サン=サーラ...   作:ドラケン

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因果の楔 輪廻の轍 Ⅲ

「すいません、遅くなりました」

 

 そう謝罪しつつ、ベルの付いた扉を押し開けて店内に歩み入る。微妙に薄暗い室内は饐えた木特有の香りを漂わせている。そして、一斉に中にいた数人の男がこちらを見たが……それが空だと解ると興味を失って元に戻った。

 そしてこれまた年代物の木製のカウンターの奥で、不織布で何かを磨くロマンスグレーな壮年の男がこちらを向いた。

 

「遅かったね、巽君……言った筈だろう、今日は大事な任務が有るから早めに来いって」

「それがあのですね、ボス……実は原付きをレッカーされて」

 

 言い訳が終わる前に、『ボス』と呼ばれた男が磨いていた物を空に向けて突き付けた。

 

「つまり、ヘマをやらかしたと。実に残念だ……君には我が組織のイェーガーとして期待していたんだが--ファミリーには、足枷は要らない」

 

 それは--黒光りする金属塊。脆弱なる人類の英知が作り上げた、『己より強いものを殺す為』の武器……銃である。

 

「まっ……待って下さい、ボス!もう一度、もう一度だけチャンスを!」

 

 回転式の樽型弾倉を持った拳銃でありながらもオートマチックの機構を持った『マテバ6ウニカ』、その引鉄が容赦無く引かれ銃弾を吐き出す。その弾は正確に空の額に命中、赤い花を咲かせた。

 ガクリと膝から崩れ落ちた空。周囲の男達は、それを面白そうに口元を歪めて見ているだけだった。そして拳銃を放った男は銃口に息を吹き掛けると、それを器用に回転させながら腰のホルスターに納めてから口を開く。

 

「……とまぁ、余興はコレくらいにして。早く着替えておいでよ、時給減らしちゃうよ?」

 

 如何にも、人の良さそうな。人懐っこい笑顔で。

 

「……ういっす、店長《ボス》。すぐ着替えてきます」

 

 と、空もムクリと起き上がる。額に命中したペイント弾の染料をポケットティッシュで拭いながら。客の喝采を受けつつ、更衣室に向かったのだった。

 

 その店の名は『イェニチェリ』だ。民族料理でも出していそうな屋号だが、西部劇風な内装をした『銃好きの集まる喫茶店』というコンセプトの、ダーツバーの銃版の店である。

 屋号の由来は、かつてオスマン帝国で組織されていた軽装銃兵団から。因みに、この店のスタッフが属するサバゲチームの名前でもある。

 

 店の壁には大会で優勝した際に撮られた写真が飾られている。空はその大会のMVPとして、中央で皆から称賛とやっかみを受けて揉みくちゃにされていた。

 空はその中では、斥候と猟兵の役割を担っている。特に、速度と機転を必要とする役割だ。つまりサバゲーと銃は、空が金を掛ける数少ない趣味である。まぁ、今は無関係なので省略するが。

 

 手早く更衣室で服を着替えて、『支給品』を肩に担ぐ。その名を『ウィンチェスターM1887』、解り易く言えば某近未来の殺人ロボットが第二部でバイクに乗りながらクルクル回してぶっ放していたショットガン……のエアガンバージョンである。

 

--店長曰く、こういう大型の銃は俺みたいにガタイが良い大男が持って初めて意味が有るらしい。何せ、店長のモットーは『銃こそ、人の辿り着いた最強の武器なんだよ。剣より強く、弓より速く、槍より遠く、盾を砕き、鎧を貫く。他の武器は鞘に収まれば殺傷力を失うけれど、銃はホルスターに収まっていてもそれを撃ち抜けるんだから!』……だ、そうだ。

 まぁ、俺も銃は好きだから文句はない。寧ろこんな店だからこそ、入店した訳だが。

 

 準備を終えて、店に出る。週一で行われている今日の余興はその銃が示す通り。

 ループレバーを基点に銃自体を回転させてリロードとコッキングを片腕のみで行うガンアクション、レバーアクション銃専用スキル『スピンローディング』を試す。土建系のバイトで鍛えられている腕力は、それを軽々と実行した。

 

「さってと……確か、決め台詞は『アイル・ビー・バック』だったっけな」

 

