サン=サーラ...   作:ドラケン

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断章 月世海《アタラクシア》 Ⅱ
月の海原 濫觴の盃 Ⅱ


「Humm~~♪ Hummmm~~~♪」

「……ん……?」

 

--目を開く。霞んではいるが、長く続かないだろう。それだけは判っていた。

 

 薄明か、薄暮か。黒金の太陽と白銀の望月が同時に眺める狭間の時、幽明たる薄紫の境界。

 切り取られたように虚空と虚海の境界線に浮かぶ孤島、その外周を緩やかに廻る七本の柱。空には悠揚たる白雲が棚引き、遥か高く天空に白く眩い凰が飛ぶ。海には悠遠たる黒波が波濤し、遥か深い海淵に黒く晦い龍が泳ぐ。

 

「ッ……」

 

 魂を軋ませる渇きと不可思議な既視感に軽い眩暈を覚える。肉体に刻まれた、幾多の小傷に二つの大傷。しかしもうそこからは痛みや失血を認められない。まるで、骸のように。

 と自身が背を預けるは大樹の幹、捻れ逢って一ツとなった連理の世界樹。枝先に無数の風鈴を持つ双樹の右の枝には片翼の紅い瞳の鷲、左の根には隻眼の蒼い瞳の蛇。眼前の百華咲き乱れる草原には、翠の瞳のユニコーンが休む。

 

 その梢に抱かれ、宛たっている頭に幹内を流れる水を感じた。

 

「Humm~~♪ Hummmm~~~~♪」

 

 二度聴こえて確信する。この樹を挟んで、誰かがこちらの存在に気付かず鼻唄を唄っている。

 

「……誰だ」

 

 何とか搾り出したのは、素人によって収める鞘さえも作られない数打ちの刀剣の如く、鑢を適当に掛けただけの鉄のような濁声。

 それを受けて、さながら名匠が生涯の総決算として技術の限りを尽くしたかのような。丁寧に磨き上げられて壮麗に装飾された宝剣を思わせるソプラノのハミングが止む。

 

 一斉に向けられたのは、怒りを孕む視線。この境界に遊ぶ五柱の幻想種が、今まで歯牙にも掛けていなかった■■が無粋にも茶々を容れた事で、初めて闖入者と認識して睨み付けた。

 

「……貴方は、誰?」

 

 ふと、視界の左端に人影が映る。酷い倦怠感を振り切って視線を向ければ、向こうから覗く花冠と朝陽の白さの修道帽。そして虹色に煌めく、怯えた聖銀色の片瞳と見詰め逢う形になった。

 

「--っ!」

 

 サッと引っ込んでしまう。臆病な小動物のように。それから余程、暫くして。

 

「どうして、貴方は私を見れるんですか? 此処に居る存在は皆、『始まりに還る』途中なのに」

 

今度は右端に人影。詰まり、幹の反対側に移動したのだ。

 

「……聞きたい事が、有るんだ。良いか?」

 

--早速だが、学習した。あの娘は余程小心なのだろう、また視線を向けば再度逃げるに違いない。

 

 なので、振り返らず語りかける。返事は無かったが、待つような息遣いを感じる。それを確認してから、静かに口を開いた。

 

「……此処は何処だ? どうして俺は、此処に居るんだ?」

 

 そう問われて、気付いた。思い出せない全てを。それは何故かと、彼女の問いに答えず問い返す。暫しの静寂。言葉を選んでいるのだろうか、迷うような息遣い。

 

「それは……えっと、その、貴方が……んでしまったから……」

「……悪い、聞き取れなかった。もう一度言ってくれないか」

 

 消え入りそうな声量で某か口にした彼女だったが、丁度吹いた風に鳴った風鈴と寄せた波に鳴いた石柱。それらの音に肝心な部分を聞き漏らしてしまった。

 もう一度だけ問い掛けたが……息を殺す気配を感じただけ。

 

--良いさ。大した事じゃ無い、忘れる程度の事なんて。

 

「そっちを向くからな。逃げないでくれ……」

 

 ゆっくりと、脅かさないよう。子猫でも相手にするように視線を向ける。

 

「……あ」

 

