ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

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第149話「夜を越えて」

 

―――帝都総合娯楽アミューズメントパーク内。

 

「本日は皆様、お集まり頂き誠にありがとうございます。本プログラムは彼の大文豪の逝去より10周年という事で彼が来るべき世界に遺したいと願った文化の火を消さぬ為に創設した帝国娯楽財団によって執り行われるものであります」

 

 ガヤガヤと大ホール内の座席には今日の為に座席を取った者と大勢の立ち見客が入っていた。

 

 司会をしている貴族風の礼服を着込んだ男が一礼する。

 

「彼の文豪は何よりも楽しい事を重んじました。それが人々を楽しませ。一時でも辛い現実を忘れさせ。また、同時に誰かの希望や灯として心を温め、誰かと語らうに足る話題であれと願ったからです」

 

 集まっている人々は老若男女と人種も年齢も多種多様。

 

 だが、何かしらのグッズを持っていたり、アイテムを持っていたり、はたまた衣装が凝っていたりと様々ないで立ちだった。

 

「彼の文豪の事は正しく皆さんの中にいる中高年の方が詳しいかもしれませんね。彼の自伝は有名ですし、彼の妄想と称された多くの言葉は正しく常にユーモアに溢れ、誰も彼の戯言を信じなかった」

 

 静かに人々は聞き入る。

 

 数多くの偉業を為した男が遺したのは正しく文化であった。

 

 何なら関わっていないのか。

 

 文明の最たる娯楽を生み出した芸術家崩れと呼ばれた多くの人々。

 

 それを纏め上げ、中心人物として名を馳せた男はどんな娯楽の仕事も引き受けたし、何なら子供にはまだ早い文学の大家としても、大陸の成人御用達文学の祖とすら言われている。

 

「やれ聖女殿下は異世界人だ。やれ全ては聖女殿下の御計画だ。やれ聖女殿下は必ずやまたこの大陸に戻って来られる。帰って来た少女……あの話を初めに発案した人として紙芝居の内容は一言一句今も昔と変わりません」

 

 司会の男の背後に無数にも思える大量の本の表紙が並べられた。

 

「ですが、皆さん。帰って来た少女は現実となりました。また、姫殿下の御恋愛を描いた現在放映中の大河ドラマですら、現実となりました。発表当時、帝国陸軍情報部より発禁処分された放映中のドラマの原題【乱姫】全巻は今やプレミア価格で都会の家が丸々一件買える値段であり、今年には再発売が行われました」

 

 周囲には現在放映中のドラマのシーンがディスプレイでズラリと並べられた。

 

「軍人の家系であり、父母との確執もあり、才能はあれど埋もれてゴクツブシのロクデナシと呼ばれていた御仁がたった一日で、一人の少女の訪問で人生を変えられた話……」

 

 数年前、短いが短編として放映された当時のドラマは自伝の書き出しを使ったフィクションとして世に出ている。

 

「馬鹿馬鹿しい妄想だと思われるでしょう。そんな“公式設定”がまったく人々には笑い飛ばされた愉快は発売当時誰もが感じたものではないでしょうか? つまりは『やれやれ、あの作家の妄想には付いていけんな。ははは』という事です」

 

 司会が指を鳴らす。

 

 周囲の虚空に大量の本が浮かび上がり、それが最新の映像投射技術である事を理解する誰もが僅かに驚きの声を上げる。

 

「彼の御仁は常々言っておられました。『自分の文章など単なる道具に過ぎない。本当に素晴らしいものは現実であり、本当に人々が知るべきなのは彼女の事なのだ』と」

 

 司会の男の瞳の端に僅か輝きが零れる。

 

「あの御仁のいつも何でも無さそうに馬鹿馬鹿しい程にユーモアに溢れた言葉はアウトナンバーによって彼の自宅が消えた後も耳に残っています」

 

 その言葉に僅か涙ぐむ者もあった。

 

「新人編集者を逃がして光に消えた御仁が『常に自分は嘘なんて言っていない。少なからず、男達の夢と浪漫を書く以外では……』なんて言っていた日々。彼と共に仕事をした大勢の新芸術と呼ばれるようになった娯楽の大家達にとって、それは日常の軽口。けれど、誰もがいつの間にか信じていたと言います。現実は小説よりも奇也と……」

 

 本の中に1人の少女の姿が現れる。

 

『嘗て、わたくしは1人の男に頼みました。文化、文明をどうか帝国に遍く。いつかの大国からすら大偉人と呼ばれるくらいの事は確約しましょう、と』

 

 誰もが固まる。

 

 声の主が本物であると報道で流された声を聞いた者達は知っている。

 

 例え、姿が変わっていても、確かに彼らは声だけですら確信が持てただろう。

 

 それほどに年齢と容姿が多少変わった程度で少女の事を間違えられる者は少なかった。

 

『彼はわたくしの無茶な願いを叶えてくれた。死ぬまで面倒を見ると言っていたのに……いつの間にか自分の脚で立って、こうして誰かの面倒を、大勢の自分の後輩達の支援までもするようになっていた』

 

―――ああ、それが真実か。

 

 そう誰の脳裏にも過るのは文豪の文言ばかりだった。

 

『わたくしが彼の人生に報いられたのかどうか。政治をリージに任せた時、その両輪として彼を選んだわたくしの決断は間違っていなかった』

 

 司会の男が涙を堪えて、嬉しそうに顔を歪める。

 

『新しい姿で失礼。わたくしは彼の書いた書の真実です。そして、彼の自伝の殆どに嘘偽りが無い事を此処に証明致します。ああ、勿論。殿方のお使いになる本の内容以外で、になりますが……』

 

 ざわめく観客は下品にすらならないユーモアに思わず笑い出しそうになってしまう……そして、何処か泣きそうになってしまう。

 

『まったく、人の恋愛事情にまでお膳立てをしてくれる偉人がいるとは……彼には感謝してもし切れませんね。もしも、この世界が今来る破滅から守られるのならば、それは間違いなく彼がいたからであると断言しましょう。帝国の継承者たるこのフィティシラ・アルローゼンが確約致します」

 

 その言葉に司会の男の涙腺が遂に決壊した。

 

「どうぞ皆さん。これからも多くの娯楽を楽しんでいって下さい。皆さんが愉し気に誰かと共に娯楽を語らう時、それは彼が真に勝ち得た文化という何物にも代え難い奇跡を手にしている事と同義なのですから」

 

 静かに一礼した少女が真っすぐに虚空を見やる。

 

「貴方の人生に祝福を。遅れて来た事に謝罪を。わたくしのいない間、人々の心を救い、人生に喜びを与え、誰かの笑顔を作ってくれた事に感謝を。貴方は確かにわたくしにとって一番の大偉人ですよ」

 

 黙祷を捧げた少女に誰もが習った。

 

 そして、誰もが目を開けた時、何処にも少女の姿は無く。

 

