サン=サーラ...   作:ドラケン

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因果の楔 輪廻の轍 Ⅱ

「う……ん?」

 

 先ず目に入ったのは、見慣れた天井。掛け布団ごと紺色の仁平に包まれた身体を起こすと、ぼーっと辺りを見渡す。

 

--うん、間違いなく俺の部屋だ。はぁ……またあの夢かよ。

 

 たった今まで見ていた夢を反芻する。繰り返し見る夢、ここ最近、頻繁に見るようになった幻想的な舞台劇。

 思わず、溜息を落してしまう。自分と知り合いを投影しての夢、その中二病的な内容に辟易して。『そんな願望が有るのか?』と。

 

「……しっかりしろっての、巽 空(たつみ あき)。夢とか妄想に逃げてる場合か」

 

 自分で自分にツッコミを入れて手早く支度を整えて、鳴り出す前の目覚ましを止めて湯を浴びる事にしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 寝汗を流してさっぱりした後で、髪を拭き上げる。因みに此処は郊外の安アパートで風呂は共同、部屋の外。幸い、こんな朝早く湯を浴びている者は居なかった。

 そのタオルから覗くのは、濃いディッシュウォーターブロンドの、黒味の強いくすんだ金髪。

 

 ただしそれはよくあるブリーチのチープな色味ではなく、かなりくすんではいるが天然の色だ。

 顔立ちも日本人より西洋や西欧寄り、ともすれば彫刻を思わせる程だ。ただしそれは『イケメン』という意味ではなく男前。頑健でほんのりと浅黒い、健康その物な躯付きが拍車を掛けている。

 

「……よし、終わりっと」

 

 己の部屋に戻りつつ、跳ねたり逸れたりする癖っ毛を撫で付けてテレビを点ける。

 僅かに音声が先立ち、朝の番組に付き物の天気予報が流れ始める。『降水確率は0%、今日もいい天気です!』との事。

 

 この時間帯特有の、やたらにハイテンションな予報士の言葉を聞きながら制服を身に纏い始めた。画面が移り変わる。だが、特に注意を向けはしない。

 

『……今日最高の星座は、天秤宮のあなたです』

「……ん?」

 

 その台詞に、深く澄んだ琥珀色の三白眼を上げた。自分の星座が呼ばれた事で初めて、番組に興味を引かれたからだ。

 

『金運、体力運、恋愛運の全てにおいて人生最良の日です。今日に限らず、これから三ヶ月間で出逢う人物は人生に関わるでしょう……』

「……へぇ」

 

 そして直ぐさま興味を失うと、琥珀色の視線を戻す。元々、占いの類を信頼していないのだ。

 

『なお、片思いの相手とは急接近するでしょう』

 

 その一言に、バッと顔を上げる。だが既に画面はエンディング、次の番組の宣伝に移り変わった。

 

「……ハ。有り得ねェっての」

 

 と、吐き捨てるように自嘲すると乱暴に電源を落として鞄を手にリビングを後にしようとして--幾つもモデルガンが飾られているチェスト上に置かれたペンダントを手に取る。安っぽいニッケルのチェーンで繋がれた、黒金の鍵の意匠を持つペンダント。

 それを首に掛けて上着内に入れ込み、ヘルメット片手に今度こそ自宅を後にしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 早くに家を出過ぎてどうやって時間を潰そうか悩んだが、日課を熟していなかった事を思い出して珈琲を飲む事にした空。そして、どうせなら空気の良い所で飲もうと近場の『天木(あまき)神社』へと進路を変えた。

 

「はぁ……落ち着く」

 

 原付を入口の近くに止めて石段を上ると、近くの自販機で買った缶珈琲を啜りつつ境内のベンチに腰掛けて溜息を吐く。朝の清涼な空気に満ちる境内は、神聖なまでに清々しい。

 

--見事に人っ子一人居やしないな。てか、あんまり宮司や巫女と会った事も無いな。色々と事情が有って、以前は此処に住んでいたというのに、だ。

 いや、あれは……あの人は巫女なんかじゃない。それとは正反対の存在だ。きっと修羅か羅刹の類に違いない。

 