 そしてジャケットを羽織り髪を携帯用の容器に入れたワックスで逆立て、伊達眼鏡をサングラスに交換してフロアへと繰り出したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 表の看板を『CLOSED』に変えて、掃除を終えた店内の最終チェックしながらカウンターまで歩く。そして私服に着替えた後、いつも通り店長に挨拶を向ける。

 

「お先に失礼します」

「はーい。お疲れ様、巽君……と、そうだ。今日は給料日だね」

 

 と、そこでいつも通りではない事が起きる。店長は、思い出したように茶色の直方体の包みを差し出した。『給料』と手書きされた、結構な厚みを持ったそれを。

 

「ちょ、ボス……何ですかこれ、こんなに沢山戴けませんよ」

「とか何とか言いつつ迷わず受け取る君が好きだよ、僕は」

 

 有り得ない厚みに恐々としつつも、空は店長の気が変わらない内に受け取る。自立して以来の苦労の所為で守銭奴の気が芽生えつつ有るのだ。

 その袋を開く。するとそこから、箱が一つ飛び出した。小学生が持つ筆箱くらいの無地の段ボール箱が。

 

「…………」

 

 何か嫌な予感をひしひしと感じながら、箱を開く。中には綺麗に梱包された木製の黒い燧石式拳銃《フリントロック》、解放の英雄である米国の十六代大統領を暗殺した秘匿拳銃『フィラデルフィア・デリンジャー』が入っていた。

 黒檀製の漆黒の基部には美しくも禍々しい、インド神話の旱魃をもたらす災いの龍『ヴリトラ』と思われる彫刻が銃全体に施されている。文字通り蛇行する躯が銃把とハンドガードを兼ねるナックルダスターになり、尻尾はフリント付きの撃鉄に。

 

「……アパッチ・リボルバー」

 

 そして開かれた下の顎には牙を摸した、展開式の片刃バヨネットと銃口が覗いていた。

 つまり、デリンジャーであると同時にアパッチ・リボルバーなのだ。

 

「ボス……出頭して下さい。密造も十分に銃刀法違反ですよ」

「心配しなくても鑑賞用の物さ。ちゃんと撃てないように加工してあるから」

 

 確かに、銃口を覗けばバレルの内側は鉄の棒で埋められているしフリントも偽物だった。

 

「いや、確かにカッコイイすけど……これが給料とか言ったら訴えますからね」

「解ってるよ。それは勤続一周年記念品、こっちが本当の給料だ。彼女に何か買ってあげなさい」

「居ませんけどね。それでは」

「はーい、じゃあまた」

 

 いつも通りに通り一遍の挨拶を交わして喫茶店を出ようと、ノブに手を掛けた瞬間。

 

「--ふブォ!??!」

 

 勢いよく開いた扉、しかも角が強かに空の顔面を打った。

 

「邪魔をする。店主よ、一番高い酒を」

「え? あー、いやその……君、お酒はちょっと」

 

 ベルが鳴る中で、顔を押さえて蹲った空など歯牙にも掛けずに。怜悧な女の声と共に、軽い足音がカウンター席まで移動した。

 店長はそれに面食らったような困惑したような、歯切れの悪い声を漏らしている。

 

「なんだ、扱っていないのか……なれば一番高いコーヒーで良い。急げ」

 

 対し、気分を害したようなその声。その高圧的な物言いと顔面の疼痛に、流石に腹を据えかねた。

 勢いよく立ち上がると、背後のカウンター席に向かい直って。

 

「悪いけど--お客さんに出す物は無いんですがね!」

 

 威圧を込めた視線と声色でそう口にすれば--きょとんとした、店長と目が合ってしまった。

 

「ほう、客に対して良い態度だ事だな、ウェイター」

「ん……あれ?」

 

 女の声はすれども姿は見えず。まるで狐に摘まれたように、空は辺りを見回した。

 

「……貴様、先程から一体何処を見ている。下だ、下」

「え、おおっ」

 

 輪を掛けて不機嫌となった声に、下を見る。すると、目に入った--銀色の髪に、青い瞳の……

 

「……暁の妹?」

「誰だ、その『アカツキ』とは」

 

 年端もいかない、銀髪をツインテールにした青い瞳の童女。だがその眼差しには、年齢に相応しくない強い意志が感じられた。

 

「じゃあ、『銀色の闇』?」

「そのような二つ名を持った覚えはない」

 

 黒一色の衣服は胸元、というか水月の辺りが大きく開いており、サイズがサイズなら目を奪われたかもしれない。いや、今でも一部の趣味の人間ならば目を奪われるだろうが。

 

