堂々とした姿勢。前後ろに開いた両足には均等に力を掛けているからか重心から安定していてブレがない。そしてその姿勢のまま左腕を肩まで上げてまっすぐに伸ばした掌に弓を握る。その時には既に右手に持った矢を番えており、静かに引く音が響いた。風を切るような音と共に矢は海上に置かれた的へとまっすぐに飛び―――的の少し手前ではじける様にその形を航空機へと変えながら弾を吐き出して、的を打ち砕きつつそのまま過ぎ去っていく。それを見届けてなお、矢を撃ったその人、白衣と緋色の丈の短い袴を着た女性は姿勢を変えないまま空を見上げ、静けさが戻る頃に漸くその腕を下した。そして小さく息を吐く音が響き、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐような気配を感じる。
「あの人が赤城さん、この鎮守府の主力空母なのね」
「そして少し後ろで座っている人が加賀さん。二人揃って一航戦なの」
なるほどと睦月ちゃんと夕立ちゃんの説明に頷く。比較対象がないからあまり実感がわかないけれど、それでも、確かにあの人、『赤城』さんの今の一連の所作には無駄がなく、研ぎ澄まされているように感じた。そして、そんな赤城さんと肩を並べているのだからあの座っている人、白衣に蒼袴を着た『加賀』さんの力も凄いのだろうなとは容易に予想がついた。だけどそれ以上に今は気になることがあって、二人にねえ。と、問いかける。
「どうして私たちは空母の方の修練場の隅の木々に隠れて訓練を見てるの?」
私たちが今その光景を見ている場所はそういう場所だった。というかこの場所に来るときからしてそもそも裏口からこっそりと潜入するかのようにだった。で、その理由を聞けば、聞いちゃうかぁ。と睦月ちゃんは肩を竦めて実はと前置いた。
「ここは基本的に空母の艦娘以外が入るのは禁止なのです」
「見つかったら絞られるっぽい?」
「それ笑いごとにならないと思うんだけど」
聞いてないと、咎める様に二人に視線を向ければ、まあ、暗黙のルールで規則事態はないから罰則はないし大丈夫だよ。と、睦月ちゃんは小さく笑った。本当に大丈夫なのだろうかと思いつつ改めて赤城さんの方へと視線を向けるがこちらに気付いた様子はない。まあ、バレなければ大丈夫という理屈であれば、今見つかる方が不味いのだろう。そう考えて、ならしゃがんだ姿勢のまま少しだけ楽な姿勢になろうと身動ぎして、パキリと何かが折れる音がした。下へと視線を向ければ枝を踏んでいたらしいとへし折れた枝を見て今さらながらに理解して、
「―――誰かいるの?」
直後、20mは離れているというこの距離でなおハッキリとわかる、低い不機嫌だと言わんばかりの重い声が私たちのいる場所まで響いた。
「……睦月ちゃん、さっきの発言って」
「皆まで言わなくともよいぞ夕立ちゃん、明らかにフラグだったのね……! でもまさかここまで回収が早いとはこの睦月の目をもってしても見抜けなかったにゃしぃ……!」
「それ二回目、じゃなくて。えっと、その……ごめんなさい」
しょうがないにゃぁ……と、困り顔で睦月ちゃんと夕立ちゃんは観念したかのように普通に立ち上がる。私もそれに倣い立ち上がった所で、こちらまで歩いてきた加賀さんと向かい合う形になる。
「貴女達駆逐艦ね……どうしてここにいるのかしら?」
「あーえっと、その……」
「早く言って頂戴」
無表情のまま、問い詰めるような口調に睦月ちゃんは気圧され、口をもごもごと動かす。何も言わないことに無表情から更に視線が鋭くなり、
「新人さんの案内途中に此処に寄っただけっぽい」
夕立ちゃんが睦月ちゃんを庇う様に前に出てそう言った。加賀さんはその発言を受けて、改めて私たちを見渡した後、私へと視線を向けた。
「……貴女が新人なの?」
「あ、はい。その……名無しです」
「名無し?」
怪訝そうな表情を見せた後、直ぐに元の表情、と言うには数段険しい表情になる。加賀さんの今の感情とそんな表情を見せた理由はわからないけれど、気分を害してしまったということは確かなようであり、それを私の隣で見ている睦月ちゃんも若干涙目になっている。巻き込んでしまって申し訳ないと思うけれど、しかし加賀さんがなぜそういう表情になってしまったのか理由がわからない。ただ鋭い視線で見られ続けるのに身を竦めることしか出来ず、