 思い出した女性の姿を振り払い、真面目に思考の海に沈む。

 

--俺は、何時でも孤独だった。卑下でも自惚れでも無く、事実として。両親なんて居ないし、友はそれなりに居るが、深い付き合いしてないし。此処に住んでたのも、要するに生まれた時に……

 

「阿呆くさ……気楽で良いだろ。ってか、今更何を感傷的になってんだよ俺は」

 

 自嘲して、缶珈琲を煽る。随分前に振り切った自問が振り返した、気まぐれに。

 『いつも通りで行こう』と全てを飲み干して、その空き缶を左の親指と人差し指を伸ばした形……変則ルールの方の、じゃんけんのチョキに構えた拳にまるで銃弾の如くセットした。

 

「久しぶりに……やるか」

 

 気まぐれとは続くものなのか。両目を閉じて、精神統一をする。自分が何一つ入っていない空箱になって、周囲の虚空から見えない『何か』が流入して来るイメージを想起する。

 それを丹田に集めて練り上げて十分な密度に達したと感じる位で親指を缶の後端に沿えて、瞬時に腕全体に染み込ませ行き渡らせるようなイメージを行った。

 

「――――フッ!」

 

 掌の細胞が活性化したような体の温もりに成功を悟り--空き缶を親指で弾く。

 屑篭の小さな穴へ向かった缶は、寸分違わず穴に吸い込まれた。優に十メートル離れた、そこに。

 

「鈍ってないか。まぁ、昔から発勁(はっけい)は得意だしな--」

「はぁ……貴方って、妙なところで器用よね」

 

 と、背後からの突然の声に一瞬心臓が止まりかかる。振り返って見れば、そこには--

 

「ビックリしたー……心臓に悪いっすよ、会長」

 

 涼やかな朝風に、鮮やかな茜の髪と青いスカートの裾を靡かせるセーラー服姿の美少女。空の通う『物部学園』の生徒会長である、斑鳩 沙月(いかるが さつき)

 

「私はずっと声を掛けてたわよ。君が気が付かなかっただけで」

 

 悪戯な風を受けた沙月は慌ててスカートの裾を押さえて、一学年上の証拠である黄色いタイを整えつつ空にジト目を向けた。

 それに、『見てないですよ』の意志を籠めてそっぽを向きながら口笛を吹く。

 

「そういえば会長はここで間借りしてるんでしたっけ」

「そうよ、君の居た部屋にね」

「なんか詩的な言い回しですね」

 

 茶化したところで沙月が不愉快そうに眉をひそめた。そんな表情でも絵になる。

 

「全く……生徒会役員なら身嗜みくらい注意を払いなさい」

 

 それでやっと付け忘れていた物が有る事に気付いた。

 

「っと……コレでOKですよね」

「弛んでるんじゃないの。学園の模範になるのよ、私たちは」

 

 白地に金糸で『物部学園生徒会執行部・庶務職』と綺麗に刺繍のなされた腕章を取り付けて尋ねてみれば、そう苦言が返ってきた。

 

「あら、もしかして……やっぱり。お久しぶりですね、空さん」

「あ、お久しぶりです、環さん。いつ見てもお綺麗で。一瞬、天女かと思いましたよ」

 

 そこに、おっとりしていながらも芯の通った声。改造した和服だと思われる奇妙な服装だが、簪で濡れ羽烏色の美しい黒髪を後ろで束ねた美女『倉橋 環(くらはし たまき)』が、しっとりと微笑みかけていた。

 

「ふふ……随分とお世辞が上手くなって。見違えそうになる訳ですね」

「あはは、ただの本音ですって。ところで……」

「そんなに辺りをきょろきょろと見回さなくても、愚妹は今出張中です」

「そうだったんですか……いや、もし見付かったらと思うと怖くて怖くて……」

 

 等と、気心の知れた相手同士の会話を行う。その間、無視されている状態の沙月は--

 

