え、えぇと、ととさまが喜ぶことってなんだろ。
たしかー……かかさまが言うには、えとえと……あっ、そうだ、あれ。
「ととさまととさまっ」
「……なんだい……?」
「禅は、ととさまが居てくれて“よかった”だよっ!」
「───」
かかさまが言うには、ととさまにそう言われた時と自分がそう言った時に、強くととさまを意識するようになったとか。
あの時はまさか、とろけそうな顔で親の初恋のお話をされるとは夢にも思わなかった。
当時はととさまが凄い人だなんて知らなかったから、疑いにかかる私たちをなんとかしたかったんだろうけど……親の恋する顔を見るというのはあれで、結構……うん。嬉しいやら恥ずかしいやらだった。嬉しい気持ちのほうが強かったのは確かなんだけど、恥ずかしかったのも事実なわけで。
「…………」
「ふえっ!?」
なんて思ってたら、瞬きもしないで静かに涙を流し始めるととさま。
普通はしゃっくりするみたいに泣き始めると思うのに、なんの動きもないままに、すぅぅ……って涙を流し始めたりしたからとても驚いてしまった。こんなこと、出来るんだ。
「凪……俺もうこのまま死んでもいいかも……」
「恐ろしいことを幸せの笑顔のままで言わないでください」
「よ、よし禅! ととさまになにかして欲しいことはないか!? ととさまに出来ることならなんでもやっちゃうぞぅ!」
「え……じゃ、じゃあととさまっ、お姉さまがたにととさまの秘密を」
「それはダメ」
「なんでー!?」
とろけた顔が急にびしぃって引き締まった。
でも数秒も保たずにとろけてしまう。
本当にととさまは変わった人だ。
自分の威厳とか名誉よりも、国のこれからのことばっかり気にしてる。
「ううー……ととさまはもっと、自分のこと考えたほうがいいよぅ」
「いや違うんだぞ禅。俺はこれで、自分のためにしか行動してないんだ。ただその自分のためが、“俺が国に返したいから”って理由からくるものだからこうなってるってだけで」
「そんなの屁理屈だよー……」
「屁理屈も立派な理屈だよ。……っと、ほら。もうそろそろ夜も深くなるし、寝た寝た」
「……今日、ここで寝てもいい?」
「だめです。ちゃんと桃香のところに戻ってから寝なさい」
「むー」
ととさまは娘にあまあまなのに、一緒に寝たいと言っても全然聞いてくれない。
眠る時はかかさまのところで。
これはもう、ずっと前からのことだ。
「さ、公嗣さま。お部屋までおともします」
「うぅー……ねぇととさま? ととさまが一緒に眠っちゃだめって言うのは、夜になるたびに将の誰かとそのー……」
「凪。明日……一緒に虫取りにでも行こうか。そして捕まえた虫たちを、桂花の机の引き出しにみっしりと」
「隊長、気持ちはわからないでもありませんが、やってしまった時点で隊長が疑われます」
「……凪も言うようになったね」
「隊長の悪評ばかりを流されていれば、さすがに。桂花さまもいい加減、隊長嫌いを少しずつでも改善するべきだと思います。……隊長が桂花さまになにをした、というわけでもないというのに」
「……ありがと、凪。でもこれはこれで悪いことばかりじゃないんだよ。平和にかまけて緩みすぎる自分が、もっとだらけすぎないための抑止力にはなってくれてるから。……ある意味で、ああはなるまいって娘達が張り切る一番の理由かもしれないし」
言ってる途中から頭を抱えて落ち込みだすととさま。
打たれ弱いのになんでも抱え込んじゃうからこうなってしまう。
かかさまもだけど、ととさまもちょっと頑張りすぎだよ。
だからここは禅……私が、もっともっと頑張らないとっ!
「あ……」
「? 文謙さま?」
「あ、いえ」
やる気を漲らせるように小さく“がっつぽーず”を取ると、途端に文謙さまが戸惑うような……ええと、なんともいえない微妙な顔をした。
なに? と目で訊いてみても、とほーと溜め息を吐くみたいに諦めの吐息を吐くだけ。
……あれ? なにかあったのかな。
ああいや、うん、今はととさまを元気付けるのが先だよね。
「ととさまっ、禅がお仕事手伝ってあげるっ」
「いえ結構です」
「物凄い速さで却下されたっ!?」
あ、あうう!? なんで!?
もう夜だから!? いつもなら喜びとか切なさとかやさしさとか絶望をごちゃまぜにしたみたいな不思議な顔で喜んでくれるのに!
