伴って共犯者に語りかけているわけではない。

 

 それでも、やはりホールの口はよく回った。なにがどう転がろうとも、この場を切り抜けられるという確信が彼の口を軽くさせている。

 

 

 

 

 

 

 

 ────彼は検察官などではなく、被告人であるのに。

 

 

 

 

 

 

 

「ジョン君。わかるかね、戦争というものは金のなる木なんだよ。勝つか負けるかのハイリスク・ハイリターンに出し惜しみはありえない。物資、人材、技術、情報に金────あらゆるものが尋常ならざる速度で動いていく。その動きのなかに犠牲はつきものだが、一方で大きな利益を手にする者がいることもまた事実。上官の命令には絶対服従の挙句、そこらに転がることになる死体(負け犬)の仲間はいやだろう? この戦争が終わるまでとても快適な秘密基地に立てこもり、尻で革張りの椅子をせっせと磨くことに従事していたいとは思わんか? 祭りが終われば……自ずと人は減っており、昇進と栄誉が待っているだろうさ。少し”退屈”なのが玉に瑕ではあるものの、慰安婦やそれに準ずる女も流れてくるし、緊急時の医療用という名目でアルコールにも事欠かんよ。なにしろ──くくくっ、”退屈”で人は死なんしな」

 

「しかも今回は宗教が絡んだ上での国をあげた一大事業(戦争)だ。宗教はいいぞ! 戦って死ねば神の下に行けると信じて疑わない狂信者どもは死を恐れん…どころか死を望んでいる。命令されたことにいちいち悩まない連中は国にとっても実に使い勝手がいい駒と言えよう。そいつがごまんといるきた。そして、なによりおいしいのは奴らの(いさか)いでは火種が残るということだ。この戦争がどのように決着しようとそこら中に火種はくすぶり続け、その火が燃え上がればまたそこに野戦病院が敷設される。となれば、必然的に有識者としての意見を求められ──クリミアで名を上げたわたしに取り入ろうと躍起になる者どもの姿が目に浮かぶというものよ…………こうして、功を称えられ見事出世を果たしたわたしのもとにはその都度、うまい話が転がりこんでくるという仕組みだ」

 

「…それはそれは、これからが楽しみだ」

 

 

 どうしてこんな男が生きていて、かつての仲間や同胞は死んでしまったのか。

 こいつが前線病舎にいなければ、どれほどの命が失われずにすんだだろう。

 生きたくても生きられなかった人間が大勢いて、その中には助けられるはずの人間もいた。

 その事実に、こいつは気を向けようともしていない────どころか、そこにメリットを見出している。

 

 人の命と尊厳を、こいつは…………。

 

 

 

 

 

 

 ────”()()()()正しい判断なのか”。

 

 

 

 

 

 

 やり切れない思いを胸に抱えつつも、それをおくびにも出すことなく丁寧な聞き取りを続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フローレンス・ナイチンゲールについては、どうお考えですか?」

 

 

 そんな一言とともに荒唐無稽な事情聴取は、突如として終わりを告げる。

 

 

「────ほう! ここでその名前が出てくるのか!! いやはや…、わたしの仕事によもやベビーシッターも含まれているとは思わなんだ。余計な真似をするなと言いつけてあるんだが、なにやらチョロチョロと動き回っているようで。まったく困ったものだ──これは、その分の給金も軍部に弾んでもらわなければ割に合わないな」

 

 

 見る者を不快にさせるホールの下卑たにやけ面。

 が、打って変わって思案顔に。

 

 

 

 

 

 む、待てよ……。

 

 よし、こうしようじゃないか。

 これこそ、使い時というもの。

 

 この男には看護婦団の弱みを探ってもらおう。

 頭痛の種は早めに取り除いておくに限る。

 もしも面倒なら、頭を潰せばいい。

 フローレンス・ナイチンゲールだ。

 あいつさえいなければ、あんな集団はすぐに立ち行かなくなるさ。

()()()()()()()()()使()()()()()()()()

 

 

