-_-/雲長
…………。
なにを……私は何をしていたのだろう、と……ただ漠然と、そう思った。
「うん? どうした、愛紗よ」
玉座の間にて天井を仰ぐ私にかけられる声も、どこか遠くに聞こえる。
そうして天を仰ごうとしても、見えるのは冷たい天井だけであり、聴覚に意識を向けてみても、聞こえるものは北郷という男を愉快そうに引っ張り合う者たちの声ばかりだ。
感覚が曖昧といえばいいのだろうか。
ただ……そう、ただ。北郷───殿、に握り返された手の感触と、あの……泣いているような笑顔だけが、自分の中から消えてはくれない。
だからだろう。不覚とまでは言うつもりはないが、口から言葉がこぼれていた。
「…………人間…………だった」
人間。
当然のことだと誰もが笑う言葉だろう。
そう、人間だったのだ、間違いであってほしいと思ってしまうくらい。
「……? すまんが愛紗。話が見えんのだが?」
私の言葉に、当然のことながら星は眉を顰める。それこそ当然だ、私とて眉を顰めたい。顰めたいが……事実がそこにあってしまった。
───天の御遣い。
管輅に予言された存在。
天より遣わされ、世に平安を齎すとされた存在。
予言の通りと言えばいいのか、あの男は魏に相当な貢献をし───そう、最初は知らなかったとはいえ、己の“存在”を賭けて戦ったと聞いた。
前線に出ないというのに“存在を賭けて”というのがどういうことを意味するのかは知らない。魏の将から曹操殿がそう言っていたと聞いたにすぎない。
それと関係しているのかどうなのか、三国の戦の全てが終わる頃には、魏の将と交わした約束を果たせぬままに───天の御遣いは最初から居なかったかのようにその姿を消した。
天に帰った、とは曹操殿の言葉だ。
魏の将達は北郷という男が約束を果たさぬまま消えるものかと口にはするが、天に帰ったと口にするのが自らが信ずる主ならば、信じないわけにもいかない。
各国が一つの国に集まる最中、酔っ払った張遼が涙ながらによく愚痴をこぼしていたものだ。
(…………)
戦局を一手も二手も先読みし、覆される理屈が存在しない状況を看破、覆してみせた存在。その力が蜀にあったなら、と……時折に朱里と雛里が口にしているのを私は知っていた。
違うな……蜀と名乗るよりももっと前。
乱世を歩む歩が、まだ桃香さまと私と鈴々のみだった頃に出会えていたなら……もしやすると我々も、もっと別の目的のためにも奮闘できたのではないだろうか。
(……いや)
考えていたことはそうではない。
私はどうしようもなくわかってしまったのだ。
天の御遣いとどれだけ謳われようと、彼の者は“人間”だった。
いつだって不安に駆られ、しかし守りたいものがあるからと震える足で立つような……そう、考え方の根本こそは違えど、彼の者は本当に桃香さまに近しかった。
悲しければ泣きたいと思い、辛ければ逃げ出したくもなっただろう。
あの曹操殿の下に居たのなら、余計に責任というものが重く感じられたに違いない。
しかし彼はそんな中で今も魏に立ち、胸を張って生きている。
だが───どうなのだろう。
桔梗が言ったな……こやつの前では魏の連中が猫になる、と。
それは魏の猛将たちが、北郷という男を拠り所に、寄りかかれる場所にしているということだ。
(ならば……)
ならば。
自分の都合ではなく、勝手に乱世に降ろされた彼の拠り所はいったい何処にあるという?