「はぁ……子供が背伸びした物を頼むんじゃないよ。親御さんは、何処に要るんだ?」

「……小僧、貴様……それは我に対して言っておるのか」

 

 子供に対する言い方に改めて、背の高さを合わせる。童女はみるみる眉をひそめた。

 その瞬間--空の頭頂部に衝撃が走った。店長の拳骨が。

 

「こらこら巽君。レディに対してそんな言い方をするものじゃないよ。すみません、お客様。本日は閉店しておりまして。申し訳ありませんが、またのご来店をお待ちしております」

「ふん、致し方あるまい。元より他が開いておらぬから入っただけの事」

 

 童女は立ち上がり、淀みの無い動作で空の脇を摺り抜けた。

 ほんの刹那、値踏みするように彼を睥睨して。

 

「ほら、何をしてるんだい巽君。レディを一人で帰らせる心算かい? 危険が無いように送って差し上げるのが、ジェントルマンってものだよ」

「ええ、何で俺があんな生意気なガキ……」

 

 心底から嫌そうに痛む頭を摩りながら、店長に向き直る。店長はそんな彼にニコリと笑い掛けて。

 

「はは、あの娘、将来的に間違いなく美女だよ。今から唾をつけておきな。アウトローには美女って相場が決まってるんだからさ」

「確かにアウトローには憧れますけど、ロリコン的な意味でアウトローするのは嫌ですって……はぁ、行ってきます。子供一人で夜道を歩かせるのも気が引けますし」

 

 実に面倒そうに頭を掻きながらそう前置きして空は扉を開いた、その背中に。

 

「とか何とか言いつつ迷わず送りに行く君が好きだよ、僕は」

 

 そんな、からかうような店長の声が掛かったのだった。

 

 暗い道路に出れば、童女は既に反対側の歩道。目の前の横断歩道は緑が点滅している状態だ。

 

「チッ、足速ェなッ! おーい、お客さん!」

 

 急いで道路を渡り、その全てを拒絶する背中を目指す。そんな空に童女は面倒そうに向き直った。

 

「何だ、下郎。我には貴様如きに割いてやる時間は無いのだが」

 

 それに、そんな氷点下な答えを返した童女。それに彼は、同じく氷点下を持って。

 

「そりゃあ結構、こっちとしてもさっさと終わらせたいんでね」

「ほう……やる気か」

 

 隣に並んで歩く。身長差は実に40センチ以上、童女は見上げるように睨みつけた。

 

「阿呆か、こんな夜道を子供一人で歩かせられるかって事だ。送るって言ってるんだよ」

「何を言うかと思えば……ナイト気取りか、貴様如きが。寧ろ貴様こそ送り狼にでもなる気ではあるまいな」

「だから、俺はロリコンじゃねぇっての……で、家は何処だ」

 

 古めかしい口調で嫌みを口走りながら歩調を速める童女に、空は足並みを合わせて歩く。

 離れる気が無い事を悟ったのか、童女は溜息を落とした。

 

「……ここだ」

「へぇ、此処ねぇ……」

 

 何時しか辿り着いていた、駅前の大通り。そこに聳える、高級感バリバリの高層ホテル。

 

--オイオイ、何の冗談だよ。扉のところに使用人が立ってるよ。アメリカの映画とかでしか見た事ねぇよ、あんなの。

 

 呆気に取られっ放しの彼を尻目に、銀の髪を靡かせた童女はドアボーイにチップを渡す。

 そして--空に向き直って。

 

「物言いは気に食わんが……礼を失するは我が沽券に関わる。護衛、大儀。我はフォルロワ、貴様の名は」

 

 階段を昇り、彼と同じになった目線で。意志の強い、青く澄んだ瞳を向けた。

 

「あ……ああ。俺は空、巽空だ」

「タツミ=アキか。覚えておくとしよう」

 

 その小柄な背中が、扉の向こうに消えていく。それを見送って、空は何か思案に暮れて。

 

「ボンボンか……道理で。世の中、理不尽だよな」

 

 ハァ、と溜息と毒を吐いて。踵を返すと、元来た道を引き返していったのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 道々、コンビニで弁当を買う。少し奮発した600円の弁当なのは、今日が給料日だったからだ。

 

