昼下がりの物部学園、その廊下を歩く望の足取りは重い。
「全く、宿酔《ふつかよい》如きで情けないぞノゾム。ほれほれ」
「うあ、やめろって……うぷ」
昨日飲み過ぎた為に、大分酷い宿酔に成っているらしく、レーメが頭の上で跳ねるだけで吐きそうになっている。
しかし、望の足取りが重いのはそれだけが原因ではない。
「望ちゃん、大丈夫?」
「気分悪いなら保健室に行く、望くん?」
「それが良いでしょう、何か大事があってからでは遅いですから」
「はいはい! じゃあじゃあボクが送ってく!」
「……いや、行かないから……」
未だ続いている、争奪戦の所為でもあった。
「……オイオイ、またかよ。もううんざりだ……世刻呪われろ」
「相変わらずのハーレム具合だな、羨ましいぜ……世刻呪われろ」
「ていうか増えてるじゃねーか。あの巫女さんみたいな黒髪爆乳娘は誰だよ……世刻呪われろ」
「…………」
穏やかな昼下がりの廊下は何時しか、男子学生達の呟く呪詛の渦に……『カースリフレックス』もかくやという呪怨の渦巻く空間と成りつつ在る。心なしか、気温も下がっているようだ。
だがしかし、その正しき怒りは望争奪戦に夢中で気付かない彼女達により展開された春色オーラで通用していない。
掌に汗をかきつつ、望は食堂の扉を開く。もう昼飯時は終わっている。恐らくは、この中なら安全だろう--
「両手足に花での重役出勤ご苦労さん。俺なんざ気が付いたら両手にウ○コが付いた状態で寝てたぜ……世刻呪われろ」
「「呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ……てかその『ウ○コ』ってのは俺達のことか」」
「空、ソル、信助……お前らもか……」
だが遅い、もう既にそこは呪いの坩堝だった……。
「……えっと、何してるんだ?」
見れば彼は何か鍋を掻き回している。緑色の液体が溜まったそれは、見様によってはまるで魔女の釜だ。
「酔い醒ましだよ。宿酔が酷くてな……俺も、あいつらも」
「うあー……だりー……」
「頭割って中身掻き出してぇ」
しかめっ面のままでクイクイと親指で指し示された方を向けば、机に突っ伏したままでピクリとも動かないソルラスカと信助の姿が在る。
「果物が中心の野菜ジュースだ。どうせお前も飲むだろうと思って多めに作っといた」
「助かる……一杯くれるか」
「ハル・クララス《呪われろ》」
「……って、空。何か今、神世の言葉的なので呪わなかったか?」
望は適当に取り出したコップを空に差し出す。しかし、その少年の手からそのコップが奪われた。
「それじゃあ、わたしが注いで」
「いやいや、ここは生徒会長の私が注いで」
「今、それは関係無いだろっ! ボクが注いで」
「押し付けはいけませんよ皆さん、望が困って」
「「「二回も同じ手が通用するか~っ!」」」
目まぐるしく移動するコップ。その様に、男達は揃って呟いた。
「「「ハル・クララスハル・クララスハル・クララスハル・クララス……」」」
「……アウェーだ……」
こうして、しょうも無い火種を撒きつつ。彼らの『精霊の世界』での戦いは幕を閉じたのであった……
………………
…………
……
--精霊の世界に滞在して一ヶ月が過ぎた。この世界では剣の世界のように戦争をした訳ではないので皆が羽を伸ばす事が出来、様々な鬱憤の解消にもなったようだ。
(中には有志を募って、歓楽街に繰り出そうとして……口に出すのも憚られる程の制裁を受けた莫迦《ソルラスカ》も居たけどな)
【旦那はん、急に物思いに耽ってどうしはったんどすかぁ?】
明け方の清涼な空気に包まれた校庭を掃除しながら、武術服姿の空は回顧を始める。暇なのだ。
--後は、浴場が出来た。総檜っぽい木造りの一度に八人は湯浴みできる大浴場だ。『礼がしたい』と申し出て下さった、ロドヴィゴさんの言葉に甘えた結果で。それに『日本人として一日一度は湯舟に浸かりたい』と、ずっと女生徒から要望が出ていたのだ。渡りに湯舟とでも言うべきか。
【うーわ、オヤジギャグつまらへァァァァ~…………】
--んでもって、俺を狙い撃ちにするかのように校則『生徒会特例:気配遮断禁止令』が採択された。お陰で俺は、学園の敷地内では気配を遮断していてはならない。実に失敬な話だ。
