サン=サーラ...   作:ドラケン

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断章 月世海《アタラクシア》 Ⅴ
月の海原 濫觴の盃 Ⅴ


「humm〜〜♪ hummm~〜〜〜♪」

 

 風が頬を撫でる。匂い立つ華の香を含む甘い春の野の風。その風に乗り耳朶を震わせるハミング。

 

 刧莫と拡がる水平線、黒金の太陽と白銀の望月を同時に望む、薄紫の虚空(ソラ)虚海(ウミ)の境界に浮かぶ孤島。その外周を緩やかに周回する七本の石柱。

 

「……此処は」

 

 背を預ける樹の幹、捻れ逢い一ツとなった連理(メビウス)の大樹。その大樹除いて、世界は――ほぼ水没していた。

 その水位は、座り込んだ空の胸の辺りまで有る。

 

「……あ」

 

 と、息を詰める声。ゆっくりと右に顔を向ければ見詰め合う、魔金の瞳。刹那、またも袱紗を解いたように綻び、溢れ出す記憶。滄海(あお)い髪の少女との邂逅が。

 

「……アイオネア……?」

 

 嬉しげに微笑みかけた彼女。右瞳は魔金、左瞳は聖銀。

 

「はい……はいっ……お、お待ちしておりました……。兄さま……宜しければ、どうぞ」

 

 身長の問題で見えないが、足で波を起こしながら近付いてくる彼女。しかし今回は、今までのように転びそうな不安定さがなかった。

 差し出された盃の水鏡が映すは、双世樹に穿たれた(ウロ)。聖盃の納められていた聖櫃。樹の合間より衝き出す−−限り無く透明にも濁っても見える、波紋の刃紋の蒼滄(あお)い刃。

 

 瑠璃(ラピス=ラズリ)の海へと、永遠に寄せては返す波のように。波跡を刻み続ける。

 その幻想の刃はさながら、今は製法が失伝されたという"水紋剱(ダマスカスブレード)"。

 

「ああ……っく」

 

 受け取ろうと試みるが、やはり躯は動かない。媛君は以前と同じく彼の前に膝を付き――盃を口許へ傾ける。

 

「――……ん……ンク……ンク……」

 

 喉を滑り落ちる澪水(みず)。その(うま)さは以前より更に磨きが掛かっているように感じられる。

 

――そうだ、他の水じゃちっとも癒されなかった。俺の渇きは……この水じゃなきゃ潤わなかった。

 

「ふぅ……有難う、アイオネア……甘かった」

「あ、有り難うございます……」

 

 全て飲み干された聖盃は、彼女の慎ましやかな胸元に抱かれた。

 渇きが癒えクリアになった意識、周囲を見渡せば……霊獣達は、ほぼ至近距離に存在していた。

 

「久しぶり、か。言われた通り、忘れてたよ」

 

 ぎこちなく笑って見せる。少なくとも、本心からではなく。やはりそれがいけなかった。

 

「……何かおありになったんですか? 兄さま、前より辛そうなお顔をなされています……」

「う……」

 

 あっさりと看破され、心配されてしまう。そもそも、笑顔は苦手なのだから。

 

「……俺は……無力だからさ」

 

 そして、口を開いた。普段ならば強がってごまかして終わる場面で本心を。それだけ、彼の心は追い詰められていた。

 

「……救いたかったんだ。でも、俺にだけは無理だった。俺と同じだったアイツを……」

「兄さま……」

 

――確かに、行き過ぎてた。でもアイツはただ……守りたかっただけなんだ。自分の大事なモノを……!

 

「当然だよな、多寡がニンゲンが神剣士(バケモノ)と闘って、生き残るだけで精一杯の癖して『救いたい』なんて……そんな大それた事が出来る訳無かったんだ……!」

 

 血を吐くような吐露。負った傷の痛みを忘れないように、その傷を刔るような言葉の奔流。

 

「……きっと、救われました。その方は……」

「……そんな筈は無い、俺は何一ツ出来なかった……死んだら終わりなんだよ。救いなんて、何処にも無いんだ!」

 

 媛君はその言葉を全て聞き終え、静かな声を掛ける。しかし彼は、その慈愛の言葉を拒絶する。

 

――神名で転生しても、ショウが生まれる事はもうない。アレは、『神』という役職を存続させる為だけの仕組み。何度でも何度でも……この俺の『前世』のように!!

