真・恋姫†無双 魏伝アフター   作:凍傷(ぜろくろ)

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21:呉~蜀/一路、蜀国へ①

幕間/彼の無意識と彼女らの思惑

 

 -_-/呉

 

 ……一刀、思春、朱里に雛里が建業から出立し、しばらく。

 

「行ってしまったのう」

 

 姿は最初から見えやしないが、彼らが進んでいったであろう方角を見やり、祭がつまらなそうに呟いた。 

 “姿が見えなくなった”どころか見送りもしなかった彼女らだが、一刀らが向かった先(城壁だが)を眺めては、やがてつまらなそうな顔をどこか面白そうな笑みに変え、息を吐く。

 

「さて公瑾よ。あれをどう思う?」

「ふふ……どう、とは?」

「わかっとるんじゃろうが。含み笑いなぞ止め、さっさと言わんかい」

 

 彼女ら、とは祭と冥琳の二人。

 雪蓮とともにさっさと仕事に戻ろうとした冥琳だったが、その首根っ子を祭に掴まれ、東屋で酒に付き合わされていた。

 想像するに容易く、戒めのない呉王さまはとっくに仕事をほったらかしにし、どこぞを駆け回っていることだろう。

 

「……少なくとも、あれで諦める女は呉にも蜀にも……いえ。視野を広めて言うのであれば、この大陸の何処を探しても居ないでしょう」

「まあ、そうだろうのぅ」

 

 かっかっかと笑う声が響く。

 あれで諦めるようであれば、恋に焦がれる女としては失格だと笑い飛ばすかのように。

 

「策殿も、気づいていて“北郷の思う通りにする”などと。まったく人が悪いというか面白いというか」

「あれは気づいていますよ。近日中に魏に乗り込むつもりのようで、少し前に曹操へと書簡を送ったようです」

「ほぅ……書簡を? 何が書かれているかは公瑾、お主は知っておるか?」

「北郷を三国共通の財産にする、だのどうのと言っていたのでそのことかと」

 

 静かな笑みを浮かべながら酒を傾ける。

 中々に強い酒だが、まるで水を乾すが如くだ。

 

「はっはっは、なるほどなるほどっ、策殿もまた思い切ったことをするっ! ……ところで公瑾よ、返ってくる返事も予想がついておるんじゃろう?」

「ふふっ……ええ、それは。曹操は恐らく雪蓮任せにするでしょう。我々よりも北郷を知る者です。雪蓮からの書簡に目を通せば、雪蓮の好きにさせるでしょう」

「まあそうじゃろうよ。“噂”がつくづく真実なのだとすれば、何もせずとも北郷自身が気づきおるわ」

「必要なのは時間と心の整理、そして余裕。今の北郷には全てが足りていない。これではああいった言葉が出るのも頷けるというもの」

「全ては北郷が魏に帰ってからか……───くっく、それとも……」

「ええ。諸葛亮もどうやら気づいていた様子。蜀でどういった行動に出るのか、楽しみではあります。どちらにしろ、北郷が気づくか蜀の者が気づかせるか」

 

 「私としては、北郷自身に気づいてほしいものではありますが」と続け、再び酒を傾ける。

 対する祭といえば、若干不安を浮かべ、「それはちと難しいのぅ」と呟きながら酒を飲んでいた。

 

「ふむ。今のままではどちらにせよ難しいと、そういうわけじゃな。まあ無理もなかろうよ。いつでも好きな時にこの大陸に降りれるわけでないというのなら、北郷が過ごした一年は───およそ魏のこと以外は考えられん毎日だったのじゃろうからの」

「雪蓮などは“そうでなければ落とし甲斐がない”と言いそうですが───……うん?」

 

 段々と上機嫌になってきた己の機嫌に笑みを零し、再び傾ける酒は美味の一言。

 機嫌が悪い内に含むものなど、よほどに美味くない限りは美味ともとれぬは当然。その味が美味と感じられた……というのに、横槍が入ることにさすがに眉を顰めた。

 