「あの、加賀さんどうかしました?」
そうしている間に弓を置いてきたらしい赤城さんもまたこちらへとやってきた。
「赤城さん、実は……」
加賀さんは赤城さんの方へと向きを変えて話初めて、それで漸くこちらへの圧力がなくなり、小さく息を吐く。横を見れば睦月ちゃんも、そして後ろ姿しか見えないけれど夕立ちゃんも緊張から解放されたような様子を見せていた。そして、話すことを終えたらしい赤城さんが加賀さんと夕立ちゃんの前を通って私達へと近づいてきた。
「……っ」
正直に言って、少しだけ緊張する。先ほどまで凄い腕を持つ人だと眺めていた相手が突然至近距離に来て、どうすればいいのだろうか、何をされるのだろうかと小さく身構えて、そんな私に対して赤城さんは困ったように笑って、
「貴女が名無しさんですね? 初めまして。……
そして右手を差し出しながら、そう言った。
「あ、はい。宜しくお願いします……」
何を言われるのだろうと思ってそれが挨拶だったことに少しだけ拍子抜けしながら握手を返した。暖かいと、そう思いながら握った手を見つめ、解けた後に赤城さんは、はい。と、笑顔で頷いてから、でも、と指を一本立てた。
「あまり規則を破ってはいけませんよ。特に訓練中に近づかれるとうっかり射ってしまうかもしれませんし」
「あ、はい……ごめんなさい。次からは気を付けます」
「睦月さんも、ダメだと分かっている所に連れ回しちゃダメですからね」
「はいぃ……以後気を付けるのです」
少しだけ怯えた表情のままコクコクと頷く睦月ちゃんと私の返答に宜しい。と、再び笑みを浮かべて両腕で小さく柏手を打ち、赤城さんは振り向いた。
「加賀さん、此処はもう収めて、再び訓練に戻りましょう」
赤城さんの言葉に夕立ちゃんと話していたのか向かい合うような姿勢だった加賀さんは赤城さんへと視線を向け、赤城さんが言うのであればと頷いた。
「では睦月さん、夕立さん、名無しさん。またお会いしましょう」
赤城さんがそういった所でその場は一旦終了となり、私たちはこの場から離れることになってこの修練場から出たところで睦月ちゃんは疲れを隠さずに小さく言葉を零した。
「……ちょっと休憩、入れよっか」
―――……
休憩のためと案内された場所は空母の修練場からは離れた、それより前に行った学校の近くに作られた小さな木造の建物だった。看板には甘味処『間宮』と書かれていて、ようするに喫茶店とかそういう感じの場所なのだろうと理解したところで、睦月ちゃんに先導されて中に入る。中は落ち着いた雰囲気で、なんというべきなのか和風という言葉がよく似合うというべきだった。
「いらっしゃいませ、三名様ですか?」
少し間があって、中から白いエプロンのような衣装を着た女性、この店の人であろうその人が出てきてそう尋ねてくる。
「こんにちは、間宮さん。三名です!」
睦月ちゃんの言葉を聞いて看板と同じなんだなと呟いて、ひょっとして給糧艦なのだろうかと考えながら案内されるまま四人席の壁側に座って、壁に置かれたメニューを見ようとしたところで、睦月ちゃんから名無しちゃんと声を掛けられる。
「メニューを見るのもいいけど、名無しちゃんは今日からだしまだお給料とかもらってないでしょ?」
「あ。そっか……」
当たり前のことだけれど働かなければお金はない。労働の対価として支払われるもので、私はまだ働いていないのだから当然お金はないのだ。俯いた私に対して、睦月ちゃんはニヤリと笑った。
「名無しちゃん、これを見るがよいぞっ!」
睦月ちゃんはポケットから小さな紙を取り出した。
「そ、それは!?」
夕立ちゃんが驚きの声を上げてその紙を見る。そんなに驚くようなことなのだろうかと思いつつその紙に書かれていることを見れば―――、
「間宮特製あんみつ引き換え券なのねっ! これで皆で楽しもうぞ!」
「睦月ちゃんが神だったぽい」
「えっと、すごくうれしいけど睦月ちゃんいいの?」
崇めている夕立ちゃんに若干引きながら、だけどそんなに貴重そうなものをそんな簡単に使っていいのだろうかと尋ねる。正直に言って私はそこまでしてもらえるほど仲がいいはずないだろうしと、そう聞いた所で、睦月ちゃんは何それと笑った。
