「ナイチンゲールは
ただの貴族出身の奉仕者じゃありません。
百三十年前、完全な男性社会だった軍隊で、
看護師の地位を確立した大変な戦略家です」
────浦沢直樹『MASTERキートン』より
フローレンス・ナイチンゲールという女性が現れてからおよそ150年という歳月が経ち、”看護婦”という職業を表す言葉が男女平等の観点から”看護師”に変更された。
容れ物の名称が変更されようと、知識・技術・道具がいくら発展しようと、いまだ不変にして普遍──威風堂々と横たわる看護医療の基本理念を生み出した母。
不撓不屈の精神を以て、理不尽に抗い、世界と戦い続けた女性。
その生涯をかけた闘争に、
ありったけの敬意となけなしの憧憬を込めて────
では、どぞどぞ。
私が愛したのは軍人でした。
おそらく記録には残っていないでしょう。
”クリミアの天使”の業績には必要のない情報ですから。そんなものは付随しようがない。雑菌、ウイルスのようなものです。仮に私に伴侶のような人がいたのだと伝えられていても、それは私の名の影響力と浸透力をより高めるための装飾にすぎません。
────本来ならば。
────
この身は神に捧げたものであり、その所有物なのですから。当時、あの環境において必要な道具として、時代に使い潰されるだけの消耗品でなければなりません。ですから、
この恋慕は────
この愛情は────
フローレンス・ナイチンゲールが個人に対して、抱くことは許されない。
そのはずでした。
ただ、今から思えば、その気負いこそがきっと癌細胞にも似た病魔だったのです。気がつけばそこに生じていて、痛みも苦しみもなく。けれど、知らず知らずのうちに私を蝕んでいたもの。
そういうお話なのですが……。
え? なに?
”どうして自分は診察台に乗せられて手首と足首を固定されているのか”ですって?
”カチャカチャと音を立てているのはなんなのか”
”キュイーンキュイーンとなにかが超高速回転しているように聞こえるのはなんなのか”
───マスターはそれを訊ねているのですか?
いえ、特にどうということはありません。私がこのカルデアに召喚されてから、医療部門の婦長を任せていただいているのはきっとご存知でしょう。それに先立って、ドクターよりこれらの器具の紹介をいただきまして。
「銃弾が当たれば切断切除、火傷を負ったら切断切除、傷が化膿しても切断切除。あの時はそれしか方法がなかったものですが……。生前にこれだけの医療器具があればと思わずにはいられませんね。しかも麻酔というものが普及していませんでしたから、患者は恐怖と激痛により施術中に気を失ってしまうことがほとんどでした。気をやって患者が大人しくなるのはこちらとしても助かるのですが意識レベルが低いと危険な場合もありますし、そのときは多少殴打を──────こう、そこらへんの硬いもので」
……というようなお話をしている最中にも関わらず、なにかのメンテナンス作業を思い出したのだとか。余程急いでいたのでしょう。
「ちゃんとメンテしないと、フォウくんが走り回るんだよ~~~」
などと言って、ドクターは脱兎の如く駆けていかれました。発話内容についてはよくわかりませんが。
そんなところにマスターがいらっしゃったものですから。
私の昔話にお付き合いしていただく間、ただじっとしているというのも手持ち無沙汰でしょう? せっかくなので、施術の被験体になっていただこうかと。本当はそのままドクターにお願いしようと思っていたのですが────。
まぁ、彼はまた今度ということで。
大丈夫です、それほど怯える必要はありません。ドクターによる器具の説明は半端なところで終わってしまいましたが、医療系のサーヴァントとして知識は備わっています。腕に自信はありますし、痛みを感じるようなことをするつもりはありませんよ。
───────────────麻酔もあることですし。
あら? …マスター?
