少しご都合主義が混ざってしまっているかもしれませんが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。
世界からスレイン法国という一つの国が消えた。
スレイン法国とアインズ・ウール・ゴウン魔導国の衝突。
数多の周辺諸国の中には法国が滅びることを予見したものもあっただろう。しかしあまりにも早すぎる決着に誰もが驚き、恐怖に身を震わせた。
ウルベルトたちが使者として法国を訪れてから法国が滅びるまでかかった時間は凡そ三日。
たった三日という短い期間で一つの国が滅びたのだ。
最初の二日間で神都が落ち、残りの一日で神都以外の法国の領地全てが異形種の大軍に覆われ蹂躙された。
法国が実際どうなったのか、多くの憶測が飛び交い恐怖となって世界中に伝染していく。中でも彼らの恐怖を煽ったのは法国の生き残りが誰一人としていないという事実だった。
一つの国には数十万数百万という多くの人間が住んでいる。どんなに大きな戦争があろうと、どんなに酷い災厄が起ころうと、生き残りが一人もいないなどあり得ない。それなのに今回一人も生き残りがいないというのは一体どういうことなのか。難民どころか、その日法国を行き来したはずの商人ですら行方不明となっている。
スレイン法国は焦土と化した土地だけを残して、他の全てをこの世界から消し去ってしまっていた。
スレイン法国を滅ぼしてから十日。
ウルベルトは一人ナザリック地下大墳墓の第六階層にいた。
アインズや守護者たちは焦土と化した法国や、未だ混乱状態にある王国や帝国への対処に追われてここにはいない。ウルベルトは法国との戦闘で完全に元に戻ることができず、アインズから力を蓄えるためにナザリックの留守を頼まれていた。
ウルベルトに課せられた任務は、一刻も早く元の姿に戻ること。
『そのためにもいっぱい寝て、ワインをがぶ飲みして、力を蓄えて下さい!』とはアインズの言である。
しかし元々は疲労というバッドステータスもなく、飲食も不要な悪魔だ。赤子ではなくなった今、一日中寝ることなどできようはずもない。
時間を持て余し過ぎたウルベルトはこれを機会に、今までずっと保留にしてきたことに向き合う決心をした。
土と草の地面に直接座るウルベルトの目の前には黒い仔山羊たちの集合体。
最初の時と同じように何もしゃべらず微動だにしない肉の塊に、ウルベルトは思わず目を細めさせた。じっと注意深く凝視しながら、それでいて魔力を肉塊へと通わせる。
肉塊が未だ生きているためか、はたまた現実世界に繋がっているからか…。
通わせている魔力に乗って小さな反応が肉塊から返ってくる。
まるで心臓の鼓動のように…、水面に落ちる雫のように…。
一定のリズムを刻むそれに、ウルベルトは微かな変化すら見逃すまいと注意しながら反応の意味を自分の中で解読していった。
自分は何故この世界に来られたのか。
何故それが自分だったのか。
何故本来の姿ではなく赤子だったのか。
奪い取られたものは何なのか。
不調と発作の原因は。
何故元の姿に戻れないのか…――
全ての答えは目の前の黒い仔山羊たちの肉塊にある。
この十日間で紐解いてきた全てを頭の中で繋ぎ合わせる。点と点が繋がって線となり一つの模様を描くように、全てが繋がって答えを成していく。
もう少し、もう少しなのだ…!
もう少しで全てが分かるような気がして、ウルベルトは衝動のままに大量の魔力を肉塊へと流し込んだ。何か手応えのようなものを感じて、まるで釣りのように勢いよく魔力を手繰り寄せる。
一際大きく返ってきた反応。
まるで呼応するようにウルベルトの心臓もドクンッと大きく鼓動し、ウルベルトは反射的に小さく息を呑んだ。
頭の中で次々と線が構成されていく。
最後のピースがゆっくりとはめ込まれたように、一つの大きな“答え”がウルベルトの頭の中に浮かび上がってきた。
「………はっ…、…そう言うことか」
無意識に言葉が零れ落ちる。
辿り着いた答えに納得すると同時に、どっと重たいものが伸し掛かってきたような気がした。
思わずはぁっと大きなため息をつく。
ずっと逃げてきたことに向き合う時が来たのかもしれない…。
ウルベルトはもう一度ため息をつくと、覚悟を決めて立ち上がった。
これからのことを考えながら、まずは確認も兼ねて〈
「……パンドラズ・アクター…」
『っ!! これはウルベルト様! わたくし目に何かご用命でしょうか?』
「少しお前と話したいことがある。第六階層にある立ち入り禁止区域は分かるな? そこまで来てもらいたい」
『……………。……畏まりました! 至急お伺いいたします』
プツッという小さな感覚と共に〈
こちらに返答する間際、微妙にあいた間は一体何だったのか。
忠告してきたアルベドのことを思い出し、まるでシミのように黒い何かがウルベルトの心に広がっていく。
