36/明命書房刊【氣の使い方:応用の巻】
思春と鍛錬……た、鍛錬、をされて……もとい、して……もとい、ボコボコに……もとい、鍛錬をしてから幾日。その日は綺麗な青空が……無かったりした。本日雨天、激しいスコールに見舞われるでしょう。
ざんざんと降り注ぐ雨の雫を、宛がわれた自室の椅子に座りつつ、読書の合間に眺める。
気の所為か、鍛錬の日に限ってよくないことが起こっている気がするのだが───き、気の所為、だよな?
「……ん、今日の読書終了」
と言って、読んでいた本をパタムと閉じる。……まあその、胴着姿で。
机に置いた本は、冥琳に「これを読め」と勧められた絵本だ。
べつに今となっては漢文が読めないわけでもないのだが、細かな文字……ええと、なんと喩えればいいんだ?
ほら、あるだろ? 日本にも、同じ国の文字なのに達筆で読めなかったり、似た字なのに意味が違ってたりする文字。
そういうのを、他でもないこの大地で学ぶため、時々書庫の本を借りては読んでいる。
見てはいけない、と言われたものもあるので、そちらの書物には決して手を触れないでだが。
「………!」
で、ちらりと寝台の上へと視線をずらしてみれば、そこを椅子代わりに座っていた明命が「終わりましたかっ!?」とばかりに顔を輝かせていた。
……そう、今日は明命と少しだけ本気バトルの予定だったのだ。だから胴着姿。
手加減されたままでのイメージトレーニングでは、少々物足りなくなってきてしまったのだ。だから、一度叩き潰して欲しい。この間、思春に叩き潰してもらったおかげで思春のイメージは再び強いソレに戻ってくれたんだが、人の脳っていうのはこれで案外都合がいいものだ。
しばらくして慣れてしまうと、勝手に自分が有利な創造へと状況を運んでしまう。そうなってしまっては、それはもうトレーニングなんかじゃなく自分が強いだけの都合のいい妄想だ。
それが嫌だったから、思春に立ち合いを頼んだ。……まあ結果、ボコボコにされたわけだが。意外と本気でいったのに、全然だったな……さすがに乱世を駆け抜けただけはある。
今度は、いろいろと小細工も駆使してやってみよう。氣を使うことが小細工って呼べるのかはべつとして。
「えっと……見ての通りの雨なんだけど……」
「あぅ……先ほどまでは、あんなに晴れていましたのに……」
言葉だけ聞くと、丁寧でお嬢様チックにも聞こえる明命の言葉はしかし、残念そうに外を仰ぐ姿と合わせると、外で遊べなくなった子供の寂しそうな声にしか聞こえなかった。
……あんなことがあってから数日。そう、数日だ。
俺と明命はお互い、顔を真っ赤にさせながらも謝り、譲り合い、なんとかこうして些細なことで笑い合える二人に戻っていた。
なにせ真名を呼んだあの日から、目を見て真名を呼ぶたびに真っ赤になって、時には気絶してしまうこともあったほど。
ここまで回復するのには、やっぱりそのー……時間が必要だったのだ。
けれどつい一昨日の夜、部屋のドアをノックした明命は、決意の面持ちで言ってきたのだ。
慣れるまで傍に居ますっ、いえっ、居させてくださいですっ!
……と。
それからは大変だ。
夜を越え、朝から晩までを飽きることなく、一日中……そう、親父達の手伝いをする中でも片時も離れず(厠とかはべつだが)、ず~っと俺の傍に居続けた。
最初は流石にそれはと断ろうとしたのだが、泣きそうな顔で言われた日には……ああ、本当に俺って弱い。
女の涙を蹴落とせる男になりたいって言うんじゃないけど、もう少し自分の意見を貫ける男女関係を作りたいなぁとか…………うん無理だね。なにせそもそもの相手のほぼが、三国にその人在りと謳われた猛者ばかりなのだから。
「あの。一刀様? 今日はどうしましょう……部屋の中でするわけにはいきませんし……」
いつもなら元気よく“ぽんっ”と叩き合わされる手も、今はちょこんと胸の前で合わせられているだけだ。
見て明らかとはよく言ったものだ、今の明命は物凄く元気が無い。
「こういう時は素直に氣の鍛錬だな。出来ないことを思って時間を潰すのはもったいない」
「あぅ……そうですか。お手合わせ、したかったです……」
そう言って、本当にしょんぼりとするから困る。
そんな顔をされると弱くて、つい俺は椅子から立ち上がると明命の傍に立ち、その頭を撫でてやる。
「……あぅ」
昨日の夜から、気づけばこうして撫でている自分が居る。
何故かといえば、こうすると明命は気持ちよさそうにして、気絶することも落ち込むこともやめるから。
猫の喉や背中を掻いたり撫でたりするのと同じ要領なのかもしれない。目を細め、ハスー……と小さく吐息して、気の所為か自分の周囲に小さな花を咲かせていた。……幻覚?
