幕間/御遣いさんの扱いについて
-_-/華琳
情報だけは先に来ていたのだから、特に構えることもなく今日という日を迎えた。
私室に迎えてみれば依然変わり無き呉王が現われ、私を見るや「はぁい」などと軽く手を上げ笑っている。
会って早々に溜め息が出たのは、彼女が来る前に届けられたその情報によるところが大きい。いいえ、それしか原因が見つからないくらいよ。
「それで? わざわざ護衛もなしに国を跨いでどういうつもり?」
「あれ? 書簡を届けたはずだけど。見てないなんてこと、ないわよね?」
「ああ、あれ。届いて早々に燃やしたわ」
「ちょっとぉ、いくらなんでもそれはあんまりじゃない?」
「………」
「………」
多くは語らず、それが冗談だと解っていて驚いてみせている。
溜め息を一つ、話しを戻す。
「一刀を三国共通の財産にする、なんて。本気で考えているの?」
「もっちろん。じゃないと一刀が納得してくれそうにないんだもん。意地でも頷かせてみせるって大見得切っちゃった分、もう後には引けないのよねー……負けを認めるのは癪だし、他の男にこの体を許すなんてもっと癪だわ」
「それで、一刀ではなく私を説得しに? 生憎だけれど、そういう類の冗談は好きではないの。私は既に許可を出したはずよ? 無理矢理ではないならば、貴女が本気ならば構わないと」
「……なるほどねー。その旨、書簡に書いていた時もそんな顔してたんでしょうね、華琳は」
「あら。私がどんな顔で何を書こうと、貴女に迷惑がかかるのかしら?」
顔が少し笑んでいるのが解る。
一刀のことだ、どうせ誘われれば手を出すのだろうと踏んでいたけれど、まさか出さずに居るなんて。
そんな事実が不覚にも私の心を暖かくし、さらに不覚なことに頬まで緩ませていた。
だってそうだろう。
雪蓮がわざわざ私に“許可”を得ようとするということは、すでに一刀は雪蓮からの誘いを断ったということ。
魏の女性全てに手を出した一刀のことだから、呉でも手を出す……たしかにそう思っていた自分は居たのだが。
それはそれでいいとも思った。
自分が認めた王や将が、自分の知らぬくだらない男なぞに抱かれる様は、思い浮かべるだけで吐き気がする。
だからこそ雪蓮らが本気で望み、一刀がそれを受け容れるのであればそれも良しとする気ではあったのだが……聞けばどうだ、一刀は結局一切の手を出さず、呉をあとにしたのだという。
「信じられる? 呉の将のほぼに言い寄られても、“俺は華琳と魏に身も心も捧げた”なんて言って断るのよ? そりゃあたしかに一番最初に“揺るがない”とは聞いてたけどさ~……まさかここまで揺るがないなんて思ってもみなかったわ」
悔しそうに、けれどどこか楽しそうに語る雪蓮の様子が、彼女の口から語られる一刀の言葉が……おそらく自分は嬉しいと感じている。
“王がこれしきで喜ぶな”と、自分の感情を戒めようとするのだが、どれもが空回りだ。
けれど喜びも一時のもの。話の筋が見えてからは、逆に疑問点へと変化し……とある結論へと至らせる。
「だからね、一刀の願う通りにしてやろうって思ったのよ。魏の誰かを悲しませてまで受け容れることじゃないっていうなら、魏の将全員から許可を得て一刀に頷かせようってね」
「へえ、そう。……一つ訊くけれど雪蓮? 一刀は揺るがない、断ると言ったのね?」
「ええ、誰が迫ってもその調子よ。そのくせ人の心はしっかり揺るがしていくんだから、性質が悪いったらないわよ。もう」
ああやだやだ、なんて大げさに手を振って疲れた表情を見せるが、口調は楽しげだ。
どうやら本当に一刀にしてやられたらしい。
でなければこんなにも楽しく一刀のことを話すことなどしないだろう。
「なら好きにするといいわ。桂花や春蘭あたりは軽く頷くでしょうけれど───ふふっ、あの一刀が“揺るがない”、ね……ふふっ……。雪蓮、貴女……凪と霞には絶対に苦戦するわよ」
「凪と霞に? ……ああ、そうね。あの子たちには相当苦戦させられそうだわ」
「私も、私が認めた者がくだらない男に抱かれ、次代を担う子を宿すなどということを想像するのは吐き気がする。ならばいっそ一刀を、とは思ったけれどね。一刀が頷かず、魏の娘全員に託すのであれば───雪蓮。様々な意味で、一人だけで上手く行くとは思わないことね」
「……ふふっ? 華琳、顔がにやけてるわよ?」
「っ!?」