しかし、だからと言ってするべきことは変わらない。
ウルベルトは目の前の肉塊を見つめながら、ただじっとパンドラズ・アクターが来るのを待った。
今現在パンドラズ・アクターは主に法国に残された物資や財、マジックアイテムなどの回収と選定を命じられている。おそらくこちらに戻って来るにはそれなりの時間がかかるだろう。
しかし予想に反して一時間も経たぬうちに姿を現した異形の軍人に、ウルベルトは内心で驚きの声を上げた。
〈
動向を探るように注意深く凝視してくるウルベルトに気が付いているのかいないのか、パンドラズ・アクターはカッと踵を打ち鳴らして敬礼の姿勢を取った。
「お待たせ致しました、ウルベルト様! パンドラズ・アクター、御身の前に馳せ参じましてございます!!」
高らかに響いてくる声はまるで歌のように抑揚があり、身振りもオーバーで若干ウザったい。何故あのアインズからこのようなNPCが生まれたのだろうかと内心大いに首を傾げながら、ウルベルトは気を取り直してパンドラズ・アクターへと真正面から向き合った。どう切り出そうかと少しだけ思案し、しかしすぐに面倒くさくなって単刀直入に行くことにした。
「…俺は言葉遊びをしたり謎かけをすることも好きだが、今回は単刀直入に言わせてもらう」
「はっ、どういったお話でしょうか?」
「お前は今でも俺を殺そうとしているか?」
「……………………」
ウルベルトの問いに、まるで時が止まったかのように静寂がこの場を支配する。
何を考えているのかパンドラズ・アクターのはにわ頭は微動だにせず、その空洞の口からも何も発せられない。
しかしウルベルトは気にすることなく、ただ淡々と話を続けた。
「アルベドから話を聞いている。俺たちを探す部隊を作ったことも、その裏での本当の目的も…」
「……………………」
「別にそのことについて咎めるつもりはない。俺たちがお前たちを捨てたことは事実だし、恨むなって言うのも身勝手な話だろう。ただ俺は、お前に確認したかっただけだ」
「………何を、でしょうか?」
「お前は今でも俺を殺そうとしているか?」
先ほど口にした問いかけを再度口にして、パンドラズ・アクターを真っ直ぐに見つめる。
パンドラズ・アクターは暫く黙り込んでいたが、まるで諦めたように大きなため息をついて項垂れるように肩を落とした。
「………確かに我々は御方々を害そうとしておりました。けれど今は…、少なくともウルベルト様は害そうとは思っておりません」
「…何故だ?」
「私が至高の御方々を害そうと考えたのは、我が崇拝せしアインズ様のお心を傷つけたためです。故に私は、アルベド様と協力して秘密裏に御方々を亡き者にしようと画策いたしました。しかしあなた様はナザリック内に出現し、その存在はアインズ様に知られてしまった。あなた様の存在をアインズ様が認められた以上、あなた様を害すれば逆にアインズ様のお心を傷つけてしまいます」
だからもう手を出さない…、いや、手を出せないのだと語るパンドラズ・アクターにウルベルトは思わず小さく目を細めさせた。
流石と言うべきか、アルベドと比べて彼は恐ろしいほどに冷静で思慮深い。いや、アルベドが少々自分の感情に素直過ぎるということもあるのだろうが、それを差し引いても彼は理性が強く、そして冷酷だとも言えた。
だがウルベルトにとってはそれはさして問題ではない。
ウルベルトにとって重要なことは、もっと先にあったのだ。
「…なるほど。ならばお前の行動はモモンガさんの感情に感化されたものではなく、お前自身の意志だったんだな?」
「………? …どういう意味でしょうか?」
ウルベルトの言葉の意味が分からず、パンドラズ・アクターが小さく首を傾げる。
ウルベルトは小さくそっと息をつくと、覚悟を決めて金色の瞳に強い光を宿らせた。
「お前たちは自身の創造主と深い繋がりを持っている。それは親子や主従といった関係性の事ではなく、感情としての繋がりのことだ」
「感情としての繋がり、ですか……」
「例えば好きなものや嫌いなもの…。そうあるべきと設定されたこと以外は創造主の影響を受ける傾向にある。ならば、お前が俺たちに対して持っている感情は、果たしてお前自身のものだと言えるのか…?」
「……………………」
アインズを傷つけたことに対して恨み、自分たちに刃を向けるパンドラズ・アクター。
動機はアルベドと同じだったが、しかしパンドラズ・アクターとアインズの関係性がウルベルトの判断を鈍らせた。
パンドラズ・アクターはアインズが創り出したNPCだ。
“自分たちを捨てた恨み”で刃を向けるのなら、こちらとしても受け止める覚悟はできている。
“アインズを傷つけたから”という理由ならば、それはお前たちの権限ではないとアルベドの時と同じように突っぱねるつもりだった。
しかし、それが創造主であるアインズの感情に引きずられてのものだったとしたら…?
