08/宴の席にて
-_-/魏
宴の席は賑やかだった。
かつては武を競い、別の意思を以って天下を目指した三国。
その全てが今、ひとつの場所に集まって宴を開き、同じ酒を飲み、同じ料理をつまみ、同じ話題で笑い合うなど、いったい黄巾党征伐のときに誰が予想できただろう。
方向は違えど、目指すものが同じならばと考えた者は確かに居たに違いない。
だがやり方の違いで相容れず、やはり衝突しながら互いの理想を武で示す。
そんな、今では考えられない日々が確かにあったのだ。
勝てば正しいのか、負ければ正しくないのか。
時には迷うこともあり、だが己の信念こそが泰平の道なりと豪語し、突き進む。
兵を友とし、笑顔を守りたいとだけ願い、戦場に出た者。
兵を牙とし、親より続く意思を天下に轟かすために武を振り翳した者。
兵を駒とし、力で天下を手に入れんとした者。
それぞれの意思がぶつかった過去があり、手にした天下は友でも牙でも駒でもない、絆という形で今この場所に集っていた。
たとえばと考える。
御遣いの存在無くして彼女が天下を手に入れることが出来たとして、彼女は今と同じように穏やかに笑っていられただろうかと。
力のみで手に入れたその場には、対等に話し合える小覇王の存在も、場を和やかにするであろう情の王の存在もきっとない。
孫策は暗殺され、劉備もまた彼女の前に敗れ、弱者と断ぜられ、歴史から姿を消していたことだろう。
だが、たった一人がこの大陸に降りただけで、三国の歴史は大きく変わる。
大局に抗い、存在を削ることで彼女を助け───力だけに染まり、力によって潰えるはずだった覇道の色を、少しずつ変えていった男が居た。
兵は駒ではなく、己の天下掌握を手伝ってくれる大事な存在なのだと、知らずのうちに心に刻ませた。
だからだろうか───自国の在り方も戦い方も、王の思考も誇りも知らない新兵を前線に出し、戦わせるといった歴史は生まれず───孫策もまた、暗殺されることなく現在を生きていた。
別の外史では、勝てぬのならばこの先も望めぬと判断し、どんな手段であれ勝利を願う兵をも“駒”のように扱い、頂を目指した少女。
勝てぬ戦に意味など要らぬ、我が覇道は力の中にこそあり。そう断じて突き進み、聖戦を穢されたと嘆く少女が居た。
聖戦を願うならば焦ることをせず、兵に自国の戦い方と在り方を教えるべきだったのだろう。
結果は暗殺に終わり、彼女は好敵手も、この大陸で目指した覇道の意味も失うこととなる。
が───この外史において、彼女が振り翳すものが力だけではなくなった。
それだけで、世界はこんなにも変わってゆく。
変わるたびに、御遣いの“存在”は削られてゆく。
大局から外れることが消滅に繋がるというのなら、彼という存在は実に儚いものだったと言える。
───孫策が死なずに生きる。
“大局を左右する”という意味では、相当に大きな意味を持つこの死が起こらなかったのならば、その時からすでに矛盾は生じていたのかもしれない。
天の御遣いという存在が天より降りることで、魏の王が変わったというのなら。
魏の王が変わったことで、暗殺という事態が起こらなかったというのなら。
彼の存在は、魏に降りた時点で消滅が決まっていたものだったというのだろうか。
そう考えると、他の外史において、天下を手に入れた先で彼が消えないのは何故なのか。
大局というのは片鱗にすぎず、彼が消える理由はやはり王の望みの果てにこそあるのか。
情の王が皆が仲良く過ごせる未来を願い。
小覇王が国の民の笑顔を願い。
だが───少女だけは天下の統一を望み、世に魏の力を示すことを目的とした。
ならばその願いによって彼が天より遣わされた時点で、彼女がどう変わろうが天の御遣いの消滅は……彼女が天下を統一するとともに消えるさだめにあったのかもしれない。
だが、今さらそんなことを言ってなにになるというのか。
天下統一の結果はここにあり、情の王が望んだ笑顔も、小覇王が望んだ宿願も、己の手で叶えたものではないにせよこの場にある。
手を伸ばすと繋げる手があり、繋いだ手で築ける未来が彼や彼女たちの目の前には存在している。