 その先には先程の少女。錠付きの白銀のチョーカーと、ルビーやガーネットの紅の宝石で設えられた聖母の至聖女に夜闇色の修道服。こちらを覗く片方の瞳は、虹色に煌めく怯えた魔金の煌めき。

 一瞬、微かな違和感を覚えたが確かめる術はない。またもや少女は樹の幹に隠れてしまった。

 

--やれやれ……

 

 苦笑しながら、前を向く。遥か遠い、誰もが等しく望みながらも決して辿り着く事叶わぬ、空と海の交わる蒼と滄の境界線を。

 

「あの……苦しいんですか?」

「……まあ、それなりに」

 

 気遣う言葉はずっと遠い。薄い壁の向こうから響く、旋律のように感じられる。溜息を零しながら応えればゆっくりと。

 目の前に差し出された聖盃と、群青の娘が目に映る。

 

「どうぞ……あの、詰まらない物ですけど、良ければ召し上がってください……」

 

 差し出された飾り気のない広口の盃。くすんだ鉄色の質素な聖盃は澄んだ水を湛えて、捻れた双樹を映している。

 それを受け取ろうと藻掻いたが--手が伸びない。そんな事情を察したのだろう、少女は怯え竦みながらも跪づいて、盃の縁を差し向けた。

 

「--ングッ、ング……!」

 

 ゆっくりと傾けられた聖盃から零れる水を、遮二無二飲み下す。浴びているのと変わらない。

 それ程までの、美味さなのだ。例えるならば古い伝承に歌われるネクタルかソーマか、アムリタの如く。呼吸すら忘れ飲み続ける。

 

「--ぷはっ、ハァ……」

 

 漸く人心地付き、深く息を吐く。そして--息を詰めた。

 

 左は神聖なるミスリルの色で、右は魔妖なるオリハルコンの色の金銀妖瞳は、クチクラの如く虹色に煌めいている。修道帽から零れ出る豊かな長い髪は、どこまでも深く澄み渡る劫初の海を思わせるラピス・ラズリの滄。その煌めきが照り返すのは、やはり虹色。

 丈の妙に長い修道服から僅かに覗いた、処女雪の白さの肌。遍く幻想の粋を集めたように非現実的な存在に。

 

「あ、あの……?」

 

 未だ幼さの抜け切らない容貌。だが確かに、間違いなくそこには天性の美質が見え隠れしている。

 

「……有難う、美味かった。躯が言う事聞かないくらい喉が渇いてたんだ」

「いえ、その……本当に、大した事なんてありません。わたしの水はただ、繰り返す輪廻のさざ波にすぎませんから」

「『輪廻のさざ波』……?」

 

 微かに震え始めた少女から視線を外す。そして目に入る、捻れた幹の虚に衝き出た……深く澄んだ滄い刀身の両刃。

 

--……『刃』? いや、アレは『刃』なんかじゃなくて--

 

 娘は『何でもない』とばかりにフルフルと頚を振る。瑠璃色のの髪が、滔々とうねる波濤のようにさざめいた。

 

「その……傷をお治ししました。これは『生命を奪う』んじゃなくて、『生命を紡ぐ』刃から滴った雫なんです……信じられないかも知れませんけど……」

「ああ--信じるさ。こんな奇蹟を見せられちゃ、な」

「でも……癒えたのはあくまでも、此処に来た『魂』だけですから……ごめんなさい」

 

 その瞬きの間に、傷が癒えた。比喩ではなく真実の意味で。彼の躯に深く刻まれた切り傷だけでは無く雷に焼かれた酷い傷が、傷痕こそ残ったものの完璧に塞がったのだ。

 

「有難う、助かったよ」

「あぅ……」

 

 礼を言われた彼女は顔を真っ赤にして、盃を抱きしめて恥じ入るように縮こまり俯く。

 

「--アキだ。俺の名前はタツミ=アキ」

「えっ……?」

 

 名乗られて面食らったのだろう、少女の戸惑う声。そんな彼女に真摯な眼差しを向ける。

 作り笑いは得意だが--本当の笑顔は、彼の最も苦手とするモノだから。

 