ふむ、気絶してしまいましたか。
では─────ちょうどいいですね。
術式を開始しましょう。
─────────────────────────────────────
その男との初対面は私が従軍する前。
既に軍人であった彼と私が出会う時期としては奇妙だと思われるかもしれないが、私たちは出会うべくして
────その時、その場所で出会った。
「────フローレンス・ナイチンゲール?」
専門書の閲覧のために訪れていたある館で。
周囲を背の高い本棚に囲まれているために採光量は少なく、この場所が持つ機能を考えればいささか不適当と思える明るさの中。
少し距離もあるせいか、声を掛けてきた男の顔をはっきりと捉えることはできなかった。
こちらより長身。声の様子からすると若年ではないが年老いてもいない。年の頃は同じか、幾分か下か。はっきりとした特徴と言えば、軍服を着用していること。
───軍人がこんなところへ?
───いや、それよりも、なぜ私の名前を?
胸のうちに生じた疑問はそのままに。話しかけられてなにも反応しないわけにはいかない。
「……以前、どこかでお会いしたでしょうか?」
あくまでも親しみをベースとして、礼節を欠くことのない態度を表に、腹の底の不信感を気取られぬように心掛ける。軍人相手に失礼を働いて愉快なことになった例は聞いたことがない。
ましてや、こちらは女なのだ。
軍属という偏向的なまでの男性社会において、女性とは常に存在を許してもらう側の人種だ。この国は戦争をしている国家であり、たとえ一般市民であろうとも軍と無関係ではいられない。そんな状況で女性が軍人に楯つくようなことがあっては決してならない。そればかりか、”楯ついた”と思われるだけで致命的なのである。そこに事実は介在せずとも、所感によっていくらでも処罰されてしまう。
だから、いくら警戒しすぎたところで、しすぎということはない。しかし、逆にその警戒心があからさまに出てしまうと、これまた下手に藪をつつくことになりかねない。
要はそのバランス感覚がわからない者から消えることになる、そういうことだ。
そんな心のうちを知ってか知らずか、目の前の男は軽い調子で
「そんなに畏まられると、なんだか具合が悪いよ」
と言い放ち、おどけるようにして両の手を上げてみせる。
元々が静かな場所である。人目もないから声量を気にする必要はない。しかし、話をするにはやはりいささか距離を感じさせる。男は特に気にすることもないのか、その間合いのまま話し続ける。
「うーん、それにしてもここは暗いね。資料を読む環境としては不適切だ。そうは思わないかい?」
「…はぁ。それに関しては同意ですが」
「だろう? ここは────どうしてこんなに薄暗いんだろう」
「……保管の観点からだそうです。書類はどうしても陽で焼けて痛んでしまいますから」
「そうかい。でも、それにしたってもう少し方法があるだろうに。ここまでだと別の問題がありそうだけれど。湿気だとか、虫食いだとか」
「ええ、ですから管理者のかたには何度も環境の改善を要請させていただいて…」
「そうだね。そこまで場所がないというわけでもないんだし、窓を塞ぐ一部分の棚を撤去して思い切ってそこを閲覧スペースにするなんてだけでも、かなり違うんじゃないかな」
「はい、そう思います」
「では、なぜそうしないんだろう?」
「えっと、管理者のかたはご年配でして」
「なるほど問題はそこか。”腰が重い”わけだね、物理的にも精神的にも」
なんなのだろう、この人は。
得体が知れない。
本当に軍人なんだろうか。
不信感が拭えない。
「───あの、恐れながら。いくつか質問をよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「軍人のかたがどうしてこのようなところへいらしたのですか。そして、私への一連の質問はどういった意味があるのでしょうか」
「できれば質問はひとつずつお願いしたいんだけど、その質問にはひとつの回答で済むし、なにより、奥ゆかしくも最も聞きたいであろう質問を後回しにしたことに好感が持てるから、素直に答えるとしよう。
────ずばり、これが僕の仕事なんだ」
「…………」
もし、この人物が本当に軍人なのだとしたら。こういう軍人がいるからこの国はダメなのだ。