「………」
けど、いろいろと、まずい。
自然体で接してきたつもりでも、情っていうのはどうしようもなく移るものであり。たとえばもし、明命に好きですとか言われたら……俺には断れる自信が……───ない、なんて言えない。
弱気になるな、北郷一刀。誓ったはずだろ? 俺自身がどれだけなにを言われようと、俺は……俺は魏に生き、魏に死ぬのだ。
「……?」
「ん……あ、や……はは、なんでもないなんでもない」
苦笑が漏れる。
俺からの妙な雰囲気を受け取ったからか、撫でられていた明命がきょとんとした顔で俺を見上げていた。
……揺らぐな。それは、最初に心に決めたことだ。
華琳がいいと言っても、俺がそれを曲げるわけにはいかない。
情はある。あるけど、それは恋愛感情までには届いていないんだ。
だから抑えられる。抑えられてるうちに…………俺は、冥琳が言うように、そろそろ呉を離れるべきなのかもしれない。
ここは本当に居心地がいいから───ふとした瞬間に、自分が呉の人間だと思えてしまうくらいに空気が暖かく、人々の手が温かいから。
町人も兵も、そして将も……みんなみんな、あたたかすぎるから。
「……な、明命。明命からなにか、奥義的なもの、教えてもらっていいか?」
「奥義的……ですか?」
「ああ。たとえばこうすると足が速くなる~とか、こうすると気配が消せる~とか」
「はぁ……そういったことは私よりも思春殿のほうが得意なのですけど……はいっ、誠心誠意、教えさせていただきますっ」
今度は元気に、胸の前でぱちんっと手が合わせられた。
そうして始まるのは、気配の消し方や音を消して走る歩法講座。
それは、人の中にある個人個人の氣を、周囲に溶け込ませることで可能になる、という。
どういう意味なんだろう、と首を傾げていると、明命はにこりと笑んで実践してみてくれた。
「えと、まずは……」
明命はきゅっと俺の左手を掴むと、「意識を集中してみてください」と言う。
言われるままにしてみると、自分の中に流れる氣の他に、自分以外のなにか……掴まれている左手に自分の氣ではないものを感じられた。
それは……今にしてみれば懐かしい、凪に氣の誘導をしてもらった感覚と似ている。
……そっか、じゃあこれが……この暖かさが、明命の───
「この感覚を覚えておいてくださいね。ずっとずっと、意識してみていてください。───それではっ!」
ヒュトッ───
「……え?」
小さな物音。喩えるなら、消しゴムが絨毯に落ちた時の音にも似た音が、床に軽く響いた……瞬間には、目の前に居るはずの明命を、どうしてか一瞬見失った。
目の前に、今も目の前に……居る、居るのに……え?
「どうでしたでしょうかっ」
“私、お役に立てましたかっ!?”といった風情でにっこにこの明命。
……凄い。目の前に居るのに見失うなんて、そんな……
「すごい……すごい、すごいなっ! ど、どうやったんだ今の! 目の前に居るのに見失ったような気分で───!」
そんな“神秘”とも言えるような“業”を目の前で見せられた俺は、もうオモチャに喜ぶ子供のようにきゃいきゃいと明命に説明を求め───つつ、どうやってやったのかを考えてみていた。
「はいっ。まずですね、これは相手が多少は気配察知が出来ることが前提なのですが───」
そんな俺を前に、明命は気を良くしたように説明をしてくれる。
───明命の話では、こういうことらしい。
1、やってみせるには、相手に多少の気配察知能力が必要
2、相手が自分の姿ではなく気配に集中していること
3、それを利用して、氣を散らして動揺を誘う
4、気配ばかりを頼りにしている相手は突然消えた気配に驚く
5、ただし気を消すために丹田にある気までも散らせる所為で、
次ぐ動作に気を織り交ぜることが出来ない
6、散らさずに消してみせる場合は、
逆に体に気が充実していなければいけない
7、体中に充満する気を景色へと溶け込ませる
8、ただし気が充実しているため、
少しでも攻撃の意識を見せると気取られる
…………。
いろいろ大変なんだ、隠密って。
一応、想像していた“氣を最小限に保って溶け込む”といった方法も無いわけじゃないらしいけど、それは“己を殺せる者”にしか向いていないらしいです。
それらを出来る者が……思春らしい。
思わず「え? 我を殺して欲らしき欲を出さず?」と突っ込みたくなるが、考えてみれば思春の口から聞ける言葉は“国のため”ばかり。
蓮華のためにってところもあるんだろうけど、というかそれが大半だって思ってたんだけど、それは欲というよりはもう自然体のレベルにまで達しているんだろう。
だから“欲”としては現れず、鈴の音だけが景色に溶け込んだ彼女の居場所を教えてくれる。
(すごいな、本当に達人の域じゃないか)
達人以上な気もするけど。気配殺しに関しては仙人級なんじゃないだろうか。とにかくすごい。
そんなことを自分のことのように笑顔で話してくれる明命も、なんというかこう、やっぱりいい子で……
「よ、よし。ちょっとやってみてもいいか? えーと……」
「ひゃあうっ!?」
まず、明命の手を握って俺の氣の在り方を感じてもらう。
握った手に氣を集中させて、これが俺の氣だよ、って。……なんて思ったんだが、そもそも明命は俺の気配くらい簡単に気取れるだろうし、意味なかったかな、と途中で気づく。
そうして手を離した途端、「あ……」と寂しげな顔で見上げられたりしたけど、今は集中。ええと、相手が俺に集中しているのを利用して、氣を散らして動揺を誘う……だよな。
散らすっていうのがよくイメージできないんだけど……要するに一気に消耗してみせろってことか?