「本当、これで彼女でも居りゃあプレゼントでも買ってやるところなんだけどなぁ」

 

 封筒と箱を鞄の中に納めながら、ただ一人の場合を除いて出来る予定も作る気も無いのにそんな事を言ってみる。そして徐に上着の内ポケットから、慣れた手つきで安い煙草の箱を取り出した。

 トントンと叩くようにして一本を銜えつつ引き出して、フリーの左手の百円ライターで火を燈す。

 

「--フゥ……」

 

 焼け付く香気が肺腑を満たす。土建のバイトの先輩に『餓鬼じゃ有るまいし』と勧められて始めた頃こそ噎せたそれも、今や愉しみの一つだ。

 紫煙を燻らせながら、原付きを停めている駐輪場に向かう。勿論、制服でそんな事をやる阿呆ではない。穿き古したカーゴパンツにTシャツ、ジャケットのその姿。眼鏡もかけていない為に三白眼の現状でどこをどう贔屓目に見たとしても、チンピラ以外の何者でもなかった。

 

「さて、今日の分は終わりか……情けねェな、嗜好品に金を掛ける事も出来ない貧乏学生は」

 

 自嘲しながら吸い殻を排水溝に投げ、代わりにポケットから取り出した一粒の飴玉。昔懐かしい、琥珀色に透き通った甘露飴を口に含んだ。

 

 夜の帳は降りて久しい。信号は、今や赤が点滅しているだけだ。微かな星の光さえ都市の光に掻き消されそうな夜天を仰げば、そこには満月。

 清廉なる純銀の煌めきを浴びているだけでも活力が沸いて来る気がする。

 

--今日は……疲れた。あの夢を見た日は大体そうだが、望と希美の仲の良さが殊更鼻に付く。その苛々を抑えるだけでも、一苦労なくらいに。

 

 ころころ転がしていた飴を頬袋に収め、舌打ちする。思い出したのは、今日の休憩時間中の事。

 寝ぼけた望が希美に抱き着き、それが誰かと勘違いしていた事を知った彼女に『のぞみんパンチ』(命名:阿川)で殴り飛ばされている映像だった。

 だがそれは、決して仲違いなどには発展しない。ただ戯れあっているようなものだ。

 

--止めだ。これ以上ムカついてどうする、止めだ止め--……

 

 そう結論づけ、もう一度、夜天に煌めく満月を見上げた空は。

 

「暖かく、清らかな、母なる再生の光--……」

 

 まるでささくれ立った心を潤すように、祝詞のような言葉を紡ぎ始めた。

 

「……全ては剣より生まれ、マナに還る。どんなに暗い道を歩むとしても、精霊光が、私達の足元を照らしてくれる--……」

 

--よく、夜の闇に怯えて布団に潜り込んでいた俺に『あの人』が唄ってくれた……どこの地方の物のかも分からない『子守唄』。

 確か、続きは--

 

「…………?」

 

 そして、気づく。その視線に。ねっとりと絡み付く汚泥のような、本能的に嫌悪を感じるそれに。

 

--何処から?

 

 焦燥と共に唄を止め、視線だけをぐるりと巡らす。自販機、ゴミ箱、塀、空き地、電柱、街灯--

 

(あれは……?)

 

 曲がり角に設置された橙色の光を放つ街灯の下、壁に阻まれて光が届かない僅かな暗がり。そこに、息を潜めているモノがいる。

 

 ソレは、黒い犬。寧ろ狗。動物というよりは獣だ。だが、目の前のソレから受ける印象は、もっと何か薄ら寒いモノ。犬という存在から感じる親近感のようなモノがない、犬に見えるだけの別モノ。

 

「グルルルゥ……」

 

 低い唸り声。獣の喉笛が奏でたものだ。値踏みでもするかのようにこちらを睨みつけている血の色の瞳。そこに含まれている、悪意や害意といった負の感情。

 そして暗がりから歩み出たソレは、下手な狼などよりずっと強靭な体躯を持っていた。その四肢に力が篭められたのが判る。本能的に悟った、『逃げろ、殺される』と。

 

「--ッ!」

 

 弁当と飲料の入ったビニール袋を投げ付けて目眩ましをした後、間髪入れずに脇道に逸れる。

 走った。ただ速く、疾く。一瞬たりとも気を抜かずに、ただただ前に向かって。もしも振り向けば、取り返しの付かない事になる。それだけは理解出来る。

 