「君の、名前は?」

 

 真っ直ぐ向けられた視線に妖瞳が揺れ、沈黙が返る。生きる権利を取り戻したその躯に、残り時間は後少し。迫り来る終わりに瞼を閉じた。躯が軽く、軽く--

 

「……私は……ネアです……」

 

 掠れてゆく意識を繋ぎ止める。後一瞬でも持てば御の字の抵抗を試みて、祝福を待つように少女の言葉を待つ。

 

「私の名前は、アイオネアです。永遠神剣--…」

『『『『『ォォォォォォォッッッ!!!!!』』』』』

 

 果たしてそれは邪魔したのか、そういう習わしなのか。その聖句が唱えられた刹那、五柱の幻想種が一斉に咆哮した。

 更に強風が吹いて風鈴を鳴らし、大樹がまるで風琴のように音色を奏でる。だから、その神銘は彼の耳のみに意味を成した。

 

「そうか……佳い名前だな……」

 

 

 そんな、優しく穏やかな虹色の平穏の中で。始まりの終わるユメを観た--……

 

 

………………

…………

……

 

 

 少女は萌える草の絨毯にぺたりと座り込みその名残を抱く。カラの聖盃、それを呑み乾した存在に想いを馳せて。

 思い出したのは、へつらいなどせずに真っ直ぐ己を見詰めた瞳。

 

『ふん、随分茫洋とした小僧っ子だったな。あの程度、ヒトの世には掃いて棄てる程居る。俺っちらの媛樣には相応しく無いぜ……』

 

 口を開いたのは隻眼の蒼い錦蛇。忌ま忌ましげに鎌首をもたげ、二股に分かれた蛇舌をちらつかせながら鋭い息吹を鳴らす。

 

『あぁら、ヤキモチなんて惨めな爬虫類ね? これは、アタイ達がどうこう言う事じゃ無いでしょう。大事なのは媛樣のお気に召したかどうか……それが総てさね』

 

 応えたのは、片翼の紅い鷲だ。そんな蛇を嘲笑って、からからと嘴を鳴らす。獰猛な蛇の眼光が、そんな鳥を捉えた。

 

『鳴いたな、禽が……! そこを動くなよ、今すぐ凍り漬けにして一呑みしてやらぁ!』

『やってみなよ、它! 消し炭にして啄んでやるよ!』

『あーもう、静かにしてよ……僕眠くて仕方ないんだからさぁ……感電死したいの?』

 

 凍てつく息を吐いた錦蛇に対し、鷲は劫火を纏う片翼を広げた。喧しい禽と它に、角に翠色の雷を輝かせた角獣は鬣を靡かせながら恫喝する。

 

『全く貴方達は……媛樣の御前で何を騒いでいますの。節度を持ちなさいとワタクシが常々……』

『まぁ、良いではないか。騒ぎもしようて、何せこの世界に初めてニンゲンが訪れたのだぞ? 儂も期待に胸が躍っとるわ』

 

 そこに、閃光を放つ白凰と暗闇を放つ黒龍が舞い降りる。刹那にてあらゆる喧騒に包まれた浮島。

 何れも高い知性と霊格を有する五柱の守護神獣、"媛君の忠臣達"。好き勝手に喋る彼等に--

 

「ねぇ皆。私ね、あんなに澄んだ存在を見たの……初めて……」

 

 媛君は呟きながら、聖盃を連理の大樹の根元に近い幹に穿たれた空洞を利用した祭壇に納める。

 

『澄んだ……ですかい?』

「うん……果てしなく広く澄んでて……まるで海原を撫でる風か、星を抱く優しい大空みたいに」

 

 捻れ一ツに成った幹の虚に突き出た、その『刃』に触れてカタチを確かめながら。にこりと、屈託なく笑う。

 祭壇に突き出した両刃の宝剣は媛君の指を傷つける事無く、その鏡の如く凪いだ水面のような刃に波紋を起こして透り貫けさせた。

 

 その消え行く波紋の斬先に、雫が伝う。煌めく雫、空っぽの聖盃を充たすべく滴った彼女の神力の顕現である、透明なエーテル。

 

