把中の冬は寒い。
毛皮の外套を着込んでいても尚、凍てつく冷気は容赦なく私の体に忍び寄ってくる。降り積もった雪の底に沈むかんじき、その下の足がとても冷たい。ふくらはぎをぱんぱんと叩いて、感覚が無くなりそうになるのを防ぎながら、何とか足を引っこ抜いた。
ほんとうに金になるんだろうな。
思わず、そんな疑念が私の中で鎌首をもたげた。
それから、ふきつける風をものともせず前を行く彼の姿を眺めやった。
彼に誘われて山に出たのは、半刻ほど前のことだった。ちょうど行商に訪れた易場で山菜を売っていたところ、いい儲け話がある、分け前を一部寄越すから、手伝ってくれないか。そのようなことを言われたのだ。相手は見知らぬ他人であったし、話の真偽も定かではなかったが、ちょうど時間を持て余していたこともあって私は特に疑いもせずに彼にのこのことついて来てしまったのだ。
また彼は大きな箱を二つ抱えていて、これを背負ってほしいとも言った。中は湿っていて、腐葉土のような臭いがつん、と鼻をついたのを覚えている。
「ここらは地元の人でも虫ば怖がって足ば踏み入れねえそうだず。」
ふいに、彼がそう言った。
私はぎょっとして、思わず辺りを見回した。彼はそんな私の様子を見て、大口を開けてがははと豪快に笑った。
「心配することはねえ。今はみんな冬眠してるから、外ばほっつき歩いてても平気だず」
妙な喋り方をするものだな、と思いながら歩を進めていると、ちょちょこと動く岩のようなものが私の視界に映った。私は一瞬置いたのち、悲鳴をあげてとびすさった。
「ああ、あれは
「……虫は冬眠しているんじゃなかったんですか」
私はそう言いながら、食い入るように、前を通り過ぎてゆくそれを見つめた。把中には行商で何度も訪れているものの、毎度毎度奇怪な虫の風体には驚かされる。
虫―彼がいう苔頭は、見れば見るほど奇怪であった。ぱっと見には大きめの岩にしか見えないが、注意深く観察してみるとそれは苔頭の殻なのだった。表面に隙間なく這う錆色の苔が、まるで岩の起伏であるかのように見えるらしかった。
殻の下からは小さな頭部と腹部、それに無数の糸のように細い脚が覗いていて、時折頭を雪の下に突っ込んではもぞもぞと動かしているのが見えた。
「あれは地表に生えた蘚類やら苔ば摂ってるのだず」聞いてもいないのに、彼が喋り出した。「おがしげな奴だず。草ば食んで、わしの体に生やしったんだべがら」
恐らくは、外敵から身を守るための擬態として苔を纏っているのだろう。私はそう一人で納得して、彼の後を追った。
「あれだず」
彼の指差す先、僅かながら雪面が窪んでいるのが見えた。側に立つ樹の枝が数本折られていて、それが目印らしい。彼はがぽがぽと音をたてながらそれに駆け寄っていった。
彼はやおら肩に背負った箱をおろすと、白い雪面に置いた。次に背中に提げていたシャベルを手に取り、ぱらぱらと落ちる雪を浅めに掬い上げ、えいやと声をあげて投げやった。
「おだぐさまのもあるから、手伝ってけろ」
彼はそう言った。私もシャベルを受け取り、深々と雪に突き立てた。
すると、突然に、黙って雪を掬っていた彼が驚いたように顔をあげた。
「ああ、だめだず。ほだなに強く突き立てちゃ。万が一刃が当たったら、幼虫が死んでしまいだんだべ」
「はぁ、すいません」
私は、今度は慎重に雪を掬い上げた。彼はといえば手慣れたもので、絶妙なさじ加減で積もった雪をせっせとかき出している。青空のもと、こうして一心に作業をするのは中々心地の良いものだった。
額に薄らと汗が滲みだした頃、黒い地表が顔を出した。土が乱れていて、つい最近に掘り返されたことが一目瞭然である。
彼はシャベルを投げ出し、手で土を掻き分け始めた。
土の合間から何かが見え隠れし始めたかと思うと、彼は腰を踏ん張って腕を土の中に突き入れ、うーんと唸った。
ふんぬおおおおお、と掠れた声を絞り出して、彼はゆっくりと立ち上がった。腕には話に聞いた通り
幼虫の体表は褐色に近く(私は白いものと想像していた)、よく肉のついたぶよぶよの体から突き出した短い脚がうねうねと動いていた。また体には薄い斑模様が点々と浮き出ており、それが眼のように見えて何となく薄気味悪かった。
「ああ、箱ば」
私はとっさに、雪の上に無造作に置かれた箱を抱え上げて彼に渡した。幼虫を奥に押し込む際に土くれが零れ落ちて、真っ白に輝く雪面に点々と汚れを残した。
「はぁ、これが鬼鋏の幼虫ですか」
私は改めて箱の中で蠢く幼虫に目をやり、言った。
「こいつば街で売れば二千
彼もなぜか誇らしげに言葉を返す。
それから私と彼とは別の目印の場所へ赴き、二匹目の幼虫を捕まえた。今度は私の背負う箱に幼虫が入れられることになり、いささか気味が悪かったが、運んでいる内にすぐに慣れてしまった。
そいつは左右に頭をぶるぶると揺するのが癖のようで、その度に私の箱はぐらぐらと揺れていた。
里に帰ってから一息ついていた時、彼が、鬼鋏同士を取っ組み合わせて戦わせる「
「
「正式に依頼を受けて幼虫を集めてるってことですか?」