 そう考えて──ホールが口を開こうとした瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───────────────反転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕にはね、夢があるんです。フローレンス・ナイチンゲールを”英雄”にするという夢が」

 

 

 

 

 

 ────音のない部屋のなか。

 

 ────鼻うたでも歌うような気安さで。

 

 ────または血反吐を吐くような苛烈さで。

 

 

 

 

 ────正しく終わりを迎えるために。

 

 ────始まった。

 

 

 

 

 

「数年前に彼女の論文を読んだことがあるんです」

 

 

 

 

 

「そして、こいつは馬鹿だと思いました」

 

「本物の馬鹿だ、と」

 

「看護婦なんてものは──ろくに仕事もできない人間が最後も最後、仕方なしにやるものです」

 

「扱いは、下僕や家畜と変わらない。下手をするとそれ以下かもしれない」

 

「……少なくとも、それがこの時代を生きる人間の評価」

 

 

 

 

「それを彼女は覆そうと画策していました」

 

「べつにその論文に明言してあったわけじゃない」

 

「意識か、無意識か…、そんなことをはっきり書けばどうなるかを察したんでしょう」

 

「しかし、僕にはわかった」

 

「そして、どうしてこんな人間が放置されているのかがわからなかった。良くも悪くもね」

 

「手前味噌ですが──昔からすぐにわかるんですよ、物事の本質ってやつが」

 

 

 

 

 

「暗闇のなか。けれどそこにはたしかに獣の双眸が浮かんでいたんです」

 

「それから、彼女が執筆した文献の他、彼女に関する資料を可能な限り集めました」

 

「爪が、牙が────そこら中に獣の匂いの痕跡があった」

 

「人の命が次から次へと投げ捨てられていくこの時代に────」

 

「知識や教育の欠乏ゆえに、それが当たり前のこととして受け入れらているこの時代に────」

 

「たった一人で嚙みついて、食い下がっていたんです」

 

「周囲の誰に理解されずとも」

 

「彼女だけは虎視眈々と人命の未来を見据えていたんですよ」

 

 

 

 

 

「疑うべくもなく、時代を進める人間だと確信しました」

 

 

 

 

 

 徐々に熱を帯びていくジョンの語り口とは対照的に。

 地下の湿った空気がぱきりと停止し凍り付く。

 

 時ここに至れば、誰でもわかる。

 ジョンとホール──ふたりの今までのやりとりは無価値に。

 どころか全てが裏返り、反転したと。

 

 ただ、これは未だ定められた流れの上。

 それと同時にまだ下り坂の途中。

 勢いを増して、状況は転がっていく。

 

 

 

 

 

 

「おっと。夢を語る、というか────自分語りをする前に今一度、名乗っておくべきでしたね。僕の名前は”ジョン・ハーバート”。フローレンス・ナイチンゲールと彼女の目的のため、この地へと参りました。…長官殿にお話ししましょう、僕の計画とその展望を。まずは、そうだな……僕が”ブーメラン”なんて呼ばれてた時代の話からでも…」

 

 

 

 

 ─────────────────。

 

 

 ────────────────。

 

 

 ───────────────。

 

 

 ──────────────。

 

 

 ─────────────。

 

 

 ────────────。

 

 

 ───────────。

 

 

 

 

 

 …今まで出逢った人間となにも変わらない。…取るに足らない人畜無害。

 そんな評価は総じて、戦慄と共に覆った。

 

 

 

 

 

 ─────転覆した裏側、

 ─────昏闇の天蓋から這い出た影法師、

 ─────混沌をも呑み込む混沌、

 ─────暗黒あるいは只々の黒、

 ─────黒黒黒黒、黒黒黒黒黒黒、黒黒黒黒、

 ─────黒黒、黒黒黒黒、黒黒黒黒黒黒黒、黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒、

 ─────黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒

 

 ─────そこに、

 

 ─────不条理にも棲んでいた、

 ─────取り返しのつかない、

 ─────理不尽な”それ”が、

 

