嗚咽も治まり、指で涙を拭ってやってしばらく。
目を真っ赤にした桃香は、少し恥ずかしそうにして俯いていた。
彼女が座る椅子にも目の前の机にも涙のあとはなく、ただ俺の制服には……こう、びっしょりと涙の痕が。
「ごめんなさいぃ……」
ひどくしょんぼりだった。
そんな彼女の頭をあっはっはーと笑い飛ばしつつ撫でて、気にしない気にしないと言ってやる。
「あーあ……無理してるつもりなんて、なかったのになー……」
乱れた髪を直しながら、彼女はぽつりと呟く。
言わせてもらえば、そういった呟き自体が無理でも我慢でもあるわけだが───言わないでおくべきだろう。
下手なことを言って“呟くこと”さえ我慢されては、これから先が思いやられる。
そんなことを考えていて、桃香の椅子の横でぼ~っと天井を仰いでいた俺を不思議に思ったのかどうなのか。
桃香が言葉を投げかけてきた。
「あの、お兄さん? なんとなくこういうの手慣れてるようだったけど……もしかして他の人にもやってあげたりしたの?」
「手慣っ……いや、確かに似たようなことをしたことはあったけど」
「むー……誰? 誰にやっちゃったの?」
「………」
あの……桃香さん? どうして少し怒ってらっしゃるの?
しかも“やっちゃったの?”って……キミの前にやった人への言い方なのでしょうかそれは。
「雪蓮と……それから蓮華。頭を抱き寄せるって意味では雪蓮で、甘えてもいいよって意味では蓮華。……そういえば、どっちもって意味では桃香が初めてか」
そもそもが華琳にしてもらったことの真似事みたいなものだ。
力が抜けて、座りこんだところで頭を抱き寄せられたっけ。
……随分と落ち着いたんだよな、あの時。震えがピタって止まったんだから。
「……あの。お兄さん」
「うん? なに?」
ハッと思考から戻ってみれば、桃香が不安そうに俺を見上げていた。
いつからそうしていたのか、手は俺の服を掴んでいて……
「私、甘えてもいいのかな。本当はもっともっと頑張らなきゃいけないのに、誰かに甘えるなんて……。戦があったときだって、何も出来ないで見てるだけだった私だよ? みんなに頼りっきりで、なにも出来なかったのに……いいのかな」
きっと、想像以上の葛藤が彼女の中にはある。
それは俺が想像するよりも、将が想像するよりも、そして彼女自身が想像するよりも大きなものだ。
だけど、だからこそ言ってやる。それは難しいことなんかじゃないって笑い飛ばせるくらい簡単に。
「甘えていいに決まってるだろ? 戦は出来なかったとしても、その分他の面で支えてあげられたはずだ。自分が知っている以外の様々で、桃香はみんなを助けてこれたはずだ。そうじゃなきゃ、蜀のみんなが桃香の傍に居るわけがない」
「そう……なのかな……」
「そうなの。だから思う存分甘えるべきだ。我が儘でもいい、そうしたいって思ったことに夢中になるのもいい。桃香はもっと周りに甘えてみるといいよ。そうすれば───」
「あ、ううん、そういうのじゃないのっ。私がその、言いたいのは───」
「……へ?」
きゅっ……と、握られる服に力が込められるのが解る。
あ、あれ……? 妙ぞ……こはいかなること……? どこからかわからないけど、地雷の香りが……!
「みんなにはもう、十分すぎるほど甘えてる。みんなはそんな私を許してくれるし、私も嬉しいけど……あのね、そういうのじゃないの。多分、雪蓮さんも……」
「……どういうことだ? ごめん、ちょっとわからない」
「あ、あのねっ、お兄さん。甘えるっていうのは、その……“国の王”でも甘えられる人って意味で……それはきっと、“天からの御遣い様”のお兄さんにしか出来ないことで……」
「…………」
……どうしましょう。
今の俺、笑顔のまま固まってしまってます。
そうだ、考えてみればそうだった。
国の王として期待され、望まれて、色々なものを背負ってるんだ。
甘えたいのは少女としての桃香であり王としての桃香だ。
少女としての桃香が将のみんなに甘えられてるんだとしたら、俺に望んで泣き出した理由、っていうのはとどのつまり───わあ、俺が“当たり前だ”って言って泣かせてしまった時点で、もう断れないわけですね?