責任ある立場の者が責任を果たさないから、いつまで経っても弱者ばかりが傷つけられる、弱者ばかりが虐げられる。
不信感が募る一方。
「あらら、信じてない? まあ、それも仕方ないか。軍人と言えばドンパチしてるイメージでやたらめたらに威張り散らすのが仕事みたいなところあるし。良い印象はないよね」
「いえ、そういうわけでは……」
「いやいや、いいんだよ。そう顔に書いてある。こんなところで陽の高いうちから油を売りやがってろくなやつじゃないなこいつ、って思ってるでしょ」
「そんな…、滅相もありません」
「ま、顔に書いてあるって言っても、暗くてよく見えないんだけどね。でも、
────嘘はよくない」
「え?」
「仕事柄そういう機微に敏くてね。言語化するのは難しいんだが、なんとなく空気感みたいなもので相手の考えていることがおよそ読めてしまうんだ。余計なことまで知ってうんざりすることも多いけれど、おかげで出世が早くて早くて」
「……」
「きっと君は聡明なのだろう。自らがどう振舞えば、相手にどう思ってもらえるかを知っている。生き抜くためだ、媚びへつらうことをまるで苦にも思っていない。家柄が良いせいかな、言葉遣いもしっかりとしているし、あくまで謙虚さを失うことなくそれでいて軍人相手にも自らの意見を臆さず言える───それは美徳と言っていい」
「…………」
「でもね、
そういう世渡りのうまさというやつを気に食わない人種もいるってことを忘れちゃいけない。
そして、君の場合は────」
───────”したたかさ”が表に出過ぎだ。
男の言葉が重く私にのしかかる。
ちょっと待て。
私がいったいなにをしたと言うの。
こんなもの言いがかりもいいところ。
≪そんな状況で女性が軍人に楯つくような
ことがあっては決してならない≫
いや、楯つくだなんて、そんな……。
≪そればかりか、”楯ついた”と
思われるだけで致命的なのである≫
ああ、そうだ。
そうだった。
わかっていたのに。
この男の飄々とした構えに調子を崩された。
こんなにも簡単に。
そう────本来なら軍人相手に話しかけられた瞬間になにかとそれらしい理由をつけて私のような”女”は現場からの逃走を試みるべきなのだ。逃げられるかどうかは、この場合には関係がなく、”逃げようともしなかったこと”が問題になる。ポーズであろうと怯えた様子を私は見せるべきだったのだ。
ああ、もう────。
─────────────失敗した。
こうなったら仕方がない。
内なる不信感が─────不快感へと変貌する。
こうなってしまえば、”後は早い”。
仕方がない。
仕方がないから────、
「あー、そうそう、後ろ手に隠しているものはどうかそのままにしておいてほしいな。この視界にこの距離だ、しかも劣悪な性能で悪名高いその銃の弾丸が僕に命中することは、まずないよ。なにより、それをこちらに向けられたら、僕は軍人として不本意な仕事をしなくてはいけなくなる」
──────それは、お互いに望むところじゃないだろう?
また軽口を叩くようにして、そう話す。こちらのタネを指摘したからか、男は歩を進めて距離を詰める。私の歩幅にして五歩ぐらいの間を空けて立ち止まった。
───心を火種として燃え上がった炎が急速に冷えていく。
近づいたことで輪郭が見えてきた男の姿。背丈はあるものの、胸板が薄いからか体格の良さはあまり感じられない。精悍な顔つきというには凄みに欠ける顔立ち。軍人特有の古色蒼然とした厳粛さは皆無と言ってもいい。
ただ一貫して、どうにも緊張感に欠ける捉えどころのなさだけが印象に残る。
「……それはつまり、そちらに私をどうこうする気はないという意味で間違いないですか?」
「もとよりそのつもりだよ。君、話を聞かないってよく言われるだろ。挑発するような文句を口にしたのは悪かったと思うけれど、そこからの展開が急過ぎやしないか。生き急ぐにもほどがあるだろう。長生きはしたくないのかい?」
「……」
んー、いやでも、案外君のようなタイプの人間が長生きしたりするんだろうか……などとぶつぶつ呟くこの男はまだ自己紹介すらしていない馬鹿者である。
「…そういう貴方は、早死にしそうですね」
「ははは、酷いな。仮にも看護婦にそんなことを言われるだなんて」