「―――っ。ゲスト参加の尊き方、どうもありがとう、ござい、ましたっ」

 

 司会の男が涙を拭いながら頭を下げ。

 

 そして、数秒で鼻声ながらも再び仕事に戻る。

 

「本プログラムはパーク内で数多くの作品に触れる事で完遂されます。貴重なもの。最新のもの。彼の弟子や彼の所属した組織が今も生み出し続ける帝国発の娯楽の全てが此処に集結しています!! では……此処に!! 帝国大娯楽博覧会の開催を宣言致します!!!」

 

 歓声が上がった。

 

 そして、このスペシャル・プログラムの内容は一切公式で録画録音しておらず。

 

 一部の配信者達が許可を取って流したものがネット上に拡散。

 

 その日、一番の話題はこうだった。

 

【悲報!! 帝国最大の娯楽ネタたる大文豪(笑)……単なる姫殿下が認める本当の大偉人だった模様(帝国男子大歓喜)】

 

 こうして姫殿下公認大偉人一号は昔建てられた一人の少女の銅像の横に同じ質感で立つ事となる……彼が文学の聖人と呼ばれ、親しまれる事はこれから間違いのない現実であった。

 

 *

 

 如何に大陸を事実上統べる帝国と言えども、人間の管理には限界がある。

 

 例えば、世の中にはヒキコモリだっているし、底辺と呼ばれるような所得で毎日カツカツで暮らす人々だっている。

 

 だが、その貧困という概念が嘗ての大陸と比べてもかなり違う事は間違いない。

 

 そして、それはどんな時代と比べてもそうであり、帝国がリセル・フロスティーナによって改善した大陸の常識はもはや50年で別物と化した。

 

 何も持っていない人々の多く。

 

 貧困層と呼ばれる人々にとって今日の食事に事欠くなんてのは殆ど無い状況だ。

 

 日雇いの単純労働者として生きていく事は容易だし、食料の価格は少なくとも加工食品に限ってならば、とても安い。

 

 栄養素の偏りは貧困層に配られる安価なサプリメントの類が大量に出回っており、味気ない事を除けば、体調を崩す事はあまりない。

 

 そもそも単純労働者特有の労災が大陸において発生する確率は年々下がり続けており、病気やケガで働けなくなる事も早々無いし、そうなっても万能薬がそれを回復してくれた。

 

 ついでに言えば、嘗ては大陸に存在していた麻薬流通組織や中毒症状を起こす個人というものがほぼ絶滅している。

 

 理由は単純明快。

 

 リセル・フロスティーナによる掃討によって組織構成員が全滅。

 

 ついでに殺す程ではない人間達の大半は思想矯正施設で心の底まで絶望を味わった後、廃人同然で大人しく余生を過ごす人々ばかりだからだ。

 

 その上、大陸で非合法な薬物の大半の効果がほぼ半減以上に人類規模で効き難くなっているという事情もある。

 

 万能薬のマーケットが拡大して以降、ソレが最も人々にとっては大きい体質の変化だっただろう。

 

 万能薬そのものが人間に過剰な反応を引き起こす薬物に対する抵抗力を付与するという機能を持っていたのだ。

 

 これにアウトナンバーの追い打ちで世界各国が崩壊した事も重なって犯罪の下地が根こそぎ帝国閥に鞍替えする確率へと切り替わった。

 

 帝国からの支援を受け入れる代わりに社会構造の大変革を受け入れざる得なかった為、帝国式と呼ばれる社会常識と日常的な帝国化現象は大陸を覆い尽したのだ。

 

 結果として、貧困とは食べられない事では無くなった。

 

 必死に働いて貧困は抜け出せるものとなったし、能力で区別される事はあっても、門地や性別で社会的な扱いに差は生じ難くなっている。

 

 今では優秀な貧困層出の指導者はザラにいるし、逆に伝統的な王家や貴族から出た指導者が真っ当である事は普通だ。

 

 能力のない人間は上に立つべきではないという単なる常識が世界のスタンダードであり、有能なら誰だろうと社会的な地位は上に行ける。

 

 だが、同時に能力のない人間の生き方の幅がとても劇的に改善した事で社会的な安定度は段違いに上がった。

 

 貧困層でも電子端末は持っていて当たり前であり、貧困層でも空調設備が整った家屋に住むのは当たり前であり、貧困層でもちゃんと食べる事に愉しみを感じられる程度には良いものは食べられるし、多くの場合彼らに必要以上の税金が課される事も無い。

 

 ついでに無限の電力を生み出す馬鹿げた装置によって、一般家庭が払うエネルギー料金に類する類の収支は嘗てと比べても10分の1以下。

 

 家庭が貧困世帯に類すれば、人数換算で一定額までは無料だし、産業や企業体はエネルギー価格を商品に対して転化しなくても利益が出る構造になっている為、あらゆるサプライ……あらゆる商品は過去と比べても殆どは極めて安い。

 

 このような商取引を動かす資源関連の株式や債券で莫大な不労所得を得ている人々への課税はとても高いが、他国に税金を逃れるような場所は無く。

 

 課税された税金が自らの国の国家補償や治安維持、社会の安定化に使われていると言われて多くの高額納税者達は納得している。

 

 いや、納得せざるを得ないと言うべきか。

 

 世界の数%程もいる超高額所得者の大半が所得税のみで90%以上、他の税金で所得の98%を国に納めているのが現在の大陸だ。

 

 しかし、誰一人その事実に文句や愚痴を言う事が無いというのも過去ならばおかしな話だろう。

 

 それがどうして受け入れられているのか。

 

 格差が限界まで縮められながらも社会的な基礎が資本主義で回っている理由。

 

 それが教育である事はあまり知られていない。

 

 高額所得者になればなるほどに良い学校に行く事は過去も常識ではあった。

 

 だが、それに輪を掛けて優秀な高額所得者層に対する倫理道徳教育の徹底はほぼ幼児教育の頃から始まっており、無私の心や奉仕の心得、人間の感情を考慮に入れた合理的な生存に資する行動倫理、労働倫理が刷り込まれる。

 

 つまり、高額所得者層になればなるほどに彼らの大半が聖人でも作ろうかという程の帝国式の純度の高い倫理道徳教育の精粋へ触れる事になるのだ。

 

 社会全体で物事を見なければ、人類が事実として滅びる可能性があるという軍事的な視野を持つ高度教育を受けた知識層が纏まって超高額所得者になっている。

 

 これが何よりも国家の改革に利いた。

 

 要は階層社会の上が丸ごと聖人みたいな連中ばかりで固められたせいで嘗ての独善偽善なんのその平然とした表情で他人を見下せていた旧世代の金持ちは消滅していった。

 

 宗教の完全な世俗化もこれに拍車を掛けており、原理主義者が根絶された時代に善行を積んだ多くの善人達は宗教者ではなく地方の名士や高額所得者層そのものであった。

 