ならばもはやこの北郷、迷いはしません。
それが受け止めると決めた俺の責任ならば、俺はそれを覚悟として受け容れよう。
痛む右腕を持ち上げ、そのまま自分の胸をノックした。左手では桃香の頭をもう一度撫でる。安心していいって意味を込めた笑顔を浮かべつつ。
「わ……? お兄さん?」
「わかった。王様でもなんでも受け止めてやる。ただし、甘えるだけしかしない王様は勘弁だぞ?」
「あははー、うん。それは大丈夫だよ。大変だとは思うけど、嫌だって思ったことなんてないもん。華琳さんは王になるべきじゃなかったって言ったけどね、それでも……私は良かったって思えるよ。弱音を吐いたらきりがないけど」
「そっか」
「はうぅ……く、くすぐったいよぅお兄さんっ……」
しょんぼりが完全に無くなるまで、じっくりたっぷり、しかしやさしく頭を撫でる。
言葉の通りくすぐったそうにしていたけれど、嫌がらない限りはそうするつもりだった。
「……ところで桃香? 随分とまあ今さらなんだけどさ。俺のことなんて大して知ってないだろ? いいのか? 友達~なんて言ったりして」
「……うーん……えっと。お話だけでならいろいろ知ってるよ? 魏のみんなと話してると、大体お兄さんのお話になるし。許昌の街を歩くだけでも、城を歩くだけでもお兄さんのことは耳に入るんだよ?」
「ウワー……」
話しながらも撫でるのをやめません。
しょんぼりはもう無くなってたけど、もういいと言われるまでは続けようかなと撫でているんだが……ハテ。一向に言われるような気配がないのはどうしてだろう。
「それ、恋にも聞いたんだけど……どんな噂なんだ?」
「ん、んー……そうだね。ぜ~んぶ本当のこと。嘘なんて一つもなかったよ、うん」
「いや、そうじゃなくて内容は───」
「えへへー、秘密~♪ ただお兄さんは、街のみんなにも兵のみんなにも将のみんなにも、大切に思われてたってことだけだよ」
「大切、ねぇ……」
一部が物凄い勢いで俺を亡き者にしようとしてるんですけど。
主に華琳大好きのネコミミフードっぽいものを被った軍師様とか。
「それに今じゃ、呉から来る商人さんからの噂も凄いんだよー? ひと騒動あったらしいけど、それからすっごく賑やかになったって」
「………」
刺された甲斐があった、って言っていいんだろうか。
悲しいことに、刺されなきゃ親父は“人を刺す恐怖”っていうのを知ることができなかった。
それだけで街や邑の全てが治まってくれたわけじゃないけど、きっかけはあれと、親父の言葉だったんだろうし。
……うん、痛かったけど、やっぱりあれはあれでよかったんだ。
「そんなお兄さんだもん。私はお友達になれて、とっても嬉し───あれ? ……そうだよっ、私まだお兄さんから友達だって聞いてないよっ?」
「エ? ……言ってなかったっけ?」
「言ってない、言ってないよ~! 宴の時は、私が“男の人の友達は初めてかも~”って言っただけで……ほらー!」
「……言われてみれば」
辿ってみても、俺から友達だなんて言った覚えはありませんでした。
しかも“手を繋ぐ=友達”っていうのは、出発前に季衣と流琉との会話の中で思いついたもの。
友達集め自体が呉から始まったことだから、深く意識してなかったのも仕方ない……大変失礼な話ではあるけど。
「うん。それじゃあ……改めて。姓が北郷で名が一刀。字も真名も無いところから来た。北郷か一刀か、好きなように呼んでほしい。……桃香。俺と友達になってくれるか?」
言って、敢えて痛みが残る右手を差し出───した途端、その手が彼女の両手で包まれた。
「もちろんだよっ」と元気に頷く様を間近で、しかも真正面で見ると、意外と恥ずかしい……ああいや、恥ずかしいとは違う……照れか? これ。
ともかく照れとも恥ずかしさともとれない気持ちが渦巻いて、まともに桃香の笑顔を見れな……いいや見る。ここで目を逸らすのは友達に失礼だ。
