軽い状況説明を済ませて、明命が連れてきた華佗に腕を診てもらう。
説明を聞いたみんなは「あぁ……」と全てを悟りきったような風情で頷いて、それをよく知る大人な人たちが、俺の肩をポムポムと叩いていった。
「綺麗に折れてるな。これならくっつくまでには時間がかかるが、痛みを抑えてやることくらいは出来る」
「本当か? ははっ、頼むよ……正直な話、もう暴れて紛らわしたいくらいに……っつつ……痛くて、さぁ……!!」
さっきから嫌な汗がだらだら出ている。
氣で誤魔化せる時間を過ぎてしまえば、もうあとには痛みしか残らないわけで───
「なんじゃだらしのない。男ならそれしきの痛み、耐えてみせい」
「へっ!? あ、ちょ待っ、───~……!!」
そんな箇所へ、祭さんからの何気ない気合いの一発。
絶叫は声にもならないほどの高音で発せられ…………今度こそ、俺は暴れ回った。
……。
……で、またしばらく。
鍼を通してもらうと不思議と痛みは引いてくれて、滲み出ていた汗も引いてくれる。
先ほど雪蓮が顔面から衝突した木に背を預け、ホッと一息ついていると……頭にたんこぶを作り、線にした目からたぱーと涙を流す雪蓮が近寄ってきた。
「うぅうぅぅぅー……」
どうやら冥琳に拳骨をくらったらしい。
「あんまり無茶しないでくれな、頼むから……。事情は聞いたけど、急に豹変されるとなにがなんだか……寿命が縮む思いだったよ」
「だってー……思ってたより一刀がいい動きするから……。あの一振り、勘でなんとなく避けたけど、勘が働かなかったらどうだったのかな~って考えたらこう……興奮しちゃって」
貴女はなにか、興奮したら人に噛み付くのか。……噛みつくんだろうね、実際そうだったわけだし。
「それでね、一刀。ちょっと訊きたいんだけど」
「うん?」
背中に木の感触を感じながら、ん~と伸びをしていると、真剣な面持ちを向けてくる雪蓮。
真剣には真剣をと、胡坐をかきながらも真っ直ぐに雪蓮の目を見つめ返すと、言葉の続きが紡がれる。
「私の動き、覚えたわよね? で、えーと……“いめーじとれーにんぐ?”で一刀は私との戦いを繰り返すわけよね?」
「ん。そうなるな。あそこまで本気で食い下がったのはたぶん初めてだ。いい刺激になると思う」
「そっかそっかー。じゃあ次に会うまでの課題を命令していい?」
「……?」
課題? なんのことだかさっぱりだが……雪蓮さん?
「命令していい、って……こっちの許可を取ってちゃ命令にならないんじゃないか?」
「あ、それもそっか。じゃあ命令。……次に会う時までに、もっともっと強くなっておくこと。で、興奮した私を武で押さえ込めるくらいにまでなっておいて? そしたら私、いろいろなことや刺激のない毎日でも耐えられると思うから」
いつもと同じ、にこーって笑顔で言ってくる。
それは……つまり興奮するたびに、俺が武で鎮めろ……と? あんなに滅茶苦茶な強さを見せつけた雪蓮相手に?