「あら、自覚あったの? そんなに慌てて」
「───……」
してやられた。
どうも私は一刀のこととなると冷静ではいられなくなる。
あの男は、この場に居なくても私から“覇王”という険を剥がしたがるのだから……困ったものだ。
「でもまあ、お礼は言っておくわ。可能性が全く無いわけじゃないなら、頑張り甲斐もあるもの。手に入りづらいほうが燃えるでしょ? そのために、待っていればいいものをこうして楽しみに来たんだし」
「───……ええ、そうね」
まったくその通りだ。
悔しいが、私はそれをとっくに実感している。
手に入りづらいほうが燃える……どころか、手からこぼれてしまったものが再び戻ってきてくれた。
それだけで人の心をこうも揺るがすのがあの男なのだから、私は……今度こそあの男の全てを手に入れる。
勝手に居なくならないよう、一刀のことを要らない存在などとは決して思わない。
宴の夜の杯にかけて、我が名、我が真名にかけて、魏という旗の全てにかけて。
あれほど望んだ天下を手中に納めさせたくせに、人を泣かせたあの男を……私は絶対に許さない。
絶対に許さないから───ずっと傍に居させるのだ。
どこまでだっていつまでだって一緒に居させ、いつだって文句をぶつけてやろう。
人がどれだけ辛かったのか苦しかったのか、我が生命の続く限り思い知らせてやるのだ。
(……ふう。少し落ち着きなさい)
考えることは尽きない。
打算的なことを言えば、この大陸での絆を増やせば、彼が再び天に戻ってしまうなんてことはないのではないかと考えた。
だからこその、本気ならば手を出していいとの返事。
しかし人の気持ちも知らずにそれを断って、あのばかは私や魏に全てを捧げたなんて言ったのだという。
……本当に。どこまで人の調子を狂わせれば気が済むのだろう。
「じゃ、行くわね。凪と霞は最後あたりに攻め落とすとして、まずは……華琳の言う通り桂花と春蘭ね。うん、むしろ桂花には協力してもらお。彼女、随分と天の御遣い様が大嫌いみたいだから」
「男を認めるのが嫌なのよ。他の男と比べれば一刀が多少優秀な分、“男の中では”自分の知る限りでは誰よりも秀でている。けれどそれを認めれば自分は、とね。ふふ、可愛いものじゃない?」
「意地悪いわね、華琳……」
「あら。やさしいくらいよ」
ふっと笑い、来た時と同じく軽く手を上げながら去っていく雪蓮を見送る。
扉が閉ざされ、人の気配が消えるのを確認すると……出たのは溜め息だ。
「……あの男は。いったい呉でどんなことを……」
つい先ほどまでこの場に居た雪蓮のことを思い返す。
あれではまるで、恋事に夢中な生娘だ。
言葉のあちらこちらから、必ず一刀を手に入れるといった無駄な気力が溢れ返っているのを感じた。
雪蓮はどちらかといえば、私に近しい存在だと思っていたけれど……男にもきちんと興味があったのは、少々意外だった。
……いや。気に入ってしまえば手中に納めたくなる気概は、たしかに似ているのかもしれない。
それはまさに気概だ。
困難であればあるほどに心に火が付き、どうやってでも手に入れたくなる。
叩いて叩いて叩き潰して、自分のものになると歩み寄る者には慈愛を以って迎える。
離れてゆくものには一切の容赦はせず、来るものは拒まない。
そうだ。この私から離れてゆく存在なんて考えられなかった。
欲しいと願い、手に入れてきたものは、全てが私から離れようとはしなかった。
だからこそ過去より今まで、来るものを抱き締め、去るもののことなど考えたこともない。
私の中の常識を破ってしまった、たった一人の例外が現れるまでは。
「……本当に。いつまで油売ってるのよ、ばか」
その例外は、私に“女”を刻んだ。
覇気を我が胸に、いつまでも覇道を進み、いつまでも覇王のままであるはずだった私に女を刻んだ。
気づいてみれば心安い。
もし一刀を拾わないで覇道を進んでいたのなら、それは果たして覇道であってくれたのか。
そう、気づいてみれば心安い。
覇王としてずっと気を張り、覇王のまま過ごす日々は、私にどれほどの夢を見せただろう。
女として休む暇もなく、王として生き、覇道の役に立たぬのならとなんでも切り捨てていたら───きっと今の自分は存在しなかった。
「覇道、ね……」
自分が目指したものが、いつしか自分だけのものではなくなる。
その流れがあまりに自然だったから気づけなかった。