と、“何に対して意地になってるんだろう”と心の中でセルフツッコミをしてる内でも、桃香は本当に嬉しそうに俺の手を上下に振るって───
「いたったたたたたたた!!? 桃香ちょっと桃香っ!」
「うひゃああっ!? ご、ごめんなさいーっ!!」
振り回したソレが“つい昨日まで包帯を巻いていた腕”だと知ると、例のごとく泣き顔めいた表情になり……そんな、どこまでも自然体な彼女を見て、俺も笑った。
ああもう、本当に……人の毒気を抜くのがなんて上手いんだろうか。
……いいや、上手いとかじゃなく天然なのか。
彼女に対しても蜀って国に対しても、毒気なんてそりゃあ持ってなかったけど───やっぱりだめだな、初めての場所じゃあ緊張してしまう。
そんな緊張をあっさり取ってしまうんだから、徳で知られる玄徳様は本当に、色んな意味で愉快だ。
「……えへへー♪」
呆れも半分(自分への)、軽く天井を仰いでいると、椅子に座ったままの桃香が俺の腕にしがみついてくる。
ご丁寧に、ってどうしてつけるのかは脳内に問うてほしいが、ご丁寧に恋のように顔を摺り寄せて。
……何事? と思いつつ、なんとなく頭を撫でてみると……ほやぁ~とした嬉しそうな笑顔が俺を見上げた。
なるほど、どうやら甘えている最中らしい。
「桃香サン? 魏延さんか関羽さんあたりに見られたら俺の首が飛ぶから、そういう直接的な甘え方は勘弁してほしいんだけど」
「……だめ?」
笑顔が、親に突き放された子供のような顔に変わる。
思わず息を飲むと同時に胸が痛むが……ああもう、受け止めてやるって言った手前、なんて断りづらい。
「見つかった時の説明なんて、しようがないだろ? というかこういうことは隠れてしてるとあらぬ誤解を招くって、遙かなる経験が叫んでる」
この状況は非常にマズイ。
なにがマズイって、たとえ魏延さんや関羽さんじゃなくとも、誰かに見つかった時点で彼女らの耳に入ることはほぼ確実なわけで───あ、ノックだ。
……ノック? って、ちょ! 桃香離れて桃香! 桃香ー!?
「桃香さま、学校に関する工夫の増員の件で───はわっ!?」
「……あわっ……!?」
……間に合わなかったよ、うん。来ると思った。こういうタイミングなんだよ、いっつも。
執務室の扉を開けて入ってきた朱里と雛里を見て、もういっそ自然と涙が出ました。ブワッとではなく、スゥウ……と静かに。笑顔なのは、あまりに予想が的中してたのに嬉しくなかったからだと思ってほしい。
「いや違」
「はわわわわわわぁああーっ!!」
「あわっ……あわわぁああっ……!!」
いつかの焼き増しを見ているようだった。
あれはいつだったっけー……なんて考えるまでもなく、すぐに呉の倉での騒動が思い浮かんだわけで。
……その後、俺は駆けつけた魏延さんに絞め上げられた。
これぞ、世に云うネックハンギングツリーである。
……。
はぁ……と息を吐いてみれば、どっと疲れるこの体。
桃香と朱里と雛里がなんとか宥めてくれたお陰で魏延さんは引いてくれて、俺も宙吊り状態から解放されたわけだけど。
「あの……俺さ、魏延さんの気に障るようなこと、したっけ……?」
桃香のことが好きだとしても、問答無用で俺が悪いって思考基準はなんとかしてほしい。心から。
「焔耶さんが桃香さまのことで周りが見えなくなるのは、その……いつものことですけど。一刀さんが来てからは、随分と行動に棘があるような気が───はわわっ!? 違いますよっ!? 一刀さんが悪いって言ってるわけじゃっ……落ち込まないでくださいぃいっ!!」
なんだろうか……桂花チックな人はみんな、基本的に俺が嫌いなのか?
思わずずしりと重い陰を背負って項垂れてしまった。
彼女に対して何かをしてしまったって記憶は全然ないんだけどなぁ……。
執務室の前で聞き耳立ててたりするくらいだから、桃香のこととなると一生懸命なのはわかるけど───あれ?
「………?」
待て、待て待て待て? 聞き耳を立てる?