「こういうのはこういう時にパーッと使うのがいいんだよ。使うかもしれない、使うかもしれないって勿体ないと溜め込んでたら使う機会なくなっちゃうかもだし」
「……あぁ」
言われて、確かにそうだと理解する。働かなければ確かにお金は貰えないけれど、同時に私たちが働くという事はつまり、戦場に出るという事だ。そして、戦場に出るという事は不測の事態が起こるかもしれない場所に行くっていう事だ。もしそうなれば、後生大事に抱え込んでいたものがあったとしても、意味なんて無くなってしまう。もう、使う人がいなくなってしまうのだから。
―――それは、嫌だな。
「だからね、今日は名無しちゃんの歓迎記念という事でいっぱい楽しみましょー!」
「……うん! ありがとう睦月ちゃん。今度絶対にお礼するから」
睦月ちゃんはコレ、間宮さんに見せてくるからちょっと待っててと言って席を外れた。行ってらっしゃいとそれを見送った所で、崇めるポーズを取っていた夕立ちゃんが元の姿勢に戻る。そのまま椅子に深く腰掛けて息を小さく吐いている姿を眺めながら、そういえばと夕立ちゃんに声を掛ける。
「ねえ夕立ちゃん」
「……何?」
「さっき、私と睦月ちゃんが赤城さんに注意されてた時、加賀さんと話してたみたいだけど何話してたの?」
「……っ」
ビクリ。と、小さく身体を震わせて夕立ちゃんは姿勢を正す。そのまま少しだけ視線をズラして夕立ちゃんはえーっと、と、言いづらそうに言葉を濁す。
「えっと……聞いちゃいけないことだった?」
「あーうん。まあ直接は聞いてほしくなかったというべきか、言いづらいというべきか……まあ、かみ砕いて言えば出撃の話っぽい」
「……出撃?」
つまり、と前置いて夕立ちゃんは語り始める。
「名無しちゃんも部隊に編成されている以上、出撃はすぐにあるかもしれない。けどまだ海に出た事すらないんでしょ? そこは大丈夫かなって話」
心配そうに、というより不安気にそう話している姿に、確かに不安も最もだと納得する。それは、他ならぬ私自身も不安に思っていた否定しようがない事実だから。
「名前もわからない私がまともに戦えるのかな……」
「うん、まあそういう事っぽい。それ以外にもあるけど」
「なんですかなんですかぁ? 睦月がいない間になんか首を傾げてるけどどうしたの?」
戻ってきた睦月ちゃんに話していた内容を伝える。ふむふむと頷いて、睦月ちゃんはつまりと人差し指を立てた。
「名無しちゃんは初陣が不安なのね。確かに初陣は色々混乱しちゃうからにゃぁ」
うんうん。と頷く睦月ちゃんにそうなの? と夕立ちゃんに尋ねればそうだねと肯定が帰ってくる。睦月ちゃんはよし、と頷いて私の手を取って、
「じゃあ名無しちゃん。これだけ覚えておけば大丈夫ってこと教えてあげる」
そう言いながら指と指を絡める様に握りしめて、目を見てと睦月ちゃんに促され、睦月ちゃんの赤い瞳を見つめる。いい? と言われて頷いて、睦月ちゃんは指を一本ずつ離しながら言い始める。
「諦めちゃだめ。そうしたら全部終わっちゃうから」
「……諦めない」
「前を見続けて。後ろを向いたり、横を向いたりして意識を逸らしたらいつ何があるかわからない戦場では致命的だから」
「……前を見る」
「限界を超えて。此処が限界って思っても、諦めず、前を見ていればきっと、皆が助けてくれて乗り越えられるから」
「……限界を、超える」
「うん! それだけ覚えていればきっと大丈夫。ほら、あんみつも来るし小難しいことは終わりにして今は楽しもう!」
いただきますと言って食べ始めた二人を横目に、睦月ちゃんと絡めた指を見る。先ほどまでの感触は忘れていないし言われたことも忘れていない。そしてきっとこの二つは忘れちゃいけないことなのだと、そう思って両手を降ろして、腰に付けている二つのケースにそっと手を置いた。
―――うん、頑張れる。
置いた手を退かして、両手を合わせていただきますと言ってからあんみつを食べ始める。
―――半刻後。非常警報の鐘が鳴り響き、第三水雷戦隊に出撃の命が下った。
諦めるな、前を見ろ、限界を超えろ。