「あら、いけない。そろそろ出発しないと遅刻しそう。それじゃあ環さん、行ってきます」

「本当だ。それじゃあ、また」

「ええ、ではお気を付けて。またいらして下さいね、アレも貴方に会いたがっていましたから」

「わざわざ自殺しには来ませんよ、謹んで辞退します」

 

 特に何かの感情を想起するでも無いらしく、腕時計を見ると環にそう告げて石段を下りていく。その後ろ姿に、空も続いた。

 

「何なら会長、俺の愛馬に二ケツしますか?」

「そういえば、君はバイク通学を特別に許可されてたんだったっけ。奨学生で推薦枠の模範生さん」

「ハハハ、照れますね」

 

 親が無く、自力で頑張る苦学生の優等生。それが彼の『表向き』の顔である。

 そして、冗談交じりに呟いた。実際にはまだ遅刻するような時間ではない、『模範となる為の早めの登校に遅れる』が正確なところだろう。

 

「愛馬って、あの原付きの事?」

「そうそう、アレ……」

 

 それに沙月は、段下を指差して問う。そこには今、正にレッカーされようとしている原付きの姿が有った。

 

「……ま、待って下さいィィィ!持ち主が此処に居ますゥゥゥ!」

 

 それまでは鷹揚に笑っていた空だったが、物の一瞬で顔を青ざめさせると一気に石段を駆け降りて行った。

 

「やっぱり、肝心要で抜けた男だこと。第一、原付きなら二人乗り禁止じゃない」

 

 入口にて恥も外聞も無く業者を拝み倒そうとしている少年の脇を擦り抜け、学園への通学路を一人で歩みながら。

 

「本当に--あんなのが、神世で『最も神を死なせた神』だなんて。信じられないわね、ケイロン」

 

 鮮やかな長髪を靡かせた彼女が冷ややかな声色で一体誰に向けてそう話し掛けたのかは……ついぞ判らなかった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 朝の校舎の玄関をくぐる生徒達の群れ。トボトボと校門を潜った長身の黒縁眼鏡の少年が、そこを歩く。当たり前なのだが言い分は聞き入れられずにレッカーされてしまって落胆した空だ。

 因みに、彼が掛けている眼鏡は伊達だ。瞳が鮮やかなアンバーだと言うのも有るが、何せこの男は髪の色がどこの死神代行だと言いたくなるギリギリな上に平時から目付きが悪い。夜道を歩くだけでよく声が掛かるのだ、ヤの付く方やポリエステルの人から。

 

「おはようございます、風紀委員さん」

「おはよーございます、生徒会の代行者さん」

「おはよう、斑鳩会長の懐刀」

「おはようございます。それと、僕は風紀委員じゃありませんよ。庶務職だから生徒会役員の雑用を熟してるだけで、風紀を正してるのは会長命令で時々だけです」

 

 昇降口で革靴を脱いだところで女子生徒達に声を掛けられ、それに少しずり落ちた眼鏡を直しつつ朝の挨拶を返して歩いていく。

 イケメンと言える程ではないが、西洋風の整った顔立ちの笑顔とバスドラの渋い声域で気さくさをアピールされて女子生徒達は頬を赤くし--

 

「……庶務さん、社会の窓が全開になってますよ」

「此処の事だったんかい会長ッ! 教えてくれてもいいのにッ!」

 

 空は急ぎスラックスのチャックを上げて、くすくすと笑っている女生徒三人から離れようと進路を変えた。そして--詰まらなそうに息を吐く。

 先程述べた通り、敵を作っても良い事はない。なので彼は、浅くしか付き合わない相手には好青年として擬態する。教師や同級生、先輩や後輩などに対しては。

 

「あ、おはよう、空くん」

「っ! ああ、お早う希美!」

 

 そこで、その少女に出逢った。緑の黒髪を持った、ショートボブの少女。たおやかな見た目通りの優しい物腰と鈴のように響く声に、あっさりと仮面が綻ぶ。

 

--彼女は、永峰 希美(ながみね のぞみ)。数少ない知り合いで……小学校以来今も続く、片想いの相手だ。

 

「今日もいい天気だね」

「こ、降水確率0%らしいからな……えっと、その……」

 

