ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

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第103話「戦場の良し悪し」

 

―――大陸南部東端クライガル王国。

 

「これより我が兵は大陸北部に進軍する!! 同盟国となる者達よりも先に腐ったアバンステアとやらを征伐し、我々の優位性を他国のクズ共に見せ付けてやれぇ!!」

 

『ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――』

 

 大陸南部と言えば、香辛料や果実の産出地帯であり、木材や海産物も豊富な地域として食料には困らない国々というのが一般的な認識だろう。

 

 このような環境下では領土が小さくとも人間を養う事が出来る食料に事欠かず。

 

 同時に肥大化した人口を活用する事さえ出来れば、大陸北部のようなあらゆるものが足りない地域で起る紛争とは打って変わって、巨大な軍を養う事が出来る。

 

 そして、此処に南部の狂犬と畏れられる国が一つ。

 

 クライガル王国は地域一帯の小規模な集落を併呑しながら肥大化してきた極めて他国に警戒される強国の一つだ。

 

 巨大な人口と豊富な食糧に支えられた強靭な体格をしたクライガル人種は南部の覇権を争うまで後一歩というところまで育った新興国として周辺国との摩擦を日々増大させていた。

 

「進めぇええ!! 他国はやれ共同軍だ。やれ演習に偽装だ。そんな事をしているが、我らは違う!! 大陸を統べるのは我らクライガル!! この戦は我ら以外の全てのクズ共に我らの優位性を誇示する為のものである!!」

 

 今、王都より出立する45万の兵は人口の凡そ2割にも及ぶ数だ。

 

 彼らは反帝国連合にこそ加盟していたが、その内実は連合というよりは独立愚連隊と言うべき単独行動に出ようとしていた。

 

 アバンステア帝国からの防諜を基軸として長距離演習という名目で国々が少しずつ支流が大河になるように南部から北部に戦力を移動させ始めたのとは違い。

 

 彼らの多くはそのまま通常の進軍で進み始めているのだ。

 

 その鎧は革製と青銅製のものが多く。

 

 それですらも満足に着ている者は少ない。

 

 彼らが好んで使うのは金属を用いた肉弾戦であり、拳を保護して相手を砕く棘付きのナックルガードだとか。

 

 あるいは盾や矛だとか。

 

 体格に恵まれた彼らは正しく他の者達が見れば、武装した蛮族そのものであった。

 

『オイオイ。そんな布切れの服で出て来たのか~~?』

 

『あははは、止めろよぉ。こんなヒョロイのでも数合わせに必要なのさ』

 

『………』

 

『まったくよぉ!! お前らみたいなヒョロガリなんぞはなぁ。最初の突撃する時の肉壁くらいしか役に立たんぜ!! がはははは』

 

『いっそ、伝令兵にするか!? いや、そうしよう!! 隊長ぉお~~~』

 

『ああ、こいつみたいなのまで来させてもなぁ。他の部隊の連中に笑われちまうぜ。オイ!! テメェは伝令兵だ!! いいな!!?』

 

『……はい』

 

 髭面の男達が不潔な髪の毛を振り乱し、食料よりも酒の多く入った樽を馬車に載せて、行軍していく。

 

 彼らは近辺では負け知らずだったし、事実としてその体格から優秀な兵士になる者が多い血筋ではあったが、それにしてもその装備は他国から見れば、年代物と思われても仕方ないだろう。

 

 都を出る兵士達の半数以上は気炎を上げ、食料が尽きれば、道中の人気が無い村でも襲って補給しながら北に向かうつもりであった。

 

 今まで暴力で何もかも押し通して来た彼らにとって、近隣諸国の言う大陸最大の新興国家なんてものは絵空事であり、精々自分達の国の数倍程度の領土を持つ国を想像していたかもしれない。

 

『それにしてもあんなちんけな弓みてぇな武器で敵が殺せるかよ』

 

『んだ!! 鉄の盾にはカンカン当たるだけでねぇか!!』

 

『あんなのを寄越すとはまったく反帝国連合とやらも高が知れてるぜ!!』

 

『やっぱり、斧や槍、剣が太くなくなちゃなぁ』

 

『本当本当……いやぁ、あんなのが通用すると思ってる馬鹿な国ばっかりで助かるぜ』

 

 彼らにしてみれば、反帝国連合とやらから届いた引き金を引くだけで弓矢が放てる射撃兵器などは普通の弓よりも飛距離が短く威力も無い馬鹿げた兵器。

 

 盾に刺さるかも怪しいとなれば、馬鹿にされたとしか思えない代物だった。

 

 変わらずに彼らの歴史上で最強なのは剣であり、斧であり、槍である。

 

 弓は強弓を扱う者もいる為に侮らないが、仕掛けで撃つ程度の射撃の威力では自分達の筋肉にすら刺さらないだろうと割と本気で考えていた。

 

 彼らとて弓を射掛けられれば痛い。

 

 だが、彼らの勝敗を決して来た兵器は常に近接武器だ。

 

 射撃兵器よりも手斧を投げ、槍を投げ、剣で相手を両断してきた。

 

 正しく、鉄すら割る筋力こそが正義であったのだ。

 

『………』

 

『オイ!! 殿なんだから、ちったぁ働け!! まずは首都の衛士に無事進軍を開始しましたと伝えに行くんだよ。オラ!! 何ぼさっっと突っ立ってんだ!?』

 

『は、はい』

 

 45万の兵は足早に首都から出て国境域に到達するまで数日。

 

 その背後には気を払う事もなく。

 

 昼夜を問わずに歩き。

 

 ぶっ倒れる人間が出てから休憩を挟んで他国に少しでも先んじようと国境を越えていた。

 

 そんな様子は伝令兵によって伝えられていたが、まさか自分達の兵が大敗するとすら考えた事も無い軍隊に対する命令において、王国上層部は国境を越えたら、現地に着くまで伝令は不要と言っていた為、実質国境を越えてすぐに来る伝令兵が彼らにとって戦地前に自分達の兵の情報を知る最後の手段であった。

 

『王よ。どうやら最後の伝令が来たようにございます』

 

『これで何処よりも戦果を挙げ、飛び地を得るのだ。得られぬならば、略奪し、多くを持ち帰る。アバンステアとやらがどれだけのものか知らんが、我らクライガルの兵45万を前にしては震え上がる事しか出来ぬであろう』

 

『はい。その通りにございます。近隣諸国は国内に我が国を畏れて兵を温存するところもあるようですが、兵が弱いというのはまったく哀しい話ですな』

 

『違いない。どうやら北部皇国からの横槍が入ったのではとの話だ。フン……どうせ南部皇国との小競り合いをする兵を残させたのだろう』

 

『それにしても4万程、兵には不適格な者達が混ざっているとの話ですが、壁以外に役立ちますか? というか、あのような弱小を混ぜるくらいなら、その分の食糧を我らが精兵に与えた方が良かったのでは?』

 

『構わん。アレらは我が国の内部に惰弱なものを持ち込んでおった者達よ』

 

『惰弱なもの?』

 

『お前も聞いておろう? 大陸北の方から商人達が持って来たという遊びの数々よ。何でもソレは王にも隊長にもなれる子供のごっこ遊びのようなものが混じっておってな? 忌々しい事にあのような惰弱が目を付けて王や商人、将軍などに成り切って遊んでおったとか』

 

『何と!? 民にはそのような事が!? 不快ですな!!』

 

『うむ。故にあのような者達を国内から間引く為にも軍へ編成した。最初の手柄は我らが軍の第一陣に立てさせるが、要所で壁に使う兵は奴らだ。後退する際の殿にも使う為、1人も残らんだろうさ』

 

『何と深慮された事か!! 惰弱の者達も王の為に死ねて本望でありましょうな!!』

 

『まったく!! まぁ、連中の家族はそろそろ火炙りにされる頃合いだがな』

 

『あはは!! 遊びが過ぎますぞ? それで王都に大量の奴隷を運び込んでいたのですな? 奴らの正体は惰弱共の親族共だったと』

 

『我らの国に惰弱は要らぬ!! 王を愚弄せし遊びに更ける者達など一族郎党処断して当然であろう!! なぁに子供など10年もすれば、そこらの樹木の実のように増える!! そう、これで我らクライガルの血統は益々善きモノだけが残り、大いに繁栄を享受するだろう!!』

 

 クライガルの王都。

 

 他国からしてみてもかなり大きな城塞都市というくらいだろう山岳部に設けられた王城は旧く罅割れていたが、補修はおざなりだ。

 

 通りにはゴミゴミとして砂塵が舞い。

 

 王城に続く通りこそ綺麗だが、その背後にある路地には乾燥した腐敗済みの何かが薄汚く転がり、路上には浮浪児と娼婦が溢れている。

 