「───今、死ねばいいのに」
「死んだら助けてくれるのかな?」
「死んだら助けられませんし、貴方のような人には死こそが救いなのでは」
「その心は?」
「”馬鹿は死なないと治らない”」
「……いくら意趣返しにしたって、その罵倒はちょっと引くよ…」
私も私でこんなふざけたやりとりに真面目に付き合うのだから、大概なのだろうけれど。
「さてと、挨拶も済んだところで───」
「私は貴方の名前すら知りませんが」
「え? 知りたかったの?」
「いえ、特には」
「僕の名は────ジョン・スミス。いつか世界を大いに盛り上げてやろうと思っている」
「……とりあえず、縫合しましょうか?」
「いきなり物騒な。ちなみに聞くけどどこを?」
「口です。冗談しか言えない口なら開かなくても構わないでしょう」
「おっと、これは医療に携わる者としては痛恨のミスが出たね。口は発話を行うだけでなく、食物を経口摂取するという非常に重要な役割もあるし、その上───えっと、無言で針を取り出すのはやめてくれないか、ミス・ナイチンゲール。そんなものどこから取り出したんだ。……あと、ジョン・スミスは本名だからな」
─────────────────────────────────────
「君はさ」
「どうして僕が自分の名前を知っているんだろう、と思っただろう?」
「見も知らぬ人間、それも男に自分の情報を一部であろうと握られているというのは、女性からすれば気味が悪いことこの上ないだろうからね」
「本当はなによりも最初に聞きたかったんじゃないか?」
「それが君の”したたかさ”だというんだ」
「”軍人のかたがどうしてこのようなところへいらしたのですか”
”そして、私への一連の質問はどういった意味があるのでしょうか”」
「こんな質問じゃなくて」
「”なぜ、私の名前を知っているのか?”って」
「恐怖心をあらわに初めから君がそう聞いてきてくれたら、ややこしいことにはならなかったのに」
「───睨むなよ、責めているわけじゃない」
「むしろ逆だ。君が噂通りの素晴らしい女性で、つい愉しくなってしまった僕に責任がある」
「なんの噂かって? 知らないのかい? 自分のことなのに?」
「ナイチンゲールはいい女だって、巷では有名な話だ」
「嘘じゃないとも。僕はその噂の人物を目の前にして、そう確信しているよ」
「男性顔負けの気の強さは証明されたしね」
「あと惜しむらくは、その美貌がはっきりとは見えないことだ」
「やはり、ここは暗いよ」
そう言って、五歩分あった距離を男はぐっと縮める。
残り半歩分ほどの間を空けて、歩みを止める。
顔を覗き込むようにして、こちらの右腕が掴まれた。
握手をするような形で見つめ合う至近距離。
不思議と危機感はなかった。
きっと、それは。
これから起こることへの予感めいたものがあったからだろう。
「うん、噂は本当だったね」
「─────僕は君に会いに来たんだ」
「仕事でね」
─────フローレンス・ナイチンゲール。
───────ハーバート戦時大臣より命が下りている。
──────────ようこそ、地獄へ。
────────────クリミアへの従軍依頼だ。
その男との初対面は私が従軍する前。
既に軍人であった彼と私が出会う時期としては奇妙だと思われるかもしれないが、私たちは出会うべくして
────その時、その場所で
─────互いの運命と出会った。
彼の第一印象は、考え得る限り───最悪。
けれど────、
────彼の運んできた報せは私が切望していた”朗報”だった。
彼が取った私の右手には、
誤字脱字、ここの文意がワケワカメ、展開に対する苦情等ありましたら、気軽にご連絡いただけますと幸いです(反映するかはこちら次第だがな!
ハーメルンからでもTwitterからでも構いません。作品をよりよくするためにご協力のほどお願いいたします。
恋人のキャラクター性は迷ったんですよね。
ナイチンゲールよりも堅物でいくか、びっくりするほどちゃらついたやつでいくか。
結果、後者になったのはひっかき回してくれるだろうっていう期待とこういう人間が意外とね…っていう。
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