けれど、気づいてみればそれはとても心地が良く、隣を歩む者が居なければ決して、気づけぬどころか手に入れられなかったもの。
“利用価値があるうちは使ってくれ”なんて言っておきながら、勝手に消えてしまったあのばかへと言いたいことなど山ほどある。
それら全ての思いを含め、今こうして彼を思っている自分はもうきっと、覇王ではなく“女”だった。
宴の時も思ったけれど、せっかくこうして帰ってきたというのに……何故あの男は私の傍に居ないのか。
いっそ、それこそ生娘のように「行かないで傍に居て」などと口にしていたら、彼はここに居ただろうか。
「……馬鹿ね、曹孟徳」
それをしたら、もう北郷一刀ではない。
馬鹿でいやらしくて、女とみればほうっておかない、けれど男に厳しいわけでもなく、兵であろうと民であろうとまるで仲間のように打ち解け、そんな在り方が魏の皆に親しまれている。
それは私にはない立ち回り方であり、彼が彼である証だ。
その中の一つでも狂ってしまったら、途端に興味が薄れそうな自分が居る。
居るのだが……非常に腹立たしいことに、薄れたところで傍に居なければ苛立つであろう自分も想像が出来てしまった。
「……はぁ」
北郷一刀という男は不思議だ。
“自分の領域”というものに一度でも足を踏み入れられたなら、自分でも気づかないうちに領域の軸を捻じ曲げられていて、ふと振り向いてみれば───いつから彼を気に入っていたのかがわからなくなる。
だからこそ離れがたく、傍に居ないと落ち着かない。
だというのにあの男は頼まれれば嫌と言えず、まあ言ったところで無理矢理引きずりまわすだけだけれど、ともかく人の頼みには基本的に弱いのだ。
弱いからこそ頼まれれば遠方にでも飛んで行くし、私はそんな彼に弱さを見せるのが嫌だから、戻ってこいなどとは口が裂けても言わない。
……本当に、嫌な循環でこの関係は繋がっているものだと呆れた。
「帰ってきたら、どうしてくれようかしら……」
溜め息を一つ、座っていた椅子に深く背を預けて天井を仰いだ。
……少し、退屈だ。
同じ大地に彼が居ることを実感しているためか、以前のような気持ちの悪い気分はない。
何故消えたのか、嘘をついたのか、ずっと一緒に居るって言ったくせに、許せない、許せない、許せない……。
そんな思いも溢れてこなくはなったが───一刀が戻ってくる前の自分を思うと、己の情けなさに頭を痛める。
思考はいつまで経っても正常には戻ってくれず、周りは何も言わなかったが、迷惑をかけたことは自覚している。
自分らしさを取り戻すまでにかかった月日は一年あたりに及び、ようやく自分の物語を生きていると胸を張れた矢先にあの馬鹿は戻ってきた。
本当にどうしてくれようかと思った。
川で姿を確認した時など、自分が幻でも見ているのかと目を疑ったほどだ。
だというのに、人の悩みなんて気にしないとでも言うかのように両腕に女を寝かせる姿を見れば……頭にもくるだろう。
最初こそその暢気な顔を踏んづけてくれようかと思ったほどだ。
(………)
不思議だ。
望んだものはなんでも手に入れて、今までの時を生きてきたというのに……傍に在ってほしいものが今、傍に無い。
それがたまらなく寂しいと思っている自分が“覇王然”としていないことに苛立ちを覚えるのに、どうしてもそんな自分を切り捨てることが出来やしない。
私は臆病だ。
覇王として振る舞えば怖いものがないというのに、ひとたび女にされてしまっただけで、こんなにも色々なものが怖い。
言葉にすればいろいろと、なにが大切これが大切とどれだけでも口に出せるというのに。何より怖いのが、苦楽をともにした同士や同志、育んできた国や邑、その場に生きる民たち───そして、天の御遣いが消えてしまうことだった。
覇道は成ったと云えるだろうか。
そんなことを時々にだが思う。
天下を取ることが我が覇道ならば、それはとっくに成っている。
しかし天下を取るだけが覇道でいいのであれば、天下を取った今、失うことを恐れる理由が何処にあるのか。
ただ天下を取ることだけを覇道にしていたのであれば、今さら国がどうなろうが知ったことではない。
現状維持が嫌だというのなら全てを放棄して彼の元へ駆けていけばいい。
きっと、王としては見ることの出来ない“色々”が見れるだろう。
しかし彼はそんな自分を受け容れるだろうか。受け止めるだろうか。
「───愚問ね」