いや待て、まずは氣を充実させるほうでやってみよう。
(集中、集中……集中……!)
丹田で氣を作り、全身に流すイメージ。
祭さんの強引な鍛錬によって増加してくれた“氣の絶対量”が、ゆっくりと満たされていく。
あとは自分の気配を周囲の気配に溶け込ませるんだけど……あれ? そういえばどうやって?
「………」
「………」
よ、よし、じゃあ空気。俺は空気だ。空気になろう。
空気、空気~……目立たなくて出番なくて、いっそ居なくてもいいような存在をイメージして……あ、あれ? どうして“一昔前の俺は空気だった”なんて意識が溢れてくるのかな。
一昔前っていつ? 一昔前って誰?
「はうわっ!? す、すごいです一刀様っ、実践してみせただけで気配を殺せるなんてっ! ……あぅあぁっ!? ななななぜ泣いておられるんですかっ!?」
「い、いや……なんでもない……」
ふふ……悲しいな……。悲しい夢を見たよ……。
夢というか幻覚だな、うん。気にしないようにしよう。
「ごめん、このやり方だと俺の心が保ちそうにないから……。え、えっと……空気になるのは勘弁を……」
「……あの。でしたらその感覚だけを別の何かに向けてみてはどうでしょう。一度出来たのなら、要領は受け取れたと思いますし」
「う……」
掴めたコツとか感覚でさえ思い出したくないんだけど……せっかく出来たことを否定するのももったいない。
えーと……空気、よりも広い範囲。たとえばこの部屋全体が自分であるかのように……そう、俺は相手を囲う建物。部屋。日々の象徴。当然としてそこにあるものとして、自分を“無”としてではなくあえて“有”に───
「……? あぅぁっ……!?」
相手……明命を包み、そこにあるのが当然のものとして……イメージ、イメージ、イメー…………あれ?
「……! ……!」
なにやら明命が顔を真っ赤にして、かたかたと震えて目を潤ませて───ってストップストップ! なにか危険な気がするから、氣を充実させる方向はストップ!
「は……はふ……!」
「大丈夫か? 明命」
「は、はい……なんだかわかりませんけど、急に、その、一刀様に抱き締められているような気分になりまして……あぅあっ! なななんでもないです忘れてくださいっ!」
「………」
一応成功してたってことでいいんだろうか……って待て。それってつまり、今のやり方でやると相手が誰であれ、俺が抱き締めているような感覚に襲われるってことか?
もちろん気配を探ろうとしていることが前提だろうけど…………男がやられたらトラウマになりそうだな、それ。
いや、考えるのは一旦中断。顔を真っ赤にさせている明命を落ち着かせるためにも、むしろもう一度充満じゃなく消す方向で試してみよう。
「明命。氣を散らすって、どうやればいいんだ? やっぱりこう、一気に使い切る感覚か?」
「あ……いえっ。たしかにそれが一番気配を殺せますけど、多少は残しておかなければ次の行動が起こしにくいです。ですから氣は微弱に、息を潜め、音を無くすことに集中するんですっ」
「音を……?」
言われるままに氣を小さく……って、丹田に溜まってるからこれを小さくなんて出来そうにないぞ?
雪を固めるみたいに凝縮できるわけでもないだろうし……いや、待てよ? 凝縮?
「………」
氣の扱いがてんで出来なかった時、一応集中させてみれば集まった、指先に小さく灯る程度だった氣。
あのイメージを今、自分の中にある全ての氣を集中させるために使って───一気に散らす!!
「───」
「はうわぁっ!? か、一刀様!? 一刀様ーーーーっ!!」
パァンと散らしてみたら、倒れた。
うん……ソウダヨネー、俺程度の氣を一気に散らしたら、動けなくもなるよねー……。
でも圧縮することは本当に出来ると解ると、いろいろと応用が出来そうで……わくわくしたと同時にぐったりした。
いい、しばらく動けそうにないから、少しだけ日々を振り返ってみようか……。