「あ、はっ───失礼ながら申し上げますっ!」

 

 まさに大慌てという言葉がよく似合う風情で、兵士数人が駆けてきたのだ。

 

「騒々しいのぅ……いったい何事かっ!」

「は、はっ! それがっ……伯符さまが急に馬に乗り、“ちょっと魏に行ってくる”と言い、止める言葉も聞き流して外へ……!」

「なっ───!?」

「ほっ……! ふわはははっ、はっはっはっはっは! これはまたっ……なんと思い切りが過ぎる行動っ! のう公瑾っ!」

 

 冥琳が機嫌ごと平静さを吹き飛ばし、目を見開く中で。祭はむしろ見事といった風情で高らかに……いや、酒に酔い潰れた人のような、豪快さと危うさとを混ぜたような声で笑い出した。

 だというのにさらにさらにと酒を呑み、「い、いかが致しましょうか」と訊いてくる兵の頭をべしべしと叩くと「気が済めば帰ってくるだろうよ、ほうっておけい」と笑って言い、そのままの足で東屋から去ってゆく。

 冥琳はといえば溜め息の連続であり、書簡を送ったのはこのための下準備だったかと……気づけなかった自分にこそ溜め息を吐いた。

 いつか決行するとは思っていたが、まさか相手の出立日だとは……随分とまた急ぎ足だな───と呆れる他なかった。

 

「仕方のない……。蜀をのけ者にして話を進めるわけにもいくまい……」

 

 劉備に書簡の一つでも届けるとしよう。

 突拍子もない内容だが、諸葛亮が戻ればその内容もきちんとした形で伝わるだろう。

 そう思い、彼女もまた東屋を後にする。

 残された兵たちだけが、いまいちどう行動すればいいのかを掴めず、しばらく互いの顔を見たりしながら動けないでいた。

 

 

 

-_-/一刀

 

 とある青空の下の、とある大きな樹の下。黒檀木刀と、鞘に納めた鈴音とがぶつかる音が響く。

 

「よっ、とっ……ほっ!」

 

 ヒビが入らないようにと纏わせている氣が微量なためか、祭さんとの鍛錬や、雪蓮との戦いの時のような金属音は鳴らない。

 

「……ふう。ありがと、思春。十分だ」

「ああ」

 

 蜀へと向かう過程、一日やそこらで辿り着ける距離でもなく、こうして三日毎の鍛錬は腕をポッキリやったあとでも続いている。

 痛みがないっていうのは大変ありがたいもので、骨自体は氣で固定してあるから走ったりしても揺れないしで、右腕が動かないこと以外は不自由を感じないでいる。

 なもんだから、鍛錬の日が来れば思春が駆る馬から下り、自分の足で走ったり……休憩を取る際にも思春に付き合ってもらって鍛錬をしていたりする。

 

「………」

 

 息は乱さずに汗だけを拭い、一息。

 折れた骨に回す分の氣が無くなるまで鍛錬を続けるわけにもいかず、剣術鍛錬自体はそう長くはしないで終える。

 体が鈍らない程度に動かしていれば、今はいいだろう。

 怖いのは左腕ばかりの鍛錬で右腕での感覚を忘れることだ。

 よく漫画とかでも“体が覚えているもんだ”というけど、それは体が覚えてくれるまで、条件反射でできるようになるまで鍛えた場合に限るわけで……俺のはそこまで至っていない……と思う。

 怖いんだな、ようするに。どうなるか解らないから怖いんだ。

 

「治れ~、治れ~……」

「………」

「いや大丈夫、頭がイカレたとかそういうのじゃないから……お願いだからそんな目で見ないでください」

 

 だから右腕に氣を集中させながら、こんなふうに念を込めるように唸ることがあるわけだが、きまって思春に哀れなものを見る目で見られてしまう。

 

