サン=サーラ...   作:ドラケン

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断章 月世海《アタラクシア》 Ⅳ
月の海原 濫觴の盃 Ⅳ


 風が頬を撫でる。匂い立つ華の香を含む甘い春の野の風。

 刧莫と拡がった水平線、黒金の太陽と白銀の望月を同時に望む、青紫の虚空と虚海の境界に浮かぶ孤島。その外周を、緩やかに周回する七本の石柱。

 

「……此処は」

 

 背を預ける樹の幹ら、捻れ逢い一ツとなった連理の大樹。右の枝には片翼の、紅い瞳の鷲。左の根には隻眼の、蒼い瞳の蛇。目前の華園には翡翠の瞳の幽角獣が躯を横たえて休む。

 

 天には雲が棚引き、白凰が飛ぶ。地には草が流れ、深い海淵に黒龍が泳ぐ。果てし無く吹き渡る風にそよぐ、葵い草木。それを育むのは何処に源泉が在るのか、地を潤す湧水の流れ。

 

 天を向けば--捻れた木の幹に挟まれた一振りの刃。深い瑠璃色の、まるで生命を育んだ劫初の海を思わせる両刃を望んだ。

 

「…………」

 

 と、己を見詰める視線を感じてそちらを見遣る。ゆっくり右に顔を向ければ見詰め合う--

 

「……あ、あはは……また大怪我しちまった」

「んむ~~……!」

 

 ぷりぷりと頬を膨らませた魔金と聖銀の瞳。滄海い少女は珍しく、怒りの感情を見せていた。

 

「ア……アイオネア……さん?」

 

 いつもは持ってきてくれていた盃を、彼女は双樹の脇に置いて、ぷいっとそっぽを向く。

 

「…………」

 

 どうやら大分怒っているらしく、自分で取れという事らしい。

 とは言え、肩越しにちらちらとこちらを窺ってはいるが。

 

「……っく」

 

 動こうと試みるが、やはり無理なようだ。濡れそぼり冷え切ったその躯は、指先を動かすだけでも一戦を戦い抜くに等しい労苦。

 

--当たり前か。死にかけてたんだしな……。

 

「--ん……っ……」

「あ、あの……反省しましたか、兄さま……?」

 

 と、もう見兼ねたらしく、そうアイオネアが呼び掛けて来た。

 

「した、しました……これからはあんまり怪我しないように頑張ります……」

「本当ですか……?」

「ハハ、兄さま嘘吐かない」

 

 まだ半信半疑といった具合だが、彼女はいつも通りに盃を持ってきて口元に傾けてくれる。

 渇いた喉を滑り落ちる水。その甘《うま》さは、やはり以前より磨きが掛かっていると思った。

 

「ふぅ……」

 

 盃の水を全て飲み干して、一息吐いた。

 と、癒えた事で感覚が戻った脚に感じた冷たさ。改めて、周囲をよく見れば--前は花畑だった筈のそこは水没している。それでも華々は揺らめきながら咲き乱れていた。

 

「……兄さま、今回はどうして、そんな大きな怪我を?」

「え? あ……ああ、ちょっとな……」

 

 流石に、口にするのは憚られた。自分を『兄さま』などと慕ってくれているような相手に、まさか前世に……永遠神剣に裏切られて負けた末、などと。

 しかし今は、少しだけ誇らしい。そんな自分でも、『誰か』の役に立てたのだから。

 

「……兄さま」

 

 だが、それで察してしまったのだろう。彼女は気遣わしげに眉根を寄せた。

 それもそうだ。永遠神剣には、永遠神剣やマナ存在を感じる能力がある。

 

「あの……そういえば、お忘れ物をされましたよね」

「え……忘れ物?」

 

 と、彼女は少し双樹の向こう側に消える。そしてもう一度現れた時、その両腕に抱かれていたのは--

 

「あ……それ」

「はい……この前来られた時に、兄さまがお忘れになった物です」

 

 差し出されたのは、空が使っていたマーリンM336XLR。

 だが、それは確かに精霊の世界で黒ミニオンの『真空剣』で破壊された筈だ。

 

 その美しい射干玉《ぬばたま》のライフルの左側面には、銃口部から銃床の辺りまで、太い物から細いものまで六本の弦が張られていた。

 

「……なぁ、アイオネア……何で、弦が張ってあるんだ?」

「えっ……?」

 

 まるで、ギターみたいになっているライフルを受け取りながら、問う。

 それに彼女は、酷く驚いた様子を見せた。魔金と聖銀の異色瞳を忙しなく動かして。

 

「えっと……これって、楽器じゃないんですか? ここでリズムをとるんじゃ……」

「え? あぁ……いや、これはさ、楽器じゃなくて武器でさ」

「ぶ、ぶき……ですか……?」

 

 慌ててループレバーとトリガーを指していたアイオネアだったが、その空の言葉に自分が考え違いをした事に気付いて恥ずかしげに顔を隠す。

 

「ご、ごめんなさい、兄さま……! わたしったら、その子がそう言ってたから、つい……」

「ああ、いや……いいよ。ちゃんと使えるみたいし、何より……」

 

 そこで、動くようになった右手でライフルを抱え持ち、左手で弦を掻き鳴らした。

 

--勿論、ギターなんてやった事はない。ただ掻き鳴らしただけ。

 しかし、意外によく響くアコースティックな渋い音色だ。これを機に、ギターの特訓を始めてみるのもいいかもしれないな……。

 

「命を奪う武器なんかより、人の心を震わせる楽器に成りたかった……『コイツ』が、そう言ったんだろ?」

「はう……ありがとうございます、兄さま」

 

 そう言ってやれば恐縮したように彼女は頭を下げる。謝る事など無いというのに。

 

「しかし、『物』の声まで聞けるなんてな。凄いもんだ」

「そ、そんな事は……わたしに、近いものでしたから」

「ああ……確かにマナゴーレムは近しいかもしれないけど。厳密に言えば違うぞ」

「まなごーれむ……? その子はそういう名前の永遠神剣なんですか?」

 

 如何にも惚けた彼女の言葉に、空は苦笑する。そういえば今まで……神世でも現世でも、己の作品に名前を付けた事など無かった。

 

「名前は……付けてなかったよ。永遠神剣じゃないし、ただの道具だと思ってたから」

「そう、なんですか……じゃあ、兄さま。この子にお名前を付けて下さいませんか? きっとこの子も、喜びます」

「ああ……それじゃあ」

 

 またもや、意識が遠退き始める。タイムリミットなのだ。いつもながら、絶妙のタイミングで。

 

「……そう、だな」

 

--思考が纏まらない。けど、今言わないと。

 

「決めたよ。コイツの"銘"は……【是我《ゼーガ》】。俺と同じ、己の在り方をただ真っ直ぐに貫き続ける--永遠神銃【是我】だ」

 

 その銘を付けた途端、ライフルがまるで身体の一部になったかのように手に馴染む。煌めいたライフル【是我】から、まるでスターマインのように色とりどりの精霊光が瞬いた。そして、そのバレルに三つのリング……聖者の背中に現れる『ハイロゥ空のような輪が旋回し、星雲のような虹色に輝く風を巻き起こす。

 声と全く同時に、天上海を吹き抜けた一陣の颶風。沖つ波、風を切る枝の葉鳴りと吊されたの風鈴の音に彩られた樹の下で。

 

「【是我】……良かったね、素敵な名前を貰えて……」

 

 微笑む媛君が再び瞼を開いた時にはもう、いつも通りにそこには誰の姿も無かった……


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