聞き耳……盗み聞き? …………あ。
「……桃香。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「うんうん、なに? お兄さん」
朱里や雛里が居るのに、なんとなく甘えたがってるのがひしひしと伝わってくるようだ。
でも訊きたいことはきちんと聞いてからじゃないと、いろいろと落ち着けない。
「えと。俺を“大陸の父”とやらにする話が、どっかから届いてるって噂を耳にしたんだけど」
「ふえ───?」
「はわっ───」
「あわ……!?」
……あ。今なんか、びしりと空気が凍った音を聞いた。
「……お兄さん。それ、誰から……?」
「あー……その反応からすると、本当なんだ」
桃香からの質問を適当にぼかしつつ、話を進めようとする。
さすがにここでの仕事がいつまで続くかわからない張勲の首を絞めるわけにはいかない。
桃香もすぐにそのことに気づいたのか、頭をふるふると左右に振ると、顔を俯かせてハフーと溜め息。
「……うん。お兄さんが蜀に来る前に、雪蓮さんからそういう書簡が届いたよ。“お兄さんが今から蜀に向かうけど、しばらく一緒に過ごしてみて気に入れたら同意してほしい”って」
……それは桃香の言い方であって、本当に“お兄さんが”とか書いてあったわけじゃあアリマセンよね?
いや、今はそういう思考は横に置いておこう。
「そのことで、私もお兄さんに訊きたいことがあるんだけど……いいかな」
「ん。なんでも」
間を空けずに頷くと、朱里と雛里がそわそわし出す。
「私達は席を外したほうがいいでしょうか」……その言葉に桃香はにこりと笑って「ううん、一緒に聞いて」と言った。
どんな話になるのか……考えるよりも聞いたほうが早いな。よし。
「お兄さん。もし私や朱里ちゃんや雛里ちゃんが、お兄さんのことを慕ってますって言ったら……どうするかな」
「はわっ!? ととと桃香しゃまっ!?」
「あわわわわ……!!」
「あ、ううん違うよっ!? もしも、もしものお話だからっ!」
しこたま驚いた。今のは朱里と雛里が驚くのも無理ないよ、桃香……。
でも───……そうだな。
「ごめん、呉でのことも耳か目に入ってると思うけど、断るよ。俺は───」
「うん。たしかに書簡にも書いてあって、朱里ちゃんや雛里ちゃんからも聞いてる。お兄さんはちょっと頑固者だなーとか思ったけど───」
「けど?」
言葉を一度区切った桃香は、少し楽しそうにして胸の上で指を組んだ。
その“楽しそう”はやがて、いっそ口笛でも吹いてみようかってくらい可笑しさに溢れ、少しののちには彼女はにっこりと笑っていた。
「うん、けど。それじゃあ恋する乙女は絶対に引き下がらないよ? 恋をするってとっても素敵なことだと思うし、戦が終わった今だからこそ、そういうことにも本気になれると思う。だから───お兄さん。お兄さんも本気でぶつかってあげないと、みんな納得しないし……もしかしたらお兄さんが気づくより早く、誰かが傷ついちゃうかもしれない」
「え……」
傷つく? どうして───と考えるより先に、誘いからなにから断り続けている自分を思い出す。
でもそれは、魏のみんなを思えばこそで。
ずっとずっと魏のことを思って自分を鍛えた。必ずまたこの地に下り立てると信じて。その時間が長ければ長いほど俺って存在は魏のことを想えて。
それって普通じゃないか? 強く焦がれる人を
言葉遣いが悪いとじいちゃんに怒られたり、曾孫を見せろと茶化されたり、信念を貫けって言葉を受けて意思を固くしたり───その全ては魏のためで、俺は……。
「お兄さんは魏のみんなのために頑張ってる。それはとても立派なことだし、お兄さんを見てると私ももっともっと自分に出来ることを増やしたいって思うよ? もっともっと笑顔が見たいし、自分に出来ることならそれがたとえ泥まみれになることだって構わない。ほんとにほんとにそう思ってるの」
「ああ……」
「でもね、お兄さん。このままだと、お兄さんは華琳さんに怒られちゃうかもしれない。誰かをとても傷つけちゃうかもしれない。みんながみんな強いわけじゃないし、戦の中では強くても、こういうことでは弱い人はきっとたくさん居ると思う」
「それは───えと。恋愛事って意味で?」
「……うん。だからね、お兄さん。お兄さんが噂通りの御遣い様で、泰平をもたらすすっごい人なら───もっと“お兄さん”を見せてほしいな。世の中だけじゃなくて、人の心も救ってくれるような……とっても暖かい“お兄さん”を」
暖かな……俺? 噂通りの御遣いで、泰平をもたらす存在なら……?