「たださ、腕が動かせない分、鍛えてきた筋肉のバランス───えと、釣り合いとか均衡って意味だけど、それが変わるのが怖いんだ。だから早く治れ~って……わ、わかるだろ? ……わかってくださいお願いします」

 

 華佗の言うことが本当なら、俺の傷が癒える速度は普通の人よりも速いはずだ。

 それを今、固定と合わせて氣で癒そうとしている。

 右腕が使えなくても、これはこれで左の鍛錬には丁度いいんだけど……やっぱり右を動かせない事実は、たったそれだけでもストレスに変わる。

 

「左……左かぁ。左手だけで出来ること……んー……届かざる左の護剣(マンゴーシュ)!」

 

 ……うん無理。剣っていうか木刀だしこれ……。そんな問題以前に、そういった奥義自体を俺は知らない。

 なにせ、じいちゃんが言うには北郷流に奥義はなく、そんな都合のいい左手奥義なんて存在しないからだ。

 

(鍛えた五体こそを奥義と思え……かぁ。ほんと、無茶言ってくれる)

 

 左手に持った木刀を、左手一本で正眼に構え、突きを放ってみる。

 ……速度も大して乗らず、なんだか寂しい気分になってしまった。

 

「思春、蜀……成都に着くまでどれくらいかかるかな」

「正確な日数はどうあれ、それは幾度も往復をしている諸葛亮や鳳統に訊くべきだろう」

 

 広大なる荒野を眺めつつ、こちらを見ることもなく返す思春。まったくその通りなのだが、その二人が今は水浴びの最中だから仕方ない。

 これから荊州を抜けて益州に入って、成都へ……って時なんだが。こう遠くては「ちょっと遊びに来たよ」って気安く遊びには行けない。

 

(学校のためとはいえ、何度も往復するのは大変だったろうな、朱里に雛里……)

 

 と、広大な荒野から視線を背後に移せば、鬱葱としげる森林。

 この奥に泉があって、朱里と雛里はそこで水浴び中だ。

 ああちなみに、毎度朱里や雛里を送り迎えする護衛兵のみんなには、森を囲むように立ってもらっている。

 いくら平和になったからといって、女の子二人で旅をしていいものかと訊かれれば、誰もがノーと答えるだろう。

 

「………」

「? 思春、どうかしたのか?」

「……空気が湿ってきたな。ひと雨来るぞ」

「え───」

 

 空を見上げる。……晴天の蒼がそこにあった。

 

「こんなに晴れてるけど?」

「だから今動く必要があるんだろう。雨足を防げる場まで行くぞ」

「……そっか、うん、わかった。じゃあ朱里と雛里を呼んで来ないと、な……ってごめん思春……頼んでいいか?」

「諸葛亮と鳳統を呼んで来る。貴様は兵達に出る準備を整えろと言って回れ」

「ん、了解」

 

 素直に頷いて走る。こういう時の天候への判断は、俺なんかよりも思春のほうが上だろう。

 大して広くもない森の外周を回り、護衛兵に出発を告げると兵たちは準備を始めた。

 俺はといえば……その準備を手伝って、「悪いです」と言われても笑顔で返して、黙って準備を手伝った。

 

……。

 

 出発から程なくして、空は突然の曇り空へと変わる。

 いったい何処から集まったのか。見上げてみれば、幾つもの分厚い雲が我こそはと名乗り上げるかのように、重なりに重なり、蒼かった空をどんよりとした泥水のような色に変えてしまっていた。

 そんな空の下を朱里と雛里と思春が馬で進み、俺は早歩きで進む。走ることはしない。馬の体力も考えると、自分が濡れないために急がせるのは馬の脚によろしくない。らしい。

 

「……なあ朱里。天候を操ることって出来そうか?」

 