『くっくく……さすがアタイらの媛樣だ。見る処が違うよ』

『どうでもいいよ、そんなの……媛樣、膝枕して~~ふぎっ!』

 

 地面に跪づいた少女の膝に顎を置こうとした幽角獣が、地面に顎をぶつけた。彼女が、やおら立ち上がった為だ。

 

「もしかして、あの方なのかな? だって【調律】さまが言ってたもの。わたしがここで初めて逢う相手が、わたしの『担い手』なんだって……」

 

 そのまま駆け出して、ハミングしながら楽しげに舞う少女の袖や裾が翻る。

 その裸足の足でも柔らかな草地は彼女を傷付けない。踏まれた事など無かったかのように、青々と繁るのみだ。

 

『媛樣、即決などお止め下さい! 媛樣にはもっと見合う相手が、きっと……』

『このたわけめ。媛樣が御決めになられたのだ、例え間違いだろうと正解になるわ』

 

 いや、どんなモノであれ彼女を害する意志など持つ事は出来ず、仇為す行動を起こす事なども出来はしないだろう。

 

【そう--貴女がそう感じたなら、それは間違いではありません。『始まる前と終わった後』を司る貴女がそう感じたなら……きっと、あの子は貴女に。貴女はあの子に相応しい】

 

 そう木霊する理知的な女の声。白銀の精霊光を発して煌めいた、チョーカーの『錠盾』から。

 

「はい……有り難うございます、母様」

 

 その錠盾を指先で撫で、彼女は嬉しそうに頬を染める。

 

【それにしても……あの『剣』も良い候補を見付けてきたものです。天地人が遍く存在できない此処に存在出来るという事は……だとすれば、あの子はこの子にとって兄のようなもの……】

 

 そんな『娘』の様子に、錠盾はそう思考する。だが、媛君は全く『母』の思案に気付かない。

 

「『にいさま』……? にいさま……あの方がわたしの兄さま……えへへ…………」

【何を喜んでいるの。全くもう、貴女って娘は……】

「だって母様、わたし昔から兄様か姉様が欲しかったんだもの……いつも一番『年上』だったから」

 

 それどころか、むしろ『兄』という言葉を噛み締める。頬を染め、いじましく微笑んだ。

 

「……だから、また逢えるかな? あの方に……」

 

 生まれる事で背負う『原罪』も生きる事で塗れゆく『穢れ』も、死という避けられぬ『贖罪』すら知らぬ輝かしき神姫に応えて。

 

『『『『『逢えますとも、媛樣が望むのならば必ずや。不可能など在りません、何故なら媛樣はこの有限世界にただ一振りの……遍く可能性を斬り拓く『刃』を振るう為の"神柄《ツカ》"なのですから--……』』』』』

 

 周囲を片翼の紅鷲と煌めく白凰が囀りつつ飛び回り隻眼の蒼錦蛇と眩ます黒龍が足元を這い、翠馬が角と蹄で拍子を取る。

 頭上には星屑雲《ネビュラ》を思わせる三重のハイロゥが煌めき、足元の幻影が揃い舞い、連理の樹が枝葉と風鈴で喝采する。

 

 媛君は嬉しげに天を行く絹雲に手を伸ばし、楽しげに地を流れるせせらぎを踏む。風を切った袖が翻り、撥ねた水に裾が濡れる。

 

「うん、また逢いたい……あの方に……兄様に…………アキ様に」

 

 此処は、架空の楽園。誰も辿り着く事の叶わぬ未遠の理想郷。

 シャングリラ、ティルナノーグ、極楽浄土、天国など、呼び名は幾つもある。

 

 

"囁くは銀月《ミスリル》、金陽《オリハルコン》の双頭……"

 

 

 その、鎖されたユメの中にて。あらゆる生命が見果てぬユメ--『無可有郷《アタラクシア》』の深奥で。

 

 

"--天に響けり、永劫の韻律。地に奏でよ、刹那の旋律。いざや唄わん、調律の和音を。始まりに終わり、終わりに始まる零位の剣の、その御名を--…"

 

 

 “劫初海の媛君《フロイライン=アイオネア》”は、願いながら唄い舞う……


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