天の国から来たというのであれば、当然この大陸に身寄りなどあるはずがない。
孤独の身で乱世に降り立ち、予言があったからと勝手な期待を抱かれ、働きが想像以下ならば勝手に落胆される───……果たして、私達が先に出会っていたとして、私は彼に自分勝手な幻想を抱かずに居られただろうか。
勝手な期待を押し付け、期待で押し潰し、期待していた分だけ勝手に落胆していたのではないだろうか。
(私は……)
桔梗や紫苑に囲まれ、困り顔ながらも笑っている彼を見る。
そこにはもう、一瞬だけ見せた儚げな笑顔の影は欠片も無い。
……それで、ひどく納得してしまった。
彼はきっと、これからも弱さなど見せないのだろう。
気を許した相手にでも、恐らくは一時程度しか見せようとはしない。
そんな生き方を誰に学んだのだと言ってやりたいくらい、なんと不器用なことか。
「……おーいぃ……? そろそろ私も自己紹介くらいしたいんけどー……」
「にゃ? 白蓮いたのかー?」
「居たのかってなんだ! 居ちゃ悪いのかっ!」
桃香さまには人を惹きつける力がある。
それと同じく、あの男……北郷殿にも人を惹きつける不思議な魅力があるのだろう。
敵意をまるで感じさせない笑顔は本当に桃香さまのようで、どれだけ振り回されても、慌てはするが“本気の文句”のひとつも飛ばさない。
「おー! この前のエサにゃー!」
「エサじゃないぞ!? 久しぶりに会って、開口一番でエサ扱いとかしないでくれ猛獲!」
「……? ん~………………おー! イノシシにゃ!」
「違うって! 北郷! 北郷一刀っ、人間であって食物じゃあ断じてないっ!」
「無論そうであろうとも。北郷殿は“食べる側”だ。……それも女性に限り」
「趙雲さん!? 誤解しか生まないことを当然のように言わないでほしいんだけどっ!?」
「む、これは心外。誤解以外にも、皆との距離が生じているのに気づかなんだか、北郷殿」
「……俺、もう泣いていい?」
「はっはっは、男子の涙とはまた貴重な。うむ、存分に見せるがよろしい。泣き方を忘れた御仁よりも、素直に泣ける御仁のほうが、私としては好ましい」
星が一瞬、こちらを見て穏やかに笑ってみせた。
……星も気づいたのだろうか。北郷殿の中にある、無理矢理に押し込めたような小さく儚い感情に。
「……やっぱりやめた」
「おやそれは残念。泣くというのであれば、この胸くらい貸してくれようかと思っていたのに」
「趙雲さん、冗談でも男に向けてそういうこと、言っちゃだめだ。いつか傷つくことになるかもしれないぞ」
「フッ……生憎とこの趙子龍に見合う男子など、容易に見つかろうはずもない。いつか傷つくのであれば、傷ついた自分ごと包みこんでくれるほどの、広い包容力を持った男と出会いたいものではあるが」
「包みこんでくれるだけでいいなら、そこらへんにいっぱい居ると思うけど」
「ふむ。好みに合わんので遠慮しよう。民として、兵としてなら見れるが、男としては無理と言っておこう」
「……男の事で苦労しそうだね、趙雲さんは」
「ふふっ、その言葉は苦労の分だけいい男に会える……という意味として、受け取っておこう」
星が今一度こちらを見て、肩を竦めてみせた。
苦労の分だけ……つまり、時間をかければ寄りかかれる場所にでもなれようと、そう言いたいのだろう。
……そう。桃香さまに似ているということは、頑張り続けてしまう癖があるということにも繋がる。
桃香さまも人に頼りはするが、寄りかかることをしないお方だ。その癖は、あの日……曹操殿と刃を交えた頃から拍車をかけている。
“王になるべきではなかった”という言葉が、重かったのだろう。その言葉とともに打ち下されたのだ、当然だ。
「へぇ? 天の御遣いって聞いて見に来てみれば、あんたイノシシなの」
「え、詠ちゃんっ……そんな言い方、御遣い様に失礼だよぅ……」
「様ぁ!? ちょっと月!? なんでこんなやつに様とかつけちゃってるのっ!? だめよだめっ、同盟国だろうと位の高い相手ならわかるけど、警備隊長程度のこんな男を、……な、なによ」
「……ごめん。俺のことならどれだけ馬鹿にしてもいいから、隊長としての俺を信頼してくれるやつらのためにも、警備隊を“程度”呼ばわりしないでくれ。……これでも、俺の誇りの一つだ」
「え……う……」
「……詠ちゃん」
「うっ……わ、悪かったわよっ」
「……うん。ありがとう」
「わ……」
「ほう……?」