 要は上に立つ者は聖人であるべし、のような観念が非常に強固な常識として固定化された。

 

 これらは普通なら不平等感があると思われるだろうが、高額納税者の大半がその見返りとして帝国の最先端の文化や娯楽、更には一般には知らされていない軍事的情報にアクセスする権利を得ている事は一般に知られている事実だ。

 

 彼らはその多くを知る事が他の人間よりも生き残る為に優位である事を知っているし、それを家族と共有する事で次代を遺す確率が高い事を理解している。

 

 知識層がより情報を重視する事が規範化された結果。

 

 生命の最も純粋な機能である自己生存と子孫繁栄が為されるのであれば、所得の分配など彼らには安いものとなったのである。

 

 これは国家システムへの絶対的な信頼が無ければ、在り得ない話だ。

 

 こうして合理的であればあるほどに悪徳に奔る意味が薄れ、倫理的道徳的であればあるほどに高額所得を得易い社会構造へと帝国が大陸を推し進めた結果。

 

 今や大陸全体でも重大犯罪の発生率は50年前の20万分の1以下になっている。

 

 軽犯罪に限ってはこの限りではないが、それにしても窃盗、強姦、殺人、詐欺、企業犯罪、組織犯罪、その他諸々を含めても金や利益の為に犯罪を犯す間抜けな人々は過去と比べても絶滅危惧種の類と認識されていた。

 

「何も思い通りにならない人生の類は無名山の特権か……」

 

 自嘲気味に男が苦笑する。

 

 一般閲覧禁止の書架から50年前から現代に続く社会改造論を見ていた彼である。

 

 あちこちから書籍を引き抜いて確認していた彼は苦笑する以外無かった。

 

 奇妙なくらいに無名山の外と中での価値観の相違がある事は最初から分かっていた事だったが、それにしても彼は自分の中に抱えていた感情をようやく言葉に出来た気がした。

 

 それは羨ましい、羨望という感情。

 

 だが、嫉妬ではないところが闇の深い現代社会というところだろう。

 

(オレの家族は良くも無いが悪くも無かった。母は父亡き後もオレを育てた。周囲からは立派と呼ばれる人物だったが、実際には癇癪持ちの人の話を聞かない古い人間の類……ゴクツブシと詰られ、出て行けと言われるのが日常だったな……)

 

 そう、そこだ。

 

 彼にとって家族は最低限養ってくれてはいたが、それだけの人間だった。

 

 決して、心の底から敬愛出来る人間でもなければ、育ててくれて感謝したい人間でも無かった。

 

(現代の大陸人というのは恵まれているわけだ……)

 

 きっと、父母は良い人間で不和もそう多くなく。

 

 心の底から敬愛出来て感謝されるべき人が多いのだろう。

 

 大都会を歩いていてすら、大陸の殆どで相手を警戒し、疑心暗鬼で誰かを憎しみの視線で見ている人間は少ない。

 

 それは明確に無名山では何処の路地でも大通りでも見られる光景だ。

 

 父が不倫した母を憎み、子が不和のある両親を憎み、母は捨てられない子供を憎む。

 

 疎ましいと思われた子供を捨てるのが常識なら、疎んでも捨てない人間は聖人だと持て囃されるのが無名山……嘗ての大陸の名残に等しい世界なのだ。

 

(母はオレの言葉をロクに聞かなかった。外の合理性を重んじず。何か不愉快や自分に不都合な事があれば、八つ当たり……出て行けと叫んでは放置……ただ食事だけには何も言わない。それだけの関係……こんなの仲間内では普通だと言われ、オレ自身もそう思っていた。だが……)

 

 そうだ。

 

 彼は知ってしまった。

 

 帝国は、大陸は、今正にその普通が通用しない最良の時代に突入しつつある。

 

 生死の確率など人がいつか死ぬ存在だとすれば、考慮する必要など無い。

 

 彼にとって人生の問題はどう生きるかであって、どう死ぬかではない。

 

(まったく、泣きたくなるくらいに不公平で理不尽な話だ。自分ではどうにも出来ない社会をたった一人の計画が変えて、たった一人の計画通りに人々が幸せになる。母数を最大化したならば、旧時代の人間は駆逐されても何ら社会に問題が出ない……)

 

 外に出た人間として彼は少なからず自分に無名山の外への憧れがあったと知っていたが、理解出来るのは旧世代と過去になりつつある老人達を切り捨てて来た自分もまた大陸全体から見れば、単なる切り捨てられて当然の存在という事だった。

 

 近頃の若い者はと言い続けた老人達を見下した自分達が下の世代から同じように見られる年齢になり、時代遅れになっているという事実。

 

 そして、そんな世代が身に染みて敵わないと分かる……どう考えてもどうにもならない相手を前にして死ぬ為に戦うような戦争へと駆り出される。

 

 これこそが喜劇でなくて何だと言うのか。

 

「心底勝てないな。我らは……」

 

 あるいは自分こそが最もこの時代の犠牲者だと言わんばかりの嘆きを込めて、彼は溜息を吐く。

 

 誰だってそうだろう。

 

 少なからず“普通”であるならば、仲の良い家族、幸せな家庭、敬愛出来る両親、信頼出来る友達、どんな秘密に打ち明けられる兄弟姉妹……そういうのは理想なのだ……理想だったのだ。

 

 彼にとっては……けれど、その理想が理想でなくなった世界と相対した時、彼は自分がその理想を捻じ曲げるだろう最たる古い人間の部類だと理解せざるを得ない。

 

 彼もまた彼の母と同じ世界の人間であればこそ、その聡明さが告げるのは明確な絶望だけだ。

 

「どうしたの?」

 

 書架の影から少女が顔を出した。

 

 その手には数日前から変わらず漫画が握られている。

 

「知れば知る程に絶望は深い。そういう事だ」

 

「はぁ、僕らの引率役をしてる割には精神弱いよね。ホント……」

 

 少女の背後から少年が顔を出して呆れた様子になる。

 

「積み上げたモノの量が違う。薄っぺらい絶望と悪徳が渦巻く犯罪都市。なんてのはこの圧倒的な質と量を維持する文明社会とやらの前には風前の灯火だ」

 

「そんなの最初から分かってた癖に……」

 

 少年が肩を竦める。

 

「だろうとも。これでも外を一番見て来た無名山の人間だ」

 

「で、諦めるの?」

 

「そういう話でもない。単純に知識を学ぼうにも時間が無く。必要な情報を得ようにも手段が無い。一般閲覧禁止の書架だとしても、ソレに変わりはない。何故なら最も重要な事柄は口頭伝達や頭の良過ぎる人間達の頭の中でソレを取り出す方法は我々にはあれど、それをすれば、圧倒的に相手を本気にさせてしまう。ジレンマというヤツだ」

 