「ぜ、禅? さ、もう寝なさい? とととととさま、禅には立派に成長してもらいたいなぁと常々思ってるから、成長ホルモンが分泌されるとかつては噂されていた、11時から深夜2時あたりまではぐっすり眠っていただきたいなぁと……! ……時計無いけど」
ぱきゃりと、けーたいでんわとかいうのを開いて、いっぱいいっぱいの笑顔を向けるととさま。昔はあの小さな物体で時間がわかったそうだけど、今はそれもあてにならないって、寂しそうな顔で言ってた。
でもそれは今はいいとして、とにかくととさまを元気づけることに真っ直ぐになる。
禅、やっちゃいますっ!
「まだいーの! 禅はこれからもっとも~っと、かかさまみたいに綺麗になるもん! だから今はととさまのお手伝いするの!」
「だめだ」
「なんでー!?」
どうしてかとても濃い顔になったととさまが、悲しみと愛を込めた瞳でずっぱり。
普段はやさしいのにこういう時だけはっきりと切ってくるのも、ととさまの不思議なところのひとつだと思う。
……そっか、きっと文謙さまの……部下の前だから恥ずかしいんだ。(違います)
「いいもん! じゃあ無理矢理手伝うもん! この墨、あっちでいいんだよねっ!?」
「だぁーっ! なんで先がわかりそうなものから掴むかなぁこの娘は!! やめなさい禅! 今ならまだ間に合う! 墨質を解放しろーっ!!」
「墨質!?」
片付けようと墨を手にすると、途端にととさまも文謙さまも慌て出す。
……失礼だよ。そりゃあ、張り切りすぎちゃってひっくり返しちゃったこともあるけど、禅は学べる私なのです。さあいざ輝かしい一歩をはぐぅっ!?
「ホワァアアーッ!?」
「公嗣さまっ!」
一歩目にして躓きました。
傾く私。宙を舞う墨汁。
傾いてゆく視界で、弾けるように駆けるととさまと、瞬時に宙に跳ぶ文謙さまを見た。
「…………だはぁ、セ、セーフ……!」
「隊長、こちらも無事です」
ぱちくりと瞬きしてみれば、滑り込むように私を受け止めてくれたととさまと、見事に墨の容器を手に着地をする文謙さまの姿。
またやってしまった。
怒られるかな、と少し怖くなった途端、きゅむりとととさまに抱き締められた。
「ふみゅっ!? と、ととさまっ?」
「はうあっ!?」
声をかけてみれば驚いたみたいに体を弾かせて私から距離を取る。
離れる際にしっかりと私を立たせてから、こう……しゅぱーんと。
「隊長……」
「いやっ……なんかごめんっ……! 理由はどうあれ、娘に抱き付かれたのなんて久しぶりだったからっ……!」
「いえ、責めているわけではっ……! な、なにも泣かなくても……」
離れた先で労わる顔の文謙さまと小声で何かを話すととさまは、なんだか寂しげだ。
……やっぱりここは禅が……私が、なんとかしてあげなければならないよねっ!
禅、やっちゃいますっ!
「あ」
「?」
またがっつぽーずを取っていると、文謙さまがびくりと肩を震わせた。
ととさまも気づいたようで、青い笑顔のままで震えながら私を見る。
「ぜ、禅? ととさま元気だから、今日はもう寝よう? 禅のやさしさウレシイナ。だから寝てくだ───寝よう? な?」
「……ほんと? ととさま、元気になった? 禅、失敗したのに」
「その手伝おうとしてくれた気持ちで十分さ! ウウウ嘘じゃないよ!? ねぇ凪!?」
「えっ!? あ、は、はい、その通りです。隊長は公嗣さまのやさしさをとても嬉しく受け取っています。……や、やさしさを」
「じゃあもっと手伝うよー!」
「ゲェエエエーッ!!」
「あこっこここ公嗣さまっ! 子供はもう眠る時間です!」
「だめ! 手伝う! だってととさま顔が真っ青だもん!」
「隊長! 今すぐ顔の変色を!」
「なに言ってんの出来るわけないでしょ!? 凪ってたまにとても無茶な注文するよね!」
「いろんな意味で逞しくなったなぁもう!」なんて言うととさまを前に、ハッとした文謙さまは真っ赤になって慌て出している。
そんな二人をよそに、もう勝手に手伝っちゃおうと机に詰まれた竹簡を手に取ると、またもや「ホワーッ!?」と叫ぶととさま。私が思うにあれこそが、ととさまの歓喜の声に違いない。
だってあの声を出したあと、私が失敗しても“嬉しかった”って言うのだ。
あれは歓喜の声。あとの問題なんて、私が失敗しなければいいだけのことだ。
でも大丈夫、これを運ぶことくらい、私には簡単なことで…………しまった扉が開けられない! え、えとえと、こういう時はどうすれば。……あ、そういえば夏侯惇さまが、扉というのは思い切り締めれば鍵がかかって、開けたいときは思い切り蹴飛ばせばいいって言ってた。
「うん、よしっ」
「なにが!? なんかもう扉の前で頷く時点で嫌な予感が! やめなさい禅! やめてお願い!」
「えっとたしか……ちん……きゅー……きぃーっく!!」
氣を充実させて駆ける私。
大丈夫、まだちょっと苦手だけど、扉を開けるくらいの威力は出せる筈!
