季節が初夏に近づこうとする頃、光秀は湿気を吹き飛ばす軽快な声を耳にした。下校時刻のにぎやかな喧騒の中で階段の手すりを滑り降りる二年生がいる。近づくと二年生に引き続き茶髪の一年生が滑り降りてきた。
「やっぱ湿気があると滑り悪いなー」
後から滑り降りた一年生相手に楽しげな顔を見せているのは二年生の生徒会役員だった。生徒の模範となるべき役員の行動に光秀は笑みを浮かべる。
「楽しげなことしてんじゃねぇか、前木クン?」
「ひっ、明紫波先生!」
背後から声をかけられた二年の前木は飛び上がるように振り向き悲鳴をあげる。同じく一緒にいた一年生も驚きに目を丸めていた。
「すみません!」
勢いよく頭を下げた前木の後頭部を見下ろした光秀は一年生に視線を移す。そちらの生徒は生徒会役員ではないが、光秀が受け持つクラスの生徒だった。
「前木と仲良いのか?」
「はい、前木先輩には良くしてもらってます。えっとすみませんでした」
「違うんです。あきらはオレが誘ったっていうか巻き込んだんです。なので悪いのはオレだけなので、すみません」
謝罪する一年生をかばうように前木が再び頭を下げる。その態度は前木らしい真摯で真っ直ぐなものだった。
「うっし、そんな仲の良いふたりには一週間の生徒会室掃除な」
悪いことは悪いことだからと罰を与えた光秀はなぜか嬉しそうな前木を眺めた。そして前木と同じ程度の身長しかない一年生も見やる。
「しっかし、おまえら中坊みたいだな。小さい子同盟でも作るか?」
「よく言われます」
「小さっ…って、あきらそんなこと言われてるのか!」
思わず反論しかけた前木だが一年生の発言に勢いを殺されてしまう。そんなふたりの頭をグシャグシャに撫でまわした光秀はその場を離れた。
窓を叩く雨を横目に職員室へたどり着いたところで緋田と遭遇する。緋田は不機嫌顔ではあるが光秀をにらむことをしなかった。ただ眉を寄せた状態で光秀に道を開けるべく脇にそれる。
そんな緋田の前で足を止めた光秀はどうかしたのかと声をかける。すると緋田はなぜか驚いた顔で光秀を見上げる。
驚かれるほどの態度を見せたのかと内心で苦笑いを浮かべた光秀は相手の言葉を待った。するとややあって緋田が重苦しい口を開く。
「傘を忘れたんだよ」
ぽつりとつぶやいた緋田は再び口を閉ざしてしまう。深刻な顔だったため何事かと構えていた光秀はそんな生徒を前に眉を浮かせた。
「それだけか」
「こんな雨の中を寮まで帰るなんて一大事だよ」
「大袈裟なやつだな」
男のくせに雨に濡れる云々と、そんなことで悩んでいたのか。そのくだらなさに笑った光秀は、緋田にそこで待っているよう告げた。
自分の机から折り畳み傘を取り出すと職員室の入り口に戻る。そこで律儀に待っていた緋田に傘を差し出せば、またしても驚いた顔を見ることができた。
ぽかんと傘を眺めていた緋田は、ややあって光秀を見上げる。
「これ、明紫波の傘かい?」
「当たり前だろ」
驚く緋田に傘を押し付けた光秀は早く帰るよう告げて自分の机に戻った。雨ごときで深刻になれるのだからどれだけ賢くても緋田はまだ子供なのだろう。
傘を忘れたとしても、親衛隊を名乗る連中が率先して差し出すため困ることはない。けれどそれをすることで誰かに借りを作ることはしたくなかった。そのためどうすべきかと悩んでいたところで差し出された一本の傘。
しかし結局のところ緋田信長はその傘を使うことができず濡れて帰ることになる。
ずぶ濡れの状態で寮に戻った緋田は白い傘を手に持つ風紀委員長と出くわした。ちょうど帰ったところらしい豊白は緋田の濡れた姿を前に笑みを浮かべる。
「生徒会長、水もしたたるナンとやらですやん」
「うるさいよ」
「その手に持ってるモン、使えへんの?」
どこまでも絡みたがる相手をうっとうしいと思いつつも、不思議と怒りは沸いてこない。それはおそらく手元のこの傘のおかげなのだろう。そう思っても、緋田は豊白の問いかけを完全に無視していた。
部屋へ戻るべく廊下を歩く緋田の脳裏に職員室での出来事が浮かんでは消える。きっと相手は、困っている生徒に手を差し伸べただけなのだろう。そこには特別な思いも感情も何もない。
けれど緋田自身にとって、それはとても大きな出来事だった。
後ろを歩きながら話しかけてくる白い物体を無視して自室に入る。そうして扉を閉めると緋田は手元の折り畳み傘をそっと抱き締めた。
悲しくもないのにこぼれる涙に濡れた状態ではすぐに紛れてわからなくなる。しかし死んでしまいそうなほどに強く脈打つ心臓と多幸感は誤魔化せそうもなかった。