 そして、漸く人通りのある通りが見えた。見えた事に安堵し--壁走りで回り込んできた、黒い狗への対応が遅れた。

 

「--な」

 

 飛び掛かって来る黒い狗、回り込まれて躯を躱せない。

 こうなってしまえばもう、拳を振るうのも止む無しと腹を決めたその刹那--

 

「ギャイイン!?」

 

 その黒い狗が、空中で横っ飛びに吹き飛ぶ。彼には脇の路地から放たれた銀の弾丸にでも撃たれたようにしか見えなかった。

 吹き飛ばされてアスファルトの壁に叩き付けられ、それでも平然と立ち上がる黒い狗。ソイツと、立ち尽くすだけの空との間に--白銀色の狗が立っていた。

 

「お前は……!」

 

 見覚えのある、その姿。月光に映える、孤高な狼のように気高いその姿。

 二頭の狗は睨み合い牽制しあう。だが、不意に黒狗が俺を見た。

 

「……ッ!?」

 

 そして本当に、掻き消えるようにその姿が闇に向こうに消える。

 

「--ッハァ、ハァ、ハァ…!」

 

 忘れていた呼吸を再開して、胸に手を当てた。確かに、見た。

 

「……笑ってた……」

 

 禍々しい顎門を歪めて、凶悪な犬歯を剥いて嘲笑った。力の無いこちらを見て『いつでも、殺せるぞ』と。その愉悦に満ちた眼は、雄弁にそう語っていた。

 ヘタり込むように腰を下ろす。恐怖が過ぎ去り、情けなくも腰が抜けてしまっていた。そんな彼を、白銀の狗が見詰めている。

 

「助けてくれたのか……?」

「…………」

 

 少し離れた所で、白銀色の体毛を夜風に靡かせている銀狗。ほぼ一年近く、見かける事も無かったその姿。

 手を伸ばすと一瞬身を竦めたが、逃げ出しはしなかった。

 

「有難うな、綺羅《きら》……」

「クゥーン……」

 

 そのまま、頭を撫でる。綺羅は心地良さそうに紅い瞳を細めた。だがそれはあの黒い狗とは違い、透き通ったルビーの美しさ。

 と、その前肢に血が滲んでいるのに気が付く。あの黒い狗を吹き飛ばした時に爪が当たりでもしたのだろうか。

 

 ポケットをまさぐると、入れっぱなしにしていたハンカチを取り出す。それを傷口に、少し強めに巻き付けた。

 

「帰ったらちゃんと診てもらえ? そうだ、狂犬病の予防接種とかしてるか?」

「…………?」

 

 心配になって、答えが返る筈も無いのに聞いてしまう。それに、綺羅は小首を傾げた。

 ふさふさとした白い尻尾が控え目に揺れている。先程の勇ましさが嘘の様だ。

 

 もう一度、今度は下顎を撫でる。猫のように喉を鳴らして、綺羅は頬を舐めた。

 何となく苦笑してしまう。御蔭でやっと腰が立つようになった。

 

 立ち上がって、周囲を改める。もうあの厭な感覚は無くなったが、それでも一度感じた死の恐怖は簡単には消えてくれない。

 隣の綺羅を見遣るが、既にその姿はなかった。

 

「ふぅ……相変わらず神出鬼没な奴だな」

 

 昔懐かしい相手に出会った余韻に浸る間も無く、今日は厄日だと愚痴りながら足速に家路を急いだのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 冷や汗に塗れた全身を悸かせながら、捨ててしまった事で駄目になったコンビニ弁当を買い直す為に別のコンビニを目指した空。

 自動ドアを潜った彼を見送って、男は自然な足取りで路地の陰へ立った。欧米式の軍服に似た装束と腰に翻るマント。それによって隠すように挿された飾り気の無い太刀。

 

 その全てが黒に統一されており、ともすれば宵の闇に溶け込んでしまいそうだ。

 

「……やれやれ、驚いた。まさか感付かれるとは思わなかったな」

 

 男は、余程近くに居なければ誰にも聞こえない程に小さく呟く。運良くあの黒い狗が居なければ、己が見付かっていただろうと。

 

「はい。正直に言えば意外です。どう見てもミニオン並に低位なのですが」

 

 それに答えた女の声。だが、男の周囲に人影はない。その怜悧な口調に驚く事無く、『見くびっていたようだ』と告げた。

 