 突然の事に、思考が堂々巡りを始める。上手く言葉を紡げずへどもどとなる空を希美は不思議そうに見上げた。

 

「……ぅん?」

「うっ……! いやその、なんだ、あれでその……!」

 

 185cmを上回る長身の彼は、大体の相手から見上げられる形になってしまう。その状態で更に小首を傾げられると、彼には想像を絶する破壊力の萌え仕種となるのだ。しかもその相手が片思いの相手ともなれば乗算どころか二乗になる。

 益々言葉を無くしてしまう羽目になり、このままだと焼け付いた脳味噌で味噌汁が出来そうだ、と訳の解らない事を考えた瞬間--

 

「おはよう、空。いい天気だな」

「ッ……ああ……お早う、望」

 

 もう一人の、数少ない知り合いが現れた。茶髪に碧の瞳の中性的な顔立ちをした少年が--世刻 望(せとき のぞむ)が。

 

「相変わらず、眠そうだな……空。ちゃんと寝てるのか?」

「心配すんなって。ていうか望、お前の方が眠そうだぞ」

「あはは……まぁな」

 

 その少年の登場に、浮足立っていた思考が落ち着きを取り戻す。少しずり落ちた眼鏡を直し、口を開く。

 

「悪いな、二人とも。俺、今日は日直だから急ぐな」

「あ、そうだったの?呼び止めてごめんね」

 

 そうして場を切り上げた彼の耳に、その会話が飛び込んで来る。

 

「んも~、望ちゃん! しっかり歩いてよー!」

「いてて、引っ張るなよ! 今日は特に眠いんだよ……」

「どうせゲームでもやってたんでしょ? 望ちゃんと空くんの眠いは訳が違うのっ」

 

 そんな会話を、これ以上聞かぬように。彼は急ぎ足でその場を後にしたのだった。

 

「よっ、巽!」

「…………」

 

 と、彼の前に立った赤茶けた髪の少年。にへらっと、軽薄そうに笑った彼を--空は完璧にスルーした。

 

「……って、おいおい巽くん。何をズッ友をスルーしてるんだね」

「誰がズッ友だ、誰が……お前と知り合ったのは物部学園に入って以降、この学年からですよ、森 信助(もり しんすけ)くん」

「あれ、そうだったっけ? まぁ、細かい事は気にすんなって」

 

 わざと、厭味ったらしく丁寧語とフルネームで呼んでもどこ吹く風。黙っていればそれなりにいい男だというのに。

 

「朝から馬鹿の相手、ご苦労様。巽くん」

「何せ毎朝だから、慣れたよ……阿川 美里(あがわ みさと)

「何で私までフルネーム?」

 

 同じく現れた栗毛色のショートヘアの少女。勝ち気そうな、意志の強い瞳がジトーッと睨みつけて来る。

 

「おお、しまった……つい阿川に会えたのが嬉しくてな」

 

 それにお道化た調子で返した。先に述べた通りに、余程の事でもない限りは表向きは好青年を通すのが彼の処世術。

 望や希美に会った時の彼こそが特別でない状態なのだ。環の時と同じく、他の人物にはこんな風に軽口を叩く事……否、中身の無い言葉を操る事が出来る。

 

「はいはい、今日も歯の浮くようなお世辞をありがとう」

 

 何となくそれを見抜いているのだろう、美里はそれを軽く流す。だが、気分を害した様子は無い。

 

 多少地味な身なりだが、一年生で生徒会役員に見事当選した実績に外人風の脚が長い整った容姿。加えて運動も勉強もソツ無く熟すので、モテるまではいかないまでもそれなりに女子の人気は有る。言ってみれば『ただしイケメンに限る』という奴かもしれないが。

 そして美里はくるりと一回転し、短いスカートの裾を舞わせて。

 

「さぁ、急がないと遅刻するわよ。三、二、一……今!」

「「うおっ、やべぇ!!」」

 