 こんな急な天候を見て思い返すのは、三国志の赤壁の戦い。

 将と兵とが時間を稼ぐうちに諸葛亮が祈祷を捧げ、風向きを変えてみせるっていうとんでもないもの。

 本来ならそれで敗れるはずだった曹操……華琳は、火計に襲われることもなく勝利を勝ち取ったわけだが……

 

「天候を操る……ですか? う……ん……その。道士であっても難しいんじゃないでしょうか……」

 

 何気ない言葉に対しても、ちゃんと考えた上で言ってくれたんだろう。両手を胸の前で握り締め、難しそうな顔で言う。

 道士、と聞いて頭に浮かんだのは、拳と蹴りとでキョンシーを殲滅する男の姿だった。いや、あれはある意味で間違った例だ、忘れよう。

 

「道士か……そういえば、五胡……っていったっけ? そこには妖術使いが居るって話だけど」

 

 宴のあの日、雪蓮が五胡が襲いかかってきたことがあった、と言っていた。妖術なんてものを使うんだったら、それこそ天候とかも簡単に操れたりするんだろうかと、何気なく訊いてみたのだが。

 

「妖術、というのはいろいろな捉え方があります。たとえ本当に術を持たなくても、相手にそれが妖術だと思いこませれば、それは妖術になるんですよ」

 

 朱里はどこか真面目な顔で、きっちりと答えてくれた。

 

「たとえばです。空気に湿り気を感じたので、誰かが気づくよりも先に“雨が降る”と言ったとします。街の皆さんは空の蒼を見てそんな馬鹿なと言いますが……一刻後、本当に雨が降ったとしたら───」

「あ……なるほど、たとえその一度目で信頼されなくても、小さなことでも回数を重ねていけば……」

「はい。知を持たない人にとって、それは確かな“予言”に変わるんです」

 

 ……いや、うん。思春さん? べつに貴女を悪く言っているわけじゃないんですから、気配を殺しつつ背後で俺にだけ殺気を飛ばすの、やめてくれませんでしょうか。というか俺が言ったわけじゃないのに……。

 

「ただ、それは私達がそう考えているだけであって、“妖術というものが存在しない、またはする”といった証拠があるわけでもありません。なにをとって妖術と決めるかは、やはり己の見聞で決めるほかないかと……」

「妖術……うーん」

 

 軽く、思考を回転させてみる。

 妖術っていうのが本当にあったとして、それはたとえばどういったものを見ればそう思うのか。

 きっかけになった通り、天候を操れれば? ……いや、それは妖術っていうよりは神秘に近いと思う。むしろ崇められる側、神の能力とかと謳われて然りだ。

 じゃあ……あ、そっか。紙から兵を作ったりとか、死者を蘇らせたりとかか。うん、妖術って感じがする。

 ……魏にはそういう方向ではなくて、現在の技術でマイクとかを操る妖術師が居たりしますけどね。あれこそ妖術じゃなくて、まったく別のなんらかの技術、としか受け取れないのが……なんだかなぁ。

 

「地和、元気でやってるかなぁ……っと、そうだ。妖術ついでで訊きたいんだけどさ。五胡ってところ、どうなったんだ? 雪蓮の話だと、俺が元の───天に戻ってから、ひと騒動あったそうだけど」

 

 そのことに関しては、華琳も魏のみんなもなにも言わない。

 言いたくないのか、それとも訊かれない限りは答えたくもなかったのか。

 朱里は俺の質問に対して……気の所為か軽く身震いして、弱々しい笑顔で返してくれた。

 

「五胡……ですか……。ひと騒動で片付けられる規模ではありません……異常ともとれる兵力を以って、理由さえない……あるとするなら、その……“邪魔だからそうした”としか思えないひどい攻め方で……三国に向けて進軍してきました」

「三国に……? どれかひとつの国じゃなく?」

「そうだ。幸いにしてと言うべきか、国境の兵が異常に気づき、報せに走ってくれたお陰で迎え撃つことが出来た」

「………そっか」

 