 ─────”それ”とは、なにか、

 ─────言い表しようのないものだ、

 ─────それでも、強いて形容するならば、

 

 

 

 ─────”恐怖”

 

 

 

 ─────恐怖である、

 ─────恐怖そのもの、

 ─────そう表現する他ない、もの、

 

 

 

 

 

 唖然として、呆然として──もはや茫然とでも言うべきか。

 

この場の空気の不安定さに、現実が変なふうにずれていく。

 

 そこにいるはずの人間をうまく目で捉えられない。そこにいるのに、どこにいるのかがわからない。

 自らの身体ですら、少しの確からしさも感じられない。

 距離感をも狂わせるほどの仄暗い闇のなか。

 ホールは考える。

 出し抜けとも言えるジョンの変貌について。脈絡なく始まったジョンの自分語りについて。

 無理にでも思考を巡らせることで、身体に入り込もうとするなにかに必死で抗う。

 

 

 ……─────!

 …………───────??

 ………………──────────!?

 …………………………───────────!!??

 ”ジョン・ハーバート”…? あのハーバートか…!?

 名家の人間が()()()()()()()()()()

 そんなことのために命を張ろうというのか…?

 ”フローレンス・ナイチンゲールを英雄にする”……?

 ”世界を変える”だなんて馬鹿げた目的で

 こんな綱渡りをしているのか…?

 

 そして、まさかこれからも──────?

 

 

 

 

 

 そのようなホールの様子を知ってか知らずか──ジョンはなおも泰然として語りを継続する。

 

 

 

 

 

 目の前でのことがうまく処理できず、思わず息を呑む。

 目眩を起こすほどの不可解。

 常軌を逸している、異常どころか───これ以上ない極限の異質と称するのが相応しい。そもそもの常識の骨格がおかしな方向に捻じ曲がっており。

 ”狂人だ、頭がおかしい”と一笑に付すには……………………文字通り、()()()()が過ぎている。

 

 ────心と身体が流血に塗れ過ぎている。

 

 瞬間、吐き気を催す不快感に襲われる。背筋が割れそうなほどの悪寒が走る。

 理性を越えて──本能が認識を強制させる。

 ……駄目だ、コレは。関わっていいものではない。

 

 得体の知れない歪んだ異物。

 唐突に、何者かに入れ代わったわけではない。

 元来そうであったものが、ただ表層に浮かび上がっただけのこと。

 

 なにも見えないはずの暗黒に蠢く影のなか──思惑すべてを見透かす瞳がはっきりとこちらを覗き込んでいるように感じられる。

 さきほどまで茫洋として捉えどころのなかった(もや)のようなものが輪郭を形どり、奇怪な意志をもってそこに座っていた。

 

 憤怒、侮蔑、憎悪、哀惜、感傷、激情、怨恨、我執…、そういったものではなく。

 蠢動する”恐怖”が影法師から止め処なく溢れ、空間をキチキチと()んで蝕み。

 それがホールに辿り着き、目に見えないムカデやゲジゲジが肌の上を這い回る感覚を産み付けていく。

 

 

 

 

 

 ドウシテ。

 ドウシテ。ドウシテ。

 ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。

 ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。

 ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ────きみがわるい。

 

 

 

 

 

 粘りつく恐怖がホールの心臓を両手で撫で回している。

 

 いわく、人は未知に恐怖するものらしい。

 知らないから怖いし、経験がないから恐ろしい。

 

 異様な、あまりにも異様過ぎる──生物。

 こんなモノ────見たことも聞いたこともない。

 遭遇すること自体、天変地異に見舞わるようなもの。

 

 ホールにとって──言葉が通じ意思の疎通がなまじできるだけ、一層わけのわからないものだった。

 ましてジョンの語る内容は、大言壮語や虚言の類ではないと嫌でも察せられる。その点については安心感を覚えるほどに。

 ただ、そのチグハグさにこそおぞましい性質の悪さが装飾されており。

 徹底した合理性と効率化を謳い、整然とした理屈を並べるわりに────論理の根本に孕む狂躁が尋常でないバグを生じさせている。

 

