「サーシャ先生、ここで大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、ありがとう小室くん」
正面玄関に通ずる廊下にいちばん近い階段の踊り場に、孝はサーシャを座らせた。
途中、5人の生存者を拾った一行は、踊り場の物陰に隠れ、廊下にひしめく〈奴ら〉の様子を伺っていた。
「音に反応するんだから、隠れてても意味ないんじゃないの?」
沙耶が孝に耳打ちする。
彼女は道中、〈奴ら〉の習性を調べていたらしい。
どうやら、こちらを視認する能力はないらしく、専ら音に引き寄せられ動くようだ。
「なら、高城が確かめてきてくれよ」
「イヤよ、なんでわたしが」
いたずらっぼく提案する孝に、沙耶は反論する。
「では、わたしが確かめてこよう」
すいと立ち上がったのは冴子だった。
「いや、毒島先輩はいざという時のためにここにいてください。おれが確かめてきます」
「孝が行くならわたしも……」
同行を願い出る麗を、冴子は手で制した。
「ありがとうございます先輩」
「小室くん、充分に気をつけるのだぞ」
「わかってますよサーシャ先生。安全が確認できれば……いや、必ず戻ってきます。麗は先生の車椅子を用意しておいてくれ」
「……わかった。気をつけてね、孝」
皆のため、あえて〈奴ら〉の群れの只中に飛び込んでいく孝の背中が頼もしく見えると同時に、サーシャはどれだけ触ってもなんの感覚もない、自分の足を呪った。
ガツン、と音がなる。
どうやら、孝が拾った靴をロッカーにぶつけ、〈奴ら〉への囮として利用したらしい。
すると沙耶の読み通り、〈奴ら〉はよたよたとロッカーの方へ吸い込まれていく。
階下から孝が親指を立てた。安堵したい気分を必死に抑え込み、音を立てないよう慎重に踊り場まで戻ってくる。
「今がチャンスです。先生、掴まってください」
孝は肩に首を回し、そこからサーシャをおんぶする形をとった。
「先生、先で待ってますから」
麗は車椅子を畳んでいた車椅子を開き、身長に階段を降りると、孝に向かってアイコンタクトを飛ばした。
孝は頷き、足を踏み出す。
一歩一歩慎重に、階段を踏みしめながら下る孝の頬を汗が伝う。
サーシャは180を超える長身と、細身ながら79キログラムの体重がある。
男子高校生ならば不可能ではないサイズかもしれないが、それは彼が健常者であった場合だ。
例えばサーシャ同じサイズの人間を背負うとして、その人間が健常者であれば、数値上の体重よりもずっと軽く感じる。
訓練で担架を使用した場合と、実際に意識不明者を乗せた担架を持ち上げる場合を比べてみれば分かりやすいだろう。
それは、背負われる方が込める筋力によって、ある程度背負う負担が補われているからである。
しかし、サーシャではそうはいかない。だりと垂れ下がった下半身の重みが、フルで孝にのしかかってくるのだ。
「もう少しよ孝」
「頑張ってくれ小室くん」
「了解っす……!こんなときに、根性見せなくて、どうするんですか……!」
ついに孝は物音を立てずに階段を下りきった。
「孝、お疲れ様。さ、先生、こっちですよ」
先に下りていた麗がサーシャを抱き抱え、車椅子に乗せる。
〈奴ら〉の方はというと、音の先に生きた人間がいないことに気付いたのか、またよろよろと廊下を彷徨いはじめていた。
「わたしのせいで時間を食ってしまったようだ。小室くん、宮本くん、ここはわたしに任せてくれ」
「いけません。そんなことは……」
「犠牲になろうって訳じゃないさ。見ていてくれ」
サーシャは愛ポケットから、あらかじめコータから譲り受けていた彫刻刀の一本を取り出すと、ロッカーへ放る。
くるくると規則正しく回る彫刻刀は、まるでスローモーションのように、されど鋭く一直線に飛び、ふたたびロッカーを鳴らした。
幸運なことに、〈奴ら〉には学習能力というものがないらしい。同じ轍に引っかかり、生還への道筋をまんまと道を明け渡す。
今だとばかりにサーシャは孝に目配せをする。
そのサインは孝に伝わり、踊り場で見守っていた冴子に伝わり、そして彼女の後に続く生存者たちへと伝わった。
ひとり、またひとりと、密かに、それでいて素早く〈奴ら〉の合間をすり抜け、正面玄関へ到達する。
サーシャはその間も〈奴ら〉の注意を晒すため、断続的に彫刻刀を投げ続けた。
「……あ」
ふと、静香と目が合った。
その顔に、数時間前までのたおやかさはない。ただただ、率先して危険に身を挺するサーシャの身を案じ、悲痛な表情を浮かべていた。
サーシャ自身、絶対にしくじれないというプレッシャーと、自身のハンディキャップに対する恐怖に体が震えていた。
しかし、綺麗な女性への強がりといったところか、サーシャは静香に、不敵に笑みをつくってみせた。
沙耶がそれを汲み取ってくれたのか、サーシャの目を見て頷き、静香の手を引いた。
順調だった。
階段にはあとひとり、さすまたを手にした男子生徒が下りたら、サーシャも玄関まで急ぐつもりだった。
そこまでは、順調だったのだ。
ーーカン!