受け容れるに決まっている。受け止めるに決まっている。
そして───受け容れた上で、受け止めた上で怒るのだ。
天下を治めることが覇道ならば、その過程に手に入れた全ての責任と向き合えと。
羽根休めの場にはなってくれるが、逃げ道にはなってくれない男だろうから。
逃げ道になりなさいと言えばなるのだろうけど、恐らくは一時のみか、ならずに本気で拒むか。
(そうね……雪蓮。貴女の考えがどうであれ、一刀は誰かを故意に悲しませるようなことはしないわ。貴女がどうこうするよりも……時間が解決するわね。だって、どこまでいっても彼は北郷一刀だもの)
どれだけ武を得ようと知を得ようと、その事実が基盤としてある限り、あの男が人の真摯なる願いを断り続けられるとは思えない。
もし本当に必要に迫られた時にまで、私が、魏が、と言って断るようなら……頬の一つでも張ってあげるわよ。
(私が一刀に願うのは一つ。一刀が一刀として、どんなことがあろうが“私のもの”であればいい。それが約束されているのなら、いくらでも誰にでも手を出せばいい。男としてそれだけの胸の広さも無いようでは、私の相手など───……ふふっ)
思考にふけっていると、ふと体の力が抜けた。
頭の中が一刀のことだらけになっていることを実感しながら、心地よい脱力を味わう。
余計な話しを加えていないのなら、“学校”についての話しを纏め終えた時点で彼は帰ってくるだろう。
もしくは学校の完成のあとか。
すでにこれだけ待たせたのだ、本当に……帰ってきたらどうしてくれよう。
そんなことを思いながら、白んでゆく思考に笑みを飛ばして目を閉じた。
最近の自分は張り切りすぎだ。
何を浮かれているのか、何を望んで仕事を残しておきたくないのか。
少し考えれば予想もつきそうなものを、敢えて結論づけずに笑う。
(さっさと……帰ってきなさいよ、ばか……)
ほぼ毎日呟いていることを口にして、意識を手放した。
机に詰まれたものに、手を出さなければいけないものなど残ってはいない。
憂い無く夢の中へと飛び込んだ私は、せめて次に誰かが私室の扉を叩くまでは安らいでいようと息を吐いた。
48/新たなる生活、新たなる空気の中で
蜀国成都での暮らしが始まった。
やっぱり目まぐるしく過ぎ行く時間の中で、右腕が不自由なだけで“出来ること”が極端に減るなぁと何度実感したことか。
「じゃあまず、基本の体力作りから。体力がないとどうにもならないから、とにかく持久力をつけていくんだ」
「はいっ、お兄さんっ」
なかなか政務を抜けられない桃香とは、これが初めての鍛錬となる。
相も変わらず三日毎の鍛錬を続けている俺と、ようやく時間が合ったためにこうして中庭に立っている。
着衣は道着。びしっと着付けたソレが、俺の心を引き締めてくれる。
スカートはやめたほうがいいという俺の言葉に、「スカート?」と首を傾げる彼女にスカートとはなんぞやから説き、張飛のようなスパッツを……穿いてもらおうとしたけど目に毒そうだったので動きやすいショートパンツを。
……うん、この世界って衣服に関しては不思議なくらい品揃えがいい。どうなってるんだろう。
まあそんなことよりも。
無事に関羽さんとの話し合いに勝利できたあなたを、本気で凄い人だと認識しました。
「でも基本にも準備が必要。その一つとして、まずはその名の通りの準備体操」
「体操?」
「そ。体全体を、運動用にほぐしていくんだ。政務続きだったから、体とか硬くなってるんじゃないか?」
「えと……、んっ、ふくっ、うっ……うぁぅ……そうかも……」
そんなことないんじゃないかぁと希望を抱きつつ、前屈やらなにやらをやってみるも、てんで伸びない曲がらないな自身の体に、目を太い線状にして、涙を滲ませつつ悲しそうにしていた。
「うん。じゃあまずは簡単なところから。関節をこう……ちゃんと意識してだぞ? 一瞬、本当に一瞬でいいから、ビキッと思いきり緊張させる」
「うーんと……はふっ!」
びしっ! と桃香が体を緊張させる。
直立不動で少し足を開き、肩を持ち上げ、下に下ろしている手はキュッと握り、甲が上になるように少し持ち上げている。
そんな様をじーっと見ているんだけど、一向に緊張を緩める気配を見せない。
「……こらー、桃香桃香~? 一瞬だけだよ、一瞬だけ~」
「あ……ぅぅ……」
思い出したのか、少し顔を赤くしてしゅんとする桃香。