 パシャリと機械的な音を立て、首から釣り提げられていた彼女のトレードマークであるデジカメのシャッターを切って教室へと駆け出す。

 ライトの輝きに空と信助が眩惑されるのと共に、ホームルームの予鈴が鳴り始めたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 その日の昼下がり。早めに講義が終わった為にスタートダッシュが効いて、幸先良くヤキソバパンとカツサンドをゲットして。

 

---ピンポンパンポーン……

 

「……ん?」

「お? 構内放送か」

 

 さっさと食べてしまおうと屋上に向かっていた所で信助に捕まり、どうやって撒こうか思い悩んでいたところでスピーカーからの音に気付く。

 

『生徒会庶務、巽空くん。直ちに生徒会室に出頭して下さい。繰り返します、巽空くん。直ちに生徒会室に出頭して下さい……』

「斑鳩会長が直々に呼出しかよ。羨ましいぜ」

「犯罪者扱いでかよ、全く」

 

 男子生徒が一瞬で耳を傾けたのが肌で解った。静まり返った廊下に響いた凛とした少女の声に、空は思わずげんなりと表情を歪めて立ち止まる。

 

「ハァ……仕方ねぇな、ほれ」

「お、マジでか。ラッキー!」

 

 しかしそれは逃げる為にはまたとない口実だろう。面倒の度合いで計算するのならば、益の無い男より美少女を相手にしたいのは男の本能というもの。

 折角手に入れた花形の惣菜だが、まさか生徒会室に持って行く訳にも行くまい。全てを信助に投げ渡すと髪を掻きながら歩き出す。散財した事を、心から悔やんで。

 

 

………………

…………

……

 

 

 生徒会室の扉の前に立ち、先ずは身嗜みを整える。詰襟を閉じて、校章の歪みを直した。最後に、無駄な抵抗だが癖毛を撫で付けて扉をノックして暫く待てば。

 

「どうぞ、開いてるわ」

「失礼します。何かご用ですか、生徒会長」

 

 許可を得て室内に入れば、何か書類に目を通しているらしい沙月の厳かな雰囲気に、空の方も威儀を正してそう口にした。

 

「あのねぇ、用事も無いのに貴方を呼び付けたりすると思うかしら? この私が」

「ですよねー。望ならともかく、俺なんかを」

 

 そんな彼に向けて書類から目を離す事もせず、にべもなく告げた。それに正していた威儀を崩し、軽薄を装って襟を寛げて答える。

 

--因みに、俺と斑鳩会長の関係は知り合い以上友達未満といった所だ。というのも、望と希美と仲が良い会長が幼なじみである俺を紹介された、というだけ。

 

「……忙しそうですね、いつもの事ながら」

「まぁね、学園祭も近いし」

 

 そこで漸く一段落付いたのか。彼女は『んーっ』と伸びをした。腕を伸ばしたせいで、中々に形の良い胸元が強調される。

 

--いやはや、役得役得。流石は全校男子生徒憧れの生徒会長だ。俺はどっちかというと苦手だけど。何がどう、という訳じゃない。そんなものは魚に何故泳ぐのか、蛙に何故鳴くのか尋ねる様なもの。きっと前世では蟻とアリクイか、蝸牛とマイマイカブリみたいな関係だったのだろう。

 

「ちょっと、聞いてるのかしら? 巽くん」

 

 ずいっと、苦手だが息を飲む程に美しいと思いはしている美貌が寄せられた。少し、気分を害したように眉根を寄せて。

 

「勿論ですよ、会長」

「あらそう、それは助かるわ」

 

 勿論、思考に耽っていて聞いてなかったが、取り敢えずそう答え返す。それに、沙月は嬉しそうに笑顔を見せてきた。どうやら正解だったらしい。

 

「じゃ、後は宜しく」

「了解……え?」

 

 ぽん、と肩を叩かれたかと思うと、沙月はるんるんと軽い足取りで空の脇をすり抜けた。

 

「ちょっ、待った! どーいう事ですかい、会長!」

 

 と、不覚の状態から立ち直った空は、さっさと生徒会室から出て行こうとしていた沙月を辛うじて呼び止める事に成功した。

 

