2月14日火曜日の朝は清々しいほどの晴天だった。まだ暗い午前五時半に起床した緋田信長はクローゼットを開けて新品のタイツを取り出す。加圧タイプで防寒にも優れたそのタイツは今日の為に新調したものだった。
身なりを整えると鏡の前に立って自分の姿を見つめる。身だしなみを整えるのは人として当然のことだが、それよりも大切なものがあった。
この寮を一歩外へ出ればいつあの教師と出会うかわからない。だからこそ一片の隙も乱れもない状態でいたかった。
「大丈夫、僕は僕だよ」
いつもよりうるさい心臓を落ち着かせるように鏡に向かって話しかける。自分は完璧なのだから何も問題はない。そう言い聞かせて荷物を手に部屋を出た。
いつもより早い時間に部屋を出たためいつもは待機している親衛隊もいない。そのためひとり寮を出ると晴れやかな空を見上げた。
正門までの短い距離を歩く間に部活の朝練中らしい生徒と出くわす。彼らに挨拶を向けられそれに返していると正門に一年担当の英語教師が立っていた。
触れると病み付きになる柔らかな髪は一部が寝癖ではねている。通りすがりの生徒にそれを指摘される教師は笑いながら自分の頭に手を当てた。そんな教師の姿を見つめながら、しかし何事もないような素振りで近づく。
「おはよう、明紫波」
「先生をつけろ」
自分の笑顔はおかしくないだろうか。そう思いながら信長は教師の視線を受けた。その上で鋼色の瞳をまっすぐに見据えて笑顔を強める。
「清々しい朝だというのに、君はどうしてそうだらしない格好なんだい?」
「あ? あー……さっき剣道部の連中に付き合って竹刀振り回したからだな」
「なんだいそれは」
剣道部に参加する予定があったなんて聞いていない。そう言いかけた言葉をぐっと飲み込み信長は笑顔を作ったまま顔を背けた。
そんな信長のそばで教師は自分のネクタイを雑に直す。それを横目にした信長は衝動に駆られるままに手を出していた。教師のネクタイを整えて開かれたままの上着の前も閉ざしてやる。
ただそれだけのことで信長の体内で心臓が破裂するほどに暴れていた。
校舎に入った信長は教師と別れて生徒会室へ向かう。とりあえず暴れる心臓を落ち着かせなければ教室へ行くこともできない。そう思いながら生徒会室に入った信長は扉を閉めると大きく息を吐き出した。
ゆっくりと呼吸を整えながら荷物を机に置く。それでも心臓が収まらないのは、今日が決戦の日だからだろう。けれどだからこそ見苦しい姿を人目にさらしたくはない。そう思うのに、信長は赤くなっていく顔を抑えられなかった。
生徒会室の窓を開けて熱くなった顔を冷ましていると勢いよく扉が開かれる。現れたのは二年の前木だが、一緒に石黒と徳川もやってきた。
「おはよー、って顔真っ赤じゃないか。熱があるのか?」
「少し走ってきたから、そのせいだよ」
挨拶と共に心配も向けてくる前木に返しながら首元を整える。すると納得したらしい前木はそれならとうなずきカバンを開け始めた。
「みっちゃんはチョコよりおにぎりだと思って作ってきたんだ」
会話に入らず書類を広げ始めた石黒に前木はカバンから取り出した包みを見せる。すると石黒は不思議そうに前木を眺めた。
「前木はイベントに参加しないという事ですか?」
「そういう意味じゃなくて、ホントはバレンタインだから渡すのはチョコなんだけどって意味。おにぎりはいつもとおんなじ塩むすびだよ」
イベントとは別物だと言いながら前木は石黒に包みを渡している。その様子を眺めていた信長は徳川がそばにやってきたため目を向けた。
「良いのかい?」
「何がだ?」
「三成がバレンタインをもらっているよ」
「おにぎりをな」
「嫉妬しないの?」
「しない」
「どうして?」
もしあそこにいるのが石黒ではなくあの教師なら、自分は怒りに支配されているだろう。そう思うままに問いかけたそばで徳川は落ち着いた瞳で信長を見つめる。
「三成とはそういう関係じゃない」
「そうなの?」
「たぶん」
最後はやや自信無さげに首を傾けながら言う。そんな徳川を見ていると自分の中にある緊張やこわばったものがほぐれていく気がした。