まぁ、完成初日に覗きの現行犯として莫迦ども《ソルと信助》が見せしめとして中庭のトネリコに吊られたりしたけどな。
「おーい、待たせたな空」
タッタッと軽快な足音を立ててソルラスカが現れる。そして朝の校庭で、試合は繰り広げられた。
「破ァァァッ!」
「ッとォ! 甘ェぜ!」
繰り出された拳打を避けると、ソルラスカは反撃の蹴りを見舞う。それを篭手で受け止めて、空も反撃に転じた。
「--征ッ!」
初撃は右の拳撃。零距離の--『崩山槍拳』。本家とは違って、下方から打ち上げる軌道。
「チッ!」
それを軽々いなしたソルラスカの頚筋を狙い、流れるように左の後廻し蹴り『レインランサー』が見舞われる。
これもやはり、本家とは違って上方から振り下ろす斧を思わせるモノだ。
一撃、二撃、三撃。左踵、右脛、左踵で繰り出された斧刃を後退して躱し、反撃に転じようとしたソルラスカに--
「--貰ったァァッ!」
止めの一閃。透徹城内から取り出した【夜燭】の刃、その深く湾曲した刃先に左手を沿えて、圧し斬るように衝き出す。
その剣戟はアイギア式の剣術の基礎の一ツ『無体』。間詰まりを起こす程に近接する事で、相手の攻撃のタイミングを一方的に潰す技だ。
この一ヶ月間、傷が癒えて以降は日に夜を継ぎ死に物狂いで特訓していた。
「カティマの剣筋か……流石だな、だがよッ!」
「なっ--ガハッ!」
剣を握る腕を掴まれ、くるりと背を向けた上で更に深く懐に潜り込まれて。
そのまま--天地が逆転した。
「どれもこれも粗削り、まだまだだな……この辺にしとこうぜ」
フウ、と息を吐いて構えを解くと【荒神】を消してタオルで汗を拭うソル。
「--クソッタレ……」
完璧な一本背負いを決められて、空には毒づく事くらいしか出来なかった。
………………
…………
……
「いらっしゃいませ、パスティル亭へようこそ……って、なんだ。またお前たちかよ」
「毎回言うが何だとは何だコラ。俺らは客だぞ」
「毎回言うけど、いっつもツケの奴らなんて客じゃ無いねっ」
「ルプトナったら、もう……あの、いらっしゃいませ」
場所を移して、パスティル亭。席に着いた野郎二人の所に、昨今すっかり看板娘扱いをされ始めたルプトナと元祖看板娘のレチェレが歩み寄る。
精霊回廊の解放後、精霊達は今まで消耗した分を取り戻すために休息に入ってしまった。故に彼女はこれからもウルティルバディアで生活する事となったのである。
「男だけで連れ立って来るなんて、ホント泣けるよお前たち」
「うるせーやい。良いからいつものくれ」
一言二言、憎まれ口を交わして引っ込む。その間に本来の目的である話を始めた。
「なんつーかな、お前は筋は良いんだよ。完璧に套路を熟してるし呼吸法や歩法、撥勁までマスターしてるし、教えを堅実に守ってるしな」
困ったようにポリポリ頭を掻きながらソルラスカは言う。空は、それを真摯に聞いていた。
あの屈辱的な勝利以降、彼らはよくこうしてつるんでいる。
「けど、『それだけ』なのがお前だ。型に嵌まりすぎなんだよな、柔軟性が無い」
「柔軟性か……確かにな」
--どんなに頑張っても俺は所詮素人に毛が生えた程度だ、目の前の達人達に教えを請わない理由はない。『百聞は一見に如かず』、教本を見て百回特訓するより実際に神剣士と一度組み手した方が、余程為になる。
詰まらない自尊心なんて意味が無い、少しでも強くなる為ならば--あらゆる手を尽くそう。
「『オリジナリティ』ってのか? 他人の真似事ばっかじゃなくて『自分らしさ』を出せれば、お前はもっと強く成れると思うぜ」
--『自分らしさ』……一番苦手な部類だ。だが、ベルバルザードに勝つには、鍛練だけで無く意表を衝く工夫も必要だろう。
「タダ飯、おまちどー」
「ル、ルプトナったら……」
空が思案にくれだした時、実に面倒そうなルプトナと少し慌てたレチェレの二人が、それぞれ食事を二つ持って現れた。
「「言ってくれんじゃねーか」」
「悔しかったら金払いなー」
「ルプトナっ」
ふふーん、と勝ち誇ったように告げるルプトナ。窘めるように、レチェレが彼女の袖を引いた。
「はいはい--ほらよ、迷惑料も含めて一括払いだ」
その時、空はテーブル上に袋を置いた。以前は非常食入れにしていた巾着袋、それに詰められた、この世界の貨幣。