「ほら、やっぱり聞いてなかった。私、望くんのところにランチを食べに行ってくるから、留守番をしててって言ったのよ」

「な……ぐぅ」

「見てなさい、今日こそ望くんに希美ちゃんのお弁当じゃなくて、私のお弁当を選ばせて見せるわ」

 

 『安請け合いしてしまった』と後悔しても遅い。可愛らしい包みがなされた弁当箱を後ろ手に、今までの『生徒会長』の鎧を脱いで『女の子』の顔になった斑鳩沙月がそこにいた。

 これも学生の間では周知の事実。斑鳩沙月と永峰希美が、世刻望を巡る恋のライバルだという事。

 

「ハァ……早めにお願いしますよ。何にしろ応援してますから」

「あら、それは有り難う。善処はするわ、じゃあね」

 

 言うや、一秒でも惜しいと早々にぴしゃりと閉じられた扉。

 

--いやまぁ、そりゃあ応援してますよ。会長と望がくっつけば、希美がフリーになる訳だし。

 

 眼鏡を外して胸ポケットに差し入れると、中々に坐り心地の良い椅子に腰を下ろして机の天板に脚を乗せて組む。

 

「……うわ、我ながら引くわ」

 

 そして、そんな打算的な考え方をする己に辟易しながら頭の後ろで手を組んで深く背もたれに寄り掛かり、窓の外を天地が逆転した状態で眺めた。

 余りの虚ろに、辟易して。

 

--いつだってそうだ。この魂は空っぽで心は空虚、だから身体も伽藍洞。試験で良い点を取っても部活で良い成績を残しても、喧嘩で勝っても。この虚無が埋まった事はただ一度さえ無い。

 それは言うなれば『空の空、全ては空しい(ヴァニタス・ヴァニタートゥム)』ってか。

 

「……この歳で枯れ果てた事で。ダッセぇなぁ、だからモテねぇんだよ……」

 

 自虐を呟きながら瞼を閉じれば、暖かく透明に染まる視界。その温もりに眠気が襲う。

 

--ただ……いつでも『争う』事だけは血が沸騰するくらい楽しい。『勝負を楽しみたい』、それがどんな結末でも……誰かと争う事は浅ましいくらいに好きだ。

 もしかしてあの夢を見るのも、そんな俺の本質からなのかもしれないな……。

 

(……まあ、良いか)

 

 変な方に行きかけた思考を停止させる。どうせ眠りは浅い性質だ、ノック音だけで十分目が覚めるだろう、と。

 甘美な睡魔に誘われ、抵抗する気も起きない眠りの壁の向こう側へと向かう事にしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

「--……ん?」

 

 ふと、何かが聞こえた気がして眠り込んでいた事に気が付いた。目を開いて先ず飛び込んできたのは--赤黒い空。

 

「なっ!?」

 

--なんだって、夕方!? ヤバい、寝過ごした! 無遅刻無欠席が目標だったのに!

 

 慌てて起きて時計を確認しようとして……莫迦らしくなった。

 

『だったらどうしたと言うのか。もう時は戻らない、今更そんな事に何の意味が有るのか』

 

 まるで誰かにそう諭された気分だ。心の奥深くにまで、染み入る考えだった。

 もう一度背もたれに寄り掛かると、心静かに空を見上げる。鮮血の如き紅から宵の黒ヘ移り変わる中途の空。昼と夜の中間、極彩色に彩られたその暮空。

 

「……綺麗だな」

 

 そう、独りごちる。正に目から鱗が落ちたような感慨を抱く程に、幻想的な風景。

 

「ほんまどすなぁ、綺麗やわぁ」

 

 だからだろうか、応えて響いたその唄うような呪うような声にもさして驚く事はない。何事も予想の範疇なのだから驚く必要などは、何処にも無い。

 目線を下へ……つまり上げると、女と目が逢った。開け放たれた窓の桟に腰を掛けて、妖しい微笑を浮かべながらこちらを見下ろす女と。

 

 昼間なら見る事は適わなかったのだろうが、今は斜陽が真横からその姿を宵闇に浮かび上がらせていた。第一印象は、美しい女。年の頃は空よりも少し上。物部学園指定の制服ではなく、朱で彼岸花の柄を染め抜いた瀟洒な黒い小袖を身に纏うその女。