 そんな彼らにしてみても、次から次へと首都に送られて来ていた奴隷達が遂に王城前の石畳の一角に正座させられているのは恐ろし過ぎる光景だった。

 

 詰めに詰められた老若男女が今にも死にそうな顔で庭の中央に築かれた廃材の山にこれから何をされるのかを悟っていたからだ。

 

 その廃材の山に向かうように3m程の階段が四方向から設置されており、その何も無い虚空の先から飛べば、廃材の山に突っ込むように設計されている。

 

 彼らの脇には数百名の王城を護る近衛隊が整列しており、いつでも奴隷と呼ばれた元国民を惨殺する命令を待ち受け。

 

 抜いた刃を片手にしていた。

 

『火を付けろぉ!! 御命令だぁ!! 王都の国民はこの催しに参集すべしとの王命が下ったぁ!!』

 

 王城から走って来た男の声に今まで薪に油をブチまける作業をしていた兵達がすぐに火矢を用意して点火し、燃え上がる篝火と共に次々に飛び込ませる為に捕まえて来た者達に列を作らせ、台の上を昇らせていく。

 

 途中で嫌がれば、容赦なく刃で腕や足を切り落とされると知っていた者達は子羊のように列を為して死の行進を始める。

 

『王の御前である!! 頭を下げよぉおおおおおお!!!』

 

 その時、喇叭と同時に王城が開門し、青銅に金でメッキした鎧を身に着けた最精鋭達を引き連れて、30代の歳若き王が王城前の最上段に位置する椅子に腰掛けた。

 

 次々に民が集まってくる。

 

 この王を前にして集まらなかったという話でも誰かにされようものならば、すぐに処刑されてしまうと知る故に。

 

 だが、それはこの国では昔から続く苛烈な性格の王の系譜に付き従う民ならば、知れた事だ。

 

 だから、可哀そうには思いながらも、その奴隷を前にして王都の者は誰一人として異議を唱える者も無い。

 

 その中には専業者として数少ない技能職に就く者達もいたが、それが失われるからと待ったを掛ける者も無い。

 

『さぁ、今宵は我らが軍団の勝利を祈願して宴を催す!! 許す!! 王城の酒蔵を開放せよ!! 奴隷共の無様を肴に呑ませてやろうぞ!!』

 

 そんな大声と共に男の手には黄金の杯が握られ、黄金色の酒が美女によって注がれていく。

 

 そんな最中、王城に続く大通りの長い列が次々群がる者達の膨らむかのような人垣を崩して真っ二つに割けていく。

 

 理由は単純だ。

 

 その中央を早足に容赦なく歩く者に誰もが押し退けられていたからだ。

 

 普通ならば、押し退ける事も出来ない密度の群衆は次々に背後から割られ、押し退けられ、最後には最前列が後方の異常に気付いて人垣が解れた。

 

 兵達が思わず剣をその異常に向ける。

 

 炎が上がる廃材の山よりも高い王城の階段上から王と呼ばれる者は酔狂な者が現れたかとニタニタと顔を歪め。

 

 これからどれだけの血が見られるものかとクツクツ嗤った。

 

 そう、集められた者達は未だこの場所に数千人。

 

 しかし、家族親族の全てを捕らえられたわけではない。

 

 そういう連中がもしも此処まで来るならば、近衛隊で血祭に上げて酒宴を盛り上げようというのが王の考えであった。

 

「何者かぁ!!? 王の御前であるぞぉ!!」

 

 奴隷と呼ばれた元国民達が、近衛兵達が、王国の王都民達が見たのは黒い鎧。

 

 漆黒の剣士であった。

 

 片腕に巨大な盾を付け。

 

 腰に巨大な剣を佩き。

 

 背中に巨大で長い何かを持つ誰かだ。

 

「くかかかか!!? 黒い鎧の騎士だと!? 吟遊詩人共が吹かしていたアレか。まったく、そのようなくだらぬ変装で我が怖気付くとでも思ったのか? 近衛共!! 今日の酒宴に華を添える客だ!! その黒き騎士を殺して我が前に持って来い!! 持って来た者には奴隷共から好きな女と奴隷をくれてや―――」

 

 その時、王はまったく以て哀しい事に黒き鎧の男が背中から引き抜いた何かを自分に向けた事実に付いて、何一つ理解しなかった。

 

 片手で持つには大き過ぎるようにも思う鋼の杖。

 

 そのようにも見えるものが脚先を自分に向けていたが、弓だろうが槍だろうが、自分の前に数名も展開する近衛兵の盾に何一つ傷付ける事は出来ないと確信していたからだ。

 

 こうして、歴史にも残らぬ王の名はそこで潰える事になる。

 

 覇竜師団ドラクーンに所属する汚れ仕事をする遠征者にだけ渡される研究所の謹製品。

 

 対バルバロス用の超重元素弾射出機能付き対物ライフル。

 

 聖女その人が使う拳銃武装の廉価版たるソレが火を噴いた。

 

『―――――――――』

 

 帝国陸軍に降ろされ、正式採用されたものとも似ていないのは遠征者の身元を隠匿する為だ。

 

 黒の騎士が使う三種の装備。

 

 唯一現場に弾痕が残ってしまう為に近接で用いる射撃兵器とは別に用意されたソレは巨大なのにも理由がある。

 

 超重元素の含有率が低い分を他の金属で埋め合わせたのだ。

 

 全て超重元素で造られる聖女用の特注品は研究所が創った口径合致する全ての弾丸を射出出来る。

 

 が、コスト度外視でも無ければ、精錬に極めて手間の掛る超重元素はそう安易に使えない。

 

 この大陸において超重元素は鉱脈さえ見つければ、鉄や銅、亜鉛のような鉱物と同様に大量に手に入れられるが、その殆どは他の金属元素などを含む鉱石としてであり、単離は極めて時間と手間が掛る。

 

 要は他の金属元素と分けるのが難しいのだ。

 

 結果として生み出されたのは超重元素入りの銃弾を撃てる対バルバロス用の巨大対物ライフルである。

 

 それも帝国陸軍に降ろされたモノよりも圧倒的に重く。

 

 超人が扱う事を前提として不発や暴発を防ぐ機構以外は頑丈さだけを追求された型番も付けられない本当の特注品だ。

 

 その名も無き黒の銃。

 

 合計で1m30cmのソレが炎と肉盾と化した兵達による多数の防御を前にして銃弾を、超重元素含有率5割の合金を用いた専用弾を撃ち放つ。

 

 45口径、長さ20cmのソレは竜の咆哮であった。

 

 炎を破る銃の弾丸は全ての肉壁と青銅の盾を突き破り、正面にある物質を音速を超える衝撃で弾け散らせて、王城の背後にある山脈に突き刺さって停止した。

 

 その直線状が円形に抉れて王城の玉座すらも砕き、壁すらも崩した。

 

「………」

 

 誰もが沈黙する以外無かったのも無理はない。

 

 血肉が吹き飛んだ王城の門前は血と臓物が崩れた瓦礫に張り付き。

 

 紅の回廊と化している。

 

 盾を展開した者達の周囲にいた殆どの近衛は余波で半身を拉げさせて声も上げられずに絶命して倒れ伏した。

 

 廃材の山は消し飛んで王城の門を抉り砕き、余波で内部まで曝け出す程に瓦解させている。

 

 誰もが何も言えなかった。

 

 そして、銃が背後に戻され、黒の騎士が腰の剣を引き抜いた時と同時に跳躍し、次々にその場にいる近衛を惨殺し始める。

 

「え?」

 

 そのあまりの静謐さに男達は最初何をされているのか分からなかった。

 

 人の速さでは在り得ない黒き疾風が廃材の山を囲むようにして展開していた近衛達を数秒もせずに切り裂いて一周し、風のように元の位置に戻る。

 

 そして、ふと気付けば、男達は何もしていない内から首や胴体を別れさせて、血飛沫を上げて倒れた。

 

「ぁ、ぁあ、ぁあぁぁあああぁあああ―――」

 

『うわぁああああああああああああああああああああああああああ!!!?』

 

 最初の誰かの叫びと同時に周囲が大混乱に陥る。

 

 だが、それを意に介さず。

 

 黒の騎士は背後やあちこちに散らばっていた近衛兵達が次々にやって来て何事かと王城前の惨状に絶句して身動きが止まるのを待っていたかのように数人ずつ剣で風のようになで斬りとしていった。

 

 一瞬の出来事に気付く事も無く。

 

 絶命していく近衛達はもはや恐慌状態だが、戦士の矜持か。

 

 逃げ出す事も出来ずに周りから更に人数を集めて応戦しようと王城前に向かい。

 

 奴隷達はこの混乱に乗じてバタバタとその場から逃げ出す。

 

 こうして黒き騎士の元には死者の列が続いた。

 