…………何かが引っかかる。
言われてる意味はちゃんと受け止められてるはず……なのに、答えに届かずもやもやとしている気分だ。
ただ、心の何処かから「早く気づけ」って言葉が聞こえて、けれど逆に「気づけば今までなんのために」って言葉も聞こえる。
何のことだかわからないのに、気づかなきゃいけない焦燥感。
気づかなきゃいけないのに、気づいたら今までの自分が否定されるような焦燥感。
自分の意識に胸焼けを起こしそうだ……少し、気持ち悪い。
「桃香。それでも俺は……」
「……ダメ。今のお兄さんの言葉じゃあ、どんなに断っても誰も受け容れてくれないよ? すっごくやさしいし、あまり面識が無くても“この人なら寄りかからせてくれる”~って思わせてくれる不思議な人だけど、それはちょっぴり残酷だよ、お兄さん」
「え……」
「うん。言っちゃえばこれも恋しちゃった人の勝手な言い分だな~って思うし、きっと否定しちゃいけない部分だよ? 同じ人を好きになったりするのって、とても勇気がいることだと思う。逆に、魏のみんなを好きになったお兄さんもきっと大変。うん、それは私やみんなが“こうなんだ”って思うよりも大変だと思う」
……それは、そうだ。大変な部分もそりゃあある。
けど、それよりも幸せだ。みんなと居ると嬉しい。
そこから自分だけが消えてしまうことが、たまらなく嫌だったのを覚えてる。
「それでもみんながきっと、“お兄さんでいい、お兄さんがいい”って思えるんだよ。私とお兄さんはちょっと似てるんだ~って思うからこそ、お兄さん。怒られる前に、泣かせちゃう前に、ちゃんと気づいてね?」
「………」
気づいてね、と言われても。
正直に“なにに?”と訊き返したい疑問だ。
俺は何に気づいてなくて、桃香は何に気づいているのか。
呉からの書簡に書いてあったってことは、雪蓮も何かに気づいていて、俺だけが気づいていない……?
それはいったいなんだろう。
大切なことには違いない……朱里や雛里を見ていれば、それもわかりそうなものだ。
だったら気づかなきゃいけないのに、それがなんなのかがまるで見えな───いや、引っかかっているものがあるのに、それが答えに至ってくれない。
気づけと叫ぶ心と、気づくなと叫ぶ心。
どちらを受け取ればいいのかが、今の俺には見えなかった。
「うんっ、じゃあこのお話は終わりだねっ。えへへー……ねぇお兄さん、肩揉んで?」
「ほへっ? ……───あー……あの、桃香ー……? 今までのシリアス空気は……」
「しりあ……? なに? それ」
「………」
朱里と雛里が居るにも関わらずのこの甘えモードである。切り替えるのが早い。少しはこっちのことも───考えてくれてなきゃ、さっきみたいなことは言わないか。戒めよう。今の言葉をちゃんと心に刻んで、いつでも“何か”に気づけるように。
「よしわかった、肩だな? 指圧の心は母心~♪」
「はぁぅうう~……♪」
桃香が座る椅子の後ろへ回り、その肩に指圧を。
力を込めると相変わらず痛い右腕は、添えるだけに終わっているが。
それでも左でグイグイと圧して、凝っている部分をほぐしてゆく。
その際、軽く氣を使ってほぐすのがコツです。痛くなりすぎず、しかしきちんと圧する。
きちんと血が通るように、適度に圧を緩めるのも忘れずに。
……と、そんなふうにして急にほのぼのな空気を発する俺達を、朱里と雛里はどこかぽかーんとした表情で見ていた。
そんな彼女らに手招きをすると、指圧のコツを教えて……あとはまあ、指圧地獄である。
「ふひゃっはわひゃはははっ!? おにいさっ、くすぐったひゃぅううっ!? 朱里ちゃんそこ痛っ! ……あ、あぅうぁああ……!? ひ、雛里ちゃっ……そこ、力抜けるぅう……」
筋肉痛はこれでしぶといから、来たる鍛錬に向けてしっかりとほぐしておく。
うん、俺の問題と桃香の問題とはまた別だ。
言われたことは胸に刻もう。だからといって他をおろそかにするのはだめだ。
……と、無意味に張り切ったのがいけなかったんだろうなぁ。
「…………はっ、はっ……はぁああぅうう…………」
気づけば桃香はぐったりしていて、真っ赤な顔で机に突っ伏していらっしゃった。
で、俺と朱里と雛里が視線を向けるのは、処理しなければならない書簡の山。
『………』
長い沈黙が続いたのち、体が暖まったためか眠ってしまった桃香を、奥の部屋の寝台へと運んでから……俺達の戦いは始まった。
本日の教訓。何事も適度が一番。
それを、胸に刻んだものと一緒にしっかりと記憶した、よく晴れた日の出来事だった。