135/日常。常にある日。
サラサラサラ……カロ……カシャン。
「んー……」
筆を動かし、文字を書き連ね、乾けば竹簡を丸め、積み上げる。
朝から晩まで、食事時と厠に行く時以外はほぼがこれ。
溜め息を吐きながら肩をぐるんと回してみれば、ゴキャッと軋む関節。
続けざまに溜め息を吐くと、再び机に向かう。
「……はぁ」
静かな時間の中、もう一度溜め息を吐いて天井を見上げる。
……蜀と呉のみんながそれぞれの国に帰ってから、既に一週間が経っていた。
騒がしい日々から一転、静かになると、随分と空虚といえばいいのか……ボウっとしてしまうもので、それを払拭するためにも仕事漬け───なんて姿勢で仕事をしているわけでない。
純粋に仕事は山積みで、しかしながらやっていることはずっとずぅっと変わっていない。うん……まあ、山積みではあるのだ。先のことを考えれば。ただし、今日という日だけで考えれば、必ずしも焦ってやるほどのものでもなかったはず。なのだが。
それでもやることといえば仕事仕事。毎秒毎分毎時毎日、筆を動かしては竹簡に文字を連ね、乾けば重ねる。
同じことの繰り返しというのは総じて、すぐに飽きがくるものである。
実際にただ今、逃げ出したい気分でいっぱいだ。
“国に返す”はどうしたかと?
いや……実はこれ、べつに今日やらなくてもいいものでして。
ここ数日、ずぅっと書簡竹簡整理を続けていたこともあり、作業自体は大分進んでいる。
逆に、纏めるものの数が少なくなってきたくらいだ。無理にでもやれば、そりゃあ明日の仕事の量が減ったりするのは事実なわけだが……うむう。
じゃあ何故、今日やらなくてもいいものを“飽きているにも関わらずやっているのか”というとだが。
「あら。手が止まっているわよ、一刀」
「………」
机を挟んだ先に椅子を置き、片手で頬杖をお突きあそばれている覇王さまに、夜に“オヤジの店”に行っていることがバレた。
で、“俺が抜け出してまで行く店”ということで目をつけられ、華琳が行くと……よりにもよって“行く”と言ってしまったのだ……!!
もちろん断った! ああ断ったね! 俺達の……男たちの憩いの場を潰されてたまるか!
こればっかりは譲れない! 男には、たとえ主に言われても譲れぬものがあるのだ! それが男の誇りというものさ!
だから“命令よ”と言われた時は…………泣いて頼みました。勘弁してくださいって。
え? 男の誇りはどうしたって? 誇りであの場の空気が買えるか!
これは魏の誇りではなく、あくまで俺の誇りだから投げるくらい平気さ! 泣いたけど!
俺は誇りよりも絆を選ぼう。誇りは他のみんなが持っている。なら俺は、誇りのためにみんなが伸ばせない場所へと手を伸ばせばいい。
故に───断る! 断固としてオヤジの店の場所は教えぬわ!
「一刀? いい加減に白状して案内しなさい」
「やだね。断るね」
「……なんでよ」
「華琳が正直すぎるからだっ! あ、あそこの空気はなっ! 食事がどうとかで壊していいものなんかじゃ断じてないんだっ! 華琳は食事が目当てで行くんだろ!? だだだだったらだめだ! ますますだめだ! 連れていけるもんかー!」
「なによ。そんなに不味いっていうの?」
「いや。男にしかわからない味。あ、でも白蓮なら気に入りそうな雰囲気ではあるかな……」
「白蓮……公孫賛が?」
「でも華琳はだめだ。絶対に合わない。むしろ翌日店が忽然と姿を消してそうだ」
「私が潰すとでも言うつもり?」
「店主が自主的に蒸発するんだよ……ほら、以前もあっただろ? 俺と季衣と流琉で……」
「ああ。あの拉麺の屋台ね」
それがどうしたのよ。なんて顔を向けられた。
心の潤い、昼飯ライフの一つを削ってくれておいて、なんとまあどっしりとした構えか。
ともかく、あんな前例がある以上は華琳を連れていくなどとてもとても。
「えーと、な? 頑張ってるんだ、その店主」
「なら王である私が試すことに、何故異を唱えるのよ」
「……あの拉麺屋がどうなったかは?」
「消えたわね」
「………」
「………」
脳裏にアニキさんたちの笑顔がよぎった。そしてあっさり消えた。消える瞬間、風呂敷を担いで泣いていた。
……よろしくない! てんでよろしくない!