ならば今、この場に集まった全ての者たちで目指す未来は、どれだけ意見をぶつけ合っても気に入らないことがあっても、これからも彼女らが望んだ天下に繋がっているのだろう。
少しずつ変わっていく中で少女が求めた覇道が、いつしかこの場に集まる全ての者の覇道となる。
そんな事実に少女は笑みをこぼし、恐らくそんな風に笑むことの出来る自分に変えてくれたであろう男へと視線を移す。
張三姉妹が晴れやかに歌う中で、皆もそれぞれが歌うかのように騒ぐ。その一角で、唯一の男性である彼は……言うまでもなく女性に捕まっていた。
「ほれ、まずは乾杯じゃ」
「乾杯!? 飲めないって! 飲めないからそんなに! もうそのへんでやめて黄蓋さん!!」
「祭でよいと言っておるのに……ほれ、これしきも飲めんでなにが男か」
「酒を飲める量に性別関係ないよ!?」
華琳の視線の先に居る北郷一刀という名の男は、妙齢の女性に大きな杯を持たされ、そこに酒を注がれて慌てている。
自分の策を看破してみせ、彼女自身が死にかけた事実に謝罪もせず、胸を張った姿が気に入ったとかで、こんなことになるとは予想だにしなかった彼は今にも泣きそうだった。
戦っていた姿はなかなかに凛々しかったというのに、ちょっと目を離せばこんなものである。
「んっ……ぐっ……ぐっ……───ぶはぁあっ!! は、はぁっ! はぁっ……! の、飲めた……!」
杯を
逆に一刀は、あまりの量に目を白黒させながらなんとか飲み切った。
「おう、では次じゃ。いけい」
だが無情。窒息寸前で酸素を得たかのようにゼイゼイと肩を上下させる中で、置くこともせず手に持っていた杯にバシャバシャと酒が注がれてゆく。
一刀は当然「えぇっ!?」と小さな悲鳴を上げるが、聞いてくれるわけもない。
なにか逃げ道はないかと立食ぱあていで賑わう景色を見渡すが、あるものといえば酒と料理くらいである。
いや、ならば料理を食べていれば酒から逃げられるのでは? 彼がそう考えるまでに、そう時間はかからなかった。
……が。
「い、いや、俺そろそろ……な、なにか食べ物食べたいかな~とか………………ねぇ。なんで俺の前にだけ、北郷一刀専用って書かれた皿と禍々しい“料理……?”があるの? これ、さっきまで向こうのほうになかったっけ」
自由に歩き、欲しい物を取って食べる立食ぱあてい。
だというのに、いつの間にか自分の前にある“料理?”。
匂いを嗅いだだけで涙が滲んでくるそれは、いったいどんな材料から作られた“料理?”なのか。疑問符がなければ料理とはとても呼べないのは確かである。
一刀はそれが“自分専用”と書かれていることに、いっそ滲んだ涙を滝にして泣きたくなった。
「ありがたく食え北郷。それは私が作ったものだ」
「なんですって!? しゅ、春蘭が……!?」
「なんだ、悲鳴みたいな声をあげて。ああ、そっちのは関羽が作ったものだ。……丁度いい、どちらが美味いか北郷、貴様に判断してもらおう」
「………」
さあ、と促されると、サア、と血の気が引く音がした。
ここで何も言わず、女の出したものを食べてこそ漢たるものだろうが───
「………」
重苦しく飲み下す、嫌な味の唾液。
目の前に存在しているものは、人が食べられるように“開発”されているのだろうか。
一種の殺戮兵器と見紛うほどの存在感と異臭。
ムワリと湯気らしきものが風に乗って目に当たると、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。
今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、 なんとなく何処へ逃げても追ってくるような気がした。
誰かの手によって、自分が気づかないうちに。
そうなればあとは覚悟を決めるかどうか、なのだが───
「…………黄蓋さん! 俺……酒飲むよ!!」
「おう、それでこそ男よ!」
死にたくはないので、せめて味が知れている酒へと方向を定める。
もちろん、それで全てが済むほど彼の周りはやさしくはないのだが。
「なにぃ!? 北郷貴様! 私の料理が食えないのか!」