「お前ら……遂にやっちゃったのかよっ!」
「「犯罪になんて手ェ出して無ェよッ! どんだけ金持ってないと思われてんだ!」」
予定調和のような問答、周囲の客やレチェレも苦笑いを漏らしたのだった。
………………
…………
……
『昼休憩貰ったから』と勝手に自分の昼飯も持って来てランチを摂り始めたルプトナを加えた三人で、食事を終えた三人組。
「しっかし驚いたなー、どういう風の吹き回し? 今まで、鐚一文払わなかったくせに」
「どうもこうも、後腐れを残していく訳にもいかねーだろうがよ」
「……へっ?」
ソルラスカの言葉に、ルプトナは呆けたような顔をした。だが、直ぐにその意味を悟る。
「……そっか、行くんだ」
「ああ、出発は明日の朝だ。世話んなったな」
「へんっ、清々するねっ! あ、そうだ空、お前、あの娘には挨拶したのかよ?」
ほんの一瞬だけ、寂しそうな顔をしたルプトナ。しかし瞬く間にそれを吹き消し憎まれ口を叩く。
「空に女!? 聞いてねーぞ!」
「言う必要もねーけどな! てか『あの娘』ッて誰だ、認めるのも癪だが、そんな色っぽい経験した覚えはない!」
「前に一回連れてきてたじゃんか、こーんなちっこいの」
本当に判らないようだったが、ルプトナの示した身長とその台詞に何となく思い出す。鈴鳴を。
「聞いてよ、ソル。コイツ、モテないからって年下の女の子に手を出してんだよ、情けない。ご飯を奢っていいカッコしてやんの」
「オイオイ空よぉ……希美に相手されないからって、諦めんなよ。何時かは気の迷いかなんかで相手してくれっかもしれねーだろ」
「どうやらお前らとはもう一度、徹底的に拳で語り合う必要があるらしいな……」
青筋を立ててパキポキと両の拳を鳴らした空だったが、ふと視界に入ったその人物に気付く。
「ハハ、相変わらずのようですね、皆さん」
「ロドヴィゴさん、いや、こいつはお見苦しいところを」
「ああ、楽にして下さい。貴方達は我々の恩人なのですから」
立ち上がって挨拶しようとしたソルラスカと空を押し止め、逆にロドヴィゴが頭を下げる。
「この世界を救って下さり、誠に有難うございました。代表としてもう一度、御礼申し上げます」
揃ってバツの悪そうな顔をした三人。確かに、戦闘には勝った。しかし彼らにとっては『勝負には負けた』戦いだったのだから。
「それとタツミ君、君の話通りでした。どうも有難う」
「いえ、お役に立てたのなら光栄です」
二人にしか判らない言葉を交わして、空は席を立つ。
「野暮用を思い出しました。それではロドヴィゴさん、これで」
「ええ、それでは」
そのまま一礼してバサリと外套を纏うと、ソルラスカと共にレチェレにも礼を告げて扉をくぐろうとして--。
「た……タツミさんっ!」
珍しく大声を出したレチェレに呼び止められた。
「あの……その、外套が、綻びてますよ」
「え……ああ、本当だ。」
見れば、確かに袖や裾に多々、綻びがある。まぁ、かなり長い間戦闘装束として使ってきたのだ。このくらい綻んでいても、不思議ではない。
「その、もし良かったら……私が、繕いましょうか?」
「え--良いんですか?」
願ってもない申し出だ、空は念の為に聞き直す。
「は、はいっ……というか寧ろ、繕わせて下さいっ!」
それにレチェレは、勢い込んでそう口にした。
「じゃあ……お願いします」
断る理由も無く、外套を脱いで渡す。それを受け取り、彼女は。
「はい……任せて下さい」
嬉しそうに、切なそうに。漆黒の外套を抱き締めた。
「……あいつらが行くって事は、望も行っちゃうんだ……」
そして空とソルラスカを見送り、ルプトナが呟いた。
「私は……頑張ったよ。どうするの、ルプトナ?」
「ルプトナくん……私が言う権利はないのかもしれない。しかし、若者は--後悔よりも失敗をするべきだと思うよ」
その隣に立っていたレチェレと、ロドヴィゴが問い掛ける。それに彼女は--強く逡巡した。
………………
…………
……
ソルラスカと別れ--というか付いて来ようとしたので気配遮断で巻き、鈴鳴の工房の前に立った空。徐《おもむろ》に戸をノックしようとして--
「あ、巽さんじゃないですか」
背後から掛けられた鈴のような声に、ゆっくりと振り返った。