 朱里に続き、説明してくれた思春に頷きを返すが……小さく耳に入った“人が死んだ”という言葉。それだけが、胸にズキリと響いた。

 自然と俯きかける俺に、雛里が悲しそうに告げる。

 

「やっと……平和になって、みんなが笑顔を見せるようになった……途端、でした」

 

 馬を歩ませる兵の後ろで帽子を深く被り直し、囁くように。

 

「持ち堪えてくれていた国境の兵はほぼ全滅。近隣の街も潰されかけていて、そこになんとか駆けつけることが出来た……そんな戦いでした」

 

 同じく、かつてを思い出してか……震える声を絞り出す朱里。

 そして───

 

「幸福の中にこそ危機がある。その言葉を現実として突きつけられた。……貴様ならわかるだろう、北郷。いくら手を伸ばしても声をかけても、手を握らなかった民たちの悲しみを。三国の何処かが憎いのではない……五胡こそが憎く、だからこそ許せず、手など握れなかった」

「あ……」

 

 ……そう。そして、こんなところでようやく理解に至る。

 届かないはずだ、頷けないはずだ。

 憎しみが向けられた場所がまるで違う。

 魏を、蜀を憎んでいるのではなく、ただ戦を憎み……五胡という得体の知れないものを憎んだ。

 それはきっと、事情を知らない俺がいくら、なにを言ったところで届くものじゃない。

 

「……それを俺に教えなかったのは、なにか理由があった?」

「知らないほうが踏み込める心もある。下手な同情ではなく、心から純粋に伸ばす手……それが必要だったと雪蓮様は言った」

「……そっか」

「いつか貴様にした“子を亡くした者たちへの同情か”という質問に対し、貴様は“同情以外のなにものでもない”と言ったな。だが、貴様が同情だと頭で思うよりも、事情を知ってしまって同情するのとではあまりに違う。考え方も、接し方も、その全てが一挙手一投足に現れただろう」

「…………。だから、教えなかった……か」

 

 伸ばした手を断り続けた彼らには、いったい俺はどう映ったことだろう。

 俺へと罵倒を叫び続けた人の中に、五胡に家族を、友人を殺された人は混ざっていたのだろうか。

 同情ではなかっただろうけど、果たして……馬鹿にしているのかと憤怒を覚える者は居なかったのだろうか。

 そんなふうに、自分の意思とは関係なく次々と苦しさが込み上げる中で、ふと……冥琳の言葉が頭に浮かんだ。

 

「でも、きっともう大丈夫です。五胡との戦いから今まで、私達は国境や砦の強化、街の警備強化や櫓の増設など……五胡から付け入られる隙を無くすために様々な手を打ってきました」

「そうなのか?」

「は、はい……朱里ちゃんの言う通り、出来る限りのことはしてきました……。たとえもう一度進軍されるようなことがあっても、三国連合が辿り着くまでの時間稼ぎは十分にできるはずです」

「………」

「……、……?」

 

 軍師モードだからだろうか。噛むこともなくすらすらと喋ってくれる二人に、なんとなく感謝したい気分。

 ……そっか。手を打つことが出来たなら……もう、血を見なくて済むんだろうか。

 

「不安そうな顔だな」

「いや───もう血を見なくて済むのかなって思ったら、腹の底から安心したっていうか……うん」

 

 よかった。

 安易に言っていい言葉じゃないかもしれないけど、よかった。

 これでもう、民や兵のみんな、将のみんなだって辛い思いや悲しい思いを背負うこともない。

 これからはずっと、みんなが笑って過ごせる日々が……きっと来る、そう信じよう。来なければみんなで無理矢理にでも、そんな日常を迎えに行こう。

 

(お前になにが出来る……か)

 