「気に病むような事は無いかと。あの程度では、手駒にも脅威にも成り得ません」

 

 慰めにも聞こえる言葉に、男は肩を竦めて自嘲する。

 

 実のところ、偶然を装って接触するつもりだったのだ。驚く程に鋭敏な感知だった。そして、その逃げ足の速さときたら。

 この自分がほんの一瞬とはいえ出し抜かれたのだ。男は笑った。笑って、つい『喚んで』しまった刀を握り締めた。

 

「ああ、そうだな。つい、思わず……殺しそうになるくらいにな」

 

 冷酷な眼光を橙の光に照らされながら、雑誌の立ち読みに興じる人物に向ける。

 と、またも何かを感じたのか。少年はあろう事か、男の居る方に視線を向けた。

 

「--まぁいいさ。覚醒すらしていない転生体など、今のところはは放っておこう」

 

 声は、その少年の居るコンビニの屋上で冴えた空気を震わせる。一瞬という言葉よりも短い間に、音も無く移動していた。

 月光に照らされる銀灰色の長髪を一本に纏めた美形の顔立ちに、切れ長の青い瞳。

 

「了解致しました。では、今宵は如何なさいますか」

 

 その肩に、何かが乗っている。それが先程から男が会話していた存在。白銀の髪と紅の瞳を持つ、小さな少女。

 

「まぁとにかく、今は目障りな狗どもを始末するとしよう。最低限は仕事をしなければ、目を付けられかねん」

「そうですね。只でさえ監視付きですし、これ以上の枷が付くのは遠慮したいですから」

 

 男は、達観した笑みを見せた。ともすれば諦観とも取れる静かな笑顔を。

 それに眉根を寄せて言うや、肩の相方はスッと立ち上がり空中を舞う。その姿は羽を持たない妖精か、天使のようだった。

 

「--往くぞ、ナナシ」

「--はい、マスター・ゼツ」

 

 言葉の響いた直後に、二人の姿は掻き消えた。後にはただ、風が啼くのみ……

 

 

………………

…………

……

 

 

「--ハッ、ハッ、ハッ……」

 

 夜の闇の底をひた走る黒狗は、歓喜していた。主に課された使命をやり遂げた充足感から。

 その役目を果たした自らがこの後にどうなるのかは興味が無いが、ただただ歓喜していた。

 

 だからつい、目に映った童女の後ろ姿に。『突如として現れた』余りにも芳醇な香りに釣られて、矢も楯も堪らず『元に戻りかけている』状態で。

 ツインテールから覗く無防備な白いうなじに目掛けて、鈍く銀色に煌めく鋭い牙を『抜いて』襲い掛かり--

 

「--ガ、ヒッ」

 

 蛙が潰れるような声が上がった後で、アスファルトの硬い路面に西瓜くらいの球体が転がる。

 

「……噛み付く相手との力量差も理解できぬとは、大した駄犬だ。程度が知れたな、『秩序の眷属』よ」

 

 それはまるで、明滅する外灯の如く。チカチカとフリッカーする視界で。『狗だった』モノの首は、死に逝く瞳でその黒衣の存在の威容を見た。

 140に届くかどうかの背丈で、己の身の丈を越える黒く幅広なグレートソードを易々と振るった銀髪の娘を。

 

「……しかし、あの"剣"が選んだというからにはどれ程の存在かと思えば……あの程度か。永遠存在の混じった物でありながら『神』如きに憑かれて、あまつさえ神剣すら持たぬとは。これなら放っておいても問題は有るまい」

 

 返り血を浴びてなお、神々しいその姿。凛としたサファイア色の瞳は、何処か遠くの存在を眺めているようだった。

 

「しかし……やはり、衰えたか。あの時のダメージと失ったマナが回復しきっておらぬ。本体の維持の為とはいえど、我がこのように屈辱的な姿でおらねばならぬとは……忌ま忌ましい」

 

 そして『剣』が虚空に消えるや、血溜まりに映った己の姿を見てそう呟いた。何か不愉快な事でも思い出したのか、そのあどけないながらも凛々しい容貌を歪めて、頬の返り血を拭う。

 

「監視は奴に任せておけばよい。早くシャワーを浴びるとするか」

 

 娘は狗の死骸に見向きもせずに闇に消え、その後闇の底から淡い光が上る。

 まるで蛍の光のような淡い光は、誰にも気付かれる事無く消えていった……。


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