 燃え尽きた煤のような黒い髪を靡かせ、値踏みするように挑発的な切れ長のガーネット色をした瞳を向ける。

 

--毒婦、か。

 

 掛値なしにそう感じた--瞬間、女が窓より飛び降りた。翻ってはためいた袖が、印象に残る。

 

「……くふふ……」

 

 タン、と足元に着地して口元に袖を宛てて微笑む。そして気安く、椅子の肘掛けに座った。

 枝垂れ掛かるように頭をこちらの肩に乗せる。煤色の髪が流れ、途端に甘ったるい麝香を思わせる香気が鼻腔に満ちた。

 

「案外に肝が据わってはるんどすなぁ、もう少しくらい驚きはると思ったんどすけどぉ」

「……別段驚く必要も無いだろう。喚び寄せたのはオレだ」

「まぁ、そうどすなぁ。呼ばれて飛び出て、て奴どすわ。くふふ」

 

 触れそうな近さで、紅を引いた艶やかな口唇が言葉を紡ぐ。その薄鬼魅の悪い合成音声のような声と誘うような視線を受け流す。

 

「くふふ、気に入らはった様子で。でもま、対価は御高くつきます。無償の奇跡なんざありません、在るんはただ、代償を果たす契約のみ……」

「構うか。望み以上だ」

 

 思わず口角が釣り上がる。漸く、この機会を手に入れた。

 

 視線を夕陽と夕闇の狭間に境界の溶け合う空間へと向ける。黒く濁った焔のような、闇よりもなお邪悪で禍々しい『ナニカ』を寄り添わせたまま。

 そこに在ったのは--三日月。返り血を浴びたかの様な、深紅に染まったその姿。

 

「これで契約は結ばれあんした、お呼びとあらばいつでも駆け付けあんすけど……わっちは契約者の用意した器を武器に変えるんどす、用意はご自分でお願いしますぇ。後から変更は利きませんから、念入りに選びなんし」

 

 左腕に、焼け付く痛みが走る。だがそれすらも、心地好い。

 

「あと、この記憶は消えあんす。でも、魂に結わえられたこの契約は破棄されても未来永劫、輪廻の先まで有効。逃られませんぇ? くふふ……」

 

 その呟きすらも何処か遠く、彼は美しい『ソレ』を眺めていた。

 

「帰ってきたか、俺の--」

 

 その『ナニカ』の寄り添う左腕に、懐かしい鼓動を感じた--

 

 

………………

…………

……

 

 

「……い、おい、巽?」

「う……ん……?」

 

 呼び掛けにゆっくりと覚醒する意識。渋々目を開けば、目の前に銀髪青瞳の美少年。

 

「相変わらず、妙な所で豪気な奴だな。こんなところを斑鳩先輩に見付かったら大変な事になるぞ」

「……悪い、暁。ジュース一本でどうだ」

「まいど」

 

 爽やかに笑った美少年、その名を暁 絶(あかつき ぜつ)という。やはり望の親友にして、学園の女子生徒の憧れの的だ。因みに絶とは、同じバイトをした縁で知り合っている。同じ苦学生として、沙月とよりは親交が有る間柄だ。

 

「……あれ?」

 

 何かユメを見ていた気がしたが、肝心の内容の方は霞が掛かった様に漠としている。そして直ぐに、別の重要な事項を思い出した。

 

「一時十五分……」

 

 懐から取り出した携帯で時間を確認する。眠っていた時間はほぼ三十分。となれば今のは五限目の予鈴だと、何と無くホッとした。

 

「取り敢えず、顔を洗って来い。涎で大変な事になってるぞ?」

「…………」

 

 絶の指摘に、近くの姿見で自分の姿を見た。そして眼鏡を掛けた後ですっと左腕を上げてトイレに向かう。その左腕、袖の捲れた腕に紅く朧げに光る紋様が浮かんでいる事に気付いたのは太陽の光に焼かれた青白い月と。