アルベドに忠告された時にパンドラズ・アクターの件を先延ばしにしたのは、実はこれが多くの原因だった。
言葉では偉そうなことを言っておいて、ウルベルトは実は逃げていたのだ。アインズの本心を知り、それに向き合うことを恐れていた。悪の大災厄と恐れられていたはずの自分が情けないことこの上ない。
しかし、それも今日で終わりだ。怯え続けるなど自分らしくないし、第一そんな事では息子であるデミウルゴスや叱責したアルベドに顔向けできない。それに、これ以上逃げることは今の状況が許してはくれなかった。
自分が陥った状態。
未だ現実世界へ繋がる黒い仔山羊たちの集合体。
それらすべてを解決するためには、アインズときちんと向き合わなければならない。
ウルベルトの覚悟を感じ取ったのか、黙り込んでいたパンドラズ・アクターが小さく身じろいだ。
「………ウルベルト様、先ほど申し上げた言葉は決して嘘偽りではございません。しかし…、私にはもう一つ理由があったのです」
「もう一つ?」
訝しむウルベルトを余所にパンドラズ・アクターはウルベルトから目を逸らす。まるで何かに思いを馳せているかのように何もない上空を見上げていた。
「…わたくしめの能力は、御方々のお姿と力を真似ること。当初は宝物殿を守る戦闘面でそう定められただけなのかもしれません。…しかし、御方々が御隠れになってからは、違う意味合いも生まれたのです」
「違う意味合い…?」
「アインズ様にとってウルベルト様をはじめとする至高の御方々は何にも代えがたい大切なもの。最初は自ら御造りになったゴーレムで御方々のお姿を記憶しようとなさったようですが、アインズ様はそれではご納得していらっしゃいませんでした」
「………まさか…」
頭に過った考えに、ウルベルトは思わず瞠目した。
もし自分の考えが正しければ、それはなんて悲しく寂しいものだったのだろう。
決して信じられず、また信じたくないものだったが、しかしパンドラズ・アクターが語るのは肯定の言葉だった。
「僭越ながら、私の役目は至高の御方々のお姿と力を保管すること。ウルベルト様方がお戻りになるということは、私の役目がなくなることを意味します」
アインズを悲しませたことに対する憎しみは勿論ある。だがそれだけではなく、至高の主たちが戻ってきてしまったら自分の存在意義もなくなってしまうのだと。
淡々と語るパンドラズ・アクターに、ウルベルトは思わず強く拳を握りしめた。
湧き上がってきたのは悲しみと、それに勝る激しい怒り。
彼らNPCたちにとって定められた存在意義がどれだけ大切なものなのかは少しは理解しているつもりだ。忠誠心が高ければ高いほど、それは彼らを縛って離さない。言葉通り、存在するための理由なのだから失えば生きていけないと思っているのかもしれない。しかしウルベルトにとってはそれは決して認められるものではなかった。
「………ふざけんなよ、てめぇ…」
苦々しくドスの利いた声が零れ出る。
静かながらもマグマのようなドロドロとした怒気を孕んで怒り狂う悪魔に、流石のパンドラズ・アクターもビクッと身体を震わせてたじろいだ。凄まじい怒気が重圧となってパンドラズ・アクターに襲いかかる。はにわ顔は全く変わることはなかったが、本能的な恐怖に身体中が震え、すぐにでもへたり込みそうになる。
誰が見ても怯えている様子に、しかしウルベルトの感情は治まらなかった。唸り声のような声と共に噛みしめた歯がギリッと鳴り、冷ややかな瞳でパンドラズ・アクターを睨み据える。
「俺たちの姿を保管するのがお前の役目だぁ? …ふざけんのも大概にしろ」
今までにない乱雑な口調と、殺気にも似た怒気を宿した鋭い瞳。
絶対者のオーラと怒気を身に纏い、至高の悪魔はゆっくりとパンドラズ・アクターへと歩み寄った。
土を踏みしめる小さな音がまるで死のカウントダウンのように鼓膜を震わせる。
パンドラズ・アクターは目の前まで近づいてきたウルベルトに思わず頽れるように跪いて頭を垂れた。
「…聞くがな、パンドラズ・アクター。この世界に来て、一度でもモモンガさんはお前に俺たちの誰かになれと命令したのか?」
「………いいえ…」
先ほどとは打って変わり、感情を押し殺した声で悪魔が静かに問いかけてくる。
パンドラズ・アクターは恐怖に震えそうになる声を必死に抑えながら、短く否定の言葉を口にした。
実際にはエクスチェンジボックスを使用するために至高の御方の一人である音改には何度か変身したことはあるのだが、ウルベルトが言いたいことはそういう意味ではないだろう。彼が言いたいのは能力の使用ではなく、アインズが心の支えとして自分に至高の御方の誰かになるよう命じたかどうかだ。その意味合いで考えれば、確かにこちらの世界に来てからはアインズは一度として自分にギルド・メンバーの誰かになることを命令したことはなかった。しかしそれは、それだけの余裕がなかったからだとパンドラズ・アクターは判断していた。
ユグドラシルではない、右も左もわからない未知の世界。一から全てを調べていかなければならない状況で、ナザリックのシモベたちを一人で導いていかなければならないなどどれほど重荷だったことだろう。かつての仲間へ思いを馳せる余裕などあるはずがない。言い換えれば、全てが軌道に乗り余裕が生まれればアインズは再び自分に仲間の姿を欲するだろう。
パンドラズ・アクターは自分の考えを疑わず確信を持っていたが、しかしウルベルトは全くそうは思っていなかった。
データ世界のユグドラシルであれば兎も角、この世界は紛れもなく現実だ。パンドラズ・アクターを含めたNPCたちもデータではなくなり、一つの生命体として生きている。彼らを仲間たちが残した子供たちであると認識しているアインズにとって、彼らが生きているという事実は決して軽いものではないのだ。
「…俺たちがユグドラシルを去ってから、モモンガさんやお前たちがどうあったのかは知らん。だがこの世界に来て少なからずユグドラシルでの在り様とは変わっているだろう」
「……………………」
「そして恐らく、一番変わったのはモモンガさんだ。お前もそれは分かっているだろう! 何故モモンガさんの息子であるお前がそれを拒絶している!」
先ほども思ったが、彼らNPCにとって設定された役割というものは大切で重要なものなのかもしれない。しかしそれは、今のモモンガの意向よりも重要なものなのだろうか?