 

 繰り返し繰り返し絶望を刻む神名に翻弄された挙句に、成れの果てが機械の躯。何から何まで、同じだった。

 

「――何が……何が、『聖なる神名(オリハルコンネーム)』だよ……あんなモノ、命を冒涜するただの『呪詛(ノロイ)』だろうが……!」

 

 それは一体、誰へと手向けられたモノか。地に墜ちた聖盃が弔鐘のように、物悲しい旋律を奏でた。

 

「きっと救われました、その方の魂は。兄さまの何処までも果てしなく拡がる優しい『蒼穹(そら)』のような魂に……きっと」

 

 そっと抱き締められる。甘やかな、それでいて爽やかな白檀に似た香気。小さな身体らしく、高めの体温。

 そして、漸く気付く。彼女の足が――さながら、人魚のような龍の尾鰭となっている事に。いや、その自然さから言えば、今までが仮初めであったのだ。

 

「お辛いのなら、"月下海(つきげかい)"に戻らなくたって良いじゃありませんか……兄さまさえ宜しければ、この"天上海(てんじょうかい)"にお好きなだけご逗留下さいませ……」

 

 流れる髪は、太洋(オケアノス)のように。眼差しは水面に燦ざめく燐光のように。その声はまるで砂浜を濡らす波音のように……穏やかで柔らかく温かい、龍宮之乙媛(プリンセス・オブ・ドラゴネレイド)

 

「この私と……『空位神剣(ヴァジュラ)』と契約して頂けるのなら、永遠に変わる事の無い安寧をお約束致します。いいえ、私に出来る事はそれだけしか無いんですから……」

 

 まるで――陽光(ヒカリ)射す海に抱かれて揺蕩(たゆた)うように。永久(とこしえ)に変わる事の無い"魂の浄土(アタラクシア)"。

 

「……私の、神剣としての形状は……"生命(イノチ)"ですから――……」

 

 それこそ、彼女が『空位神剣』たる由縁。生きとし生ける全てが知覚しながら誰もが忘れ去った、普遍ながら唯一実在する『奇跡』。遍く"可能性"を宿した唯一の『奇蹟』だ。

 

 則ち、彼女の契約者は――凡庸と引き換えに永遠に尽きぬ命を得る。そしてこの楽園にて、久遠に続く安らぎを得るのだろう。

 

「有難うアイオネア……嬉しいよ」

 

 今度浮かべたのは……またも不器用な微笑み。だがそれは間違いなく、本心から出たモノ。

 

――優しいのは、お前の方だろ。こんな惨めな俺が『蒼穹』なら……お前は何処までも遙かに拡がる、鏡の如く凪いだ『滄海(うみ)』のように優しい。

 

「でも……それは出来ない。それだけは出来ない」

 

 目前の救いに手を伸ばしかけた、その時――思い浮かんだのは……壱振りの黒い大剣。

 

「俺は『巽空』だから……どんなに無力でも、自分の可能性を信じて"在るがままでしく在る"……『神銃士』だからな…」

 

 ずっと、そんな弱者である巽空を信じチカラを貸してくれた神獣……【夜燭】の凍えた焔"レストアス"の姿だった。

 

――その俺が"永遠の生命"なんかに縋って、何もかもを投げ出して楽になって良い訳が無い。アイツの信頼に応える為にも……アイツが信じてくれる『巽空』を貫く為に……!

 

 だから今更、強がりのその言葉を口にしたのかどうかは判らないが、彼女はそれが彼の本心である事を悟る。

 "生命"の元型(アーキタイプ)たる『刧初の媛』アイオネアはそっと腕を解き、転がっていた盃を抱き上げる。

 

「困らせてしまってごめんなさい……そうですよね、私は……無価値な空っぽですから……」

 

 滄海い睫毛を伏せて悲しげに俯き、抱き締める聖盃に力を篭めるが、それで壊れるモノでも無い。

 

「……そんな事無い、アイオネアは何回も俺に水をくれただろ」

「でも、そんな事は……誰にでも出来ます。私だけに出来る事じゃ無いです……」

 

 普遍の"生命"であるからこそ、それは同じ"生命"にすらも壊す事適う唯一の『奇跡』。永遠神剣に在るまじき、脆弱な事この下無き唯一の『冀望(きぼう)』なのである。

 

 己の言葉に打ちひしがれたように、櫻色の唇を結ぶ深滄の媛君。

 その言葉通り、この無力な媛君に出来る事は−−"未だ"何も無い。

 

 と、周囲の霊獣達の色とりどりの眼差しが一斉に注がれている事に気付く。ジッと値踏みでもするように彼の全身を見回すその九つの眼差しは『続きを言え』と、そう言っているように感じられた。

 

 しかしそれは、自らの手で解いた(よすが)だ。その上で慰めるなどと、阿呆のする事だろう。

 

 一時、逡巡した空だったが――

 

「……いいや、滿たしてくれたさ。アイオネアが空っぽだっていうなら俺だってカラだ。水を飲むくらい、誰にでも出来るんだからな」

「でも私には……他の"皆"みたいに、特別な『異能《チカラ》』なんて無いから……"位階"も貰えなくて……アキ様にも選んで頂けなくて……」

 

 だが彼女は"殻"に閉じ篭る鳥の雛のように。『自分に出来る事なんて何も無い』と、庇護たる楽園(カラ)に震えた声を響かせる。そんな彼女に向け、彼は静かに告げた。

 

「……何も無いんじゃない。カラにはカラが滿たされてるんだ。今の、その盃みたいに」

「カラに……カラが滿ちて?」

 

 彼の言葉を理解出来たのか出来なかったのか、媛君は不思議そうに抱く聖盃を見詰める。聖盃を滿たしていた靈氣は、一滴すら残ってはいない。

 