ふと、北郷殿を囲んでいた皆の口から、溜め息にも似た声が漏れる。
何事かと、自然と俯いていた顔を持ち上げれば……そこに、桃香さまの笑顔によく似たやさしい笑顔があった。
「己の立場よりも兵や民の信頼のために、か。北郷殿に思われている兵や民は幸せだろうな」
「……? どうしてだ?」
『……ぷふっ!』
星の言葉に、心底わからないといった顔で首を傾げる北郷殿。
その様を見て、周囲の皆は軽く笑みをこぼした。
「え? え? どうして笑うんだっ!? えっ!?」
「みんな、どうしたのっ? え? 今の笑うところだった?」
「はっはっは、いやいや桃香さま。そういうわけではござらん」
「はい。一刀さんの反応があまりに桃香さまに似ていたために、少しおかしくなっちゃっただけです」
知らぬは本人ばかりなりというのか……桃香様も北郷殿も、たしかに解りようがないのかもしれないが、不思議そうに首を傾げていた。
対する星と朱里は心底楽しそうだ。
「うーん……似てるかなぁ……」
「いや、俺に訊かれても……えっとそうだな……。桃香に思われてる兵や民は幸せだろうな」
「え? どうして?」
『……ぶふっ!! あっはっはっはっは!!』
「えっ───どうしてお兄さんまで笑うのー!?」
気づけばそこに笑みがある。
先ほどまでたしかにあった多少の緊張など何処に飛んでいってしまったのか、今では蜀の将の全員が桃香さまと北郷殿を中心に、笑みを浮かべていた。
外見が似ているとかそんなものではなく、何気ない行動、何気ない言動。民や兵を思い、自分よりも他人を優先させるその在り方が、そうさせているのだとしたら───そうか。
(なるほど……桃香さまが我々を頼りにしているように、北郷殿も魏を拠り所にしているのか)
魏の連中が北郷殿の前で猫になるというのなら、北郷殿もそうなのだろう。
だが……そうだな、星の考えもわかる。
あくまでそれは“魏に居れば”の話だ。
たとえば桃香さまがたった一人で魏に行き、何ヶ月も滞在することを想像してみれば……私は少し怖くなる。
王であるが故に、たしかに持て成されるだろう。
だがそれが一介の警備隊長であったならどうだ?
天の御遣いという名があるとはいえ、地位で言ってしまえばそこまで。
もし、桃香さまが同条件で呉や魏に向かうとしたなら。
その場に、私や焔耶のようにその者を嫌うような輩が居たとしたなら。
(桃香さまは、果たして笑顔でいられただろうか……)
そんな心の不安の現われが、先ほどの弱々しい笑顔だとするのなら、私は……
「聞いたよ。あんた結局、馬小屋に住む事を却下されたんだってな」
「ああ、馬超さん。そうなんだよ、せっかく決めた覚悟がこう、霧散した思いで……」
「そんなものに向ける覚悟があるなら、もっと別のなにかに向けろよ……」
「いや、うん……俺も正直、そうは思ってたけど」
「それを言うために、さっきはお姉様を探して走り回ってたんだもんねー?」
「馬岱はすぐに見つかったのにね……逃げられたけど」
「だってあんなこと言われたあとじゃ、さすがに心の準備が……」
そんな想像をしてみたところで、そんな状態になるのはどうせあの男なのだから、と下に見てしまっている自分が居る。
その事実が、胸に痛い。
「あんなことっ!? お前っ、たんぽぽに何言ったんだっ!!」
「言えないっ! ていうか言わないっ!」
「言えないよねぇー……あれはお姉様には刺激が強すぎるもん」
「いいから言えっ! もしヘンな事を吹き込んでたりしたら、お前っ……!」
「えへへぇ、仕方ないなぁお姉様は。じゃあ教えてあげるから耳貸して? えーとねぇ……」
「いやちょっ……馬岱!? それはマズ───!!」
「……? この男が? 魏で……? ………………★■※@▼●∀っ!?」
「───桃香サン、僕、コノ国ニ来レテ楽シカッタ。デモモウ行カナキャ」
「え? 行くって何処に? だめだよぅ、まだ恋ちゃんとねねちゃんと話してないのにっ」
「キュッ……急用が出来たから行かなきゃっ───っとわぁっ!? ちょ、桃香離して! 離してぇえええーっ!!」
「~っ……こ、ここっ、こっっ……このっ……ここここのエロエロ大魔神!! たんぽぽにっ……人の従妹になんてこと教えてるんだぁああーっ!!」
「うわー、お姉様顔真っ赤。えっへへー、もしかしておにいさん、学校でもこんなこと教えてくれるの~? そしたらお姉様の恥ずかしがりなところも治るかもしれないねっ」