自分に献身的に尽くしてくれる
「………わたくしたちを捨てた貴方様に何が分かるというのです!」
まるで感情が爆発したようにパンドラズ・アクターが声を荒げる。
始めて見る感情を露わにした様子に、ウルベルトは何とか怒りを鎮めながら静かにパンドラズ・アクターを見つめていた。
「我らシモベにとって、あなた方至高の御方々は本当にかけがえのない存在だったのです! しかしあなた方はアインズ様お一人を残して全員が消えてしまわれた! 残された我々にとって定められた役割が唯一の在り処だったのです!」
「………お前にはモモンガさんがいただろう…」
「なればこそ! アインズ様の被造物である私がアインズ様をお支えせずしてどうするのです!!」
いつの間にか俯かせていた顔を上げて、目の前に立つウルベルトを見上げる。しかしかち合った金色の瞳はどこまでも冷ややかにパンドラズ・アクターを見下ろしていた。横長の瞳孔を持つ瞳が異形である身にも不気味に映り、本能的な悪寒が走る。
ウルベルトは純粋な
「それなら尚更“お前自身”がモモンガさんを支えなくてどうする! お前は誰でもない、モモンガさんが創り出した
「ですが、アインズ様が求めていらっしゃるのは…!」
「そんなの関係あるか! どんなに姿形が同じだろうが能力を真似できようが、お前がお前自身であることは変わらねぇだろうが! どんなにお前の能力が高くても、完全に俺たちになれる訳じゃねぇ。俺たちが戻ればお前の役目がなくなる? 役目がなくなればモモンガさんを支えられない? ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ! 本気でモモンガさんのことを想ってるんなら、お前自身でモモンガさんを支えてみせろ!」
「……………………」
胸倉を掴まれた状態で再び力なく項垂れるパンドラズ・アクターにウルベルトは一つ大きな息を吐き出した。
再び頭に登った熱を冷まそうと、冷静になれ…と自分に言い聞かせる。
ゆっくりと胸倉を掴んでいた手を放すと、片膝をついてパンドラズ・アクターと目線を合わせた。
未だに怒りは胸の内でくすぶってはいるものの、幾分和らいだ瞳でじっと見つめる。
「今までモモンガさんを支えてきたのは、俺たちの影じゃなくて紛れもないお前自身だろう。俺はそれに感謝してるんだ。お前も、もっと自分に自信を持て」
誰かの代わりではなく、自分自身で立って支えてみせろと再度口にするウルベルトに、パンドラズ・アクターは呆然とした様子で顔を上げた。はにわの真っ黒な空洞がじっとウルベルトに向けられている。
ウルベルトはフッと表情を緩めると、もう一度だけ小さな息をついて立ち上がった。軽く地面に着いていた片膝を払う。
パンドラズ・アクターものろのろと立ち上がると、未だ肩を落としながらも真っ直ぐにウルベルトを見つめていた。
「………ウルベルト様、先ほどウルベルト様が仰っていたことですが…」
「うん?」
「アインズ様は決してウルベルト様を恨んでなどおられません。だからこそ、先ほども言ったように私はウルベルト様を害することを諦めたのですから」
「……そうか…」
幾度となく口にした言葉がどれほどパンドラズ・アクターに届いたのかは分からない。しかし今はこれ以上言葉を重ねても無意味な気がしてウルベルトは静かに口を閉じた。
今のところ自分に対しては既に害意がないこと、そしてそれがモモンガさんによる影響ではないことが分かっただけでも良しとするべきだろう。
心の内でそう判断すると、漸く本題に取り掛かるべく気持ちを切り替えた。
「…パンドラズ・アクター、お前の言葉を信じよう」
「……………………」
「そして、今からのことを見届けてほしい。…モモンガさんの息子であるお前に」
「ウルベルト様…?」
パンドラズ・アクターから訝し気な声が漏れる。しかしウルベルトは全く構うことなく、すぐさま〈
〈
内容はどちらも変わらず、今からここに来てほしいというものだった。
デミウルゴスは即答、アインズも困惑しながらも同意してくれる。二人とも忙しい中だというのに、デミウルゴスは〈
「お待たせしてしまって、すみません。でも、デミウルゴスは兎も角パンドラズ・アクターまでいるなんて…、まさか何かありましたか?」
炎のような眼窩の灯りが気遣わし気にチラチラと黒い仔山羊たちの集合体へと向けられている。恐らくこの場に呼び出された時点でアインズの中には言いようのない困惑と不安が渦巻いていたのだろう。ウルベルトはその不安を少しでも拭えるように自らもアインズの元へと歩み寄ると柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「忙しいのに急にすみません。ありがとうございます、モモンガさん」
「それは構いませんが…、一体何があったんですか?」
「俺が何故この世界に来られたのか…、何故こんな姿なのか…、全てが分かりました」
「「「っ!!?」」」