 一所(ひとところ)に、相反するものが不気味なぐらい自然に同居している。破滅的と言えるアンバランスさ。

 それが──恐ろしく、怖い。

 

 そうして、ホールの身体に侵入した恐怖はその体内で増殖を続け、正常な心身に誤作動を誘起させる。

 距離感の歪んだ視界はついにぼやけていき、思考が黒く黒く染まっていく。

 言っていることはわかるのに、意味としての把握を頭が忌避している。

 

 酷く出来の悪い戯曲の只中に放り込まれた気が起こり──そこで唯一頼るほかないジョンの声を聞けば聞くほど、不安を煽られ、落ち着かなくなる。

 どくどくと心臓は高く脈打ちながらも、心拍数を下げていく。まるでこちらの生命力を奪っていくかのように。

 

 ジョンの語りは、かなりの時間に及んだはずだが、現状を忘れ────────時が飛んだようにも感じられる。

 

 こいつは、一体全体なんなんだ。

 

 間違って別世界からやってきた────人の形をしたナニカに思える。非人間。ありえてはならない非存在。

 我々と同じようなナリをして、これまでを過ごしてきたのだろう。

 けれど、どこかが決定的にズレている。狂信者などとは比べるべくもない、ルールの埒外にいる破綻者。

 認知している次元がまるで違うし、立っている土俵も全く異なる。

 

 どうしてこんなモノとわたしは話をしているんだ。

 どうしてこんなモノを利用できるかもしれないなどとわたしは考えたんだ。

 なにより、どうして目の前の影法師は今もなお笑っているんだ。

 

 

 

 

 

 ワカラナイ。

 ワカラナイ。ワカラナイ。

 ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。

 ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。

 ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。

 

()()()()()()()()()

 

 

 

 

 ────キミガワルイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「というわけで。彼女の邪魔をしないでもらいたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場を支配し滞留する恐怖がホールの精神と思考を飲み込み侵し、もはや自己喪失と呼ばれるレベルの錯乱状態に彼は陥っていた。

 発せられたジョンの言葉も頭に浮かびはするが、文脈としてもう結びつかない。

 ホールの脳髄は──次々とエラーを出し、そのエラーがまた次のエラーを生み出し、エラーを吐き続けることにのみ注力するような状態である。

 

 拘束されていることなど気にならなくなるほどの──圧倒的な閉塞感。まるで空気が粘性を伴う飴細工かのようで。喉がひきつり、意識しなければ呼吸ができなくなりそうな。

 

 もうなにも考えたくない。考えるだけ無為だ。答えなど知りたくない。こんな状況、こんなモノ、こんな感情に今まで遭遇したことがない。

 極度の緊張により平衡感覚が麻痺していき、座っているにも関わらず倒れそうな錯覚に襲われる。

 

 

 

「っ────、───あぁ」

 

 

 つんのめるように上体を崩したことでホールは気づく。

 

 ────忘れていた。

 ────忘れるほどのキミノワルサ(きょうふ)だった。

 

 しかし、ここで──改めて気がついた。

()()()()()()()()()()、と。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 そう発起してからの行動は素早く、

 

 背もたれに縛られた縄から右腕を抜き、

 

 机上にある拳銃を無造作に掴み、

 

 目前の男の頭に、構える。

 

 逡巡もせず。

 

 この間─────実に、二秒弱。

 

 

 

 ジョンはリアクションというリアクションを取ることはせず、ただ銃口を見つめるのみ。

 

 

 

 ホールは勝利を確信し、た、

 、、、、、、、、、、、、、、、、

 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、あ、れ、、、?