「やっぱりだめ! 絶対に教えない!」
「なっ……! あ、あなたね……! 私がなんのために食事に───」
「誘ってくれるのは嬉しい! もう飛び上がりたいくらいに! でもだめ! あそこだけはだめ! お願いですから勘弁してください!」
「…………まさか一刀? あなたその店で如何わしいことでも」
「するかぁっ!! そういう問題じゃなくて、あそこはあのままがいいの!」
「……はぁ。あのね、一刀? 私が行っただけで、その場の何が変わるというのよ」
「うん、そう思うよなー。きっと誰でもそう思う。時に華琳? そこで出された食事が自分の舌に合わなかったらどうする?」
「“直すべき”を唱えるわよ。当然じゃない」
フッ、と笑って仰る華琳さま。
この答えで満足? とばかりに俺の目をちらりと見てくる。
俺はそんな彼女の視線を満面の笑みで迎えた。
彼女の瞳が微かに喜びに揺れる……ところへ、
「うん。絶対に連れていかない」
満面の笑みのまま、そう返した。
直後、言い争いの勃発である。
もはや言葉にならないくらいの言い争いを始め……どちらかといえば受身だった俺が、こうまで抵抗の意思を露にすることには華琳自身も驚いているらしく、時折言葉に詰まっていたりするところがカワイ───じゃなくて!
「他のところでいいだろもう! なんでそこまであそこを望むんだよ!」
「あなたが城を抜け出してまで行っているからでしょう!? こんなことになるのなら、店先で捕まえるよう指示するべきだったわ……!」
珍しくも相当に苛立っているのか、声もトゲトゲしい。
だが退かぬ! 退けぬわ!
そんな意思をどっしりと固めた俺を、じろりと睨むはモートクさん。
「一刀。そこへは私以外を連れて行ったことがある?」
「ナイヨ?」
「あらそう。ならば、一瞬だけど視線が泳いだのは何故かしら」
「修行の一環で、散眼っていう技を見につけるために頑張ってるんだ。さ、散眼はすごいんだぞ? 散眼はなぁ」
「一刀」
「ハ、ハイ」
焦りが生まれてしまったら、もう弱かった。
ギロリと睨まれて、「連れていった者は誰?」と問われた。
「……もう国に帰ってるから、訊こうとしても無駄だぞ」
ウソはついてない。
恋は国へ帰ったし。でも美羽は居る。うん、ウソはついてない。
「そう? それなら、いつも身近に居る者に訊いてみるというのはどうかしらね。あなたがそこまで気に入る場所を、毎日毎日隣で寝ているあの子が知らないはずがないもの」
「うーん……」
言われた言葉を耳に、笑顔で仕事を続けた。筆がノるなァ今日は! アハハハハ!
アノコ? ダレ? 僕シラナイ。
咄嗟に誤魔化す言葉が浮かばなかったから、そうするしかなかった。
当然、華琳は確信を得て、音も立てずに椅子から立ち上がった。
……美羽は七乃と歌の練習をしているはず。
美羽に口止めする暇もなく仕事を押し付けられたから、このまま行かせたら美羽はポロリと真実を語ってしまうだろう。
ならばどうする?