 あの言葉は、何も知らない俺にこそ向けた言葉だったのかもしれない。

 家族全員を失い、自分だけが生き残った老人。

 あの人は魏、呉、蜀、どれかの戦いに巻き込まれて家族を失ったのではなく、おそらく……五胡の戦いこそで全てを失ったんだろう。

 だって、そうじゃなければ……家族全てが死んでしまうなんてこと、想像できない。華琳も雪蓮も桃香も、民を大きく巻き込んでしまうような戦い方はしないはずだ。

 だというのにあんな老人が居て、ただ生きることが出来るから生きる、なんて人生を歩ませてしまっている。

 答えは最初からそこにあっただろうに、俺はそれに気づけなかったんだ。

 

「悔いているか?」

 

 自分の手を見下ろしていた俺に、思春が声を投げかける。

 悔い? 悔いは……

 

「ん……そうだな、きっと……うん、悔いている。どうして気づいてやれなかったんだって、どうしようもなく思っちゃうんだ、仕方ない」

 

 頭の中が勝手に、悔いに埋め尽くされそうになる。

 どうして、なんで、滑稽だ、なんて。

 

「けどさ。あのお爺さんは……最後には俺の手を握ってくれた。“ただ生きているだけ”の、希望を持たない人でも───伸ばした手を握ってくれた。“どうでもよかったから”って言われればそれまでなんだろうけどさ」

 

 滑稽なんて言葉は今さらだ。

 滑稽でなくなるために手を伸ばすことをやめなきゃいけないなら、俺は滑稽のままでだって構わない。

 

「それはたぶん、思春が言うように“同情”で手を伸ばしたら得られなかったものだと思うから───うん。悔いはあっても、誰に向ける文句もないよ」

 

 いつか、雪蓮にも言った言葉を口にする。

 祭さんを殺したことを後悔しているかと問われ、俺は後悔はしていないと答えた。

 自分の“存在”を賭けて、結果として俺の言葉がきっかけで祭さんが討たれたとしても、そこには後悔はないと。

 逆に自分が殺されれば、悔いは残っただろうけど文句はなかったと答えた。

 そうだ、文句なんてない。

 悔いは残るけど、それは必要な悔いで、受け止めるべき悔いだった。

 

 ───手を繋いでくれた老人が居る。

 繋いでくれなかった町人が居る。

 繋いでくれたから大事なんじゃないし、繋いでくれなかったからどうでもいいわけじゃない。

 今さら真実を知ったところで発した言葉が取り消せるわけでもなければ、取り消すつもりだってない。

 俺は、俺がそうしたいって心から思ったから───

 

「ん……あ、雨?」

 

 重くなりかけていた心を、熱くなり始めていた頭を潤し、冷やすかのようにぽつぽつと降り始める雨。

 護衛兵たちは軽く馬を駆けらせ、朱里や雛里を雨宿りできるところまで運ぼうとする。

 思春もすぐにそれに続き、同じく駆けてゆく兵を見送りながら、俺は歩いた。

 

(なにか出来ること、ないだろうか……)

 

 真実を聞いたばかりで手を伸ばせば、明らかに同情として受け取られるだろう。

 同情としての自覚がある分、俺が伸ばす手は余計に性質が悪いんだろうけど……はは。

 

「同情になるからって線を引いて接したんじゃ、届くものも届かないもんな」

 

 俺は俺のままでいいのかもしれない。

 どれだけ泥を被ることになっても、最後に伸ばし続けた甲斐があるのなら、誰かの笑顔が見られるのなら、その時は俺も笑っていられると思うから。

 たとえそれが俺に向けられる笑顔じゃあなかったとしても───それが生きることを諦めない笑顔ならそれでいい。

 泥を被るっていうのはそういうことだ。

 

「……頑張ろう、もっと……もっと」

 

 トンと胸をノックしてから走り出す。

 蜀での暮らしがどんなものなのかが全然予想もできないけど、あの劉備さんの国だ。きっと穏やかで笑顔に満ちた国に違いない。

 そう思ったら少しだけ胸が熱くなって、頑張ろうと決めた意思にも暖かさが増した気がした。


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