「……聖女様か。あ、今度は博覧会? とか言うのに出てる」

 

 少年が端末を確認して、現在の聖女の状況を確認する。

 

「面白そう!!」

 

 少女が目を輝かせる。

 

「家が無くなるかどうかの瀬戸際に遊んでるつもり?」

 

「ぅ……でも、何を調べてもダメな気がするって言う言葉には同意。重要な事は確かに此処では見付からない気がする」

 

「わざわざ能力を控えてもコレじゃぁ、どうしたものかって事だけど、能力を使ったとしてもどうなるって考えたら……」

 

「ねぇ、いっそ能力で出て来るか確かめたら?」

 

「……最終手段だけど、もう期日が迫ってる。それも已む無しかもね」

 

 少年が少女の言葉に肩を竦める。

 

 そして、男を見上げた。

 

 どうすると問い掛けるように。

 

「期日3日前までに何も打破の可能性が見付からなければ、そうしてもいい。その場合、瞬時に帝都から離脱する事が前提だ。いいな?」

 

「「了解」」

 

 少年少女が頷いた。

 

 そうして今日はこれで引き上げようと書架を出た彼らが巨大な図書館の中にあるファストフードの店舗内で適当に注文する。

 

「あ、あたし聖女風エビカツバーガーで」

 

「ポテト大を大盛で二つ。フィッシュバーガー3つとシェイク2つ」

 

「オリジナルチキン12ピースセット一つ」

 

 3人の注文が終わって席に入ると数分で作り立てのバーガーやら諸々が付いて来た。

 

 三人のいる席にはもう店員がお冷を持ってきており、3食分以上で2000を超えない出費と食事の量に彼らは何処となく敗北感を感じる。

 

「これがウチなら6000以上は取られてる」

 

 少年が肩を竦めながらフィッシュバーガーを齧る。

 

「そもそも帝国の国際通貨無くして、現代の経済は立ち行かない。基軸通貨を持っている国は僅か4ヶ国。それも聖女とゆかりのある国々ばかりだ」

 

 男がチキンをガツガツと骨毎齧りながら肩を竦めた。

 

「無名山が持っている外貨は基軸通貨ではなく弱小国の通貨が殆どだ。レート事態もかなりボッタクられてる事は知っておけ。お前らが外行きの仕事をこれからも続けるならな」

 

「へ~~そうなんだ。どれくらい?」

 

「今の相場は低開発国の平均レートが1パレルに対して2000くらいだったはずだが、我らは輪を掛けてその2000の通貨を3000くらいの値段で買い取って取引している」

 

「マジでボッタクリじゃん」

 

 少女が目を丸くする。

 

「現代式の通貨としては電子決済の普及で暗号通貨市場が簡易に開いているが、1パレルが凡そ1500くらいになるらしい。経済基盤の脆弱国は自国通貨を廃止して、広域基軸通貨に切り替えるところが殆どだ。国家基盤の脆弱な国程に帝国からの投資は有り難い収益にもなる」

 

「収益ね。買い叩かれてるの間違いじゃない?」

 

 少年が肩を竦めた。

 

「いいや、帝国に隙は無い。それで反感すら買われていない。低開発国の収支と国家予算の使い道を独自に精査して、自己開発する気が無い国は完全に帝国支配化に置く措置を取るし、自己開発する相手に限っては帝国式を基本押し付けるが、自主性は尊重してくれるそうだ」

 

「結局は押し付けられるのか……」

 

「それがリセル・フロスティーナに加盟するという事だ。国家基盤開発が完全に帝国主導となった国々の殆どは自己の国家開発に意欲が無い民族。そして、だからこそ、帝国化が著しく。我らのような無名山染みた世界の駆逐される速度は怖ろしく速かった」

 

「見て来たように話すんだね」

 

「見て来たのさ。この二十年近い時間な。帝国に支配されるという事は旧時代の遺物。古い世代の価値観が完全に失われるという事だ。気付いた時にはもう彼らは自分達が古ぼけた剣と同じように無価値となっていると知って絶望するしかない状況だった」

 

「それで新しい親帝国世代が国家を主導して、現実的に帝国化が完了するってわけ?」

 

「その通りだ。そこまで来てようやく自分達の善きシキタリだの古くても見どころのある文化を復興しようという流れになる。それすら無い国は国民の生活はともかく。歴史的には悲惨だな」

 

「悲惨?」

 

「見どころが無い帝国地方みたいな事になる。主に観光業は全滅。誇れる文化と歴史が無い娯楽を帝国頼りにした国というのは“馬鹿にされて酒の肴にすらされない”という事だ」

 

 少年少女は電子端末を持つようになってからよく掲示板を使ったり、ネットの新しい利用方法を模索しているが、その最中で最も馬鹿にされて話のネタにされているのは技術そのものを作った帝国だ。

 

 良くも悪くも帝国は娯楽の中心であり、それは逆説的に他の国々には左程に話す事すら無いという悲惨な状況を映し出す鏡となっている。

 

 だからこそ、帝国外での大きな話、他国発の話題はとても盛り上がる。

 

 国家として一番問題なのは問題にすらされないという毒にも薬にもならない“その他”になる事なのである。

 

「「………」」

 

「現代文明の偉業と称えられるようなあらゆる分野での功績の殆どが帝国にあるわけだ。だからこそ、後続の国家は独自の文化文明が帝国に睨まれないように育てる事を躍起になってしている。だが、無名山にはソレが無い。そういう事をしようとも思わないだろう」

 

「つまり、順当に帝国へ負ければ、僕らみたいな戦闘能力しかない連中や悪党ばかりの居住者は地獄を見て死ぬまでゆっくり生活の面倒を見られていろって事?」

 

 少年が目を細めてバーガーを齧る。

 

「それが良い悪いは別としても実態は人間様という新しい家畜の飼育と左程変わらんと思わないか?」

 

「「………」」

 

「それが嫌だからと殺傷力の高いオブジェクトやミーム汚染系、大規模現実改変系を持ち出せば、あちらも相応の兵器や対処方法、社会的な圧力を持ち出す。だから、情報戦なんだ」

 

「……どうしろって言うのよ。犠牲が少なくても出来る事が殆ど無いのに」

 

「こういうのは相手が怒れない一番痛いところを突くのがセオリーだ。普通のヤツなら浮気しただの、実は犯罪者の家族がいただの、昔に馬鹿な事をして秘密にしてただの、何かしらの不祥事はあったりする」

 

「……聖女にはそれが見込めない。周辺も?」

 

 少女が首を傾げる。

 

「そういう事だ。ついでに帝国陸軍情報部の蒼力使いの子供連中。聖女の子供って事だぞ。そっちは何でも情報を物理消去可能な技術と叡智を身に付けたエリートだって事を加味したら……」

 

「大人しく負けを認めるしかないって事?」

 

「普通に考えれば、ゲームセットだ」

 