ウルベルト以外の全員から驚愕に息を呑む音が聞こえてくる。期待と不安が入り混じった様な表情を浮かべるデミウルゴスと、言葉もなく呆然とした様子のアインズ。早く説明してほしそうな彼らに、しかしウルベルトにとっては中々に簡単な話ではなかった。彼らを呼んだものの上手く説明できる自信はなく、どう説明したものかと頭を悩ませながら口を開いた。
「そもそも俺がこの世界に来られたのは多くの偶然の積み重ねと、モモンガさんのおかげだったんだ」
「どういう意味ですか…?」
「俺にも上手く説明できる自信がないんだが…、順を追って説明させてくれ。まずモモンガさんが超位魔法〈
ウルベルトの確認にアインズをはじめとするこの場にいる全員が肯定に頷いて見せる。ウルベルトも頷きを返しながら次の段階へと説明を始めた。
彼が語る話は、魔法の仕組みともいえる内容から始まった。
超位魔法〈
ここで注目すべき点は“召喚魔法”という部分だ。召喚魔法とは、召喚したものにこちらの願いを聞いてもらう魔法である。人によっては命令できると解釈する者も多いが、ウルベルトは願い叶えるという認識の方が正しいと考えていた。〈
「…確かに俺は黒い仔山羊たちに命じて王国軍を攻撃させ、エ・ランテルを占領しました。でも、それで黒い仔山羊たちの役目は終わったんじゃないですか?」
「確かにユグドラシルではそうなるだろう。だがここで重要になってくるのは、ここがユグドラシルではなく、この世界では必ずしもユグドラシルの全てがそのまま適用するわけじゃないという点だ。そして〈
ユグドラシルではこれと言って差はなかったが、少なくとも現実世界では普通の召喚魔法と生贄からの召喚魔法では代償を払う分、生贄召喚の方が強力な魔法であるという設定が多い。そして、それはこの世界でも同様であるようだった。加えて黒い仔山羊たちはアインズの命令で多くの人間を殺し、多くの血肉をその身に浴びたという。
「超位魔法での生贄召喚魔法…、そして召喚者であるモモンガさんと繋がりを持っていた黒い仔山羊たちは再度多くの生贄によってモモンガさんの一番強い願いを叶えるだけの力を手に入れ、実行することができた」
「…俺の一番強い願い…?」
「………ギルド・メンバーとの再会」
「っ!!」
再び息を呑む音がアインズから聞こえてくる。
彼が今驚愕以外に何を思っているのかは骸骨の表情からは読み取ることができない。しかし弱く揺らめく眼窩の灯りに気が付いて、これ以上話を続けるべきか迷った。デミウルゴスやパンドラズ・アクターを見れば、二人は真っ直ぐにウルベルトを見つめている。
ウルベルトが迷っていることに気が付いたのか、デミウルゴスが控えめながらも声をかけてきた。
「…ウルベルト様、恐れながらアインズ様の一番の願いが至高の御方々との再会であったならば、何故ウルベルト様だけがこちらに来られたのでしょうか?」
「それは、ギルド・メンバー全員をこちらの世界に連れてこれるだけの力がなかったからだ。この世界本来の理によって飛ばされたお前たちと違い、生贄召喚の力を使って異世界の者を連れてくることはこの世界の理を歪める行為だ。対象一人連れてくるだけでも相当な力を消費するだろう」
「………まさか、ウルベルト様が赤子だったのは…」
「そうだ」
何かを察して言葉をなくすデミウルゴスに、ウルベルトは微苦笑を浮かべて小さく肩をすくませた。
ウルベルトが本来の姿ではなく山羊の赤ん坊姿で現れた理由…。それは一つは黒い仔山羊たちが殺戮した生贄の数が足りず力が足りなかったこと。そしてもう一つはアインズとウルベルトの関係性が非常に弱いところにあった。
いくら二人が同じギルド・メンバーで仲間だったとしても、それだけでは二人の繋がりは薄い。いくらアインズのギルド・メンバーに対する想いが強くても、それは反発する世界の力を少しだけ弱めるしか効果がなかった。黒い仔山羊たちは共喰いをすることによって力を一つにまとめ、足りない部分はウルベルト自身を削ることによって何とかこの世界に引きずり込んだのだ。
「ギルドメンバーの中で俺が選ばれた理由は、黒い仔山羊たちにとって俺が一番干渉しやすかったからだろう」
「何故、ウルベルト様が一番干渉しやすかったのでしょうか?」
「俺が山羊頭の悪魔だからだ」
「「「?」」」
「分からないか? …生贄によって呼ばれるものは大抵は悪魔だ。そして俺をこの世界に呼んだのは黒い仔山羊たちだ」
「………なるほど、黒い仔山羊たちと同じ山羊のフォルムを持ち、生贄によって呼びやすい悪魔。この二つの要素を兼ね備えた至高の御方はウルベルト様の他にはおりますまい」
納得したように頷くデミウルゴスの言葉に、アインズとパンドラズ・アクターもほぼ同じタイミングで頷く。ウルベルトもデミウルゴスの言葉に肯定すると、一息入れるために一度だけ小さく息をついた。
話がこれで終われば良かったのだが、事態はそれよりも更に複雑となっていた。
「俺は
「はい」