 

 

 

 ホールは思った。

 

 わたしはなにをしているんだ。

 はたして、ここまでわたしは追い込まれていただろうか。

 

 いま、冷静に考えれば。

 

 ジョンの経歴と、

 フローレンス・ナイチンゲールの目的と。

 世界を変えるなどとの具体案と実績、今後の課題と解決の見通し。

 …などの種々様々を聞いて。

 

  ”というわけで。

  彼女の邪魔をしないでもらいたい”

 

 そう言ってから、ジョンは一言も発していない。

 そのように提言して、あとは──人を食ったようなキミノワルイ笑みをこちらに向けていただけだ。

 特段、ホールが生命の危機に瀕していたわけではない。言ってしまえば、そう思わされてしまうほどの恐怖があった()()のこと。

 

 なのに、これはいったい──────────?

 

 本当に自分が経験していることなのだろうか。自分ではない誰かの記憶を追体験させられているような。

 化かされている、夢を見ている感覚すら残り──いまだに現実へと戻ってこられていない。

 恐怖が恐怖を上書きしていく果てのなさに追いやられ、滑り落ちていく思いだった。

 深く深く、どこまでもどこまでもどこまでも…………………………………………────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 カタカタカタカタと音を聞いてから自らの腕が震えていることに気がついて。

 ようやく現実感を取り戻す。

 それと連動するように奥歯がガチガチと鳴り出す。

 震えは止めようにも自らの意思では止まらない。どころか波は徐々に徐々に大きくなっていく。

 

 体の震えは、拳銃の重さに起因するものではなく。

 べつに重いわけじゃない、拳銃が。

 重いわけではないのだ。

 

 むしろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拳銃はいやに軽かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 弾丸が込められているとはまるで思えないくらいに。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 問いより先に答えは出ていた。

 

 切り札がある…と信じきっていたホールだったけれども。

 勝負のテーブルについていたのは初めから彼ひとりだけ。

 どうしても勝ち負けで言うのなら、彼は(はな)から負けていた。

 

 

 

 

 

「よく、考えたほうがいいですよ」

 

「戦場では、引き金を引けばその弾丸は自分に返ってくると言われています」

 

 

 

 

 

 それをジョンが言い終わるか否か、というときに──────ガヂャリッと。ガヂャリッ、ガヂャリッ、ガヂャリッと数度。

 

 

「──────────ッヅ!!」

 

 

 はたして、銃身から弾丸が発射されることは一度もなく、苦し紛れに放り投げられたピストルは明後日の方向へ飛んでいく。

 

 

 

 ガッギギッ

 

 

 

 ゾッとするほど冷たく、絶望的な音が昏い室内に響いた。

 あっけのない幕引き。

しかし、きっと彼の人生はそういう人生だったのだ。

 もうなにも頼れるものはなく、よろめいた末にホールが踏み抜いた地面は()()()()()()()()

 

 

 

 事ここに至るまで、やはりホールの命運がどうなるかは真にわからなかった。

 首輪つきとはいえ、逃げおおせる可能性も十分にあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──たとえば、こんな視点で考えた場合。

 

 ──”手に入れたいもののために、それ以外のものを犠牲にする”という視点。

 ──ジョンとホールにいかほどの違いがあるだろう。

 ──突き詰めれば同じ穴のむじな、二者は同じ列に並んでいると言えないだろうか。

 ──これからの世界のためなのだ、と。

 ──美辞麗句を並べ立てて、そこに差異を設けることは可能かもしれない。

 ──だがそれで、犠牲になった人たちやその親族はどのように思うのか。

 ──自分が彼らの立場だったとして、”ああ、そうか。ならば仕方ない”と腑に落ちるのか。

 

 ──そんなふうに考えたとき、本当にジョンがホールを糾弾する資格は、はたして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天秤は様々な局面に据えられている。

 

 フローレンス・ナイチンゲールの隣を歩む者としての責務と意識。

 自分の利のために、苦しむ人たちを見捨てる選択をしたという事実。

 

 楽しいこと、悲しいこと。幸せ、不幸。善、悪。

 

 人生において、目の前に選択肢を提示されること数あれど。

 この世に最初から二者択一であるものはなく。

 絶対なんてものは絶対にない。すべては流動的で視点によってものの見方はいくらでも変わる。

 ────人による。

 ────場合による。

 ジョンにジョンなりの事情があるように、ホールにはホールなりの事情があるのかもしれない。

 こんな人間であろうともホールが大切に想う人もいるだろうし、ホールを大切に想う人もいるだろう。

 