 男がチキンを骨毎齧り切ってゴクリする。

 

「じゃあ、オブジェクト使って戦争する以外の方法で勝つしかないんじゃないの?」

 

「それが一番難しい。選定しても人を殺さない。相手を怒らせない。決定的な一線で踏み込まず、聖女相手に五分へ持ち込むものが必要だ」

 

「さすがにそれは……」

 

 少女がバーガーを齧り終えてシェイクを啜る。

 

「解ったか? 今の状況をひっくり返すのがどれだけ困難な事か」

 

「でも、逆に言うと聖女にもどうにもならない事があれば、いいわけでしょ」

 

「どうにもならない。なんて、それこそ神でも持って来るしかない話なわけだが……」

 

「あ、それ出来ない?」

 

 男が固まる。

 

 そして、思案して数秒。

 

「………リスクが高過ぎる。オレ達や世界が崩壊しても困るんだぞ?」

 

「なら、それを踏まえて、こっちに協力してくれそうな神様が来い!! とか、したら?」

 

「出て来ないに一票」

 

「それ以前に出てきたら、益々困るパターンだ」

 

「マヲ!!」

 

 少年と男がそんなに都合よくいくものかと最後のバーガーやチキンを腹に納めた。

 

「ん?」

 

「マヲ~~?」

 

 少女が首を傾げると少女の横には黒猫が一匹尻尾をユラユラさせている。

 

「……神様?」

 

「マーヲ」

 

 頷く黒猫が二本足で頷く。

 

「オイオイ……可愛過ぎるにも程があるだろ。捨てて来い。いや、あっちに連絡する。何かマズイ事に為る前に収容するぞ。手間を掛けさせるな。まった―――」

 

 男が何かいきなり現実改変で出て来てしまった黒猫を見て、すぐに無名山へ連絡を取ろうとする。

 

 だが、それが出来ず。

 

 同時にすぐ横の少年が汗を流しているのを見て、顔を引き攣らせる。

 

「消せない……しかも、干渉が全部跳ね除けられたよ。今」

 

「クソ。此処で死にたくは無いんだがな」

 

「マヲ~~」

 

「え? 帝都のオヤツを毎日捧げてくれたら願いを叶えてやる? お試しで不可能な事以外?」

 

「マーヲ」

 

 少女がどうやら黒猫の言葉が分かるらしく首を傾げて会話する。

 

「分かるのか? いや、分かるようにしたのか」

 

「うん」

 

「マヲーマヲヲ!!」

 

「毎日、健康の為にオヤツは無しとか言い出す飼い主に裁きの鉄槌を!! って言ってる」

 

「裁きも鉄槌も結構だが、現実改変能力付きの猫? 同じようなのが確かウチにもいたような気がするな。時間凍結処理されてたはずだが……」

 

「マヲマヲヲ!!」

 

「ええと、オヤツを出すのか。出さないのか。だって……」

 

「オヤツ……で、値段的には?」

 

 少年がジト目で訊ねる。

 

「マヲゥーヲ♪」

 

「美味しければいいんだって」

 

 男もまたジト目になる。

 

「解った。じゃあ、しばらく帝都の最高級菓子でも捧げておこうか。それで聖女の攻撃でも戦争中に防いでくれれば御の字だが、相手に現実改変が効かない以上、どうにもならんだろうな」

 

 男が溜息を吐いて肩を竦めた。

 

 そしておもむろに立ち上がるとシェイクやらファストフード店のお菓子を頼みに行く為にカウンターへと歩いていく。

 

 そんな背中に黒猫がニュッと何処からか取り出した〇のマークが書かれた板の付いた棒を片手で上げる。

 

「おーけーだって。案外、知らない形で能力出ちゃうんだ。今度から考えないと。あ、もういない。何処? 消えちゃったのかな?」

 

 少年が少女の様子に呆れながら溜息を吐いてまた出てきたら面倒事になるとお菓子をしばらく切らさないようにネット注文を始める。

 

 現実改変能力者の死なない為の何気ない日常はこうして過ぎていく。

 

 オブジェクトと呼ばれる怖ろしき超常存在相手に約束した事は絶対に護るというのが時には何よりも身を護る行動だったりする。

 

 自称神様の黒猫は次の日も次の日も彼らの前に現れ、お菓子を捧げよと言い張るようになり、彼らは仕方なく問題行動を起こさぬよう収容の為のプランを同時に練るという……現実逃避兼息抜きをする事にしたのだった。

 

 *

 

 帝国式という言葉が大陸において受け入れられて50年余り。

 

 アウトナンバーのせいで時代に生じる誤差が10年から100年くらいあるという話もあった大陸では帝国の行動様式や生活様式が人々の間に浸透し切った。

 

 その中で最も変化したのは何よりも教育現場であった。

 

 この事は多くの人間が身を以て知っている事実だ。

 

 特に小中高の一貫無償教育はかなりの成果を上げたと言える。

 

 あらゆる面で子供を完全に教育してやろうという帝国の怖ろしき恐怖政治ならぬ恐怖教育は虐めを許さず。

 

 また、基本的に物覚えの悪い生徒程に熱心な指導を行う代物となった。

 

 子供らしくではなく。

 

 人間らしく教育する事がスタンスとして取り入れられ、基本生活に必要な諸々の技能を覚え込ませた上で完全採点制と呼ばれる全ての学問に点数が付くスタイルが採用された結果は子供達に自らの完全な現在値。

 

 つまり、自分の職業適性や就業適正他、向いている事や向いていない事を厳然と突き付ける場ともなったのである。

 

 これが一年毎に個人へ教えられ、同時に大人顔負けに心理適正までも調べられた。

 

 そんな子供達が個別で当人に合った教育を施された事はまったく奇跡的に馬鹿げた成果しか生まなかったとされる。

 

 全ては帝国の聖女が始めた事である。

 

 そして、その異世界に持ち込まれた自主自尊の精神。

 

 日本式の学校教育の理念と日本教育の改善点を突き詰め、面倒な権力者や保護者や宗教の声を完全に潰した成果は有ったともされる。

 

 つまるところ、それは帝国式の最たる輸出先が子供達であったという事実であり、集団行動が出来て人格的に優秀な技能者の育成と同時に型に嵌まれない例外的な子供達にまた別の道と生き甲斐を与える事にもなったのである。

 

 運動出来ない子供に必要以上の競技的な運動をさせる事は無いし、勉学の資質が無い子供に無用な程に勉学をさせる事も無いが、人間として社会で生きていけるように基本的な礼節や道徳や倫理を徹底的に叩き込む事だけはどんな子供にだろうとも共通して行われた。

 

 学も体も持たざる子供は決して多くは無いが、少なくも無い。

 

 他の才能があれば、それを伸ばせる教育プログラムが用意されて、各種少数者を束ねる特別クラスが編成され、同じ形質を持つ者が大勢いるという事実を教えながら他と違う自分が受け入れられるコミュニティーを作り、団体行動がし易いようにも配慮された。