 王城前の地獄絵図を前に相手を見付けようとする戦士達だが、夕暮れ時を過ぎて陽射しも無く。

 

 王城の内部に燃え広がった炎の明かりだけを頼りに索敵しながら消えていく。

 

 それからの1時間で1300人の近衛兵が崩壊した王城前に吸い込まれて消えた。

 

 それからの4時間で4200人が消えた。

 

 そして、次の朝になる頃。

 

 人々は王都から逃げ出し、僅かな者達だけがその景色を見ただろう。

 

 王城前では足の踏み場そのものが屍と化した現場が出現していた。

 

 そして、王城前には1人の赤子を抱えた黒い騎士が座っており、僅かに戻って来た者達を前にして剣を仕舞って、目の前まで跳躍して降りてくると。

 

『赤子に罪無し。この子を次の王とするのが良かろう。今度は人の心が解る王とせよ。やがて、愚かしくも国を出た旧き者達は消え去る。もしもまた愚かなる者が王と立てば、我が刃は再びこの国に振り下ろされるだろう』

 

 そう言い置いて、黒き騎士は小さな命を腰を抜かした男達に預けて跳躍し、その場から消え去っていった。

 

『………』

 

 その日、王都の異常を伝える為に軍団に出戻るよう指示された伝令は途中で消えて、遂に彼らの軍がその事実を知る事は無くなった。

 

 裏切られた理由は単純にして明快である。

 

 彼は知っていたのだ。

 

 モノの本を買う時に聞いていたのだ。

 

 その商人を名乗る男から美しい聖女の絵に目を奪われながら、聞いたのだ。

 

 黒の騎士の伝説を。

 

 圧政を敷く者達を切り捨てる漆黒の伝説を。

 

 そして、伝説は現実となる。

 

 数日後、一つの国の軍団が道中、黒い鎧の一団によって全滅した。

 

 一つ奇妙なのは生き残ったのがあの苛烈なるクライガルの兵にしては弱兵にしか見えないヒョロヒョロの弱小ばかりであるという事。

 

 反帝国連合の一部隊として参集するはずであった軍団の10分の1以下の兵達はすぐ本国に帰還。

 

 背後に広がる無数の屍をゴミを見るような視線で置き去りにして……南部の一部の街道はこうして屍街道と呼ばれて使用不能となり、人々は大いに噂する事となる。

 

 クライガル……奴らはやり過ぎたのだと。

 

 こうして黒い騎士の伝説はまた眉唾と言われながらも呟かれる事になる。

 

 その街道を持つ国が北部皇国派に属していた事から後に調査が行われる事になるが、解ったのは左程の事ではなかった。

 

 街道沿いの寒村を略奪しながら北上していた軍団は突如として山間の道で襲われ、地形を変える程の何かの攻撃で土砂崩れに巻き込まれ、大半が生き埋めになった後、周囲を焦がす恐ろしい程の山火事に見舞われ、最後尾にいた軍の一部以外は逃げ出す前に惨殺され、体を引き裂かれるようにして死んだ。

 

 逃げ出そうとした者達が一定範囲から逃げ延びる事が出来ずに真っ二つにされた屍が広がる街道だった場所には死臭が立ち込め、その道を所有する国家はすぐにその現場を封鎖せねばならなかった。

 

 そのあまりの凄惨さと狂気の見える戦場の跡地にしても屍の多い現場から疫病やその他の厄災が溢れ出る事が無いように。

 

【クライガル事変】

 

 その軍団の全滅はそう呼ばれることになる。

 

 あまりにも謎めいた現実を前にして人々は噂する。

 

 嘗ての旧王族がほぼ全滅した後、実権を握ったのが国内の穏健派と呼ばれた人々である故に……それは今まで好き勝手してきた旧王族とその支持層を一気に殲滅する事にした穏健派の黒い騎士の噂を用いた陰謀であったのだと。

 

 実しやかに語られながらもクライガルは今までの傲慢さが嘘のように周辺国に今までの無礼を詫びて、関係改善に努め始めた。

 

 彼らの旗が過去のものとはまったく関係無い黒き剣と盾、そして杖である事を多くの周辺国は何処か不気味に感じながらも、沈黙して座視したのである。

 

 *

 

 時計の針が大戦前夜を指し示そうと。

 

 勤勉なる人々の仕事は止まらない。

 

 その最たるは現在600人近い新規研究者を受け入れた俗称姫殿下の家臣団と呼ばれる研究所の人々である。

 

 大量の研究者を受け入れる為、次々に新研究施設が周辺に立てられ、人気の少ない地域だった事もあり、周辺区画を根こそぎ買い取って帝都の大工を総動員して急造された一大研究機関はもはや科学の要塞と化しつつある。

 

 其処では日々、おかしなものが開発されまくっていた。

 

 鉄道車両なんてカワイイ方だ。

 

 あらゆる学問分野の研究が若手も老人も区別なく。

 

 何から何までやられているのだ。

 

 千回、万回の実験の果てに成功を掴む者は少ないが、それにしても一人の男が研究所に来てからと言うもの。

 

 自然科学分野や工業系技術の基礎的なレベルが飛躍的に上がった上に実験器具や製品の製造器具、施設にも恐ろしい程の発展が齎された。

 

 最初にテコ入れが始められたのが動力とバッテリーであり、水力発電の高度化と火力発電用の設備が急ピッチで新設され、中規模のソレが次々に研究所内で実用化されて今までよりも研究開発の環境が飛躍的に整った。

 

 常に電灯が付いた研究所内は正しく不夜城だ。

 

 日勤夜勤で同じ研究をする者が週休2日夜勤1日6時間交代制で同じ研究を続けているのである。

 

『ズチュー』

 

『ズチュー』

 

『ズチュー』

 

 カフェ・アルローゼン。

 

 このカフェイン入りのスイーツドリンクがそんな夜勤の研究者達のお供になっている事はあまり知られていない。

 

 彼らの為にディアボロとアンジェラが出張店を開設し、施設内にコンビニよろしく食事処まで作られた昨今。

 

 もはや、施設内は快適の極みに達しつつある。

 

 冷暖房、シャワー、仮眠室、商業店舗、私室。

 

 全てが揃った楽園である。

 

 勿論、夜のお店には夜用の男女共にこっそり買いたいエロ本まで存在する。

 

「何だか大学みたいになって来たなぁ」

 

 そう日本語で呟いたのはゼド・ムーンレイクであった。

 

 彼はこのまったく日本語が通じない研究所内で現代式マッド・サイエンティストとして現代叡智の数々を教え、もはや研究所の所員達は脱帽し尽くしたので今現在は微妙にしか意思疎通出来ないけどヤバイ叡智を持った姫殿下の御客人として身振り手振り辞書片手に日夜所員達の質問攻めに合っている。

 

「あぁ、でもこの異世界で現代知識無双してる感じ。うぅ、異世界万歳!!」

 

 この量子力学系の学問を治め、時空間の秘密に手を伸ばした次元超越を可能にする研究者はその極地たる異世界への転移実行。

 

 つまり、異世界転移の為にこそ学問をしていたと言っていい。

 

 幼い時から見て来た日本式アニメーションにバリバリ染まって浸かって汚染され尽した彼が本当の天才だった事がニィト大学の運命を決めたのだ。

 

「はぁぁ、でもなぁ。こういう時には彼女の知識が欲しいところだ。エンジニアリングと設計は殆ど彼女だったし」

 

 仲間の事を思い浮かべながら良い齢した異世界転生大好きおじさんはブツブツ独り言を言いながら通路の先へと歩んでいく。

 

「しょくーん!! 捗ってるかねぇ~~!!」

 

 広くなった研究所には大量の建造物が立ったのだが、その内の一つである倉庫内に彼がやってくるとグリュンッとまるでそういう生物みたいに捩じ切れる勢いで首を回転させた白衣で目がギンギンに血走っている男女がダダダッと駆け寄って来た。

 

『教授!! 此処!! 此処の設計どうにかなりませんか!? 何か上手くいかないんですよ!?』

 

『こっち!! こっちも見て下さい!? 教授~~~ここの数値おかしくないですか!? そのせいで何か全体的に空でガタツキが!?』

 

「おお、おお、解った解った。一つずつ見せてみなさい」

 

 言葉は分からないが、手渡された設計図やら数値やらを見ながら、男がにこやかにサラサラと航空力学の定理の類や数値や数式を書き込んでいく。

 

『『『『『『『―――?!!!!』』』』』』』

 

 雷で撃たれたような衝撃に研究者達が固まる。

 

「要はアレだな? 空気抵抗の話だろう? まぁ、こういう航空力学の粋はテレビで散々見たしな」

 

 現代では航空機の形なんてものは似たり寄ったりである。

 