一瞬の気の緩み。希望を見出した故の油断。自分の足下しか見ることができない精神的重圧。
それらすべてが不幸にも噛み合ってしまった。
男子生徒が持つ刺又の穂先が、階段の手すりにぶつかってしまったのだ。
サーシャが、玄関で見守る孝たちが、そして、見えないはずの〈奴ら〉の視線が。
一斉に、男子生徒へ注がれた。
瞬間、サーシャは悟った。
自暴自棄になったわけではない。最後まで諦めるつもりもなかった。彼の頭は、『玄関にいる彼らのためにできることはなにか』を考え、ある結論を導き出した。
「ーー走れ!!」
そう声を張り上げた瞬間、一斉に時間が動きはじめた。
大口を開けて迫る〈奴ら〉の一体へ、彫刻刀を投げる。
彫刻刀の刃は綺麗に眉間を捉えるが、頭蓋骨に弾かれぽとりと落ちる。
「くそっ!なんて力だ!」
〈奴ら〉に組み付かれ、サーシャはもがく。左手でなんとか首を抑えているが、その死者とは思えないほどの腕力は凄まじく、本当に抑えるのがやっとだった。
そんなサーシャの生への執着を嘲笑うかのように、〈奴ら〉はサーシャへ群がる。
「……あ」
這いずりながら近付いていた〈奴ら〉がサーシャの足首に食らいついている。続けざまに脛、太ももと、まるで硬いステーキでも食べているかのように、肉を引きちぎろうと躍起になっていた。
感覚がないので、自分が食われているという事実も、どこか他人事のように思えた。
ふと、刺又の男子生徒には、すでに無数の〈奴ら〉が群がっていた。
一瞬、頭が真っ白になったかと思うと、すぐに燃えるような怒りが湧き上がってきた。
「ぬあああッ!!」
余っていた腕で彫刻刀を組みついていた1体の側頭部に突き刺すと、足元に群がる3体目掛け、次々と脳天へ振り下ろしていった。
「いやあああ!!サーシャ先生!サーシャ先生!!」
〈奴ら〉の向こうから、静香の絶叫がこだまする。
今にでもこちらに走り出してきそうな彼女を、孝たちが羽交い締めにしているのが見えた。
「いけ!いくんだ!!」
「いやよ!!みんな離してよ!!」
その一言で、皆は察してくれたのかもしれない。視界が〈奴ら〉に塗りつぶされていくなか、静香と悲痛な叫びが徐々に遠退いていくのが分かったから。
あんなやさしい女性を道連れにすることがなくて良かった、とサーシャは安堵し、車椅子のタイヤを引いて廊下を進み、とある教室のドアに手をかける。
幸運にも〈奴ら〉はおらず、鍵も開いていたので、サーシャは教室へ入る。
片方の扉の前には机や椅子が積み上げられていたので、おそらく恐怖に耐え兼ねた生存者がこちらから外に出てしまったのだろう。
鍵を閉め、完全に封鎖された教室の中に1人、サーシャは佇む。
散乱した机。ひっくり返された教台。床には夥しい量の血が塗りたくられ、あたりには内臓をかき混ぜられるほどの強烈な死臭が漂っている。
地面に放置され、開けっぴろげの日本史の教科書には、過去の偉人の肖像画に落書きがされていた。
元の人物の面影がないほど雑に施されたしょうもない落書きに、思わず笑いがこみ上げてくる。
それと同時に、強烈な目眩と吐き気が襲った。サーシャはたまらず車椅子から転げ落ちる。
体が熱い。視界が霞む。頭が割れるようだ。今すぐ胃の中身をぶちまけてしまいたい。
ウイルスが徐々に全身を蝕んでいく様を直に感じとり、サーシャは嗚咽した。
確実に死が待っていることもあるだろう。しかしなにより、こんな恐怖を、今を平和に生きていた人たちが味わっているという現実が悲しかった。