「…………」
想像してみるけど、今すぐにとか少しあとでは無理だ。
無理だけど、今出来ないからって断るのはよくない……よな。
「……ん、わかった。出来る限りのことを頑張ってみるよ。今度会う時っていうのがいつになるかは解らないけど、今よりは強くなっていることは約束できるはずだから」
「うん、それでじゅーぶん。じゃあ一刀、またいつでも来てね。私は貴方の来訪を、いつでも、心から歓迎する。……あ、でも強くなってなきゃだめだからね? こう……興奮した私も叩きのめして、全てを奪えるくらいの強さを見せてくれたら、もういろんなものを一刀に託しちゃってもいいかなーって、わっ、ちょ、はにゅっ!?」
デコピン一閃。額を両手で庇って涙目でぶーぶー言う雪蓮に、「命令だからってあまり無茶言わないでくれ」という言葉をプレゼントした。
「……とにかく。お別れは言わないからね? あと、あんまり待たせるようだったら私から乗り込むから」
「俺、頑張るよ!! だから勘弁してください!」
「えー……? ふふっ、まあいいわ、それじゃ」
……はぁ。元からそうするつもりだったとはいえ、妙なプレッシャーがかかってしまった。興奮状態の……あの獣みたいな雪蓮を打ち倒すほどに強くなれって……? まだまだまだまだ難しいだろ、それは……。
と、そんな思考に頭を痛めていると、雪蓮はすたすたと歩いていってしま───あれ? 別れの言葉とかは?
「あのさ、雪蓮?」
「? ……ああ、忘れてた。“いってらっしゃい”、一刀」
「………」
雪蓮はそれだけ言い残すと、にこー、と笑顔のままで去って行ってしまった。
……え? 別れの言葉、それで終わり?
「ふむ。いずれ戻るならば、引き止める理由も無しか。策殿も中々に勝ち気よ。ならば儂も、最後に命令の一つでも残すとしようか」
「え?」
去って行ってしまった雪蓮をポカンと見送っていた俺の耳に届く声。振り向くより先に祭さんだって解る声は、俺に嫌な予感を持たせてくれる。……困ったものだ。
「北郷。次に会う時は弓の手解きでもしてやろう。じゃが、基礎から教えるのは面倒じゃ。蜀の黄忠、魏の夏侯淵、どちらでもよいから多少かじってから来い。学んだことの全て、儂の色に染めてやろう」
「……それって結局、一から教えるのと変わらないんじゃないかな」
「何を言うか。叩き直すから面白いんじゃろうが。ゆえに命令するぞ。“弓を学べ”。武術の一つのみを極めさせるのも面白そうじゃが、せっかく奇怪な氣を持っておるんじゃ、いろいろ叩きこむのもそれはそれで腕が鳴りそうじゃ」
うわあい寒気が来たー! 嫌な予感が寒気として俺を襲うよぅ!
「そ、それってつまり、他人の教えをぶち壊して、祭さんの技術に塗り替えるって意味で……あの。そんなことされたら俺、教えてくれた人に殺されますよ?」
「なに、安心せい。殺そうとするのならば、儂が口添えしてやるわ。“悔しかったらお主の色に塗り替えてみよ”とな」
「……で、塗り替えられたら祭さんが塗り返すと」
「おう。そうすればお主の技術は高まる一方で、これほど嬉しいことはあるまい?」
「技術を全部叩き込む前に、誰かに刺されてそうで怖い……」
誰とは言わないけど。
……技術の中のいいところだけを身に刻む、なんてことを教えられるままに受け取ろうとしても、どれだけ達人の域に達した人でも癖がないわけじゃない。
しかし、達人は達人。教えると決めたら、きっと全てを叩きこもうとするだろう。
それを誰かの教えで上書きして、また別の人の教えで上書きして……確かに技術は上がりそうだけど、いいところばかりを刻んだ技術は、果たして“良い技術”として活かせるのだろうか。
欠点や、つたない部分を昇華させて、少しずつ鍛えていくのが技術だ。
いいところばかりを残したところで、欠点のない理想を形に出来たところで、そこには“欠点を補おうとする力”がない。
(うん……理想ではあるけど、苦労して身に付けた意思や覚悟がまるで宿ってないと思う)
過去の人が技術を磨いたから後世に残る技術があって、開拓する必要もなしに身に着けていける。過去の人が拓いた道があるから、迷わずに進める道もある。