 サラサラとレーダー反射面積を最小限にしつつ、空飛ぶ飛行機に必要な最低限の情報を書き込んだ男は翻訳出来なくても数式や数値の改善案として航空機に使われる定理や設計図の基本的な知識を出しつつ、最低限の手直しをしていく。

 

 彼とて最新の軍事機密を知っているわけではない。

 

 だが、その内実の内訳。

 

 使われている技術や学問の幾つかには覚えがある。

 

 物理学をちゃんと齧っているマッドたる彼はやっぱり自分よりも余程に詳しく機器を自作出来る同僚の事を思い浮かべながら、研究者達が煮詰まっている場所の突破方法を教え、更にその先は自分も知らないから考えろと紙を手渡す。

 

「さぁ、君達も端くれならば、自分でやりたまえ。私もそうする」

 

 ニコリとして、彼はその一角にある自分の研究ブースに進んだ。

 

 衝立で区切ってあるだけだが、扉は無いし外からも見える研究開発現場である。

 

 彼の背後では大量の金属の部材が積まれた一角があり、研究者達がそれを前にしてあーでもないこーでもないと再び議論に掛かっていた。

 

 その横には空を飛ぶのだろう幾つもの機械が分解されて置かれている。

 

「マゥヲ~~?」

 

「おお、マヲンちゃん!!」

 

 黒猫が男が何を作っているものかとトコトコとブースの衝立の上から顔を出して研究内容を覗き込んでいた。

 

「ふふ、今日もご苦労様。あ、ちなみに今日の成果だが、研究の外枠は出来たよ。超重元素……本来、現実ではすぐに崩壊して別元素になってしまう代物がこうも固定化されているんだ。アインスタニウムも真っ青の放射線も出て無いし、面白い面白い。例え、現代の実験機材が無くとも最低限度以上に加工が可能であれば、最小限度の電気回路でもやれる事は多いさ」

 

「マヲヲ……」

 

 いや、聞いてないし、と。

 

 黒猫が呆れながら机の上を見やる。

 

「ちなみに昨日作ってたのは爆縮式の電磁波爆弾だね」

 

 ニコニコしながら、弾丸らしきものを彼が摘まんで見せる。

 

「マ、マヲ?」

 

「この世界にはSFが一杯らしいし、最低限度のコレがあれば遠隔操作兵器などはどうにかなるはずだ。超重元素の幾つかを組み合わせて一定以上の加速度で射出すると激発時に電磁波を放出、電離層まで乱す代物だ。電波を妨害しつつ、殆どの電子回路や電子機器を焼き切れる」

 

「マ、マゥ……」

 

 そ、そう、と。

 

 この世界には似つかわしくないものにちょっとドン引きする黒猫である。

 

「ああ、こっちは超重元素の能力原理はともかく。性質を組み合わせて見た本日分の代物だ。さっそく実験してみよう」

 

 所内に統一規格で配置されたコンセントに電源コードを突っ込んでジャックインした男がニコニコしながら起動したのは正八角形の金属製の輪っかが沢山、金属棒に通されて浮いた状態にあるオブジェのような代物だった。

 

「マ、マゥヲ?」

 

 な、何コレと恐る恐る訊ねる猫である。

 

「これは複数の超重元素、物質との摩擦で能力が発現する代物を組み合わせてるんだ。全て磁化済みで金属に対しては浮く仕様にしてある。蓄熱酸化チタンというものを知ってるかね? アレはそういうものを蓄熱して圧力などで放熱させるものなのだが、こちらは熱ではなく。歪みを蓄積出来ないか試したんだ」

 

「マ、マーヲ?」

 

 歪み?と黒猫が訊ねる。

 

「ああ、歪みだ。空間の歪みを蓄積する装置なのさ。此処の機材で解らない事象を説明しようとする時、大抵の超重元素の能力が空間の歪み方と元素の性質で能力が決まっているのではないかと考えてね。超重元素がもしも極少量の原子一つ分から大質量と同じような事を実現していたら……そう妄想を膨らませてみたんだ」

 

 ギュリンギュリンとスイッチの入れられた機器が回転を続けている。

 

 その度に何か一秒毎に揺らぎのようなものが少しずつ機材の周囲には凝っていく。

 

「確認して私がそうだろうと考えた通りの物質だった。その性質を利用して、歪みのみを蓄積する事には成功した。この時空間の歪みはどうやら超重元素の能力が時空間に対して頚城のように固定化され、捻じれる際の軸の一つとなるらしい。まぁ、恐らく、たぶん、ね?」

 

「マゥ……」

 

 左様ですか、と黒猫。

 

「空間に対して量子的な固定化状態に移行出来る物質だ。そちらの最小単位での現象を観測しない限りは恐らく空間の固定そのものが我々の見る三次元世界では曖昧なままに移動させられる。コイツを特定の励起状態で他の超重元素と一緒に回してやると……」

 

 男がトングのようなものを持ち出して、電源を切って機械を留めた後、ゆっくりと一番上の輪を持った。

 

 その輪には今も揺らぎのようなものが凝っているのが解る。

 

 輪がメビウスの輪のように捻じれているのが解るのだ。

 

「どうだい? 君の見ている次元から見ても、捻じれてないかな?」

 

「マ、マヲ……」

 

 確かに……という反応で黒猫がソレを見やる。

 

「そして、これを~~~」

 

 楽し気になったゼドが少し離れた一角に置いた同じような金属棒の上に捻じれたメビウスの輪の片方を放り込んだ後、浮遊するソレの下にあるスイッチを押す。

 

 すると、ギュオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッと空気を撹拌する音と共にメビウスの輪が猛烈な勢いで回転を始めた。

 

 そうして、突風というよりは渦巻く竜巻のようなものを発生させて数秒後。

 

 シュゥンッという音と共に捻じれが解消されて普通の輪に戻っていた。

 

「今のは捻じれたコレに少し、この金属棒に電圧を一瞬掛ける事で開放したわけだ。どうだい? 動力にもなるし、空間そのものの捻じれを固定化してるだけだから、劣化したり、動力が散逸する事も無い。ついでに空気との摩擦だけで電気を莫大に生み出す超重元素を使えば、ほぼ永続的に電気自体は生み出す事も可能そうだ。動力よりも生み出せる電力の方が多いから事実上は一度使えば、無限機関として1の入力に1以上が出力可能のはず……好きなだけ動力をこの輪に詰め込めると考えたら好さげじゃないかな?」

 

「マ、マヲ……」

 

 明らかにこの時代にはオーバースペックなんですがソレは……と。

 

 黒猫がいきなり無限に動力を詰め込める装置を開発したゼド・マッドサイエンティスト=サンに引き攣った笑みになる。

 

『また、黒猫さんに話し掛けてますね。ゼド教授』

 

『ああ、きっと言葉が通じない場所にいるから寂しいんだろう。あの子は姫殿下が連れて来たバルバロスらしいし、知能も高いからね。きっと、寂しさを埋め合わせてくれるよ。うん』

 

 何か可哀そうなおっさんを見る目になった白衣の研究者達は何だかよく分からないが、竜巻を起こす装置を開発した教授の事より、その教授の状況を心配する様子になるのだった。

 

 こうして研究所もまた戦場と化していく。

 

 その研究成果のせいで大騒ぎとなるのは確定であったのだから。

 

 この無限動力詰め込み機関にドン引きする研究者達が翌日には天使の微笑みで最新鋭の小型艇動力として【ゼド機関】と命名されたソレを取り入れる事を決議した事だけが事実であった。

 

 動力源となる電源開発をしていた蓄電池の研究者達は涙目で猛烈な劣等感に苛まれながら、それをバネに更なる開発を続ける事になる。

 

『姫殿下。あの人、何だか凄過ぎるんですけど……』

 

 研究所の電子機器や機械開発の主任的な立場となっている部門長たるエーゼルは黒猫に呆れられつつ、ホクホクな笑顔で開発成果を更に推し進める話し合えないヤバイ男に汗を浮かべ、苦笑するのだった。

 

 *

 

―――ヴァーリ共和国山岳部最重要区域ニィト。

 

 小さな邦だったヴァーリの集落が帝国に滅ぼされ、新たな国家として建国出来たのには訳がある。

 

 それは防衛能力の恐ろしい程の高さと徹底的な耐久戦略と同時に巨大な資金が現地に流入し、貿易先として活発化したからだ。

 

 特に醜悪将と呼ばれた男が率いた帝国部隊と二度の戦闘を経て退けた後。

 

 周辺地域の男達を傭兵として雇い入れ、周辺地域一帯を対帝国の意見の元に一纏めとして勢力下に置き、事実上は小国と呼べる程にまで領土を拡大した手際はヴァーリの新しい邦長ルシャと呼ばれる前邦長の娘の存在が大きい。

 

『ヴァーリの貴金属は如何かねぇ!!』

 

『今なら現地価格で割安にしておくよ!!』

 