 

 自分の事は自分でする。

 

 何かをして貰ったらお礼を言って、相手にも何かしてあげる。

 

 教育は学問がまず二の次にされて心を変える事が一義として為された。

 

 無論、それでも社会に積極的に馴染めない子供はいるし、人を触れ合う事が得意ではない子供が含まれていたが、それこそを帝国は三つ子の魂百までと言わんばかりに本当に優秀な教師陣を以て教化したのである。

 

 例え、学も肉体も無い子供だろうとも悪事を働かねば食えないなんて事は無く。

 

 帝国が各種用意した様々な帝国に必要な業務に従事する帝国の先兵として社会から彼らは引き抜かれていった。

 

 優秀な人間は祖国に貢献し、本来ならば犯罪者かゴクツブシと呼ばれて社会の最底辺で固定化されるはずの人材が、悪意で他人を呪うはずの人材が、帝国を下支えする組織の構成員として生きる道を得た。

 

 これは正しく静かなる侵略行為だっただろう。

 

 そんな事は梅雨知らず。

 

 社会的に歓迎されない大人になれば無能と呼ばれるはずだった子供達は自分達に生きる場所を与えてくれた帝国勢力として多くの実務をこなすようになった。

 

 それは所謂誰にでも出来るが、現地人にしか出来ない事が多く。

 

 スパイ活動そのものだろう情報収集から始まって帝国式が何処まで広がっているかという現地調査やら単純作業が必要な親帝国閥と呼ばれる人々の支援など、マンパワーが活用されるあらゆる行動に彼らが運用された。

 

 その数は数千万や億を数えるような人口の国で10万人とも数十万人とも言われ、帝国の現地企業などで組織として編成された一種の社会に対する兵隊であった。

 

 本来犯罪組織や犯罪者として疎まれる層が丸々善良な親帝国閥として合法非合法問わず政治経済軍事活動に従事する一定数の手先となったのである。

 

「彼らが無能な側の人間として帝国式の模範となり、多くの人々が犯罪率の低下や帝国式の威力を肌身で感じるようになった事はその後の大陸政策を推し進める上であまりにも大きな功績であった……」

 

 パラリと頁が捲られる。

 

「無能なら帝国に養って貰え。ただし、お前が人々の模範になろうとする程に帝国式を実践して来たならば、か……」

 

 本に書かれた言葉はまったく現実味しかないだろう。

 

 何故ならば、親帝国閥の人々がいない国は大陸に無い。

 

 そして、彼らは今も厳然として組織化されており、数多くの一次産業で賃金は少し低いながらも集団労働力として従事していたり、一部は尖った才能を買われて、その分野で頭角を現して稼いだ利益を親帝国閥の人間達に様々な形で還元している。

 

 人間が最も金で手に入れられないものは仲間と自分が所属して良い集団である。

 

 それを与えた帝国の手腕は正しく悪魔的なものであり、彼らが職業団体にして政治団体にして企業団体にして有権者である限り、国家の規律と治安と政治と倫理には一定数の数を盾にした介入が可能なのだ。

 

「………帝国とは聖女である等と誰が言い出したものか」

 

 青年が1人。

 

 こけた頬のままに白無地のシャツとズボン。

 

 まるで囚人服の如きソレを身に纏ったまま。

 

 天蓋の硝子から入ってくる青空の輝きを浴びながら本を閉じる。

 

 周囲には大量の蔵書とデスクトップPCが一台鎮座しており、他は男が腰掛ける寝台だけであった。

 

 図書館から執事達に注文させた一般閲覧禁止の書物。

 

 多くが読み散らかされた部屋の中から青年が腰を上げて、一枚切りの扉を開いた。

 

「坊ちゃま。外に向かうならば、途中にヴェルントの礼服を用意してございます」

 

 老年の執事が畏まって青年に扉の前で一礼する。

 

「そうか。着替えはこちらでする。お前達は仕事に戻れ」

 

「は……」

 

 老年の執事が微動だにせず。

 

 その場で青年を見ていた。

 

「……戻れと言ったが何かあるのか?」

 

「遅ればせながら、一つ御助言差し上げるべきだと思いまして」

 

「許す。言ってみろ」

 

「帝国男児たる者。敗北は死に非ず。次なる糧と為して進め。それが緋皇帝陛下が敗北した兵達に掛ける常のお言葉でした」

 

「旧帝国陸軍の男らしい言葉だな」

 

「はい。政治閥として緋皇帝陛下と相対する事になりましたが、当家の一族の誰もが認めた。それが緋皇帝陛下でした。我が父や祖父もまたあの若者が未来を変えるだろうと言っていた事を近頃はよく思い出します」

 

「そろそろ耄碌したか?」

 

「いえ、人生にて敗北は決して終わりではない。帝国が帝国である限り、その道を誰もが続かせるよう努力に向かう。聖女……あの方もまた緋皇帝陛下と同じ瞳をしていた事を若い頃見ました」

 

「同じだと?」

 

「諸々は違うのでしょう。ですが、当時の緋皇帝陛下は今のように隠居していましたが、それは自分の力がもう帝国を動かすに足らず、と。そう知っていたからだったと思います」

 

「何が言いたい」

 

「聖女殿はまた緋皇帝陛下と同じく。己に出来ない事は出来ないと誰かに自らの任と責を分け与えるお方。今、あの方は全能や万能とも影で囁かれておりますが、政治経済軍事の様相を見てもそうは思えない」

 

「ふむ……それで?」

 

「最初に盤面を蹴飛ばして王を取るゲームはありませぬ。それが許されるのは正しく本当の意味で対等な相手に対してのみ」

 

「……オレが未熟だと?」

 

「はい。今の坊ちゃまに出来るのは王を取る事ではありません。それをその身で忸怩たる思いで受け入れたならば、道は見えている」

 

「あの女の下に付けと言うのか?」

 

「そこまでは……ただ、自らに合った任と責を抱え遣り遂げた者こそが帝国の指導者なのです。聖女殿は誰よりもソレをこなしたのです。万里の道を一歩進む者達の横で己の限りに全力で走り続けている。己を磨き。己を滅ぼしながら戦い続ける姿こそが人々を彼女の後押しに駆り立てる」

 

「……お前は若い頃は何処の軍にいたんだったか」

 

「東部でございます」

 

「なるほどな。あの御伽噺は真実か」

 

「ええ、坊ちゃま。貴方は今まで敵を倒す事ばかりに執着しておられた。それでは人が付いてきません。社会とは、人間とは、政治とは、他者あればこそ。それを体現し、己の命一つを糧にして常に他が為に戦う姿が多くの胸を打つ」

 

「………」

 