「本当なら時間が経てば徐々に俺の削られた部分も回復して本来の姿に戻れるはずだったんだが…。どうもそういう訳にも行かなくなったんだ」
「それは…、どういうことでしょうか……?」
デミウルゴスが不安そうな表情を浮かべて問いかけてくる。パンドラズ・アクターは良く分からないが、アインズも困惑と不安を綯交ぜにしたような雰囲気を漂わせている。途端に深刻そうになった二人に苦笑を浮かばせながら、しかしどうにもウルベルトの口は重かった。自分の不注意が招いた種であるだけに、どうにも説明するのが躊躇われる。しかし説明しない訳にもいかず、ウルベルトは重々しく口を開いた。
「…俺は世界の理を歪めてこの世界に招かれた存在だ。俺が本来の姿を取り戻すまでは黒い仔山羊の集合体も朽ち果てず、その肉塊は未だ
「あれに触ったんですか!?」
「ああ。…今思えばバカだったとしか言いようがない。俺が不完全な状態で接触したために、抑え込まれていた歪みが開いて、この世界での俺の“核”とも言うべきものが奪われて
「…“核”…?」
「……奪われたものは“繋がりの力”とも言うべきものだ」
ウルベルトの言葉にアインズたちは一様に首を傾げて疑問の表情を浮かべた。しかしウルベルト自身にもこれ以上の適切な言葉が思いつかなかった。
彼の言う“繋がりの力”とは、ある意味“引力”と言い換えても良いもので、まさしくウルベルトにとってはこの世界では“核”というべきものだった。
この力には多くの意味合いと役割を持っている。
例えば魂と肉体の繋がり。
人間だった頃の心と悪魔としての心の繋がり。
この世界とウルベルトを繋ぎ止める役割など。言いあげればきりがなく、その力がなくなればウルベルトの全ては時間と共に衰弱し朽ち果てる。
ウルベルトが本来の姿に戻りつつあったのは、単にワインや人間たちの血肉や憎悪によって悪魔としての力が上昇し、一時的に繋がりの力を補ってくれただけに過ぎないのだ。この姿も、奪われた“核”を取り戻さない限り時間と共に失われて朽ち果ててしまう。
「……そ、んな…! 一体どうしたら良いんですか!?」
「ウルベルト様!!」
アインズとデミウルゴスから悲痛な声が零れ出る。
勢いよく詰め寄ってくる二人に、ウルベルトはそんな資格もないと分かっているのに少しだけ嬉しく思ってしまった。大事な仲間と大切な息子にここまで想われて嬉しくないはずがない。
ウルベルトは不謹慎にも緩んでしまいそうになる顔を必死に引き締めさせながら、努めて冷静に彼らを落ち着かせようと試みた。
「二人とも、落ち着いてくれ。何も不安にさせるためだけにこんな話をしたわけじゃないんだ」
一度言葉を切り、改めてアインズとデミウルゴスを見つめる。
このナザリックで、自分にとって一番大切な者たち。
自分が全てを取り戻すためには彼らの協力が必要不可欠だった。
「モモンガさん、デミウルゴス…。俺は一度ユグドラシルを…、ナザリックを捨てた身だ。恨まれても仕方がないとも思ってる。それでも…、また一緒にいることを許してくれるだろうか?」
一番聞くことが恐ろしかった問いを、覚悟を決めて投げかける。
アインズについては先ほどパンドラズ・アクターが保証し、デミウルゴスについても今までの彼の態度が物語っていたが、それでもやはり直接問いかけずにはいられなかった。
ウルベルトの葛藤に気が付いているのかいないのか、アインズとデミウルゴスは驚いたようにウルベルトを見つめている。
二人の口から返されるのは果たして肯定か否定か…。
無意識に身構えてしまうウルベルトに、しかしアインズとデミウルゴスが口にしたのは激しい肯定の言葉だった。
「そんなの…、当たり前じゃないですか! ウルベルトさんは今でも大切な仲間です! 許すも何もありません!!」
「アインズ様の仰る通りです! 私にとってウルベルト様は忠誠を誓う至高の御方々のお一人と言うだけでなく、敬愛する創造主なのです。ウルベルト様を恨む気持ちなど微塵もございません!!」
きっぱりと言い切る二人にウルベルトは一瞬呆然と目を見開いた後、思わずははっと小さな笑い声を零した。顔を俯かせ、力なく片手で顔を覆う。競りあがってくる激情を何とか堪え、そっと震える吐息を吐き出した。未だ震える胸を拳を強く握り締めることで抑え込み、ウルベルトは漸く顔を覆っていた片手を外して顔を上げた。
「…ありがとう、二人とも。改めて、俺に力を貸してくれ」
「当り前ですよ、ウルベルトさん」
「仰せのままに、ウルベルト様」
ウルベルトは金色の瞳に強い光を宿すと、そっと左手でデミウルゴスの手を、右手でアインズの手をそれぞれ握り締めた。不思議そうに見つめてくる二人には構わず、真正面から漆黒の巨大な肉塊へと向き直る。
「俺が元に戻るためには奪われた“核”を取り戻す必要がある。それには二人の力が必要不可欠だ」
「何をすればいいんですか?」
「基本的には何も、ただそこにいてくれればいい。必要なのはモモンガさんの強い想いと、デミウルゴスと俺の間にある強い繋がりの力だ。後はすべて俺が何とかする」