 万事が万事──グレーゾーンであり、グラデーションで世界は彩色されている。

 だからこそ、人は迷うし、悩むのだ。

 

 だが。

しかして、最後には──

 

 

 

 

 ────”()()()()正しい判断なのか”。

 

 

 

 

 傲慢であろうとも容赦なく、決めなければならないタイミングというものは確実に存在する。

 

 そして、情けない話────いや、この場合は()()()()()とでも言うのか。

 結末を決めるのはホール自身というのがジョンの描いた絵であった。

 この状況を作り上げたときに決めていた着地点はその一点。

 ホールが卓上にある弾丸の込められていない銃を手に取り、ジョンに向けて引き金を引いたなら────それでおしまい。

 一種、なげやりのようではあるが、明確な線引きだ。

 

 そこまでの馬鹿はここで見逃したとしても想定外の動きをする可能性がある。

 フローレンス・ナイチンゲールにとって、後々の障害になることだけは避けなければならない。

 

 

 

よく、考えたほうがいいですよ、と言われるまでもなく。

やはり。

 ホールは深く考えるべきだったのだ。

 たとえば、これを見よと言わんばかりに銃が目の前に置いてあったことについて。

 たとえば、腕力程度で緩んでしまうような拘束だったことについて。

 たとえば、最初から最後まで──銃口を向けられたときでさえ、ジョンが態度を崩さずにいたことについて。

 

 重ねて言えば、

これまでいったいなにをしてきたのか。

これからいったいなにをしていくのか────これまでの人生とこれからの人生について。

 ──そうして、人の命について。

彼は懸命に考えるべきだった。懸命に。

 

 考える時間はあった。立ち止まって顧みるタイミングもあった。

 

 ホールがもっと賢いか、あるいはもっと臆病だったなら。

 こう転がることはなかったのである。

 

 

 

 

 

 ふっと軽く息を吐き、ジョンは椅子から立ち上がる。

 

 そのときの彼の表情が示すのは安堵か寂寞か。

 もしかすると、こうなることを期待していたのかもしれないし。

 またどこかでは、無念に思う部分もあったのかもしれない。

 

 それでも彼は結局──────

 

 薄暗い部屋のなか。

 見る者が見れば、牢獄のようにも感じる部屋のなか。

 決して広くはないスペースに腐食した書類や粗悪で手入れのされていない家具や食器、そのほか──暗がりではおよそ判別のつかない物体がところ狭しと散乱している部屋なかから。

 

 ────先ほど、ホールが放り投げたものとは明らかに違う場所からペッパーボックスピストルを拾い上げた。

 

 

「ぃ、いや、まま待て、待て待て待て─────! わかったから、じ、邪魔をしない。それでっ、いい、だろう?」

 

 

 恐怖でもつれる舌をなんとか駆使して、ホールは命乞いをする。

 

 

「っつ、君は、ここっ殺さないさ。ぅ、わたしにはわかるよ。ぜ善良な、人間だっ君は。ぅわたしを撃てばば…、き、きっと後悔す、する」

 

「後悔か────」

 

 

 “善良”などという言葉に、思わず失笑をこぼしそうになりながらそう呟いたジョンは──すっ、と。

 拳銃を握った腕を上げる。

 狙いは言うまでもない。

 そのままホールへと歩を進める。

 

 ひぃっっ────!!