「精進為されませ。そして、それは他が為に為されませ。然らば、帝国人は貴方様にもまた付き従う事でしょう。女を分からせるなどと言わず。女を学び解くならば、きっと善き伴侶も見付かるでしょう」

 

「はははは……まったく、今までのオレに言わなんだのはそうか。オレが聞く耳も無く。未熟以前だったからか」

 

「………」

 

 老年の執事が畏まって頭を下げる。

 

「フン。そうだな……あのどうやっても倒せそうにない聖女を倒すより、他に力を割くのは当然の帰結か。今の帝国の為にオレが出来る事……ふ、大人しく部屋で敵対者の功績を眺めているのも飽きたところだ。行って来る」

 

「行ってらっしゃいませ。どうぞイオタ家の名を背に……」

 

 聖女に敗北して自宅に引き籠っていた青年は何処か嘗てよりも目を爛々と輝かせて、ニヤリと唇を歪めた。

 

 己の野望が滅びようと命ある限り、やるべき事など幾らでもある。

 

 あの敗北を喫した己を認めるならば、青年が求めるべきはそれ以外。

 

 再起するべく彼はまず己の手元にあるカードを脳裏で確認し、所有する企業へと連絡する事に決める。

 

「精々困るがいい。我が道はお前とは違うぞ。フィティシラ・アルローゼン」

 

 こうして皇帝になり損ねた男は完全敗北の後に自らの衝動に突き動かされ、遥か果てを目指して動き出したのだった。

 

 *

 

―――ルイナス中央区画最下層夜半。

 

「なぁなぁ、ふぃー」

 

「ん?」

 

「今日は仕事しなくていいのか?」

 

「オレの手が空いてるって事は朝までにしなきゃならない仕事は0って事だ」

 

「ふ~~ん。珍しい」

 

「まぁ、昔よりは決済の量が減ったし、決済以外のあらゆる仕事を此処数週間寝ずにやったからな。一日くらいは夜に寝かせて貰おう」

 

 寝室で昨日送られて来たばかりの帝国の大文豪全巻セット(箔押し金字版)をペラペラ寝台の上で秒間1頁ペースで読書中。

 

 今日の仕事を終えてダラケ・モードなメイド達やら遊興勢やらがもっふりしたトリプルキングサイズの寝台の上で其々に集まって、夜の空気の中……何処か修学旅行のテンションできゃっきゃしていた。

 

「あ、そう言えば、ニィトの―――」

 

「毎日、手紙出して即日届けて貰ってる」

 

「あれ? 今ってメールって言うのがあるんじゃ……というか、電話とかも50年前からしたら、物凄くアレだぞ?」

 

「デジタルで婚約者に声を送るよりは気持ちが伝わるかと思ってだ。ちゃんとあっちの迷惑にならないように15分くらいで読めるものにしてる」

 

「うわぁ……毎日とか。重いぞ。重くないか? う~~ん」

 

 デュガがこちらを見て目を細め考え込む。

 

「それを言うのも野暮でしょう。我々は毎日この多重婚万歳聖女様の傍にいるわけですし……」

 

 ノイテがこちらを横からジト目で見ていた。

 

 寝室では全員が寝間着姿だ。

 

 白いシルク製で帝国の最高級品であるが、自分には完全に簡素な無刺繍のものを揃えて貰った。

 

 無論、女性陣はフリフリヒラヒラだ。

 

 至って健全な少女用寝間着ばかりである。

 

 デュガシェス、ノイテ、イメリ、アテオラ、エーゼル、リリ、朱理、エーカ、セーカ……ニィトにいる相手以外は全員いるのだ。

 

 ちなみに親友はそのまだニィトを離れられない婚約者の元に出張中。

 

 フェグはジークと共に今日は寝室前で寝ずの番である。

 

 こっちの方から楽し気な気配のようなものは伝わっているのか。

 

 2人はいいなーという顔で夜の会話に興じているらしい。

 

 誰も彼も年頃。

 

 女性がこれだけ集まって姦しくないわけもない。

 

「姫殿下……そ、その」

 

「リリ?」

 

 見れば、今までアテオラやイメリと一緒にきゃいきゃいと愉し気に会話していたリリがおずおずと横に来ていた。

 

 本を捲る手を止めて向き直る。

 

「どうした?」

 

「……今日は夜のお仕事はお休みなされるのですよね?」

 

「そのつもりだ」

 

「もし、お嫌でなければ、こ、婚前交―――」

 

 ベチーンと物凄い勢いでイメリとノイテがリリの口を封じる。

 

「な、何を、いえ!? 何を言い掛けたのかは分かりますが、唐突過ぎますよ!? リリ様!?」

 

「そ、そうですよ!? リリ様!? いきなり過ぎます!? どうしてそのような事を!?」

 

「その……兄様が婚約した以上は今まで以上に誠心誠意お仕えするのは当然として、お世継ぎはどうなるのだろうかと……」

 

「あのむっつり兄は後で〆ましょう」

 

「そ、そうですね。ノイテさん」

 

 半ばメイド組の年長者的な立ち位置のノイテとイメリである。

 

「シュ、シュウ!? リリちゃんに何かしたら、怒るからな!!?」

 

「せやで!? この愛の淫乱多重債務者め!?」

 

「う~ん。でも、婚約者間で行動に制限があるのも不公平なような?」

 

 朱理とセーカがズイッと詰め寄って来る。

 

 その手には夜だというのにお菓子が握られている。

 

 もう歯磨きはした後。

 

 なのだが、世の中そういう夜食的なものが好きな人間は多い。

 

 特に現代っ子である朱理もエーカもセーカも夜の飲食は時々の愉しみらしく。

 

 お菓子や酒をよくやっていたりする。

 

 朱理は下戸なのでジュースだが、太るぞの三文字で固まらせる事もあるのでしばらくは体形を気にする必要も無いだろう。

 

 まぁ、実際にはもう太る事も出来ないのだが。

 

「いや、ちゃんとお前らの事は考えてあるぞ。事細かく段取りまで何から何まで全部だ。でも、そんな事言われてもお前らだって困るだろ。デリケートな事を全員の前で大っぴらに公表してもアレだしな」

 

 朱理がズイッとこちらに詰め寄って来る。

 

「つまり?」

 

「ええと、つまりだな。色々と体の事もあるから、一概には言えないんだが、基本的に子供は作れるみたいだ」

 

「そ、そうなの?」

 

 朱理に頷く。

 

「色々とこの間から健康診断してただろ。それで教授達に調べて貰ってた。一応、子供が出来ると人間とフィティシラ・アルローゼンていう種族の特性を引き継ぐらしい」

 

「ふぃーって種族だったのか?」

 

 デュガシェスが寄って来て、こっちを繁々と見やる。

 

「いえ、そもそも女性なのですが……」

 

 イメリが冷静にツッコミを入れた。

 

「せやな。女の体でどないしろっちゅーねん。棒が無いやん」

 

「おねーちゃん。下品」

 