だから跳ぶ私。扉目掛けていざ蹴りの構えで───
「相変わらずうるさい部屋ね……ちょっと北ごほぉっ!?」
『あ』
───そして勝手に開く扉。現れた筍彧さま。
……の、お腹にめりこむ、私の蹴り。
充実していた氣の分、ドカバキゴロゴロズシャーアーッ! と転がり滑ってゆく猫耳ふーどの軍師さまの姿が、ただただこの部屋に静寂を齎したのでした……。
「けけけけ桂花ァアーッ!?」
「桂花さま!?」
持っていた竹簡の分だけ重みが増した私の蹴りは、氣の充実も手伝って、自分が思うよりも素晴らしい威力を叩き出したようで。
ただひたすらに走る罪悪感の中、ととさまと文謙さまの表情が少しだけすっきりしたような顔だったのはどうしてだろうと考えつつ、私も慌てて駆け出したのでした。
「だめだろ桂花! 人の部屋に入る時はノックしないと!」
「う、げほっ……よ、よくもそんな嬉しそうな顔でそんなことを……!」
「大方人の部屋に忍び込んで虫をぶちまけることが習慣になってた所為でノックすること自体を頭の中から消し去ってたんだろ桂花ちゃんたらイケナイ子っ☆」
「気色悪いほど清々しい笑顔で注意なんてするんじゃないわよ!」
「桂花……悪いことをするとな、いつかその咎は自分に返ってくるものなんだよ……」
「説教される謂れもないわよ!」
「ところでなにか用なのか? 夜に俺の部屋に来るなんて珍しい。夜中と間違えたのか?」
「あなたねぇ……! 私が夜襲以外に訪ねることなんてないとでも思ってるの……!?」
「…………え? 違うの?」
「ちがっ───………………」
「否定して!? そこは否定しようよ!」
言い争いを始める筍彧さまとととさまを前に、真っ青になる私。
どうしよう、軍師様蹴っちゃった。
これって重い罪になるんじゃ……!
「そんなことはどうでもいいわよ! ……それより、あなた子供にどんな教育しているのよ。娘に人を蹴るように仕向けるなんて」
「あれぇ!? なんか俺がやらせたみたいになってる!?」
「違うのだとしてもこれは問題にさせてもらうわよ。そして問題を前に苦しむ姿をせいぜい私の前で存分に披露すればいいんだわっ」
あわわ……! やっぱり問題なんだ……!
どうしよう、とんでもないことしちゃった……!
「それなんだけど、桂花。頼むから、ここではなにも起こらなかったことにならないか?」
「……はあ? なるわけないでしょ? なに言ってるの? とうとう頭の中まで白濁色に染まったの?」
「全身白濁男とか言ってるくせに、それは今さらだろ……」
「とうとう認めたわねこの公認白濁男! 汚らわしいから近寄るんじゃないわよ!」
「公認白濁男!? なにそれ!」
そしてととさまにおかしな通称がつけられてしまった!
う、うぅう……私の所為だよね? ごめんなさい、ごめんなさいととさま……!
「ま、まあまあ、そう言わずに。頼むよ桂花」
「嫌よ。なんで私があなたが喜ぶようなことをしなければいけないのよ」
「どうしてもだめ?」
「だめ」
「頼んでも?」
「だめね」
「そっか……じゃあ俺も、桂花のことで黙っていたこと全てを、とうとう華琳に話す時が来たんだな……」
「……な、なに? なによそれ。私が華琳さまに隠していることがあるとでもいうつもりなの?」
「桂花が知らないうちに起こったことだもん。俺だけじゃなくて、証言してくれる人なら結構居るぞ?」
「……ふんっ、どうせ言い回しで丸め込もうって魂胆でしょう? 私が北郷ごときの口先で気を変えるとでも───」
「結構前、桂花が仕掛けた落とし穴に桃香が落ちてさ」
「ぶっは!?」
ひう!? じゅ、筍彧さまが、何かを口に含んでたわけでもないのに何かを吐き出すみたいな反応を!?