『どうだい!! この精緻精密を極める細工は!!』

 

『商人さんいらっしゃーい。五名さんご案内です~~』

 

 彼女は熱心に他の地域の長達の元へと通い詰め。

 

 このままでは帝国に滅ぼされてしまう。

 

 その前に帝国に併合されるにしても強く使える国として立ち、虐殺を回避しつつ、出来れば、併合も避ける道を模索するべきだと説いた。

 

 それに多くの長達が賛同し、ヴァーリが突如として彼らの地域に先進的な技術や知識を用いたインフラを投下した事で生活を一変。

 

 地域全体が常識的ではない程に活気づく事になった。

 

 特にその下支えをしているのは精緻な金属加工技術による貴金属類の売買だ。

 

『こ、これほどの精緻な加工に緻密な文様……素晴らしい!!』

 

『これが噂に聞くヴァーリの細工か』

 

『何と人の手で造り得るものなのか?』

 

『こんなにも小さい加工……老眼ではまったく見えんぞ』

 

『うむむ。高いは高いが、これが他の地域に流れれば、更に3割増しか』

 

『一括で安くならんか交渉してみよう』

 

 今では南部帝国を阻む壁としては無視出来ない程の勢力となったのも、一重に不可思議な程の金属加工技術がヴァーリに庇護を与えたからだ。

 

 帝国から新鋭の侵攻用師団として赴任した帝国最優の将とも名高い不動将の師団を前にして優位に防衛戦を展開以後。

 

 大規模会戦を経て以後。

 

 帝国軍が殆ど動かなかった事は周辺国にも帝国がヴァーリに深く攻め入って死人を増やすのを躊躇ったからだと実しやかに噂されている。

 

 こうしてヴァーリは周辺国でも有名な新興国へと成長して一国としての立場を固めたのである。

 

【ヴァーリ共和国】

 

 この周辺国に様々な金属加工した商品を売って、食料や必要な資材を買う貿易国は成立以後ずっと大陸南部と大陸上の地域を繋ぐ中継地点として栄えた。

 

 この3年以上の年月で街道が整備され、帝国側も戦闘を行わない限りはヴァーリから帝国側への人の移動を認めていた為、結果的に帝国の領土拡張を阻む最後の壁としてヴァーリに期待する各国は結託して支援を開始。

 

 こうして旧ヴァーリの集落は再建された。

 

 が、その居住地は山岳部のニィト要塞と呼ばれる機密区画となり、旧集落の在住者は他国からの居住者と商業中心地として定住する商人や利害のある他国の外交官が主となった。

 

 特に帝国に向かう街道が整備された事で帝国に向かう人間達が集まる地域になった事は大きいだろう。

 

【帝国に屈するなかれ。されど、帝国に敵対するなかれ】

 

 このような言葉でヴァーリの方針は人々に示された。

 

 これに最初は難色を示していた周辺地域の長達であったが、帝国に自分達を高く見させる為の策であり、帝国軍が布陣する地域の横を路が通っているだけで、街道沿いには監視や他の様々な仕掛けも施されていると言われて説得された。

 

 こうして帝国が買い集めた奴隷の通り道としてや複数の商人達が便利に使う街道の逗留地として経済は発展しつつある。

 

『それにしてもやはり山岳部の立ち入りは制限されているようだ』

 

『例の秘密裡に建造されていた過去の遺跡を用いる要塞があるとか』

 

『山脈の上の方ですからな。雲間に隠れている時は見えませんな』

 

『だが、それにしてもこのなだらかな坂を上り続けて帝国が制圧するのは骨だろうな。罠や陣地を構えられたら、相当の被害が出そうだ。弓の類で樹木の上から攻撃されても痛い。天然の要害でもあるのか……』

 

『噂では帝国が畏れる程の兵器を作っているそうですよ?』

 

『それが本当なら益々対帝国の橋頭保として周辺国は支援を集中させるだろうな』

 

 ヴァーリ製の金属部品や加工品の精密さは今までの大陸での比ではなく。

 

 結果として金属製の装飾品や馬車の部品、日常生活や野営用の金属を用いる多数の商品が毎日のように南部方面や東部に輸出されている。

 

 その金額は決して小さいものではなく。

 

 大国の年間予算の3分の2に迫る勢いで上昇していた。

 

 途中で寄った商隊が買い入れて帝国や他地域にも輸出されている為、その事実は帝国本土でも商人は知っているし、陸軍などは承知しているだろう。

 

 事実上、これを見逃している帝国の話は有名であり、ヴァーリを帝国は少なくとも許容しているというのが商人達の意見であった。

 

「………異常無し」

 

 そんな商人達の声を街中に仕掛けたマイクから拾いながら、無線を傍受していた大学構内の一室で1人の少年がイヤホンを外した。

 

 彼はようやく12か13くらいの歳だろうか。

 

 しかし、その頬や肩には刃物傷が奔っており、歴戦の風格というものか。

 

 まったく、隙も無さそうに見える。

 

 伸ばした髪を丁寧に背後でゴムのような輪で纏めて髪の先を切り揃えている彼は他にも室内で別途盗み聞きしている諜報活動中の同年代達と交代し、大学構内へと歩み出した。

 

 周辺には10歳前後から13くらいまでの少年少女が誰も彼も忙しく立ち働いている。

 

 彼らは全員が暇さえあれば本を読み。

 

 あちこちの施設の維持の為に労働に勤しんでいる様子であった。

 

 ある者は大学構内に張り巡らされた水道管の補修点検。

 

 ある者は電源設備の確認と新規に増設された施設内の電源の適正使用の監視。

 

 ある者はどうしても出入りがある広い構内の清掃と不審物が無いかどうかの検査。

 

 ある者は食堂奥の調理現場で数百人規模の三食の仕込み。

 

 ある者はニィト学内に増設された工場での設備管理。

 

 まるで大人顔負けの少年少女達の大半は使命と言わんばかりに自らの仕事に真剣な様子が伺える。

 

 最も多いのは保安要員だろうか。

 

 巡回する数名の部隊が10近くあちこちを見て回り、治安維持に努めている。

 

 そして、最も彼らの中で重要視されている者達は現在大学講堂内で講義を受けている最中であった。

 

「今日はこれで終わりだ。さ、仕事に掛ってくれ。研究報告を纏めたら、次の作業に掛る。プログラマ講習が終わったヤツは明日からCADで製図だ。図面修正と工場に必要なストラクチャを煮詰めておけよ。工場を作るのは君達の製図次第……今の我々に必要なのは合理的な思考とそれを現実に顕す速度が出る工程だ」

 

 白衣の男だった。

 

 顔色の悪そうな無精髭姿。

 

 それは数年前から変らず。

 

「教授~~~」

 

「ああ、今行く」

 

 男が講堂から出て声のした方へと向かう。

 

 彼の前には二十台にしても十代にしか見えない少女が1人。

 

「例の薬手に入ったで~~」

 

「すぐ分析に掛けよう。妹さんは?」

 

「あっちは今、シュリーに掛りっ切りや」

 

「そうか。お客さんも落ち着いていると報告を受けているが、今はこっちの方が先だ」

 

 男が歩き出し、すぐに私室へと入った。

 

 数年以上同じ部屋で寝泊まりしている彼こそがニィトの主。

 

 マガト教授と彼を多くの人々は呼ぶ。

 

「で? 万能薬なんて何に使うん? 原価高過ぎやで? あ、もしかして量産出来るとか?」

 

「いいや、明らかに魔法みたいな薬には現代でも覚えがあってな。もしも、これがその類なら……」

 

「あ、もしかして、この薬の出所が科学かもしれんって事?」

 

「ああ、そういう事だ。それを製造する設備もしくは生物資源が存在しているという事は科学的な知見を持った誰かが創造している事になる」

 

 白衣の無精髭な男は肩を竦めて、横の少女から小瓶を受取り、資質に入ると昔よりも解析用の機器が増えたそこで薬を試験管に一滴垂らして、分析用の機器に掛け始める。

 

「まぁ、ウチの機械は最新だ。耐用年数が来るまでは使い潰せる。成分の分析は、と……」

 

 彼がキーボードを打ちながら、マウスでクリックすると解析用のデータの表がすぐに出て来た。

 

「ふむ。この蛋白質……ついでにこの元素……DNAシーケンサーの方もさすが彼女の手製なだけある。カップ麺より速いな」

 

「お、もう出たん?」

 

「やっぱりか。キメラ化薬に近い……それも生体細胞そのものを高速で増殖する例の反転した分子構造……光学異性体。万能薬、か」

 

「?」

 

 少女が首を傾げる。

 