けど、そこで楽をしたら、本当の意味での教えは身に着かないんじゃないかって……いつか思ったことがある。
だから、覚えたことから先を目指す。
教えられるだけじゃない、教わったことを糧に、自分で出来る何かを探す。
そうして見つけたものを頑張って身に着けて、それをまた次の世代へと受け継がせて……いつか、教えというものもどこかで途切れたりするんだろうか。
(途絶えるとしたら、そうした歪んだ教わり方をした時……なんだろうな)
きっと、ちゃんとした形としては残らない。
混ざってしまったら、残せない。
混ざった状態でもそれが誰々の技術だ~って言い張れるなら、それもそれでいいんだろうけど。
(じいちゃんに教わってるのに、祭さんに教わった時点で、俺が何を言っても説得力なんてないけどさ)
でも……ああ、そっか。
たとえ祭さんの技術を叩きこまれたところで、俺がじいちゃんに教わった技術を忘れなければそれでいい。
教わったことの中からいいところだけを取るんじゃなく、きちんと悪いところも覚えた上で先を目指せば……それはきちんと、みんなの技術として俺の中で生きていく。
悪いところも受け取らなくちゃ、その人の技術をその人から受け取ったなんて言えやしない。
(……そっか)
師が教えきったと断じても、弟子がそうでないと言うのなら皆伝ではない。弟子が教わるべきを教わったと断じても、師がそうでないというのなら皆伝ではない。つまりはそういうことなのだ。
格好のいいところばかりを教えたところで、格好の悪い部分も教わらないのでは皆伝とは言えない。師が経験したこと全てが技術として身に宿るなら、恥だろうがなんだろうが、一つ一つが技術の切れ端として生きているはずなのだから。
「……ん、わかった。ちょっと迷ったけど、教わってくる。でも、いくら祭さんが教えようとしても、塗り替えさせる気なんてないから」
「ほう? 儂の教えは身に着けぬと、そう言いたいのか?」
「そうじゃないよ。俺は、秋蘭や……許されるなら黄忠さんの技術も身に着けた上で、祭さんの技術も身に着ける。何かを忘れることなく、上書きしないで身に着ける。そうじゃないと、ちゃんと祭さんのことを師として見れないから」
「う……むぅ……そ、そうか。…………~……まあその、なんじゃ。あまり年寄りを待たせるな。他の地でしっかりと技術を身に着け、もう一度来い。その時は、儂が教える技術こそに自信を持たせてやろう」
「はは、そればっかりは学んでみなければわからないよ。俺としては、秋蘭の技術が上であってほしいけど」
「かっ、言いおるわ、孺子めが」
言葉のわりに、腰に手を当て満面の笑みをくれる。
弓を学べ……それは命令でもなんでもないものだったに違いないけど、俺に喝を入れる意味ではありがたい言葉だった。
武術ってものがいろいろなものから学び、いろいろなものへと伝え、応用するものならば、剣ひとつを学ぶのではなく別の何かを身に着けるのも知となり血となり、武となるだろう。
俺の笑みに満足いったのか、祭さんはそれ以上のことは何も言わずに離れてゆく───と、そこへすかさず走り寄る影ひとつ───シャオである。
「一刀~? しばらくシャオと会えなくなっちゃうけど、泣かないで頑張るんだよ~?」
「よしわかった任せとけ絶対に泣かない約束する」
「もーっ! どうして一刀はそーなのー!? シャオと別れちゃうんだよ!? 離れ離れになるんだよー!? もっとわんわん泣いてもシャオ、べつに一刀のこと情けないとか思わないよー!?」
「えぇっ!? 泣くなって言ったのはシャオだろ!? え……な、なんで俺怒られてるの!?」
「…………あんっ♪ そうだよねぇ、男の子は人前じゃ泣かないんだもんね~? んふぅ、素直じゃないんだから~っ」
「……シャオにとっての“素直”が、時々異常に気になるよ……」
相変わらず人の言葉を聞いてくれない。
都合のいい解釈って言葉があるけど、きっとシャオの思考回路のために存在する言葉なんだろうなぁとしみじみと思った。
「シャオ、ずっと待ってるからね、一刀が呉に帰ってくるの。でぇ……帰ってきたらシャオと子作りふむっ? む、むー!? むむー!」