「い、いや決してそういうわけじゃヒィ!? 空を飛ぶ虫が“臭い”に誘われて息絶えた!?」
「さあ食え!」
「うわややややめてやめてぇええっ!! 食べる食べます食べさせていただきますから押しつけないで押しつけもぼがっ!? ん、んぐ───むぐッ!? こ、この口の中でとろけるような食感は───と、とろけ……溶ける! 口の中が溶けギャアーッ!!」
───賑やかな宴の席でひときわ賑やかな場所。
そんな賑やかさを目にし、耳にし、誰にも知られることなく小さく笑む少女。
(ふふっ……)
彼の周囲はいつでも騒がしく、そんな空気が彼女はいつの間にか好きになっていた。
ひどく穏やかに、ひどく賑やかに。
ようやく戻ってきた“魏の空気”とともに酒を飲むと、その美味しさに笑みがこぼれた。
(……美味しい……わね……)
あんなにも不味いと感じていたものが美味いと感じられる。
曹孟徳という存在が、こうも一人の男の存在に心も、味覚までも左右されるなんてと小さく毒づくが、心の中でいくら毒づいてみせたところで誰にも届くわけもなく、逆にそれが可笑しくて笑っていた。
「口直しっ! 口直しをっ……! 溶ける! ほんと溶ける!」
「隊長! これを!」
「すまん凪! ぷぉおっふぇええっ!!? かっ……辛ァアアーッ!?」
「うわっ! 隊長が激辛メンマ食いよった!」
「あれ、たしかこの前の宴の時に真桜ちゃんが食べて気絶したやつなの……」
「やぁ~……口直しにあれ食べるなんて、隊長も漢やなぁ……」
「口が直されすぎて痛い! みっ……水っ! 水くれ!」
「なにをやっとるかまったく……ほれ、さっさとこれで流し込まんか」
「すすすすいません黄蓋さん! んぐっ……ぶはぁっ!? これお酒じゃないですか!!」
「うん? そんなもの水みたいなものじゃろ」
「そうよ一刀、こんなの水水~♪ あ、今度は祭じゃなくて私が注いであげるね~? ほらほら、杯持って」
「雪蓮!? いつからそこに!? じゃなくて辛さにやられた喉に酒ってかなり痛いんですよ!? わかってる!?」
「そ、それで……どうだったんだ北郷! 美味いか!? 美味かっただろう! 美味かったと言え!」
「口直しって言葉聞いておいて!? あ、あー……えっと……オ、オーマイコンブ?」
「おぉー……? なんだ、それは」
「えぇっ!? え、えと……て、天の国、での~……そのぉお……料理への、褒め言葉…………かな」
「おぉそうか! ならばもっと食え!」
「たすけてぇえええええええええええっ!!!!」
宴は続く。
いつの間にか宴の中心に居る彼を見て、少女は長い長い息を吐いた。
(……いい天気)
空を仰ぎ、誰にも聞こえない声で呟く。
自分の物語の中で胸を張って生きる───そう決めた彼女は、きっと心から胸を張れてなんていなかった。
自分一人ではここまで辿り着けなかった。
赤壁で力尽きるか、先へ進めたとしても天下を取るのは自分ではなかったのだろう。
己の国の武を低く見るのではない。
己の国の武を誇ればこそ、そうだったのだろうと思うのだ。
彼の言葉がなければ夏侯淵は死に、彼の助言がなければ自分たちは赤壁で火計に陥り、大打撃を食っていた。
「………」
時折に、天命とはなにかと考える。
真に天命をと望むのであれば、自分は彼の言葉を断固として聞き入れるべきではなかったのではないか。
そんなことを考える日々を過ごしては、首を振って溜め息を吐いてきた。
しかし───今。
(……なんだ、そんなの……簡単じゃない)
こうして心から笑う魏の武官文官を見て、苦笑をもらす。
そう、簡単なことなのだ。
(こうして今、自分が笑むことの出来る場所がある。民が、将が本当の笑顔で手を繋げる。こんな場所に辿り着けたのなら───)
いたずらに武を振るい、手に入れるものが全てではない。
この場に集まる皆で騒ぐことの出来る今を手に入れる道が、彼の言葉から生まれたものならば。
(私は、聞き入れてもよかったんだ───)
これ以上の“現在”など想像できないのだから、これでいいのだろう。
彼は自分を犠牲にしてまで、こんな穏やかな現在をくれた。
その上しっかりと戻ってきてくれもしたのだから、これ以上なにを望むのか。