「コレは科学分野の研究成果だ。ウチの大学のお姫様が研究していた体細胞モザイク薬を一歩進めた品だな。病原がもしもウィルスや細菌の類なら瞬時に破壊して治るし、ケガも細胞の増殖速度は特殊な構造の蛋白質を使って数千数万倍レベルで細胞の寿命を用いて増殖、修復する」

 

「は~~~けったいなもんやな」

 

「万能薬というよりは細胞を変異させる遺伝子薬の類だ。ただ、こいつはその消費されるテロメラーゼすら補給するようだ。全部、見た事がある」

 

「え? ちゅー事はもしかして?」

 

「この万能薬を作ってる組織にはウチの人員が関わってる。天雨機関の人員がな」

 

「前々から聞いてたけど、本当にけったいな連中やったんやな。そいつら」

 

「まぁ、各分野の本当の天才だ。先生……ウチの大学を作った当人が死んでからは控えめにやってたんだが。これが数百年前からあるって言うなら、確定で異世界転移時に時間差で投げ出されたヤツが過去にいた事になる」

 

「ウチらも知ってるん?」

 

「よくウチの学食でムキムキの女性を見なかったかね?」

 

「あ、あの人かいな。でも、そんな遺伝子なんたらって学部じゃなかった気がするで?」

 

「控えめにしてたんだ。中身は遺伝創薬の最先端を10周くらい周回遅れにする天才だったよ。彼女は……そして、真に人類に対して直接的な影響力が保ててしまう研究をしていた」

 

「それがこの万能薬かいな……」

 

「万能薬というのも単なる過程上の成果に過ぎない。実際にはゲームに出てくるSFの遺伝子操作技術の100倍は自由度の高いフルスクラッチ、遺伝工作研究のスペシャリストだ。彼女の手に掛かれば、それこそ本当にSFやホラーに出てくるような化け物を何体でも生み出せるし、不老不死だって左程夢物語じゃない。まぁ、死なないというのは不可能にしても不老難死ってところか?」

 

「ナンシ、難死? うわ……ものごっついヤバイ臭いしかせんな」

 

「他にも先生の教え子には色々いた。異世界に行く為に研究してたヤツとか。考古学者で機械工学、設計の天才とか。心理学で人類を掌握出来そうな臨床結果出したヤツとか。まぁ、色々……」

 

「つまり、この世界のバルバロスとか言うのも?」

 

「恐らくは……誰かしらの成果だ。超重元素はこっちの得意分野だが、現代科学じゃ殆どkgも造れてなかったはずのものが何故かこの世界には大量に埋まってる。それを実用化したなら、どの分野のエンジニアリングにも使えるし、それだけで随分と常識が書き換わるだろう。その成果が……」

 

「現在の帝国が用い始めた各種の改革で使われとる、と」

 

「特に兵器群に関しては一行の余地も無く戦術、戦略兵器として核以上の脅威だろう」

 

「どうするん? 実際問題、そういう技術が負けるにしろ。勝つにしろ。拡散したらヤバイんちゃうんか?」

 

「一応、工場建設の片手間で防衛兵器の類は作っていたからな。こちらもコレを設置する」

 

 関西弁少女にポイッと正八角形球状の玉が投げられ、片手でキャッチされる。

 

「何やコレ?」

 

「超重元素というのが時空間を歪曲させるというのは前にも話したが、その作用を増幅する触媒を見付けた。電気的な刺激で励起状態にして永久電流を流し続ける事で永続して歪曲した時空間を特異点化した本体に対して保持するものだ」

 

「ええと、つまり?」

 

「平たく言うと漫画やアニメで言うところのバリアーになる」

 

「っ、ぷ、くくく、あはははは、バリアーとか。もう何でもありやな。おっさん」

 

「取り敢えず、バリアー発生装置と呼ぶが、ソレは発生装置の座標に対して連動して動くようになってる」

 

「で? 量産は?」

 

「不可能だ。資源が足りない。それ一つ作るのにも随分と掛った。ここらには無い超重元素の鉱脈が必要だが、調べて貰ったところ現在大規模な鉱脈があるのは親帝国である北部同盟と西部の山岳地帯だけらしい」

 

「成程、他にもあるかもしれんけど、そもそも鉱山開発でもせな見付からんもんであると」

 

「そういう事だ。帝国の鋼都でも少量ながら算出するらしいが、一般的に出回ってないどころか。近頃は帝国の戦略物資の集積拠点に備蓄されているそうだ」

 

「有用性に気付いた超重元素の囲い込みか。そりゃ、そうなるわな……で、こいつをどうするん? 少数に実戦配備するんか?」

 

「いいや、拠点防衛用だ。全部で5つある。効力を発現させるのには電気が必要なのだが、その電流電圧の大きさで効果範囲が変わる。ニィト、新市街地、山脈の集落に使ってもしもの時の防衛手段にする」

 

「後の二つは?」

 

「あの子と君達に一つずつでどうかな?」

 

「おっさんは要らんの?」

 

「生憎とそういうのは間に合っててね」

 

 白衣のポケットから何かが取り出された。

 

 それが小さなスイッチの付いたグリップだと気付いて、首が傾げられる。

 

「自爆スイッチ?」

 

「はは、そんな物騒なものじゃないさ。単なるスイッチだ。ほぼ破壊不能ってだけの簡単な作りの代物だよ」

 

「……何を起動させるん?」

 

「秘密だ」

 

「はぁぁ。ま、おっさんが言うならしゃーないか」

 

 マガツ教授。

 

 ずっと、そう呼ばれ続けている男が二つソレを彼女に放る。

 

「じゃ、コレは貰ってくで」

 

【夜見詠歌よみ・えいか】

 

 この三年で伸びた黒髪は背中まで長く。

 

 嘗ての金髪も今は面影もない。

 

 旅装束の革製の衣服に街灯姿の彼女はキャッチしたソレをポケットに突っ込んだ。

 

「じゃ、セーカとシュリーのとこ行ってくるわ。詳しい方針は後でやな。姫さんの方は順調なんか?」

 

「ああ、そっちは問題無いと報告を受けている」

 

「はぁ、シューが生きてりゃもう少し簡単に物事が進んだんやろうなー」

 

「今更だろう。それに彼女が自分で決めた事だ。今のままでは帝国に対しても対等な立場での交渉は難しい。国力の増強の為に周辺国の王族との婚約は残念ながら格的に必要だ。まだ、選んではいないそうだが」

 

「ま、少なくとも帝国が何かやってる今の内やろうな。何でも……」

 

「取り敢えず3週間後には周辺国に対して解答する事になっている。それまではゆっくりするといい。もう反帝国連合の兵は動き出した後だ。彼女達も上手くやってくれている。後は準備を万全にしておく程度しか出来る事は無いさ」

 

「そういや、先日の光の柱の件は何か情報入って来たんか?」

 

「商人連中の噂だと大陸中央南部の荒野に広がる無人地帯。帝国国境域近辺で大規模な地震が起きたらしい。ついでに入植地が延期になったとか」

 

「何かあったな。恐らくやけど」

 

「ああ、ドローンによる観測でも遠距離望遠でギリギリ撮影出来ただけだった事もあって、状況は解らなかったが、観測結果としては熱量だと考えられる」

 

「熱量? 光の柱になるくらいの純粋な熱って事かいな?」

 

「そういう事だ。恐らくは帝国の新兵器の試射でも行っていたのではないかな? 後は北部皇国に行ってる2人からの情報待ちだ」

 

「……帝国もけったいなもん結構造りよるで?」

 

「空飛ぶ巨大飛行船に見えざる竜騎兵団ドラクーン。謎の新兵器か。ゲームでもプレイヤーはもう少しマシな相手と戦うものだがなぁ」

 

「こっちもチートやないの?」

 

「規模が小さ過ぎる。幾ら工場を作っても山脈地下に秘匿しながらじゃ規模の拡大も容易じゃない。それに兵器というのは世代格差が一定範囲なら戦術や戦略でひっくり返せる程度の要素になる」

 

「中世時代に帝国は現代兵装に近付いてるって言いたいんか?」

 

「帝国は現代兵器や最新兵器や情報機器を使っても力押しでどうにかなるレベルまで発展した技術力を持っているはずだ」

 

「全部、帝国の小竜姫のせいって事やな……」

 

「まぁ、彼女のおかげで我々は帝国陸軍からの圧迫を受けずに順調に色々準備が出来るようになった。同時に彼女の改革と技術躍進政策のせいでどうにもアドバンテージが極めて縮められた、ような状況だな」

 

「………なぁ」

 

 エーカと仲間達から呼ばれている彼女は真っすぐにマガツを見やる。

 

「小竜姫はシューやと思う?」

 

「さて、どうかな。当人に合うまでは何とも言えないだろう。だが、確実にあの大学の関係者である事は間違いない。あるいはそれを知っている立場の人間だ」

 

「なら、しゃーない。取り敢えず、何にも裏取り出来てへんから、まだ秘密にしとくで?」

 