「☆□○△×~っ!!? かっかかかかか帰れぇええっ!! 帰れこのエロエロ大人! お前に教わることなんてあるもんかぁああっ!!」
「エロエロターレン!? 中国スケールで壮大にエロエロ扱いされた!? ……趙雲さん。胸は貸してくれなくていいから泣いていい?」
「うむ。存分に泣きなされ」
…………。
小さく頭を振った。
考えて考えて、考え続けてみたが……結論など一つだ。
あの男は、弱くもあり強くもある。
いや……本当は弱いのだろうが、強くなろうと努力をしている最中なのだ。
現実と向き合い、自分に出来ることから一つずつ一歩ずつ、目指したものへと歩んでいっている。
その目指す道というのが何かまでは流石にわかりはしないが───
「……ああ」
嫌う理由は、もはや無くなった。
……それも否だな。桃香さまの言う通り、私はきっかけを探していただけなのだろう。
あの男に悪意がなかったことなど、呉での働きぶりを聞けばわかりそうなものだ。
どれだけ誘われようとも、親しくなろうとも、魏のみを愛すと呉王孫策に言ってみせたと聞く。
そんな男が間違い以外で覗きなど……するはずもなかったのだ。
(己が恥ずかしいな、雲長よ……)
桃香さまのこととなると、自分は我を忘れすぎる。
まずは一歩だ。
あの男のことを知るところから始めてみよう。
「……? あれ? そういえば七乃ちゃんは?」
「あっちの隅っこで落ち込んでるのだ」
「飽きませんわねぇ……美羽さんの何処に、尽くそうと思えるところがあるのかしら。理解しかねますわ」
「いやー……それを麗羽さまが言いますか?」
「わわっ……文ちゃんっ」
「……文醜さん? ちょっとこちらにいらっしゃい」
「うわっ、聞こえてたっ! 助けて斗詩ぃっ!」
「えぇえっ!? れ、麗羽さま、ここは穏便に───」
「お黙りなさいっ」
いつも通りの騒がしさの中を歩く。
あの男が来てから、線を引いていた距離を軽く踏み越えて。
まずは何を話そうか。謝罪か、それとも普通に話すべきか。
急に謝罪されても困るかもしれない……ならば普通に? いや、それでは一方的に怒っていた私が、それを無かったことにしているようで……ううむ。
「いやいや、まさか本当に泣き出すとは。しかし子供のように泣き喚いたりはさすがにしないようだ」
「そんなの望まれても困るんだけど……でもうん、少しすっきりしたかも」
「無論だ。無理をして我慢していたものを解放するのなら、負担も軽くなるというもの。どうせ吐き出すのなら、本気で喚いてもよかったと思うが」
「趙雲さん、それってただ俺の泣き喚くところが見たかっただけじゃない?」
「弱きところを見せ合ってこそ信頼は生まれるというもの。お主がそういう部分を見せてくれるのであれば、私もやぶさかではなかったという話だが……ふむ。自分から見せるには、些かばかり無駄な誇りを持ちすぎた」
「苦労しそうだね、武人っていうのも」
「苦労も面倒事も、興じてこその武人。なに、これで案外楽しんでいる。己が誇りに道を左右されるも、己が意思で誇りを捻じ曲げ左右されぬも、己の選択一つで変わること。選ぶ権利が自分にあるだけ、我らはまだまだ幸福だ」
「へぇ……じゃあたとえば、ここで友達になってくださいって手を差し出されたら、どんな選択をする?」
「ふむ。今は断ると言うだろう。生憎とまだまだお主のことを量りかねているところ。手を伸ばすのは、互いをより知ってからでも遅くはなかろう?」
「そっか。じゃあ、これからしばらく……よろしく」
「うむ。……これでしばらくは退屈せずに済みそうだ」
「え? なにか言った?」
「おっと。独り言だ、お気になさるな」
「……敬語とかは勘弁してくれな。もっと砕けてたほうが話やすそうだし」
星はおどけ、随分と砕けて話している。
飾らない雰囲気が気に入ったのか、警戒の色はすでに無い。
なるほど、悩むよりも話してみればわかることなど山ほどある。
ならばともう一歩を踏み出し、彼に近づこうと……するより早く、北郷殿の服を“くんっ”と引っ張る姿がひとつ。
「え? なに───って、恋?」
───瞬間、辺りが騒然とした。
ざわりと空気が震え、その後に発せられる言葉など一切無く。
ただピンと張り詰めた冷たい空気のみがこの場を支配した。
「……あ、れ……? あのー……どうしてこんな、急に冷えた空気が───」
「…………?」
真名を。今、真名を口にしたのか、あの男。
何処で知ったのかは知らんが、軽々しく真名を呼ぶ者と知ったなら、今こそ───!