1:歩いてゆく華琳を後ろから襲う
2:華琳を引き止めて椅子に座らせ、お茶を振る舞う
3:ナメック星人は誇りを見せる暇もなかった (ゴキャリと首を捻って気絶させる)
4:意地でも止める
5:押し倒す
結論:オイ5、自重しなさい
……。
すっくと立った。
そして歩く。
少し早歩きだ。
「? あら、話す気になっ───ふわっ!?」
何も言わずにガバァと抱き締めた。
そして机まで強引に引き摺り、とすんと座って足の間に華琳を座らせる。
「………」
「………」
さあ! 仕事だ「へぶぼっ!?」……叩かれた。
「わからないわね。そこまでして行かせたくないというの?」
「そう。そこまでして行かせたくない」
「忠告を受け取って、それを善とするか悪とするかは本人次第でしょう? それは、以前は少しやり方が乱暴になったけれど」
「あのね。誰もが華琳みたいな胆力を持ってると思ったら大間違いなの。頑張ってそこまで辿り着いた人に自分の価値観を一方的にボロクソに押し付けて、立ち上がれなかったら所詮その程度とか言うのはあまりにひどいだろ」
「そのて───」
「その程度とか言わない。味もわかって料理も上手い。華琳は確かにすごいけど、そこを基準に考えたらどこの料理も同じ味になるでしょーが。みんな“そこにある味”を求めて集まるんだよ。同じ味なら近場で安い店がいいに決まってる」
「む……言ってくれるわね。私が求める味が一点にしかないような物言いじゃない」
「個人が個々の料理に求める最上級が一点なのは当たり前だろ。誰もが美味いって言う料理なんて絶対にない。華琳が求める最上級に、誰かが“ここに辛味があったほうがいい”って言って、辛味を混ぜたものを華琳は認めるか?」
「と、…………当然じゃないの」
「激辛でも?」
「………」
あ。
なんか黙して胸の前で指をいじり始めた。
「はい。黙した時点でダメ。大体な、辛い食べ物にだって、ただ辛いだけのものと、辛さの中に確かな旨味があるものだってあるだろ? そういうのが多少でも苦手なのに、自分の味覚ばかりを押し付けるんじゃありません。だからこの話は無かったことに───」
「ならないわよ」
「してよ! しようよ! どちらにしたって案内なんて絶対にし───」
「警備の兵を懐柔し、城を抜け出して食を摂る。いろいろと罰することが出来るのだけど。一刀はどんな罰を用意されたいのかしら」
「このままここで仕事をする罰です。ていうかもう罰やってるよね俺」
「ええ、やっているわね、“兵を懐柔した罰”を。無断で城を抜け出した罰がまだじゃない」
「子供か俺は! 城を抜け出すくらいいいじゃないか!」
「支柱としての自覚が足りないわよ一刀。あなたに何かあったら、他国からの信頼がどれほど下がるのか、わかっているの?」
「う、ぐっ……!」
支柱になった。自分は同盟を支える柱。
その自覚を本当に持っているのなら、一人で、しかも夜に出歩くなんてことはしない。
華琳はそういうことを言いたいのだろう。
「……じゃあ、罰っていうのは?」
「私をあなたが行こうとしていた店に連れていきなさい」
「そうか綿菓子が食べたいのか! よーし頑張るゾー!」
「一刀。二言目は無いわ。私の聞き違いかしら?」
後姿しか見えないというのに、その姿からモシャアアアと景色を歪ませるほどの殺気が!
そしてやっぱりどこからともなく現れる絶という名の鎌。
「ヤア華琳サン。今日モオ美シイ」
「………」
「ギャアーッ!!」
カタコトで言葉を発しつつ、誤魔化す意味も籠めて後ろから抱き締めた。……ら、手の甲にサクリと絶が落とされた。
だが勝った! 俺は言葉遊びに勝ったのだ!
「ふ、二言目を越えたぞ! もう文句ないだろ!」
「………」
華琳が黙りつつ筆を手に取る。
竹簡にさらさらと連ねられる文字は、“いつ二言目を言ったというのよ”だった。
「……華琳。屁理屈って知ってる?」
「ええ。あなたにだけは言われたくない言葉ね」
もはや、首を縦に振るしかなかった。