「ああ、"(カラ)"と"無"は違う…カラは何も無いんじゃなくて、"全"を受け入れられる唯一ツだ。全てを否定する虚無とは違って、全てを肯定する……だから、全てと一緒なんだよ、カラは」

「……カラが、全て……」

「そうだ、そのカラッポの盃には−−その外に拡がる世界の全てが滿ちてるんだ」

 

 文字通りのカラ、カラを滿たした空器(ウツワ)。だからそれは、その空っぽのままで満タンだなんだと。そんな事を言ってのけた。

 

――とんでもない詭弁だな。いや……そう在ってほしいだけか。俺と同じで、自分が『空虚』だと感じているこの娘に。そう有りたいと、願う事を……

 

 自嘲した目に映る媛君の頚元、チョーカーにあしらわれた『錠盾』の鍵穴の意匠(レリーフ)に目を奪われる。

 

――あの『鍵穴』のサイズ……俺の『鍵』と同じじゃあ……

 

「じゃあ……」

「……ん?」

 

 気を取られてしまっていた彼は、彼女の呼び声に応えて視線を戻す。戻してみれば、縋るような金銀の瞳と見詰め逢う。

 

「もしも私が空っぽのまま奇跡を起こせたのなら……飲み干した後の終わりの盃に水を注げば始まりに戻るように……『終わりから始まる』事が出来たのなら、私と契約して下さいますか……?」

 

 それは間違い無く、誤った言葉だった。安易な慰めなどを掛けなければ、彼女は諦めていた筈だ。

 なにせ彼が彼女に掛けた言葉は、『空っぽのままでも可能性が在る』と信じさせる言葉だった故に彼女は、『冀望(きぼう)』を抱いてしまった。

 

「アイオネア……御免、俺は神剣とは契約出来ない――……」

 

 瞬間、意識が揺らぐ。彼方で瞬く黒金の太陽に終わりを悟った。

 だがそれは彼女に伝わる事は無い。己の存在が霞んでいく最中でも、言葉は続けて投げ掛けられる。

 

「じゃあ、私が『神剣』じゃなく『神銃』だったのなら……アキ様は私と、(えにし)を結んで下さいますか……?」

 

 薄らぐ心魂では意味を成す思考が出来ない。ただ、今にも泪を流しそうなその娘を突き放す事だけはどうしても言えなかった。

 

「……そう……だな……『永遠神剣』じゃなくて『永遠神銃』なら俺は……『神銃士』だから……」

「はい……はいっ!」

 

 不可能と知りつつ発した、そんな朦朧とした言葉すらも真に受けて嬉しそうに微笑んだ彼女。

 

『『『『『――――ォォォォォォォォ……!!!┠』』』』』

 

 刹那、五柱の霊獣が福音の咆哮と共に空間に波紋を残して消える。彼女の意志が定まった事により『根源力』……根源たるマナを司る象徴の臣下達が、空器(セカイ)の一切を滿たしていく。

 

 結論から言えば、彼はまた言葉を間違えた。何故ならば彼女は、『生命』だ。その歩みを止めぬ限り、如何なる『奇跡』であろうとも諦めなければ起こしてのけるモノ−−『普遍の可能性』そのものなのだから。

 

「お待ち致します、ずっと……」

 

 性海(しょうかい)を埋める緻密な虹色。五つの属性を象徴する円を結ぶ五芒星、それを中心軸として放射状に拡がった真円の魔法陣。薔薇窓のステンドグラスに似た、精霊光(オーラ)に照らされて。

 

 『未定義の源初動』であった彼女が見出だした方向性……この『世界卵』に渦巻くあらゆる可能性が結実し、唯一無二の存在として――『永遠神銃』として、(かえ)るべきその刻を待つ。

 

「幾度の刧簸(カルパ)(けみ)しようとずっと……私を必要として下さる事を……」

「――アイオネア……」

 

伽藍洞の真世界の深奥、その秘績(サクラメント)の媛君は……心月の寵愛である月影を浴びて恥じらい俯く、夜露に濡れながら咲いた清楚で無垢な白百合の華のように。

 

「久遠の刻も……無間の世すらも、超えて――」

 

 美しくも健気に、儚くも艶やかな笑顔を見せた――――……

 

 

………………

…………

……

 

 

【時流よ、刹那の門を(とざ)せ――『施錠(ロック)』。今はこれまで。(よすが)が交われば再び出逢う事も在るでしょう……】

 

 媛君がうっすらと目を開けば、そこには誰もいない。聖銀のチョーカーの錠盾が発した精霊光に、門が閉ざされたのだ。

 

【……次が、最後の邂逅です。善きにつけ悪しきにつけ、この次で全てが決まる。心しなさい】

「…………」

 

 その厳かな言葉を聞きつつ、媛君は――

 

"囁くは銀月《ミスリル》、金陽《オリハルコン》の双頭……"

 

 

 新たなるユメの中にて、境界すら定かではない空海を揺らすように――

 

 

"――天に響けり、永劫の韻律。地に奏でよ、刹那の旋律。いざや唄わん、調律の和音を。始まりに終わり、終わりに始まる零位の剣の、その御名を――……"

 

 生命の――否、『この宇宙』の濫觴を口ずさむ――……


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