「了解だ。あの子にもだな?」

 

「あの竜の国のおにーさんも困っとるみたいやったし、ホント色々困るで……存在しない希望なんちゅーもんが転がってたら、絶望よりも厄介やないか」

 

「それは君にも言えるだろうに。あの新しい邦長にも……」

 

「ふふ、そういうのは言わぬが華なんやで?」

 

「失礼した。これから研究室だ。ああ、そう言えば、一つ気になる事がある。後で確認して来てくれないか?」

 

「何を?」

 

「ベルゼスト山脈北の鋼都が何やら騒がしいようだ。ドローンが確認した。少し休んだら帝国の重要拠点がどうなっているのか現地の情報を集めて欲しい。あそこは主要目標の一つだからな」

 

「はいよ。小型機出してええか?」

 

「ああ、山脈上部にある秘密滑走路は整備済みだ」

 

「疲れそうやな。ホント」

 

 こうしてニィトの一日は終わっていく。

 

 いつの間にか夕暮れ時。

 

 ヴァーリの人々の多くも元集落から引き上げ、ニィトのこの数年でコンクリートによって要塞化された道の先へと戻って来ていた。

 

 雲や霧が出ると見えないニィトの要塞は毎日のように建造が捗っている。

 

 その殆どの作業が人間ではないモノの手によるものである事は知られていない。

 

『夜間作業用ドローン出るまで後30分。整備点検終了した機体から要塞小通路に向かわせて』

 

『班長!! タイヤ整備終わりました!!』

 

『班長!! 関節部の付着土砂の除去終わりました』

 

『よろしい!! 自己診断プログラムを立ち上げて』

 

 嘗て、大学の敷地でしかなかった場所から半径300mに渡って高さ20m近いコンクリート壁が山岳部を囲うようにして7層にも渡り、築かれていた。

 

 壁も床もコンクリート製の迷路は日本の築城技術の一端を用いて造られており、内臓されている壁内部の人間が入れない隙間には大量の物体を並べるラックが置かれている。

 

 その下には自動で作動する昇降機と共に最低限の威力で銃弾を放つ自動銃の類が弾薬と一緒に格納、詰め込まれる。

 

 人間の出入り出来ない構造の要塞内部の作業用通路内部からは次々に四脚や四輪の作業用ロボットが出てくる。

 

 元々は自動車産業やラインを用いる工場で使われるロボットアームが大小括り付けられており、その様子は小型の箱に車輪と腕が付いた異様なものだ。

 

 だが、それも全ては作業効率の為に特化されているからだ。

 

 ドローンの多くは山脈内部の地下坑道先にある工場群から運び込まれたコンクリート・ブロックを詰んで円筒形のタンクからジェルのようなものを噴出させて、綺麗に壁を仕上げていく。

 

 更にその上からまた別の作業用ドローンが何かコンクリートとも違う少し中身がゴワゴワした液体を吹き付けて、作業用のコテで慣らして温風を吹き付けていたり、知らない人間が見れば、恐ろしい怪物の群れに見えるだろう。

 

 人ならば重労働である。

 

 だが、今のニィトは正しくソレらの機械が作り上げた要塞であった。

 

 人気の無い夜の夜間に紅い赤外線センサを搭載したソレらが徘徊し、次々に必要な基礎部分を掘り起こし、土砂を別の場所に運び込み、大工よろしく高速で要塞を仕上げていく様子は不気味に過ぎる。

 

 二年前に最初の作業用ドローンが完成して以後、次々に作業用ドローンが増やされ、各種の専業ドローンの増産を開始。

 

 ニィトの地下から無限に電力を供給出来るという事で鉱物資源を大規模に加工する地下工場の建設以後、工場建設、ドローン増産、作業用ドローン増強の工程を繰り返し、今やニィトは周辺山脈を丸々地下まで使って要塞化しているのだ。

 

 それも人間が通れないように要塞そのものを作り込む事で要塞を突破しなければ、内部に人間が入り込めないようにしている。

 

 ならば、どうやってニィトに返ってくる人々は大学構内に出入りしているのか?

 

 その答えは単純である。

 

『おお、今日もありがとさん』

 

 登録されたヴァーリ人だけを載せる乗り物が数多く造られたのだ

 

 ヴァーリの旧集落跡地の一角から地下道を通る線路上にはライトが奔る。

 

 人を運ぶこじんまりとした路面電車が到着したのは要塞中央部から少し外れた一角だった。

 

 ホームから人々が要塞内部ではなく。

 

 傍の待機場で待っていたドローンの元へと向かって行く。

 

 座席を背負った車輪付きの四足走行ドローン。

 

 それに馬のように乗って腰のベルトを付けるとすぐにソレらが要塞の壁の一部に彫られた溝にガッチリと車輪を圧着し、内部で機構を広げて落ちないように固定化すると車輪を回して壁を昇り始めた。

 

 それはすぐに壁の上に到達。

 

 時速20km程まで加速して駆け抜け、次々に要塞の終わりにあるニィトの大学構内のホームに到着する。

 

 人間が渡り切るのは不可能だろう20m程の高さの壁をそれなりの距離、人間を載せてドローンが昇っているのだ。

 

 正しく驚きの光景だが、これがニィトの原始的な侵入手段しか取れない相手には鉄壁であろう要塞への侵入方法であった。

 

 技術力の差はそのままあらゆる面での差になる。

 

 その差を埋めるのが決して凡庸な戦力では不可能である以上、要塞が攻略される事は極めて通常戦力に限った進攻ならば考え難いのである。

 

「今日もよく働くな。ドローン達も……」

 

 載せられたニィトの男の1人がそう呟く。

 

 揺れないし、驚く程に静かな乗り心地の為、誰一人として今や畏れる様子もない。

 

 今やニィトを中心としたヴァーリはあらゆる仕事をドローンに出来ないもの以外はオートメーション化されたドローンにやらせており、それは同時にヴァーリの生き残った人々の専業化を促した。

 

 女達の多くは子供達の為に専従した料理人や教育者として家政学や教育学を学び、掃除洗濯などの単純作業労働は機械と協働しているし、男達はニィトの科学力を学びつつ、ドローンを最たる戦力の軸として軍人として励み、それに向かない者は商売や政治を纏めつつ諜報活動に従事している。

 

 子供達の多くは男女の別も無く。

 

 ニィト内部で様々な自分にあった学問を学びながら必要な仕事に自ら就いて、ヴァーリを支える為に賢明に働いている。

 

「リーオ……」

 

「ルシャ邦長。何でしょうか?」

 

「シュリさんと共に来た方々の様子はどうですか?」

 

 ニィトの学内の窓から屋外活動中の少年少女達様子を見ながら、美しい少女が訊ねる。

 

 いや、少女というものから少しずつ女性になりつつあるのかもしれない。

 

 その瞳は穏やかだが、嘗てあった瞳の煌めきは何処かナリを潜め。

 

 薄く微笑む表情に内心が読み取れるものはない。

 

「安定しているとシュリ様から聞いてます」

 

「そう……あの方達にはくれぐれも粗相が無いようにお願いしますね」

 

「はい」

 

 嘗て、気安く話し掛けていた少年はもういない。

 

 そして、気安い少年を許していた少女もまたいない。

 

 だが、そこにあるのは確かに今の彼女にとっても気安いのかもしれず。

 

 暮れていく山岳からの情景に彼女は目を細める。

 

「……ねぇ、リーオ」

 

「はい。何ですか?」

 

「私は……高く売れると思いますか?」

 

「―――どうでしょうか」

 

 少年は僅かな沈黙の後、何とかそう言葉にした。

 

「そう、そうですよね。どちらにしても……私は……でも、ヴァーリを護り切る。この約束だけは絶対に果さなければならない。あの人が、私達を救ってくれたように。今度は私がこのヴァーリを、この国の皆を……あの人が愛したあの子を……護って見せます」

 

 瞳の色に決意が浮かぶ。

 

 それは決して水面ではなく。

 

 熾火のように燻ぶり続ける埋められぬ炎。

 

 今、新たな長として立つ彼女ルシャ・ヴァーリは窓から吹く宵の風に長い髪を靡かせ、世界を肯定も否定もせずに眺め続ける。

 

「ああ、そろそろザグナル先生の鍛錬の時間なのでこれで……」

 

「ええ、頑張って。リーオ」

 

「はい」

 

 嘗てとは違ってしまった彼女に頭を下げて、少年は進む。

 

 通路の先は薄暗く。

 

 未だ電灯は付かない。

 

 けれど、それで良かったと少年は思う。

 

 今の顔を彼女に見られなくて良かったと。

 

「………死人に愚痴っても仕方ないんだろうなー」

 

 呟いて。

 

 まだ男にも成り切れない少年はもしもの時の為に覚悟を決める。

 

