サン=サーラ...   作:ドラケン

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断章 月世海《アタラクシア》 Ⅲ
月の海原 濫觴の盃 Ⅲ


「Humm~~♪ Hummmm~~~♪」

 

 風が頬を撫でる。匂い立つ華の香を含む甘い春の野の風。その風に乗り、鼓膜を震わすハミング。

 

 刧莫と拡がった水平線、黒金の太陽と白銀の望月を同時に望む、青紫の虚空と虚海の境界に浮かぶ孤島。その外周を、緩やかに周回する七本の石柱。

 

「……此処は」

 

 背を預ける樹の幹ら、捻れ逢い一ツとなった連理の大樹。右の枝には片翼の、紅い瞳の鷲。左の根には隻眼の、蒼い瞳の蛇。目前の華園には翡翠の瞳の幽角獣が躯を横たえて休む。

 

 天には雲が棚引き、白凰が飛ぶ。地には草が流れ、深い海淵に黒龍が泳ぐ。果てし無く吹き渡る風にそよぐ、葵い草木。それを育むのは何処に源泉が在るのか、地を潤す湧水の流れ。

 

 天を向けば--捻れた木の幹に挟まれた一振りの刃。深い瑠璃色の、まるで生命を育んだ劫初の海を思わせる両刃を望んだ。

 

「……あ」

 

 と、息を詰める声。ゆっくり右に顔を向ければ見詰め合う、魔金の瞳。

 刹那、袱紗を解いたように綻び、溢れ出す記憶。滄海い少女との邂逅が。

 

「……アイオネア……?」

 

 今度は逃げ出さず微笑みかけた彼女。右瞳は魔金、左瞳は聖銀。膝下まで有る髪は滄海く、それを隠すように被る暁晃を切り取った修道帽。その頭上に戴くは、繚乱たる花冠。

 白磁の肌に纏った夜闇の融けるカソックと胸元の緋焔をあしらう至聖女。そして首元の白銀の錠盾のチョーカー。何より、その身に纏う儚げなオーラが本人の証明。

 

「はい……はいっ、あふっ!?」

 

 "刧媛"は空の呼び掛けに応えて慌てて出て来ようとして--大樹の根っこにつまずいてしまい、顔から『ずべし!』と倒れ込んだ。

 

 その余りの勢いにクロブークとカローラが外れて、髪の間に尖り気味の耳朶と二股の小さな龍の角が覗いた。

 『火』と『破壊』の象徴であり暴力と凶兆を表す西洋の"竜"とは違って、『水』と『生誕』の象徴であり慈悲と吉兆を表すの東洋の"龍"の角だ。

 

「いたた……よかったぁ……あ」

 

 だが何とか、両手で支えていた聖杯は落とさぬように守り抜いていた。安堵して溜息を零すが、彼の視線に気付いて、真っ赤に茹で上がる。

 慌てて身なりを調えてから彼女はその盃を捧げた。

 

「お、お待ちしておりました……兄さま……宜しければ、どうぞ」

 

 水鏡が映すは双世樹に穿たれた虚、聖盃の納められていた聖櫃。樹の合間より衝き出した--限り無く深い、滄の刃。

 底知れない、ラピス=ラズリの『ディラックの海』へと。永遠に寄せては返す波の如く波跡を刻み続けるその幻想の刃と、そこから『零《こぼ》』れた透明の雫は。

 

「ああ……っく」

 

 受け取ろうと試みるが、やはり傷だらけの上に渇ききった空の躯は動かない。媛君は以前と同じく彼の前に膝を付いて--盃を口許へ傾ける。

 

「--ん、ンク……ンク……」

 

 渇いた喉を滑り落ちる水。その甘《うま》さは、気のせいか以前より更に磨きが掛かっているように感じられる。

 

--そうだ、他の水じゃちっとも癒されなかった。俺の渇きは……この水じゃなきゃ潤わなかった。

 

「ふぅ……有難う、アイオネア。甘かった」

「あ、有り難うございます……」

 

 全て飲み干された聖盃は、彼女の慎ましやかな胸元に抱かれた。

 渇きが癒えクリアになった意識、周囲を見渡せば……心なしか、以前より霊獣達の距離が近い。

 

「久しぶり……か。何でだろうな、今までずっと忘れてたよ」

 

 苦笑いして見せる。こんなにも特徴のある人物を忘れていたなど、今まで無かった。少なくとも、『覚えている限りでは』。

 

「えっと……わたしは、永遠存在《エターナル》と同じですから。だから兄さまがわたしの事を気温に残していらっしゃらないのも、仕方ない事なんです」

「エターナル……?」

 

 聞き覚えの無いその単語に、首を傾げる。否、どこか引っ掛かるものが有るその単語に。

 そして、気付いた。感じていた違和感の正体に。

 

「……ってか、『兄さま』?」

「はうっ!? ご、ごめんなさい、アキ様! つい……うぅ~~」

 

 恐らくは転んだショックが強くて意識から外れていたのだろう、指摘されて真っ赤に染まる少女。カソックやクロブークで確認できないが、首筋まで朱に染めているだろう事は想像に難くない。

 