緊張は無くなり、けれどそれを数回続けてと言うと、素直にやってくれた。
「ねぇお兄さん? これってなにか意味があるの?」
当然の質問だ。
それに答えるべく、自分もやっていた行動を一旦止めて口を開く。
「関節や筋肉ってのは柔軟体操だけじゃ柔らかくなりきらないからさ。こうして関節や筋肉を瞬間的に伸び縮みさせてやると───桃香、前屈やってみて」
「? えっと……はっひゅっ!」
不思議な掛け声とともに桃香が前屈をし───その指が、今度は足に届く。
「! えっ!? ななななんでぇえっ!? 届く……すごい、届くよっ!?」
相当に興奮したんだろう。
桃香は自分がやってみせたことが信じられないらしく、何度も何度も前屈をやってみせる。
さらに、まあこれは大体の人がまず気づかないことなんだが、前屈の際に腰が後ろに退けてしまう人が多いのだ。それを指摘して、まあそのー……後ろに出過ぎてたお尻を戻す意識で、桃香がさらに前屈。
地面につく指の範囲が増えると、ぱあっと表情を明るくさせ、興奮気味に見て見てほらほらと燥ぐ。
それをやんわり落ち着きなさいとなだめ、関節や筋肉が多少柔らかくなっているうちに準備体操と柔軟運動を屈伸メインで始める。
今度は一瞬じゃあなく時間をたっぷりかけて、多少柔らかくなった体をさらに一箇所ずつ重点的にほぐしていってから、そのまま時間が経っても元に戻らないように、伸びた状態を保たせておく。
「んっ、くっ、うぅうううぅぅ~……ちょっと……苦しい……かも……!」
「あ、息は止めないで、少しずつでもしっかり吸って吐いてをすること。こう、伸ばしている部分に酸素を送る気持ちで、ゆっくりと───吸って~……」
「す……ぅう……ぅ……」
「吐いて~……」
「はぁ、あぁああ~…………」
「ん、その調子。痛くなりすぎない程度まで伸ばしたら、その状態のままキープ……あ、いや、固定ね」
「う、うん……ふくっ……ふ、ぅうう……」
ぺたんと地面に座り、足を両脇へと伸ばし……上半身は前へと倒す。
体が柔らかい人は地面にぺたりと胸までくっつくんだが、固いとそうはいかない。
桃香の場合は……まあその、胸の大きさのお陰でくっついてはいるけど……うう、目に毒だ。
あとここでも注意点。
腰から一気に曲げるんじゃなく、股関節から曲げる意識でやるといい。
「じゃあ次。手首や足首の運動。ここをよくほぐしておかないと、走ったり腕を振るったりする時にピキッと引きつる時がある。足首に妙なしこりみたいなものを感じる時は、特に忘れちゃだめだ」
「は、はいっ……」
準備運動だけで息がきれていた。
うん、たしかに体力無いかも。
でも最初は誰だってこんなもんだ───根気よくしっかりと、諦めずにやれば身に付くさ。
……
で……準備運動の全てが終わったわけだけど。
「……きゅう」
ぐったりという言葉がこれほど似合う状態は無いと思う。
中庭の中央に倒れる桃香蜀王様は、ぜひーぜひーと息を荒くして立てないでいた。
「これから城壁の上を走るんだけど……大丈夫か?」
「うぇえええ~っ……? お、おにいさっ……平気、なの……っ……?」
「全然平気だけど……たしかに最初はキツイよな、この準備運動。でも走るための体力を温存するために準備運動を欠かせたら、満足になんて走れやしないんだ」
「うぅ……」
「じゃあ桃香。好きなだけ休んで、走ってみようって思えるくらいに回復したら城壁に来て。出来るだけ体が冷える前のほうがいいけど、どうしても無理そうだったらそのままで。な?」
「う、うん……ひゃあっ!?」
ぐったりな桃香を片手で支えるように抱え上げ、てこてこと歩いて木陰へ。
今日は日差しが強いから、涼しいところの方が回復も速いだろう。
「じゃ、行ってくるな。───思春~、付き合ってもらっていいかー?」
「構わん」
「よし、それじゃ───あ、張飛~! 暇してたら一緒に走らないかー!?」
「走るのだー!」
蛇矛を振るい、自身の鍛錬をしていた明らかに暇そうじゃない張飛を勧誘。あっさりノってくれた。
思春は思春でなんだかんだでずっと傍に居てくれるし、誘えば鍛錬に付き合ってくれる。本当にありがたい。
そんな彼女らと石段を登って城壁の上へと登り───走り出す。
右腕が包帯に包まれたままだから、身振りの時点でどうにも違和感が先立つが───それでも全速力で、身体能力が許す限りにひた走る!!