「おうおう尚香殿、策殿が呼んでおる。少し向こうへお付き合い願えますかな?」
「ふぉっほ、ふぁいー!?」
……言葉の途中で連れ攫われた。不憫な……。
けどあのまま続けられてたら、怪しい会話になりそうだったから。さすがに旅立ちの日に生々しい送り言葉は勘弁してほしい。
「ふふ……北郷。お前が中心に居るだけで、随分と周りが賑やかになるな」
「冥琳……」
祭さんに連れ攫われたシャオを見送りつつ、くっくと笑いながら歩み寄ってくる冥琳。その隣には穏が居て、助けを求めて暴れるシャオにニコニコ笑顔で手を振っていた。
「結局克服、出来なかったな」
「はいぃ……ちょっと残念ですけど、穏は一つ学びましたよ一刀さん」
「学んだ? なにを」
手を軽く持ち上げ、ピンと伸ばした人差し指をくるくる回す穏。本で興奮する、なんて珍しい体質の中、彼女はいったいなにを学んだのか。
いろいろと荒療治を試しても効果が無かったが、なるほど、ただでは転ばない。きっと克服の足がかりを───
「興奮を無理に抑えるのは体に毒という結論ですよぅ~。だから今度一刀さんが来た時は、興奮を抑えることなく心の許すままに───」
「あ、ところでさ冥琳」
「あぁあぅう~、無視しないでくださいぃい~……!」
「真正面からそんなこと言われてどう反応しろと!? む、無理! 絶対無理だからっ!」
顔が熱くなるのを感じながら、ぶんぶんと首を横に振るう。
本当に、今でこそこんなふうにして拒否出来ているけど……もし一年前のあの時、日本に帰ることなく呉に来て同じことをしていたらと思うと……少し怖い自分が居ます。
その頃の自分だったら、きっとやさしく受け止めていたんだろうな……ごめんなさい。
「誘惑には屈しないと。結局、愛国心は別れの時まで変わらずか」
「……その。冥琳が俺だったら、同じ事を貫いたと思うけど?」
「ふふっ、違いない」
そう言って目を伏せ、何かを懐かしむように息を吐いた。
思えば冥琳は、会った時から溜め息の似合う大人の女性って感じだったなぁと、俺も過去を振り返って懐かしむ。
……一言で片付けられる言葉があるとしたら、苦労人ってだけで十分そうだ。不名誉だし、本人は否定したがるだろうけど。
「さて、今生の別れでもない。友を送り出すのにいつまでも後ろ髪を掴むのも迷惑だろう。……今度はお前の身の回りが落ち着いた時にでも来い、北郷。絵本の感想はその時にでもゆっくりと聞かせてもらう」
「……ああ。他にお勧めの絵本があったら、それも読ませてくれると嬉しい」
「ふむ……見繕っておこう。その言葉だけでも、お前の中で絵本がどういう評価だったのかが解りそうなものだが」
「感想はまた別だよ。……楽しみにしてる」
「………」
俺の言葉にフッと笑うと、冥琳はそれ以上を口にはせずに歩いてゆく。逆に穏は「絵本ってなんですか!? 冥琳様と秘密の読書会でも!?」と妙に興奮した風情で迫ってきて……拳骨一閃、冥琳に引きずられていった。
痛そうだな、としみじみとした気分でそれを見送ると、今度は亞莎と明命が目の前へ。
「一刀様……」
「~~~……」
明命が俺の名を呼び、亞莎は悲しむ自分の顔を見せたくないのか、長い長い袖余りで自分の顔を隠している。
俺は二人に向けて何を言うべきかを少し迷い、結局最後に言うことは変わらないなという結論のもとに口を開く。
「亞莎、明命、ありがとうな。いろいろ世話を焼いてくれて。すごく……すごく助かった」
立ち上がり、亞莎と明命、一人ずつ頭を撫でてゆく。同時に撫でてやりたかったのが本音だけど、右腕がこの調子なんだから仕方ない。
……折れたんだよな、うん。あの痛みは思い出すだけでも背筋が凍る。痺れと、人間の防衛本能に……謝謝。
「か、一刀様……“また”って言っていいでしょうか……。また、呉に来てくれますか……?」
「ああ、もちろん」
「かっ、かかかっ、か……一刀様っ……わ、私、次に会うまでにもっともっと美味しいごまだんご、作れるようになっておきますからっ……! そしたら、一緒に……食べてくれますか……?」
「……うん。もちろん」
いっぺんに頷くのではなく、一人一人の目を見て頷く。