私がそう訊ねると、彼はにんまりと皺をつくって微笑んだ。
「いんや、許可なんてとっていねずよ。こういうことは早いもの勝ちと相場が決まってるんだず。」
「じゃあ、密猟ってことですか」
私はいささかぎょっとした。知らぬ間に陰謀に加担してしまったとでもいうのか。
彼は自身が失言をしたことに気付いたようで、ほんの少し目の色が変わっていた。私を侮蔑するような、あるいは憐れむような表情で眺め、口を開いた。
「広公で闇商人に幼虫ば売り捌けば、それでおらたちの仕事は終わりだず。嫌なら降りたってええんだず。ここまで運んでもらた分、金ば払いっからよ」
彼の皺にたるんだ顔が、急にとてつもなく不快なものに思えてきた。
「密猟が露見した時には、私を身代りにして、逃げるつもりだったんでしょう。私は保険だったんだ、そうだろう」
彼は燃え立つような目で私を睨んだ後、ぺっと路上に痰を吐き捨てた。
「なんだべが。おらのことば役所にたれこむ気だべが。」
「お前一人を告発したところで、密猟が横行してる状況は何も変わらない。それと、生憎広公までは同行できない」
彼は申し訳程度の口止め料としてか紙坐の束を寄越すと、私の背からひったくる様にして箱を奪い取り、舌打ちしてその場をそさくさと立ち去っていった。
背にかかっていた重みが消えてなくなって、冬の把中の寒さが、急に体にこたえるようだった。
それから一年は経った。
行商で広公を訪れた私は、暇つぶしがてらに勢子の見物に出かけた。賭客の熱狂ぶりは、最盛期の頃に比べれば幾分か盛り下がっていると聞いたが、私にしてみれば十分騒々しかったし、罵声や猥言の飛び交う異様な雰囲気は私に嘔吐すら催させた。
しばらく紙坐の徴収を眺めながら試合が始まるのを待っていると、闘技場の幕がひらいて、一匹の鬼鋏がちょこんと顔を出した。それから、おずおずと、躊躇うように全体がぬるりと滑り出た。鬼鋏の体には塗料か何かで塗ったのかけばけばしい色彩で模様が描かれており、細長い大顎の先は鋭利に磨かれて尖っていた。
続いて、私の席側の幕の下から、もう一匹の鬼鋏も顔を出した。そいつはかた一方よりも小さく、全体的に色が黒っぽかった。とりあえずそちらを応援することにする。
両者はぴくりとも動かなかった。よくあることなのか、客たちが一斉に囃し立てはじめる。
痺れを切らしたように、黒い鬼鋏の傍に立っていた額に布を巻いた若者が、鎌でそいつの体を突っつき始めた。向かい側の大きい方の鬼鋏も、鎌で体をちくちくと刺されている。
それでようやく、のろのろと両者が動き出した。
黒い鬼鋏の大顎が、模様の鬼鋏の体に触れた。ゆっくりと、黒い鬼鋏が横向きになった。何をする気かと見守っていると、そさくさとあらぬ方向へ這い出してしまう。
すぐに若者が駆け寄ってきて、何か壺に入った液体のようなものをびしゃびしゃと撒いた。かぐわしい臭いが漂ってくる。私は辟易として、今すぐにでもこの闘技場のテントから抜け出したい気分になった。
臭いにつられてか、ようやく黒い鬼鋏が向き合った。間を置かずに、模様の鬼鋏が、猛烈な勢いで風を切って黒い鬼鋏の横腹に大顎を突っ込んだ。
急展開に、客席は湧いた。
模様の鬼鋏は、抜け出そうとする黒い鬼鋏をがっちりと捕えて離さない。そのまま二匹は、じりじりと回りながら組み合った。
また両者が動かなくなってしまった。
しばらく、テントの支え木の年輪の模様をぼうっと眺めていると、突然に歓声が沸いた。
何事かと眼下の闘技場を眺めやると、拘束から抜け出した黒い鬼鋏が、模様の鬼鋏と大顎をがちがちと組み合わせながら押し合いへし合いしている最中だった。
それからも試合は続き、見せ場は時折、客のふいをつくようにしてひょいと現れては消えていった。
結局、私にとっての見所はといえば沈黙を破った模様の鬼鋏の衝動的な突撃くらいなものであった。勝ったのも模様の鬼鋏だということだが、私自身競技の規則をよく知らないこともあって、発表までは黒い鬼鋏が勝ったものだと勝手に信じ思い込んでいた。
紙坐が乱れ飛び、泥葉を吸って頭のいかれた客どもが喚き立て続ける中、私は黒い鬼鋏のある動向に興味をひかれていた。
勝負を終えて疲弊しきったそいつは、平たい頭部を左右に揺すっていた。ふんふんと、まるで踊っているかのようだった。
ふいにそいつと、目が合った気がした。
硝子玉のようにつややかに光る丸い眼球。私が腰を浮かしかけた時、そいつも刹那微かに身じろぎ、私の方に頭部をゆらりと振った。
だがそれもつかの間、黒い鬼鋏は若者に追い立てられて幕の奥へと引っ込んでしまった。そのあまりの素っ気なさに侘しさのようなものを感じながら、私はテントを出た。
目の錯覚か、気のせいだったかもしれない。
けれども、あの時、私は確かにあの虚ろな瞳から、私に対する暗く深く、湿った、それでいて全てを諦めきったかのような無力感すら漂わせる視線を感じとったのだ。
彼はすぐに目を背けてしまった。
お前なんか親じゃない。そういうことを言われた気がした。
私は俯いた。それから、全てに背を向けて歩き出した。