昨日の事が頭から離れない。
あの後は塩谷から連絡が入り、店に置き去りにしていたスポーツバッグを受け取った。「あの事」には触れる気にならず、その日は別れた。
それから家に帰り、自室で倒れ込むように眠った。
日が明けて登校しても頭はボーツとしたままで授業の内容もロクに頭に入ってこず、1日を浪費した。
今日は久々野にも塩谷にも会っていない。あの2人は今日、何を考えながら過ごしているだろうか。
今日は朝からずっと雨。五月特有の重さを持った雨が降り続ける。
予報だと明日まで晴れることはない。神高野球部では、雨でグラウンドが使えない日のメニューは自由参加の自主練となる。恐らく、末広らのグループは練習に顔を出すこともなく帰宅するだろう。
だがそんな事はどうだって良くなってしまった。
今日は俺も練習なんぞする気にならない。今は何をしたって無駄な足掻きであるようにしか思えない。
監督に相談する事も考えたが、アノ人は一番はアテにならない。いざこざを嫌う省エネ主義のあの人は、面倒事の気配を感じると引っ込んでしまう。
今現在、部員たちがバラバラになっている事を把握しているはずだ、それでも明らかに「知らないフリ」をしている。
練習に足が向かない俺は、7時限目が終了してもダラダラと教室に居座り続けた。一人去り、また一人去っていき、気付けば誰もいなくなっていた。隣のクラスもとっくに空になっているようで、窓ガラスに打ち付ける雨音だけが聞こえる。
「・・・長坂?」
女子の声だ。反射的に反応し、目が覚める。いつの間にか眠りかけていたみたいだ。
声に反応し顔を上げると、そこにはショートカットの女学生が立っていた。
去年まで同じクラスだった『
今はクラスこそ違うが、去年は何度も隣の席になったのでそれなりに軽口を言い合える仲ではある。
かと言って俺と河内は「仲がいい」というほどではない。知り合いよりは深く、友達よりかは浅い関係といったところか。
「やっぱ長坂じゃん。何してんの?」
「んん?いや、寝てた」
話すのは久々になる気がするが、向こうはさほど気にしていないようだ。
「部活は?塩谷とか神田とかは体育館行ってたよ」
塩谷はちゃんと練習に向かうのか。あいつの真面目さには頭が上がらない。
「いや、今日はなんだか気分じゃないんだ・・・」
「・・・何か様子おかしいよ」
首を傾げ、俺の表情をより見つめる。
「何かあったんじゃないの」
これまで、人に野球部の悩みを話すことはできるだけ避けてきた。
他人に相談すれば、それは事態が深刻であることを認めてしまうようで、どうしても憚られた。
だがもうそれはどうだっていい、最早「思い出話」みたいなものだ。
「・・・確かに河内の察する通り、色々あった」
「愚痴っぽい話になるけど聞いて貰っていいか。聞いてくれるだけでいい」
「まぁ、聞くだけなら」
河内が隣の席に腰掛ける。俺は一度息を吐いて覚悟を決めた。
「この前から野球部の様子がおかしくなってな・・・」
机にもたれ掛かる態勢のまま、どこでもない虚無を見つめながら話し始めた。
春先、天才が颯爽とやって来た事。自信満々で臨んだ春季大会で惨敗した事。それを境にチームが分裂した事。そして今から、その天才が去っていくこと・・・。
こう振り返ってみると、意外と少ない。
「率直な感想言っていい?」
話を聞き終えた河内は、少しだけ語気を強めて続けた。
「その久々野くん?の立場で考えたことある?」
「久々野の立場・・・」
そういえば久々野がどう思っているか、はあまり考えていなかった。ただ絶望に打ちひしがれて、それを考える余裕まではなかった。
「少し大袈裟な話になるけど、私は『才能は生かされるべき』って思ってる。
例えば、野球が上手い人は野球の強いチームで野球をするべきだし、絵の上手い人はそれを生かす道に進むべき。だと思ってる」
やっぱりそうか、結局世の中そうなのだ。才能のある者は上の世界へ、俺みたいな凡人は下へ下へ。
机に突っ伏した体を起こし、背伸びをする。
「なんか今ので、久々野が転校するのも少しだけ受け入れられた気がする」
「チームも全然揃ってなくてバラバラだし、向かってる方向は揃ってなさすぎるし。もうダメだってのも受け入れられそうだ」
「・・・バラバラ?私にはそんなふうには思えないけど」
少し意外な答えが返って来た。河内はこういう状況で単なる気休めの言葉を掛ける性格ではない。
「ちょっとだけ私の話もしていい?」
断る理由もない。頷いて了承する。
「私、部活やってた時は『漫画研究会』にいたんだよね。3年の始めくらいまで。
それで、一応「漫画が好き」ってことで集まってる部活なんだけど、その中でも方向性ってバラバラでさ。漫画を描くのが好きな人もいれば、漫画を読むのが好きな人もいる。それぞれの求めるモノって全然違う。
『漫画なんか絶対書く気もない』って人もいれば『漫画を本気で描きたい』って人もいるし」
「ウチのいた部活はそんな感じだったんだけど・・・
野球部って目指すモノはひとつじゃん。『甲子園』。
全員がそれを全力で目指してる、とはならなくても、みんな心のどこかに『甲子園に行きたい』ってのはあるんじゃないの」
その言葉にひどく納得した。
確かに全員に「甲子園への想い」というのはあるはずだ。「全力で目指す」のか「程々に目指す」のが異なっているだけで、最終的に甲子園に辿りつけるなら、高校球児である皆にとって最高の結果となることは間違いない。
そして久々野だって、名京商業に行かずとも、この神山高校からでも甲子園に行けるというなら・・・。
「河内。さっき『才能は生かされるべき』って言ってたよな。才能を持ってるなら、それを最大限に生かすべきだって」
「じゃあ、もしもウチの野球部に『甲子園に出場できる才能』があるなら、甲子園を目指すべき。だよな」
「なんだか嬉しそうね」
思わず表情が綻んでいたようだ。
ひとつの打開策を思いついた。この状況を逆転するような、とんでもない方法だ。
全員が甲子園を目指している。という方向性は合っている。あとは足並みを揃えればいい。
「全力で甲子園を目指す」という歩み方に揃えればいい。
そして全員を「全力で甲子園を目指すようにさせる方法」それならば、ある。
だがこれは大きな賭けになるだろう。失敗すれば今度こそ部は壊滅状態になる。それに上手くいったところで好転する保障もない。
9回裏2アウトまで追い込まれたような状況。どうせダメになるなら、最後はフルスイングで終わらせよう。
バットを握るときと同じように拳を強く握り直し、覚悟を決めた。