「おー! お兄ちゃん速いのだ! 鈴々も負けないのだ!」
「よし! じゃあ勝負だ張飛!」
「にゃっ! しょーぶなのだーっ!!」
「………」
城壁を走る。段差を越え壁を蹴り登り、一歩も譲らぬ激走を思春と張飛とともに繰り広げ。
一周、二週、三週と続け、なおも落ちぬ速度をそのままに、我ぞ我こそと一歩を先んじようとし前へ前へ……!!
「昨日の俺より一歩前へ……! より昨日よりは二歩前へ……! されど三日前よりは四歩も五歩も前へ! 三日を糧とし己を鍛えて理想へ近づく! ……諦めない! 俺は俺に出来ることをこの二日で二歩、三日で数歩を歩みて目指す!」
「……なんか格好いいのだ! 鈴々もえーとえーと……とにかく走るのだ!」
「行こう張飛! 昨日の俺達よりも一歩先の自分を目指して!」
「行くのだお兄ちゃん!」
「…………暑苦しいな」
走るのが楽しくなると、人間のテンションはいろいろと変わるものだ。
それは、何かに夢中になると周りが見えなくなる感覚によく似ている。
俺の場合は、いつか意気投合した華佗からの影響が大部分を占めているが。
そこを素直に思春にツッコまれて、少し苦笑をもらしてしまうが───動かす足は変わらずに速い。
「うりゃりゃりゃりゃりゃーっ!!」
「くおっ!? さ、さすが張飛……! けど俺だって明命と一緒に足を鍛えたんだ……! さらに遊びだろうと負けを良しとしないと心に刻んだ! だから絶対に負けない!!」
「おおーっ!? お兄ちゃんほんとに速いのだ! だったら鈴々も本気でぇ~っ!」
「なんだって!? い、今まで本気じゃなかったと───!? フフッ……だったら俺はさらにその上を行く本気を見せてやる!」
「にゃっ!? だったら鈴々はさらにその上をいく本気を見せるのだ!」
「なんの! 俺はさらに……!」
「鈴々はさらに……!」
「いいやさらに!」
「もっとなのだ!」
「俺のほうが───」
「鈴々のほうが───」
『速い(のだ)ぁああーっ!!』
走る走る走る走る走る!!
足に氣を込め石畳を蹴り弾き、前へ前へ一歩でも早く一ミリでも張飛より前へ!!
「うおぉおおおおおっ!!」
「にゃぁあああぁーっ!!」
我先に! 否、我こそ先に!
そんな言葉がその姿から聞こえてきそうなくらい、俺と張飛は先を目指して駆け続けた。
暑苦しい? いいじゃないか、冷静な自分を魅せたいとか思うあまり、動けず騒げずでいるくらいなら、俺は喜んで騒がしい自分になろう!
……あと、ここ数日で悟りました。
蜀、騒ガシイクライ、丁度イイ。
冷静デイル、ダメヨ。
サブタイトル入力スペースで、エンターキー押しすぎたら投稿とか、怖いと思うの……!
あの……ハイ、間違って投稿しちゃってごめんなさいでした。
むしろ僕が一番驚きました。