来てばかりの時に友達になってくれた二人だ、きちんと向き合って“いってきます”を言いたい。真名を許してもらうまではいろいろあったけど、許してくれてからは距離が近づいたのも事実。
俺の中で、それはきっといつまで経っても“友愛”なんだろうけど……二人の目はきっと、それ以上のものへと向かおうとしている。もしくは、辿り着いているか。
以前言われたっけ、好いてくれている人に、揺るがないことを理由にその気持ちを断ることが出来るのか、って。自分の言葉で人を傷つけるってわかっているのに、“守りたい人の中の一人”にもうなっている人を、傷つけることが出来るのか。
答えは……YESだ。揺るがないっていうのはそういうのを全部ひっくるめての意味だって、今の俺は思っている。いつか、もしなにかのきっかけでコロリと自分が変わってしまうのだと決まっていたとしても……今の俺だけは、揺るがないことを口に出して誓える。
いつか破ってしまうことは誓いでもなんでもないのかもしれないけど、俺は……魏を、華琳を愛しているから。
「………」
その意味も込めて、やさしくやさしく二人の頭を撫でた。
ごめんなさいと言いたいわけじゃない。許してほしいとも言わない。自分の気持ちを貫いた結果が誰かの涙になるとしても、傷つけたくないからって理由で全てを受け容れたらそれこそ二人に失礼だし、いつか本当に傷つけることになるだろう。
気づかないフリをするには遅すぎて、受け容れるわけにはいかなくて。じゃあどうすればいいのか、なんて……きっと。誰かが思い描く以上の幸せな結末なんてありはしない。
意思を貫くってことは、誰かの意思を否定するのに近しいのだろうから。
(蜀に行って、魏に戻ったら……)
ああ、こんな時にばかり、自分の弱さを実感する。
思考の渦に飲まれては、彼女のことばかりが頭に浮かぶ。
誰に好かれようとも誰に思われようとも、何を許されようとも何を促されようとも、頭の中を支配するのはいつも彼女のことばかりだった。
結局自分は、この国に居る間はこの国のためにと思いながらも───彼女、華琳のことばかりを思い返していたのだと苦笑する。
そのことが、頭を撫でている相手に失礼だと思うのに……やめられない自分が、今は悲しかった。
「また来るよ、きっと来る。その時は、もうちょっと落ち着いていられてると思うから」
華琳に会って、宴のあとでは言いきれなかったことをぶちまけられたら、きっとこの心にも余裕が出来る。心に余裕が出来たら、今度は頭も。
そうして自分を落ち着かせたら、ゆっくりとこの大陸を見て回ろう。
羅馬に行くのもいい、一人で旅をしてみるのもいい。
この世界がどれほどの静けさと賑やかさを得られたのかを、この目で見てみたい。
大きな場所だけじゃなく、ちゃんと自分の足で、ひとつずつ。
……そう考えると自然と笑みがこぼれ、それを見た二人も……俺に笑顔を向けてくれた。
「では……その。いってらっしゃいませっ」
「わたっ、わたひっ……もっと頑張りますっ。勉強も、料理も、もっと……!」
「うん。その前に、もうちょっと噛まないようにしような?」
「はうっ……! が、頑張ります……」
ぺこりと頭を下げると、二人も行ってしまう。
見送りは……きっとない。別れを言いたいんじゃなく、いってらっしゃいだから。遊びに行くやんちゃな男を見送らないのと同じなんだろう。
「……一刀」
「……や、蓮華」
最後。ゆっくりと歩み寄ってきた蓮華に、軽く手をあげて応える。
交わす言葉は……そう多くない。視線を交差させただけで、何が言いたいのか、何を伝えたいのかが、困ったことにわかってしまったのだ。
だから蓮華は“ふっ……”と笑うと、
「思春のことを、よろしく頼む」
キリッと、王族然とした姿勢でそう言っただけで、踵を返した。
通じ合った恋人同士でもないのに、こんなことが可能なのは蓮華が相手の時だけだ。何も言わなくても相手が望むことがわかってしまい、結果的に……そう、甘やかしてしまう。
それをシャオに見られていたと知った時は相当に恥ずかしかったものだけど……うん、過ぎてみればいい思い出……だよな?