 素っ頓狂な叫び声を上げるのが早いか、足がくくられた椅子ごと横に倒れて距離を取ろうとする。

 のたうち回りながらも自由になった腕で足の拘束を外そうと試みるも意味がないことを瞬時に悟り、不恰好なままジョンから離れようともがく。

 

 

「ぃやめ、ってくれ、撃たた、ないでくれっ! し、しし、し死にたくない、死にたくない死にたくないししし死にたくない……」

 

 

 どれほど必死に逃れようとしても、数メートルも進めばすぐに壁際へとたどり着いてしまう。

 

 その間────ジョンは取り立ててなにをするでもなく、ホールを無機質に眺めていた。

 対象がさほど動いたところで的を外しようのない距離。

 射線はホールから動かさず。

 

 くしゃみでもすれば殺してしまうななどと、剣呑なことを頭の片隅で考えつつ言葉をまとめる。

 

 

「今から質問をするので、答えてください」

 

 

 ガクガク震えて、頭を腕で覆ったホールが首肯を返す。

 

 もう彼の魂は憔悴しきり、心は完全に折れている。咄嗟に口からでまかせなど、思いつきもしないだろう。

 それが手に取るようにわかった。わかった上で。

 ジョンは────

 

 

「では」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長官殿がスクタリに着任されてからの死者数は把握されていらっしゃいますか?

 

 

 

 

 

…なるほど。

意識したことはない、と。

 

 

 

 

 

──では、話を変えましょう。

 この部屋は長官殿が()()()()

 されていたみたいですが。

 

 

 

 

 

 今の長官殿のように、ここで命乞いをしていた

 人の数を覚えていますか?

 

 

 

 

 

5人、10人、はたまたそれ以上でしょうか。

 

 

 

 

 

どうです、男か、女か、子どももいましたか?

 

 

 

 

 

 ん──、男はもちろん、女、子どもも複数いた、と。

その正確な数は? 覚えていませんか?

 

 

 

 

 

そうですか。わかりませんか。

 ──じゃあ、これはどうかな。

 

 

 

 

 

 長官殿はどうやら忘れっぽいみたいだから、

 覚えてないかもしれませんが。

 

 

 

 

 

 さっきよりはきっと簡単です。

 

 

 

 

 

 答えられますよ、大丈夫です。

 

 

 

 

 

 答えがわかったら、

 僕のような馬鹿にもわかるように

 きちんと教えてもらえると助かるんですけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────そう言って、ここで命乞いをした人間はどうなりましたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次が、最期の質問です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はたして、僕はどちらを後悔するでしょう。

 長官殿を生かすのと、殺すのと。

 

 

 

 

 教えてください。

 

 

 

 

 ────”()()()()正しい判断なのか”。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、フローレンス。

 君は聡明な人だから。

 夢の道半ばで気がつくかもしれないね。

 目指す世界の実現には犠牲が必要不可欠だと。

 血の流れることのない未来を目指すために、

 流血が必要だなんて酷い矛盾だとは思うけれど。

 実際、そういうものなんだ。

 世界を変えるというのは、そういうことだ。

 代償のない革命なんてのはありえない。

 かの無血革命にしたって、

小競り合いはそこかしこにあったんだから。

 でもね、なにも君が──その手を汚す必要はない。

 君の手は真っ白で、無垢で。

 どこまでも人を救う手であってほしい。

 最後の最後まで。

 これは僕のどうしようもないエゴで。

 もし君が知ったら怒るだろうね。

 そんなことは望んでいないと言うかもしれない。

 おそらく君が僕の秘密を知るときには、

 僕はこの世にいないだろうから、君の罵声は聞けないかな。

 きっと、たくさん苦しめる。

 あまりの悲嘆に狂ってしまう可能性だってあるだろう。

 ただ、君は逆境に正しく意味を見出すことのできる人間だ。

 転んでも、立ち上がりまた前に進むことのできる人間だ。

 足が折れても、腕を使って前へ。

 腕が折れても、胴体と頭のみで前へ。

 そういう精神と矜持を君は備えている。

 

 

 

 

 なによりも、君は僕を裏切ることができないだろうしね。

 

 

 

 このようにして────

 君の気持ちですら計算式の一部として僕は勘案している。

 僕はこういう生きかたしかできない。

 真正の人でなしだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでもね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は君のためにすべてを捧げようと誓った。

 神なんかではなく、君に誓った。

 君のためなら喜んで泥を啜って。

 君のためなら進んで汚名を着よう。

 だから、平気で君に嘘もつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 別の世界に生きているはずだった僕と君。