(こんな簡単なことを、曹孟徳ともあろう者が……)
ちらりと、口から白いモヤのようなものを吐き出して倒れている彼を見る。
仰いでいた空から戻した視界は太陽の残照を少しだけ残し、そんな視界が彼の服と重なって、なんだか輝いて見えた。
(私が望む限り、か)
彼という存在が、本当に自分の願いの果てにあるものなのか。それが真実なのかなど、誰も知らない。
知らないが、また会いたいと口にしたことでそれが叶ったというのなら、信じてもいいと思えた。
そんな自分にやっぱり苦笑して、彼女は歩きだす。
そろそろ彼を自分の傍に置きたい。
話したいことは、訊きたいことはまだまだたくさんあるのだ。
自分以外の女性に振り回され続ける彼の姿が、なんとなく嫌だったという理由も少しだけある。
そもそもどうして立食ぱあていだというのに、彼はわざわざ自分から離れた位置に立っているのか。
もちろんそれは黄蓋と話をするためだったのだが、わかっていても納得がいかないことっていうのは存在するのだ。
自分だけ焦がれているみたいで嫌だということも、自分から離れていった一刀に少しムカリと来たのも事実だろう。
だから彼女は曹孟徳としてではなく一人の華琳として、気に入っているものを取り戻すために動き───
「か~り~ん~さぁ~んっ、つっかま~えたっ♪」
「ふひゃあっ!? なっ───桃香!?」
栗色の悪魔に、背後から胸を鷲掴みにされて停止した。
「えへへへへへ~……華琳さ~ん……? さっきからどこ見てにこにこしてたの~? お兄さん~? 御遣いのお兄さんなんだね~? うひゅふふふへへへへ~……」
「だっ……誰!? 桃香にお酒を飲ませたのは!」
「誰でもい~でしょ~っ? そんなことよりほら~、こっちに来てみんなと一緒に楽しいことしよ~っ?」
「せっかくだけどお断り───…………動けない!? なんて馬鹿力しているのこの子!」
酒でいろいろと外れているものがあるのか、劉備の握力はかつて対峙していた時のそれとは一線を画した先へと立っていた。
傍迷惑な一線である。
「ほらほら~……来てくれたら胸が大きくなる、私と愛紗ちゃんと紫苑さんと桔梗さん印の秘密の運動の仕方、教えてあげるから~……♪」
「………」
その時華琳に電流走る…………っ!
「ひっ……ひ、ひひひ必要、ないわよ……!? 必要ないわよっ! 必要ないから離しなさい!」
が、勝ったのは王としての意地!
華琳はワナワナと震えながらも誘惑に打ち勝───
「えへ~……背も伸びるよ~?」
「───」
───ったところで、さらに電流走る…………っ!
脳内では“天使な孟徳さん”と“悪魔な孟徳さん”がキャーキャーと葛藤を繰り広げ、ついには───! というところで、助け船が流れ込んだ。
「何を言っている! 華琳様はそのお姿だからこそいいのだ!」
魏武の大剣、春蘭様である。
いつの間に喧噪の渦中から抜け出してきたのか、少々酒気に頬を赤らめてはいるが、猫化まではしていない様子の彼女は───いっそ雄々しくドドンッと登場し、桃香から華琳を剥がしにかかる……!
……のだが。
「……春蘭。それは私など貧相な姿で十分だと。そう言いたいの?」
「え? いえあの……あれ? か、華琳様?」
ヒクリと頬を引きつらせながらの華琳の笑顔を見て、伸ばした手は宙を彷徨った。
「───案内しなさい桃香。それと───ふふふ……! いつまでも触ってるんじゃないの……!!」
「いたたたたたっ! いたっ! いたいいたいー!!」
いまだに胸を触っていた桃香の手を指で強く抓り、フンと吐き捨てて歩き出す。
痛みで酔いが覚めたのか、途端にあわあわし始める桃香だったが、「もちろん、嘘だったら一度地獄の苦しみを味わってもらうわ」という華琳の言葉に、今さらウソでしたなどと言えるはずもなく───その日。一人の少女の悲鳴が宴の席に響き渡った。
「ああ……綺麗なお花畑が見える……」
「隊長!? 隊長ーっ!!」
「衛生兵呼びぃ! 一刀!? しっかりしぃや一刀ーっ!!」
そしてもう一人、この宴の席での唯一の男性が今、“料理?”を食わされ魂となって己の口から旅立とうとしていた。