覚悟を決めた力強い声音に、しかしアインズとデミウルゴスは少し心配そうにウルベルトを見つめた。また無茶なことをするつもりじゃないだろうか…と、どうしても心配になってしまう。しかしそんな二人の感情を何となく感じ取りながらも、ウルベルトは敢えてそれに触れることはしなかった。
元より世界の理をまげて完全に自分という存在をこの世界に取り込ませるのだ。無茶をせずにそんな神のような真似ができるはずがない。
ウルベルトは一度大きく息を吐き出すと、パンドラズ・アクターに少し離れている様に伝えて黒い仔山羊の集合体を睨み据えた。
「…〈
ウルベルトの唱えた魔法が発動し、見えない大きな刃が勢いよく漆黒の肉塊を切り裂いた。
ぱっくりと開いた大きな傷と、まるで噴水のように噴き出す赤黒い血飛沫。
瞬間、肉塊がぶるぶると大きく震えはじめ、萎びていた多くの触手がまるでのたうち回る蛇のように暴れ始めた。鉄臭い血の香りに、触手によって抉られた地面によって土のにおいが混じり合う。ウルベルトによって切り裂かれた傷以外に無数の亀裂が肉塊に走り、くぱぁっと開いて白い歯と鮮やかな赤が姿を現した。
「……メェェェェエェェェェェエェェェ」
「…メエェェェエェェェエェェェエェェ!」
「メエエェェェエェェェェエェェェェっ!!」
可愛らしい仔山羊の声が重なり合い、大合唱を始める。
両手が塞がっているウルベルトの代わりに襲い掛かってくる触手を防いでいたアインズとデミウルゴスは、予想外の事態に思わず小さく身じろぎ、半歩後ろに後ずさった。
「…まさか、まだ生きて!?」
「生きていた…と言うよりかは、仮死状態になっていたと言った方が正しいな。完全に死んでたら
アインズの言葉に答えながら、ウルベルトはじっと肉塊の傷口を見つめていた。無数に口を開けている口内と違い、その傷の中は瑞々しい赤ではなく闇が渦巻く漆黒のもの。
ウルベルトは小さく目を細めさせると、タイミングを見計らって繋いでいたアインズとデミウルゴスの手を放した。
「ウルベルトさん!?」
「ウルベルト様!?」
アインズとデミウルゴスの驚愕の声が聞こえてくる。しかしウルベルトはそれに構うことなく勢いよく肉塊へと突っ込んで行った。まるでそれを待っていたかのように、傷口の周りから突如白く鋭い歯列が姿を現す。足がなくなったことで獲物に近づくことすら敵わない肉塊は、自ら飛び込んできた愚かな獲物に一番大きな“口”で迎え入れようとしていた。ウルベルトもそれに抗うことなく、まるで手を槍のように勢いよく傷の中へと突き入れる。
傷から新たな血が噴き出すのと、鋭い多くの牙がウルベルトの肩に食い込むのはほぼ同時。
右腕全てを呑み込んだ傷口は、まるで引き千切ろうとするかのようにギリギリと肩に食い込ませた牙を肉の中へと沈めていった。一気に骨まで達した多くの牙に、しかしウルベルトは怯むこともなく悪魔らしい笑みをニヤリと浮かばせた。
ウルベルトはアインズの願いと多くの犠牲という名の代償でこの世界に呼び出された。ならば今回もアインズの願いとデミウルゴスとの繋がりだけでなく、多くの血肉と命が必要だ。
「俺の腕だろうが足だろうが、好きなだけ持っていけ。その代わり、俺から奪ったもんは返してもらうぞっ!!」
「ウルベルトさん!」
「ウルベルト様!」
駆け寄ってきたアインズとデミウルゴスの手がウルベルトの身体を捉えた瞬間、ウルベルトに食らいついていた肉塊の牙が骨を噛み砕いた。二人によって引き戻される力も相まって、肉塊に呑み込まれたウルベルトの右腕は右肩からごっそりと引き千切られる。
しかし痛みに怯んでいる時間はない。
ウルベルトは失った右肩から血を滴らせながら、再び最強化した〈
しかし今回は先ほどの傷と明らかに違っていた。
渦巻いているのは漆黒の闇だけではなく、その奥に確かに何かがぼんやりと浮かび上がっていた。
それはまるで長い長いトンネルの中のよう。
ぼんやりと見える光景に目を凝らせば、ウルベルトは目を小さく細めさせ、アインズは驚愕に鋭く息を呑んだ。
「…あれは…!」
闇の中に見えたのは現実世界でのコンクリートに覆われた一つの狭い部屋。年季の入ったフローリングの上に、一人の痩せた男が口から血を吐いて力なく横たわっている。この距離では男が生きているのか死んでいるのかも分からない。しかしその男が誰であるのかアインズは直感的に理解した。
「………ウルベルトさん…」
その声は果たして目の前の悪魔にかけられたものなのか、それとも遥か向こうの男にかけられたものなのか…。
ウルベルトはそれを確かめることはせず、ただ残された左手の指先を真っ直ぐに男へと向けた。
「…〈
ウルベルトの魔法が発動し、突如床から生えた複数の赤黒い槍上の楔が男の身体を貫いた。
まるで磔のように…、神に捧げられる贄のように男の身体が宙で串刺しにされて血を流す。