あんまりじゃないか。
これが自分だけならば、かつてバイオテロを起こした罪への報いとして受け入れることができたかもしれない。
しかし、そうではないのだ。
ほんの数時間前まで、平和な世界を享受していた人たちが死んでいる。いや、死の尊厳すら踏みにじられている。
かつてレオンが語ったのがそれだ。今まさに、それを実感している。
そして、どうすることもできずに死んでいくであろう自分に、サーシャは無力感に押しつぶされかけていた。
体から力が抜けていく。
ああ、自分はもうすぐ死ぬのだ。そして〈奴ら〉の仲間となって、無様に地面を這いずりまわるのだろう。
サーシャは肩に装着されたナイフの柄を掴み引き抜くと、おもむろにこめかみに当てた。
たしかに、自ら命を絶つ選択肢はない。しかし、このまま〈奴ら〉となって誰かを襲うよりかは、ずっとましな選択肢に思えた。
静香の見せた悲痛な顔が浮かぶ。
彼女にまたあんな顔をさせたいのか?今度は彼女の首を食いちぎり、貪りたいのか?
サーシャはナイフを握る手に力を込めた。
「おっと、そうはいかない」
その時、どこから現れたのか、とある人物がサーシャの腕を掴み、その手からナイフを奪った。
声はくぐもっていたが、男で間違いない。その人物は、フードのついた黒いマントを纏っていた。無骨なガスマスクを被っており、顔は見えない。明らかに民間人ではなかった。
「誰だお前は……」
男は答えない。
学校にはおおよそ相応しくない、重々しいブーツの音を響かせ、一通りサーシャの周りを歩きながら観察し、腰を落とした。
「出血によって弱っているが、噛まれてから10分以上経つのに、感染による吐血や血涙などの症状はなし、か……」
一通り観察し終えると、マントの人物は、ポケットから小さなケースを取り出す。
ケースの中には針の見えないペン型の注射器があり、シリンダーは液体で満たされていた。その鮮やかな緑色は、吐き気を催すほどに毒々しい。
それがなんなのか、大方の察しはつく。そして、この手の輩がしたいと思っていることも。
「|おれ〈、、〉を実験材料にでもするつもりか……!」
息も絶え絶えになりながら、サーシャは睨みつける。
「勘違いしてもらっては困るな。きみはこれから『生まれ変わる』んだよ。アレクサンドル・コザチェンコ」
次の瞬間、サーシャの太腿に注射器を突き刺した。
その無機質な動作は、ガスマスクも相待って余計に不気味に感じる。
薬液の中に赤い血液が揺らめく。針が正常に刺さったということだ。
「おめでとう。きみは〈戦士〉に選ばれた」
男はぐいと力を込め、緑色の薬液を注入していく。
途端、感覚がないはずの下半身に激痛を感じ、筋肉が脈打つのを感じた。
「おれの体になにをした……!」
「すぐにわかる」
その人物はサーシャに背を向け歩き出し、窓を開け放つ。
「がああ……!ぅぐぁあ……!なんなんだ……何者なんだきさまは!」
苦しみにのたうち回るサーシャは全身に汗を濡らしつつも、なんとか声を絞り出す。
「質問ばかりだな、きみは……まあいい、それくらいは答えてあげよう」
男はやれやれと肩をすくめつつ窓枠に手と足を掛け、顔半分だけ振り向くと、
「ーーわたしは〈ウェスカー〉だ」
それだけ言うと、窓から飛び出していった。
〈ウェスカー〉
案の定、そんな名前に心当たりはない。もはやただの単語にしか過ぎなかったが、何度も何度も反芻するうち、サーシャの目の前が真っ暗になった。