 どこまでいっても重なることはないはずだった僕と君。

 それを捻じ曲げた。

 だから。

 穢れているのは僕だけで十分。

 本当は、君に触れることすらはばかられる身ではあるけれど、

 

 

 それでもね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、僕は──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そのへんでやめておきなよ────でないと死ぬよ? そいつ」

 

 

 ばしっと。

 彼女の腕を取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

====================================

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ある夜、私は夢を見た。

 

  私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

 

  暗い夜空に、

 

  これまでの私の人生が映し出された。

 

  どの光景にも、

 

  砂の上に二人のあしあとが残されていた。

 

  一つは私のあしあと、

 

  もう一つは主のあしあとであった。

 

  これまでの人生の

 

  最後の光景が映し出されたとき、

 

  私は砂の上のあしあとに目を留めた。

 

  そこには一つのあしあとしかなかった。

 

  私の人生でいちばんつらく、

 

  悲しいときだった。

 

  このことがいつも私の心を乱していたので、

 

  私はその悩みについて主にお尋ねした。

 

  「主よ。私があなたに従うと決心したとき、

 

  あなたはすべての道において私とともに歩み、

 

  私と語り合ってくださると約束されました。

 

  それなのに、私の人生の一番つらいとき、

 

  ひとりのあしあとしかなかったのです。

 

  一番あなたを必要としたときに、

 

  あなたがなぜ私を捨てられたのか、

 

  私にはわかりません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  主はささやかれた。

 

  「私の大切な子よ。

 

  私はあなたを愛している。

 

  あなたを決して捨てたりはしない。

 

  ましてや、苦しみや試みのときに。

 

  あしあとが一つだったとき、

 

  私はあなたを背負って歩いていた」

 

 

 

 

 

 

 

 







 誤字脱字、ここの文意がワケワカメ、展開に対する苦情等ありましたら、気軽にご連絡いただけますと幸いです(反映するかはこちら次第だがな!
 ハーメルンからでもTwitterからでも構いません。作品をよりよくするためにご協力のほどお願いいたします。



 ようやく、ここにたどり着いたぜ。

 執筆当初から一応は決まっていた山のひとつがこちらです。
 正直、書く予定はなく自分の頭のなかにあるだけで、ひとりで勝手にジーンとしていたのみなのですが、形にしてみるとこの子はこんな出で立ちだったのかー、と。

 長かった、本当に長かった。
 お待たせして、申し訳ない。
 待った甲斐のあるものになっていれば幸いなのですが…。
 いかんせん、最終更新からもう3年近くになるんですねぇ……。

 FGOくんのシナリオがつまらなくてssを書き始めた身ではありますが、最近はおもしろいし。
 なにより二次創作なのに、本編が先に終わるかもしれない危険性がががが。
 そんなことにならないようにしたいとは思いますが、終わってもたぶん書き続けるんだろうなという感覚もあるので。時間がかかろうとカリカリ書いているでしょう。
 ……危険性はあっても危機感がないとは。



 あと、実は大変言いにくいのですが、他のものも書きたくなっておりまして。
 重ねて言いにくいのですが、オリジナルです。教師モノのやーつ。
 そんな奇特なかたがいらっしゃるかは謎ですが、歌場の文章が好きだというかたはどうか期待していてください。こちらは反省を活かして、1話完結型にしようと思っております。またTwitterとかでお知らせします。

 他のものが書きたいというモチベーションから、ナイチンさんも相乗効果でやる気が出たのもあるので、どうか怒らないでくだせぇ。




 “ある夜、私は夢を見た。”という一節から始まる詩はマーガレット・F・パワーズ『Foot prints』というものです。ナイチンゲールの生きた時代にはありません。その原型というか似たようなものが当時のイギリス軍人のなかで語られていたというような解釈で、あしからず。


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Twitterをやっています。

@katatukiNISIO
@SSkakikaki(更新専用)

FGOのことを主体に、アニメ、マンガ、ゲームについて雑多に呟いてます。





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