その際、確かに男の身体がピクッと震え、微かな吐息を零したことにアインズは気が付いた。しかしアインズが何かを言う前に既に全ての決着がつこうとしていた。
今まで開いていた傷の扉が血を飛び散らせながら勢いよく閉じられ、複数の仔山羊の鳴き声が断末魔のように大きく響き渡る。漆黒の巨体は血を滴らせながらビクビクと震え、触手も縮こまったように肉塊自身に巻き付いていく。一体何が起こっているのか分からぬまま、肉塊は徐々に小さくなり、最後にはリンゴくらいの大きさまでになってしまった。
未だ血をたらたらと滴らせながら宙に浮いている小さな漆黒の肉塊。
ウルベルトはそっと肉塊を左手で掴むと、次にはぐしゃっと勢いよく握り潰した。噴き出した大量の血が赤い霧となり、勢いよく渦を巻いてウルベルトを包み込む。
「ウルベルトさん!!」
「アインズ様!!」
慌てて手を伸ばそうとするが、何か見えない力に邪魔されて上手くいかない。加えて駆けつけたパンドラズ・アクターの手によってウルベルトから引き離され、血の霧が視界を遮って完全にウルベルトの姿を隠してしまった。
どうすれば良いのか分からず、ただ焦りばかりが湧き上がってくる。
しかし幸いなことにこの時間は長く続くことはなく、徐々に赤い霧は薄くなり始めていた。
一番最初に目に入ったのはしっかりと立つ山羊頭の悪魔のシルエットで、取り敢えずは無事なようで安堵の息をつく。しかし先ほどのこともあって油断はできず、アインズはデミウルゴスとパンドラズ・アクターと共にウルベルトの元へと歩み寄った。未だ少し漂っている血の霧をかき分けながらウルベルトへと近づいていく。
「…ウルベルトさん?」
安否の確認も含めて名を呼ぶアインズに、ゆっくりとこちらを振り返ってくる山羊頭の悪魔。
柔らかく目を細めさせて自分たちを見つめるウルベルトの姿を視界に収めた瞬間、アインズは思わず驚愕に小さく息を呑んだ。
「………ウルベルト様、お姿が元に戻って…」
呆然と呟くデミウルゴスの言葉通り、目の前のウルベルトは完全にユグドラシルの時の姿に戻っていた。
毛の長い白い山羊頭に、大きくねじくれた二本の角。顎には立派な髭が垂れており、それを弄る五本指の手には鋭い鉤爪が備わっている。失われた右腕は未だなかったが、それはポーションを飲むか治癒魔法でどうにでもできるだろう。
「…ウルベルトさん、終わったんですか?」
「ああ、心配をかけてすまなかった。もう大丈夫だ」
どこか晴れやかな笑みを浮かべて頷くウルベルトに、アインズは安心したように身体に入っていた力を抜いた。
「…良かった、…良かったです…!」
一瞬、人間のウルベルトの姿が頭を過ったが、アインズはそれに蓋をしてただ今目の前のウルベルトの無事を喜んだ。
ウルベルトはアインズたちに想いと繋がりの力が必要だとしか言わなかったが、その他にも代償となるものが必要だったのだとアインズも遅まきながら気が付いていた。彼はその代償として黒い仔山羊の血肉と魂、ウルベルト自身の血肉、そして現実世界にあった自らの人間の血肉と魂を捧げたのだ。そこまでの覚悟を見せられては、もはや自分が何かを言うことはできない。ウルベルトの覚悟を受け入れ、自分も素直に彼の帰還を喜ぶのが互いにとって一番正しいことなのだと自分に言い聞かせた。
「改めて…、おかえりなさい、ウルベルトさん」
「はい、ただいまです、モモンガさん」
互いに挨拶し合い、笑みを浮かべ合う。
後ろに控えていたデミウルゴスやパンドラズ・アクターも礼を取りながら声をかけてくるのに、ウルベルトは頷きながらそれらに応えた。
どこか微笑ましく感じられる光景にアインズも自然と小さな笑い声を零し、それでいてこれからのことを思い思考を馳せた。
ウルベルトが完全に元の姿に戻ったのだから守護者は勿論の事、ナザリックの者たちすべてに知らせた方が良いだろう。謁見の間で格好良く大々的に宣言した方が良いだろうか…と思い悩む中、不意に名前を呼ばれてモモンガはウルベルトを振り返った。
「モモンガさん、漸く元の姿に戻れたので、ずっと言いたかったことを言わせて下さい」
「はい、何でしょう?」
思ってもみなかった意外な言葉に、アインズは思わず首を傾げる。
ウルベルトはゴホンっと一つ咳ばらいを零すと、次には真っ直ぐにアインズを見つめてきた。
「…僭越ながら、悪の大魔法使いウルベルト・アレイン・オードルはナザリックに無事に帰還いたしました」
「ウルベルトさん…?」
「今度こそ、最後の時、最後の瞬間まで、お供させて頂きます、ギルド・マスター」
驚愕と歓喜に眼窩の灯りを揺らめかせるアインズに、ウルベルトは悪魔らしいニヤリとした笑みを浮かべた。
Fin.
*今回のウルベルト様捏造ポイント
・〈血の楔〉;
地面に槍上の楔を生やし、対象者を串刺しにする即死系魔法。
即死に対するレベル差などの対処は可能だが、即死した者はその時まで残っていたHPとMPを詠唱者、あるいは詠唱者のギルド・メンバーに吸い取られる。