 姉妹からのツッコミが何か生々しい。

 

「いや、そこらへんはどうとでもなるというか。一応、体の一部分を男には出来るし、相手側の一部を男にするのも出来るからな」

 

「今、とんでもない事を言われたような?」

 

 ノイテが頬を赤く染めてジト目で寄って来る。

 

「そういう風に睨まれそうだから、黙ってたんだ……ええと、一応この時代だとそういう概念とかはあるんだっけ?」

 

「あ、はい。先日、娯楽品を買いに行った際に朱理さんエーカさん達が見ていたのにそういうのありました」

 

 ケロッとした笑顔でアテオラが教えてくれた。

 

「お前ら……」

 

 三人に視線を向ける。

 

「ち、違ッ!? ぶ、文化を調べてたんだぞ!?」

 

「せやな!! コミケとか無いんか~と参考に見てただけや!!」

 

「でも、おねーちゃん。女同士の本よりも女で男の機能ある同士の本の方見てたよね?」

 

「ば!? 何、バラしとんねん!? そ、それはやなぁ!?」

 

 実際問題なので色々と気を使わせていたらしい。

 

「取り敢えず、身体的には問題無いから棚上げしておくが、子供とか作ったり、その……そういう事するのは可能だ。ただ、そこはこれから色々と本当に大変な事が多くなるからな。まぁ、何かするとしても、しばらくそういうのは無しの方向で……」

 

「あ、ひよったで!?」

 

「この日和見主義者」

 

 姉妹から言葉が痛い。

 

「そ、そうですか。す、済みません。リリが何も知らなくて……あ、でもでも!? ちゃんと王家の教育でどうするのかは教えて貰っているので!! ご安心下さい!! 姫殿下!!」

 

 何か衝撃を受けた様子になる姉妹と朱理とイメリである。

 

 実際には帝国のみならず。

 

 大国と呼ばれる国々では女性と言うのは低年齢で出産が当たり前くらいの感覚で命を落としているような文化が多かった。

 

 帝国は例外的にそういった必然的な死が殆ど無かった為、人口も大きく。

 

 十代前半で妊娠というのはまったく普通の事として扱われていた。

 

 が、現代は晩婚化。

 

 それに伴って現在は性教育関連がガッチリ固められて、13歳から教育され、出産は体が出来る16歳以降にしましょうというのが一般的になりつつある。

 

 文化的にはそれよりも早く諸々教えているが、一般家庭で母親が娘に公教育の補完として生理用品から避妊具や避妊薬の扱いまで教えているのがこの50年でスタンダードになっていた。

 

 大陸標準でもそれは殆ど変わらないらしい。

 

「ま~王家はそういうの厳しいかんな。案外」

 

「ですね。兵隊もそういうのは厳しいので同性の上官から色々と教えて貰って自分でするのは普通です」

 

「ま、まぁ、人の家其々という事で……」

 

「ちなみにだが、何て言われてたんだ? リリのところは」

 

 デュガが訊ねるとニコニコしてリリは答える。

 

「あ、はい。ちゃんと殿方に任せて天井の染みを数えたり、屈んで男性に後ろから種を蒔いて貰うと赤ちゃんが出来るんですよね♪ は、畑に行くのが愉しみです!! その時は丈夫な赤ちゃんがちゃんと出来るようにお水も用意しますね!!」

 

 そこでデュガ以外の全員の声は脳裏で一致していたような気がする。

 

―――王家の教育ダメじゃん、と。

 

「あ、あの……リリさん」

 

「そのリリ様……」

 

「何ですか? アテオラさん。イメリさん」

 

「え、ええと、赤ちゃんてどうやって生まれて来るのか知ってますか?」

 

「男性に種まきをして頂くと女性のお腹がおっきくなって産まれて来るんですよね? ばあやが言ってました!! 男性は種まき上手だと女性が寄って来るって!! 農家の方達はきっとお上手なんですよね!!」

 

「……ソ、ソウデスネ」

 

 アテオラが珍しく目を泳がせて言い難そうに会話を切った。

 

「そっか~リリのところは種まきするのかー」

 

「……お前のとこはどう教えてたんだ? デュガシェス」

 

「ん? ウチは普通だぞ。合体するくらい知ってるぞ。竜に跨る時は男に跨る気で気合を入れろって言われてたし!! 動物もよく合体してたし!! 男と女が股を合体すると女が養分を吸い取って酒呑んだ時みたいになるって!! つまり、こう!!」

 

 デュガシェスがトウッと跳ねたかと思うと下腹部の上にボフンと載って来た。

 

「ふふ、これで完璧だぞ。あ、でも、くっ付くだけで赤ちゃん出来るのか? 合体もっとした方がいいか?」

 

「……ノイテ」

 

 思わずメイド秘書さんを見やると頭痛でも抑えるように頭に片手を当てていた。

 

「デュガ……」

 

「な、何で剥がすんだ?!」

 

 ノイテにデュガを退かして貰う。

 

「エーゼル。隅っこで縮こまってないでちょっとこっちに……」

 

「はひぇ!? は、はいぃぃ……」

 

 今までずっと会話にも入らず恥ずかしそうに寝台の四隅にいたエーゼルが傍までやってくる。

 

「取り敢えず、何かこいつらの知識が怪しいから普通の常識的な範囲で教育してやってくれ。いや、その前にどうやったら赤ちゃん出来るか聞いておこうか。悪いが一応……」

 

「う、うぅ……そ、その……」

 

 耳元で現代でも通用する正しい知識(初級)が聞こえたので合格判定しておく。

 

「そこの三人もエーゼルに付き添って正しい知識の類を補強してやれ。あっちの要らない情報抜きでな」

 

「シュ、シュウの変態!?」

 

「しょうがないだろ。色々特殊な状況なんだから……それと諸々の事は大一番が終わるまで無しという事で……その……口付けくらいで頼む」

 

「ば、馬鹿!? 浮気者!!」

 

「せやな。口付けだけ頼むとか。完全に馬鹿にされてるで。女にだって欲求はあるっちゅーねん!!」

 

「そうだね。おねーちゃんも結構な頻度だもんね」

 

「な!? ウ、ウチは清く正しい乙女やで!?」

 

「でも、乙女もエロは好きなんやでーって酔った勢いで女友達と猥談してたような気がするんだけど。というか、こっちに来て秘密のおも―――」

 

「わーわーわー!!!?」

 

 ガヤガヤと姦しく場が混沌としていく。

 

 結局、その日決まったのはエーゼルと現代組の四人で他の婚約者に正しい知識を教えるという事と……もう一つ。

 

「ちゅ、ちゅーは……その……最初がいい……ばか……」

 

 婚約者で口付けする順番だけは明確に一時間もせずに決まったのだった。

 

 勿論、夜に寝ていただろうこの場いないニィトの婚約者さんを叩き起こして決められた完全版である。


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