(……揺るがないのは結構だけど、もしそれが反転したら……か)
蓮華の視線から受け取った言葉の意味を、考えてみる。
嫌っているわけでもないし、みんなのことはむしろ好きだ。
もし、なんらかのきっかけがあって、友愛だと決めつけることで抑えている感情が、本当に“好き”に変わってしまったら……その反動は、きっと恐ろしいものなんだろう。
誰かを泣かせるくらいならいっそ、受け容れてしまえばとも思う。
好いてくれているのなら、かつて魏のみんなをそうして受け容れたように愛せばいいと。
でも……今は無理だ。どうあっても、魏のことが頭に浮かんでしまう。そんな心のうちに受け容れたら、絶対に相手を傷つけることになる。
(しっかりしろ、一刀)
揺るがないって決めておきながら、断ることはやっぱり辛い。
真正面からぶつけられる好意を避けるのも、断るのも辛い。
いっそ全てを受け容れられたら、この辛さも拭えるのか。
それともより一層の辛さを背負うことになって、いつかパンクして泣き出したりするんだろうか。
そんなことを考えて、軽く頭を振って……思考をリセットさせると、近くでそんな俺を見ていた思春に声をかけた。
「……思春はなにも言わなくていいのか?」
「言うべきこと、伝えるべきことはもう伝えてある。生きろ、と……それ以上のことは言われていない。私はそれを糧に生き、他は自由にしろと言われたようなものだ。……貴様の生きかたを傍で見ているのも、悪くないだろう」
「思春…………───それって俺がさらす醜態が面白いって意味?」
「他の意味に聞こえたなら、改めて───」
「言わなくていいです」
本当に遠慮がない人である。
でも、今はその遠慮のなさがありがたい。
「………」
ぐぅっと伸びをする。拍子に仰いだ空は今日も晴天にして蒼天。真っ青な空が、視界の許す限りどこまでも続いていた。
そんな空をしばらく見つめてから視線を下ろすと……そこに、朱里と雛里。……期間が長かった分、いろいろな書簡を突っ込んであるのか、荷物が重そうだった。
それらを黙ってひょいと受け取ると、困惑の顔で俺を見上げる視線に笑顔で答える。「じゃ、行こうか」と。
見送りはやっぱりない。
城から出た途端、親父たちに再び捕まったことを除けば、見送りらしい見送りもなく……後ろ髪を引かれることはなく、俺達は呉国をあとにした。
そんな中で、俺が呉で過ごした証があるとしたらなんだろう……と考えて、包帯ぐるぐる巻きの腕が視界に映ると、盛大に溜め息を吐いた。
うん……華佗、落ち着いたら本当に医術を教わるよ。どう考えても、これから生傷が絶えなさそうだからさ……。
「それじゃあ……また」
故郷っていうのは増えるものなんだろうか。
そういった奇妙な感覚を胸に抱いて、俺は呉国をあとにした。
見送りは本当になかったけど……城を出て、町を出て……少し離れた場所から、世話になった城へと手を振って。