「はは……良いよ。俺、一人っ子だからそういうの憧れてたしな。アイオネアみたいに可愛い妹なら、尚更大歓迎だ」

「あうぅ……ぐすっ」

「うっ……悪かった」

 

 クロブークの上から撫でられて、照れに照れた彼女は遂に涙すら浮かべて俯いてしまう。大人しいこの子にとっては意地悪が過ぎたかと、少々反省した。

 

『『『『『…………』』』』』

 

 何より、スンスンと鼻を鳴らす媛君の背後からの霊獣達の威圧が半端なものではなかった。

 その宝石の瞳からは、強いマナの気配。外界に働き掛ける何らかの力、則ち『魔眼』である。その気になれば、空をどうにかする事も容易かろう。

 

「くすん……ところで、兄さ……アキ様はどうしてまた怪我をしていらっしゃるんですか?」

「え? あぁ……ちょっと色々とあってな。でも、助かったよ」

 

 そこで一拍間を置いて、暗殺者は媛君を真摯に見遣る。琥珀色の真っ直ぐな瞳に見詰められた彼女は、恥ずかしげに顔を隠す。

 

「あの力は……ダークフォトンは、アイオネアがくれたモノなんだろう?」

「あぅ、は、はい……『月下界』は危ないところだって、お母様がおっしゃられたから……」

 

 どんな想像をしたのか、媛君は心配そうに空を見て……空の露出の多いその格好を今更直視した事で一層真っ赤になると、両掌で顔を覆って俯いてしまう。

 

「で、ですけど……わたしの力はあくまでも『可能性』ですから。掴み取れるかどうかは、アキ様のなされた努力次第になるんです。ですから、あれは正真正銘アキ様のお力です……」

「そうなのか……でも、何にしても切欠になるその水が無かったらどうしようもなかったんだ。本当に有難うな」

「うぅ……あの、月下海はそんなに危ないところなんですか?」

 

 まぁ、指の隙間からちらちらと金銀妖瞳が覗いているのは、モロ分かりだったが。

 

「うーん、まぁ、楽ではないな。でもそれは、生きる限り仕方ない事だろ。何しろ、生きるって事は苦しむって事なんだから」

「でもアキ様は……何だか、楽しそうです」

「ああ、そうだな。確かに苦しいけど--」

 

 そんな視線を感じながら、彼は琥珀色の三白眼を細めた。その瞳が見詰める先は、境目の見えない空と海の間。

 

「--あっちには、放っとけない奴らがいるからな」

「放っておけない人達……?」

「ああ……馬鹿で、お人よしで、俺みたいに性格の悪い奴が居ないと騙されまくりそうな奴らだよ」

 

 ハハッ、と苦笑いした空。その脳裡に浮かぶ--捻くれていて、意地が悪く、吝嗇で、悪党の自分すらも受け入れてくれた者達。

 

--そうだ、そうだな……アイツの言った通りなんだ。悔しいけど、確かに……。

 

「言葉を尽くせば、分かり合えるのさ。生まれや育ち、思想や矜持が違おうとも……分かり合う気が無いとか、諦めちまった以外で。言葉を尽くして分かり合えない筈が無い」

 

 その思考、敵を殺して我が意を通す彼の生き方とは全くの正反対の極致。

 だが、それでも。

 

--それでも……誰も殺さないで良いのなら。皆が笑顔で居られるような結末が有るのなら。

 そんなに理想的な事なんて……そんなに素晴らしい事なんてのは、他に無いんだから。

 

 それでも『生命を軽んじているから』ではなく、『生命の重さを知るから』こそ。『殺す』事で、自らの大事なものを守り抜く……己の信念を揺るがぬように固める、彼だからこそ。

 そんな『言葉』は、何よりも。甘過ぎて反吐が出る故に、何より護りたいモノだったのだ。

 

 そこで、意識が遠退き始める。タイムリミットだろう。

 

「……いいな」

 

 耳に届いたのは、そんな呟き。媛君が漏らした、そんな声。

 

「わたしも……兄さまに、そんな風に言われたいです」

 

 夢見るように、希うように。唇から紡がれたその言葉。

 

「それなら、一緒に行くか。誰も反対なんてしないって、さっきも言った通り--基本、莫迦ばっかだからな」

「ふぇ……?」

 

 それは何の気無しの一言だった。しかし、その一言は。

 

「あ、あの、その……それって、その……もも、もしかしてわたしと、け、契約を……!」

 

 『永遠神剣』である彼女には、そう取れる言葉でもあり--

 

『『『『『----オォォォォォォォォォ!!!!!!!!!!!!』』』』』

 

 媛君の忠臣達が、横槍を入れるくらいに上手くいきそうな雰囲気だった。

 その五つの咆哮と全く同時に、天上海を吹き抜けた一陣の颶風。吹き散らされた花弁と草の波、風を切る枝の葉鳴りと吊された無数の風鈴の音に彩られた樹の下で。

 

「……あっ……」

 

 媛君が再び瞼を開いた時、もうそこには誰の姿も無く。

 

「……兄さま」

 

 媛君が寂しげに呼び掛けた人物の代わりの如く、壊れたライフルが転がっていたのだった……


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