「お久しぶりですね、何か入り用ですか? 今お勧めは--」
「なんだ、ご機嫌じゃないか」
「そりゃもう! なんたって、私がお金借りてた闇金が摘発を受けたんです。悪い事は出来ませんよねー」
「お前はもっと痛い目見た方がいいだろうにな。残念だ」
両手を天に向けて『やれやれ』と薄く笑う。
「ところで、どうしたんですか? 本当に」
「ああ、この世界を発つ日取りが決まったからな。挨拶に来た」
「ああ、成る程……」
そこで彼女は、空に身を寄せる。そして小声で囁いた。
「旅団の本拠地に行くなら、気を付けてくださいね。『透徹城』を持ってる事がバレないように」
「判ってるよ。ッたく……規制品なら持たすな」
「酷いですよ巽さーん、私は少しでも巽さんの役に立てればと」
「本音は?」
「やっば、巽さんが居るって事は旅団も居るって事じゃんどうしよ。あ、そうだ『木を隠すなら森の中』って言うし巽さんに持たせておけば在庫も掃除できて一石二鳥、さっすが私……あれ、巽さーん! 冗談ですってばー!」
『よよよ……』と泣き真似していた鈴鳴だったが、あっさり本音を漏らす。背を向けて歩き始めた空、その背に向かって呼び掛ける鈴鳴。
「また、会いましょーねー!」
応えて左手を上げたその仕種、サムズアップを見せた姿勢のままに彼は一度も振り返らずに歩いて行った。
「……次は軍場《いくさば》で」
冷やかな笑顔と共に見送る彼女に気付く事無く。
………………
…………
……
別れの朝。視界の端では手作り弁当を渡しながら、泣き出してしまったレチェレが望に撫でられている。
--アイツはどれだけモテれば気が済むんだろうか。
【旦那はんも見習った方がええんと違います?】
(大きなお世話だバカヤロー、俺は根っからの純愛派なんだよ)
【ハッ……見向きもされとらへん分際でェェァァ~~~……ッ!】
「空くん、どうしたの、いきなり投げて」
「いや、別に」
話も一段落し、一同はものべーに戻っていく。と--
「タツミさんっ」
「は--はい」
呼び止められ、そちらを向く。そこに居たのは勿論、レチェレ。
「その……外套、直して来ました。後、余計だったかも知れませんけど……刺繍をしておきました」
「刺繍……」
差し出された外套の背中の部分に錦糸で縫われた、自らの尻尾を銜えた翼ある龍。その“輪廻する蛇《ウロボロス》”を思わせる龍の刺繍。
見るからに複雑な紋様で、時間が掛かっただろう事は想像に難くない。
「私、この位しか役に立ちませんから。せめてこんな事で……貴方の無事を祈らせて下さい」
「レチェレさん……そんな、十分過ぎる程ですよ」
有り難くその外套を受け取ろうとして--
「……っ」
「ん--レ、レチェレさん」
その唇に口づけを受ける。誰も気づかない、その一瞬に。呆気に取られるが、何か大事な物をふっ切ったようなレチェレの雰囲気に、何も言わず外套を羽織った。
朝日を浴び、煌めく刺繍が彼女によく見えるように。
「--大事にします。きっと」
「はい……いつまでも貴方の無事を、祈ってます」
涙を浮かべて、微笑んだ彼女。その無垢な涙に見送られるように、空は歩き出した。
そんな中で、ソルラスカと空は呟き合う。
「……来なかったな、アイツ」
「まぁ、こんな別れも有りっちゃ有りだろ」
名残を惜しみながら、遂に現れなかった……その少女の事を。
「そうだな。アイツにはアイツの生き方が有るしな」
「そういう事だな、俺らが口出しする筋合いなんて無ェ」
ふっ、と。少し寂しそうに呟く二人。いや、二人だけではない。望も希美もカティマもタリアも。
「--なーに辛気臭い顔してんのさ、お前ら」
「「「「「「--!?」」」」」」
その一行の前に、朝日を浴びて涼しげな空気を纏う彼女は立っていた。
「ああ、そうそう。紹介するわね。物部学園に、新しい『家族』が加わったわ」
呆気に取られている面々にしてやったりとばかりに笑う、沙月とヤツィータ。謀られた事に気付き、一行……特にソルラスカと空は苦笑を漏らした。
「おーっす、ルプトナです。今後とも宜しくお願いします!!」
巫女装束に似た服を纏う黒髪の少女。精霊の娘ルプトナは、皆に向かってそう元気良く『家族』として最初の挨拶を述べたのだった--……