「それは桃香が笑って済ませたからいいけど、もしあそこに愛紗が居たらと思うと……」
「……~……ふ、ふん、どうせ出任せかなんかで……」
「そのあとには蓮華が落っこちてさ」
「…………!!」
……だ、大丈夫なのかな。筍彧さまの顔色がどんどんと青くなって……!
「ほら。いつか、思春の風当たりが異様にキツい時があっただろ? その時丁度思春も近くに居てさ。刑に処されることになろうとも、刺し違えてでも殺してくれるとか言い出して、止めるのに苦労したんだ」
「……! ……!」
風当たりがきつい時、というのに心当たりがあるのか、筍彧さまの顔色がもっともっと青くなってゆく。
「っ……脅迫する気……!? 北郷のくせに、この私を……!」
「脅迫じゃないって。最初から“頼む”って言ってるじゃないか」
「じゃあ私が話すって言ったらどうするつもりよ」
「愛紗からの風当たりが悪くなるかも」
「じょっ……冗談じゃないわよ! どうしてか以前からやけに睨まれるって思ってたら、それが原因!? そんなの落ちるほうが悪いんじゃない!」
「んなわけあるかぁっ! 掘るほうが悪いわ!!」
うん、それは私もそう思う。
文謙さまもこくこくと頷いている。
「しかも掘っておいて、華琳に呼ばれたって理由で埋めないまま移動して、誰かが落ちたことすら知らずに忘れてたって、そっちこそ表ざたになったら軽い罪どころじゃないだろうが!」
「う、うぎぎ……!! 北郷のくせに……!」
「私怨の所為で物事認めたくないってのはどうかなぁ! …………あーもう、とにかく。ほら、ちょっとこっちこい」
「ひいっ!? ちょっ……なにする気よ! まさか助けに入る者が誰も居ないのをいいことに、このまま私を寝台に引きずり込んで───!」
「するかぁっ!! 子供の前でなんてこと言ってんだこの脳内桜花爛漫軍師!! 桃色な妄想に走りすぎるのも大概にしてくれほんと! あと妙な噂を流すのもやめてくれ! お陰でどんだけ迷惑してると思ってんだ!」
本気で抵抗する筍彧さまのお腹に無理矢理手を当てるととさま。
途端に筍彧さまが悲鳴をあげるけど、ととさまは構わず手を当て続けて───ぱっと離せば、筍彧さまの表情には蹴られた所為で存在していた苦悶がちっともなくなっていた。
「痛みを治すだけでここまで叫ばれたのって始めてだよ……」
「だったら最初からそう言いなさいよ! 本気で叫んだ私が馬鹿みたいじゃない!」
「言ってたら余計に抵抗してただろうが!!」
「当たり前でしょ誰があんたなんかに触らせるもんですか! これで孕んだら呪い殺してやるから覚悟してなさい!?」
「孕むかぁああっ!!」
そしてまた言い争い。
その中で、結局は痛みも消えたし、今日は見逃してやるわと言ってくれた筍彧さまに感謝を。ほとんど脅迫みたいな感じになっちゃったけど、何事もないことになってよかった。
……と思ったら、ととさまにぺしりと額を叩かれてしまった。
痛くなかったけど、気をつけようなと言われた瞬間、やっぱりとんでもないことをしてしまったんだって後悔が私を襲った。ただととさまの手伝いをしたかっただけなんだけどな。上手くいかないなぁ。
「大丈夫だよ、禅。……なにかしてあげたいって気持ちは十分届いたから、そんなに落ち込まない。ありがとな」
落ち込んでいると頭を撫でられた。
それだけで落ち込んでいた気持ちが喜びに変わってしまうんだから、私は随分と単純なのかもしれない。
「じゃ、じゃあ今日はととさまの部屋で」
「戻って寝なさい」
でもこっちの“なにかしてあげたい”は全然受け取ってくれないようだった。
してあげたいっていうか、一緒に寝たいだけなんだけど。
もちろんしつこく言える気分でもなく、結局はしょんぼりしたままととさまの部屋をあとにした。連れ立ってくれる文謙さまにもいっぱいごめんなさいを言いながら、かかさまが待っているであろう自分の部屋へと戻ったのだった。