 

「『聖なる神名(オリハルコン・ネーム)』……」

「は? 何か言ったか、暁?」

 

 それを見て、瞬時に絶の表情が変わった。飄々としたそれまでの笑顔を吹き消し、まるで刀のように鋭い目付きに。

 

「……いや、ただ、用事が増えたのに気付いただけだ」

「お前、バイト増やしたのか? 適度に息抜きしてないと、いつかぶっ倒れるぞ」

「肝に銘じておくさ。じゃあな、ジュースはまた今度奢ってくれ、巽」

 

 だが、それも一瞬の事だ。また笑顔を浮かべて手を振った絶は、誰に言うでも無く、小声で呟く。

 

「探るとしよう、ナナシ」

 

 その怜悧な声に答える者は当然、居なかった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 夕暮れに染まる、アスファルトの通学路。空はそこを一人、訥々と歩いていた。

 腹立ち紛れに、路上の石ころを蹴り飛ばした。そんな事を意味の無い事をした理由は簡単、今日の出来事のせいだ。

 

--希美、望。良く似通った名前の二人は、所謂幼なじみだ。いや、俺だってそうだが、この二人は別格。希美は、望に恋情を抱いている。

 そんな事は知り合って間もなく気付いた。それでも努力はしたさ、話し掛けたり遊びに誘ったり、贈り物をしたり。そして直ぐに、無駄だと思い知らされた。

 

 どんなに会話が弾んでいても、望が居る方を見る。話に加わってもいない望を誘ってから良いよと言われる。望からのプレゼントを嬉しそうに大事そうに抱き締めた姿を見せられて。

 

「…………」

 

--意味はないが……少しの間、記憶を掘り返す。随分と昔の事だ、物心が付いたか付かないか位の頃。もしかしたら最古の記憶かもしれない。

 多分、遠足か何かの時。広大な花畑で戯れる二人の童児。片方は俺、もう片方は……かなり霞んでいるが、きっと希美の筈。手には昔日、魔法少女アニメに嵌まっていた頃の物だと思われるステッキみたいな物を持ってるし。

 

 その童女が童児にぱふっと抱き着いた。そして判別出来ない程に霞が掛かっていながらも、間違いなく最高の笑顔で見上げながら。

 

『あたし、あっくんのお嫁さんになる~!』

 

--何て言われた、そんな記憶が有る。いや……自分でも怪しいと思うくらい、胡乱な記憶だが。だが、それが……甚だ莫迦莫迦しいが、それが俺の……初恋だ。

 しかし、幾ら取り戻そうと現実には努力しても広がるだけの差。更に最近のあの、望と相対する夢を見た後は--思わず恥じ入ってしまう程、浅ましくも本当に殺意を抱いてしまうのだ。

 

--だから正直、望とはそこまで親しくした覚えはない。あくまで希美のついで、だ。だがそれでもあいつは俺を……友人だと思っているらしい。

 莫迦な話だぜ、俺は……希美に取り入る為に近づいただけだったってのに。

 

「…………」

 

--『嫌いか』と、問われれば……さて、どうだろうか。確かに悪い奴じゃない。それほど人付き合いが上手いという訳でも無いのに、クラスで一定の人気が有る。

 俺とは凄い違いだ。俺が勝っている物なんて、身長と成績くらいのモンだろう。

 

「ッ……」

 

 その、望がいた。遥かに前方で希美と斑鳩会長に両腕を取られて暁にやっかみを口にされながら、困ったような……だが満ち足りた笑顔を浮かべていた。

 

--全く、凄い違いだ。俺には、あそこまでの友達なんて……。

 

「……はッ」

 

 自嘲する。莫迦な、羨ましいとでもいうのか、と。

 

--不必要だ。俺は俺。俺らしく有り続ければ良いんだよ。そう、それだけで。

 

 脇道に逸れる。まだまだバイトには時間が有る、レッカーされた原付きを引き取らないといけない。その為には、この道の方が近道だ、と。

 そんな言い訳でしかない理由を付けて、空は一人で茜色の世界に消えて行った。


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