 それは嘗て少年が決めた決意の再確認。

 

 もしも、この目の前のお姫様がどうにもならなくなるくらいに決断を誤るか。

 

 もしくはどうしようもなく悲愴の道を歩むとするなら、その時はどれだけ恨まれようと何を犠牲にしようとその道から引っ張り出す。

 

 嘗て、邦長を務めた彼女の父と彼女の祖父代わりであったお守の老人に言い付けられた命令は未だ撤回されていない。

 

 あの日、このニィトが現れてからも決して曇らず。

 

 それが少年の中に今もある。

 

 例え、どれだけの犠牲を払っても笑顔が曇る道に意味は無い。

 

 そう説いた当人達は何も知らない顔で今も過ごしているけれど、その心の内が少年にだけは解った。

 

 だから、この婚約が今ヴァーリの滅亡を左右すると知っているからこそ、その願いはまったく悪い事なのだ。

 

 大勢を犠牲にするだろうし、多くを見捨てるだろうし、多くがどうにもならなくなるだろうが、それでもやはり、その願いは正当だ。

 

 あの日、あの時、少年の人生が決まった。

 

 帝国軍の炎に集落が焼かれる前。

 

 1人の父親として、1人の祖父として男達が遺すと決めた遺言はヴァーリの再建でもなければ、生き残れという最もな話でもなく。

 

 一人の少女の有り触れた人生の幸せを護れというものだったのだから。

 

「はぁ、のんびり暮らすって夢は叶いそうにないなー」

 

 苦笑して、嘗てのお気楽な様子で呟く少年は誰にも聞こえぬよう全てを胸に秘め。

 

(一番恨まれる役柄……こういうのって普通は好きな男にさせるもんだよなー。きっと……ぁ~ぁ~何で死んじゃったのかな。あの人……)

 

 少年は自分の武術の師となる男が佇む体育館の扉を開けた。

 

 嘗て、とある一人の男が死んだ後も帝国軍との戦いはあった。

 

 その時、脚を怪我した老人は今や車椅子生活だ。

 

 日に日に衰えている自分を理解する老人は数年前よりも細っていたが、それでもやはり瞳の色だけは変わらない。

 

「さぁ、今日も姫様を護り切る戦士として鍛える事にしよう。我が弟子よ」

 

 頷いた少年はその老人の覚悟を受けて立つように用意されていた外套を着込んで短剣を抜いた。

 

 老人の横にいるのは複数のドローン達だ。

 

 腕に剣や銃を持っているタイプもある。

 

「よろしくお願いします」

 

 頭を下げて、少年は未来への準備を着々と進めていくのだった。

 

 *

 

―――北部皇国領北部国境域。

 

「ゼスさん。何か来ました」

 

「おねーさま……この気配って」

 

 今、北部皇国から出ようとしていた国境地帯の草原を横断する街道。

 

 その只中で数名の護衛として竜騎兵が付き従う馬車が止まっていた。

 

 それは街道のど真ん中に1人の白い髪の子供が立っていたからだ。

 

「止めて下さい。それと各自、即座に首都へ戻るようにと指示を」

 

「余計な死人は出せません、よね……」

 

「ええ」

 

 2人の血の繋がり無き姉妹がすぐに馬車を留めさせて、少年の数m手前でお付きの北部皇国の者達をすぐに首都へ帰れと叫ぶ。

 

 それに尋常ならざる事態である事を悟った北部皇国の兵達であったが、白い髪の少年を一目見た瞬間にその言われた理由が本能的に理解出来た為、援軍を必ず向かわせると言い置いて全員が引き返していく。

 

 それを見送った姉妹達が少年の前に進み出た。

 

「久しぶりですね。御当主……」

 

「カルネアードッ」

 

 ゼストゥスが敵意を剥き出しにしながらも引き抜いた弓矢を持つ手を震わせた。

 

「やぁ、久しぶりだね。お二人さん。あ、記憶は戻ったんだっけ?」

 

「そちらは北部同盟諸国への進行時に本家以外の人員が枯渇したそうで」

 

「ああ、分家筋が全滅してね。今や帝国に取り込まれてリバイツネードとか名乗ってる有様さ。ははは」

 

 白い髪の少年はその青い瞳を姉妹達に向けて細める。

 

 それだけで彼女達の背筋を滝のような汗が流れ落ち。

 

 同時にまた金縛りにあったかのように震えが止まらなくなる。

 

「良いのですか? 北部皇国に手を出せば、ガラジオンが黙ってはいませんよ?」

 

「嘗て、本家入りした事もある君達をどうして記憶を奪って奴隷商に売り込んだと思う?」

 

「「………」」

 

 姉妹達が唇を噛む。

 

「君達は精神制御が切れたと思っていただろうけどね。今の君達の精神状況と指向していた対帝国の機運はそもそも僕が仕込んでいたものなんだよ?」

 

「ッッッ!!?」

 

「―――」

 

 ゼストゥスが弓を引こうとしてランテラの片手に留められた。

 

「何の為に?」

 

「昔から使って来た手さ。周辺諸国に優秀な人材を送り込み。その人員の能力で成り上がらせて、後から二重底にしていた記憶を開放する。これで大体この1500年くらいは9度くらい戦争を起こしたね」

 

 その言葉にさすがのランテラも喉を干上がらせる。

 

「おねーさま。こいつは……」

 

「ええ、どうやら……どんな事をしても止めなければならない存在らしいです」

 

 2人の決死の決意を見た少年がコロコロと笑う。

 

「君達のその言葉を聞くのは4度目だ。いやいや、本当に君達は使い勝手は良いけれど、一度たりとも僕に靡かないんだね」

 

「何を言っ―――?!!」

 

 彼らの周囲にいつの間にか人影が空から降り立つ。

 

「こ、こいつら、おねーさまの顔をするな!? く!?」

 

 ゼストゥスが顔を歪めて吠える。

 

 彼女達の周囲に展開された兵隊の顔は全員がゼストゥスとランテラ。

 

 2人の姉妹のものだったからだ。

 

 少年と同じような灰色の外套を纏っている。

 

「あはははははは!!!? ホント、何から何まで同じとか。いやぁ、何回やっても本当に……」

 

 少年が大笑いし始めた辺りにランテラが絶望的な表情で一滴汗を流す。

 

 彼女の脳裏には無数の疑問と同時に今までの少年の言葉が反芻され―――気付いてしまっていた。

 

「ゼスさん。逃げますよ」

 

「ええ?! おねーさま!?」

 

 驚く妹を庇うようにして少年の前に出たランテラが拳を握る。

 

「悔しいですが、勝てるような相手じゃありません。そして、此処からヴァーリまで帰らなければ大変な事になります」

 

「どういう事ですか!? まさか!?」

 

 自分達の顔をした相手にハッとしたゼストゥスが相手のニヤニヤとした顔を見て、すぐにこれから起こりそうな事に気付く。

 

「御名答。解ってるじゃないか。ランテラ……そんなにも歯抜けの記憶しかなくても、君はまったく使い道しかない優秀さだ。本家人員として君以上に僕らの為に戦ってくれた人間もいないよ」

 

「ッ」

 

「だけど、残念だな。生憎と君達の役目は此処でお終いだ。ご苦労様。休んでいいよ。それが嫌なら殺して上げるけれどね」

 

「どっちもお断りですよ」

 

 ランテラが何とか不適な笑みを浮かべてみせる。

 

「ほう? この状況でどうにかなると? 君達の造物主にして、本家当主たる僕に盾突くと? まったく、いやいや立派だなぁ。おねーさんは」

 

「造物主!? 私達の偽物まで用意して!? 神様気取りですか!?」

 

 ゼストゥスの言葉に物分かりの悪いヤツだなぁという顔で少年が肩を竦める。

 

「偽物? 君の姉はすぐに答えまで辿り着いたけど、君はいつでもそうだ。この回答をするのはこれで43回目くらいだよ。ゼストゥス……コレらは君達の偽物なんかじゃない。全員本物だ」

 

「何を!?」

 

 ゼストゥスが何を言っているだと吠える。

 

「だから、これは本物。本物なんだよ。君達は元々同じ存在だ」

 

「え……?」

 

「やれやれ。もっと分かり安く言おうか。十三番」

 

「ジュウサンバン……?」

 

「ダメ!? ゼスさん。逃げ―――」

 

 ランテラが同じ顔の少女達に取り押さえられる。

 

 それと同時に動けないゼストゥスの前に少年が歩いていき。

 

 固まって動けない少女の耳元に囁く。

 

「君達は量産品なんだよ? 工場で造られる弓や剣と同じさ。僕が作ったお人形。人の血肉で出来た単なる道具。記憶すら僕が与えた情報に過ぎない」

 

「ぁ、な、に、を、いって……」

 

 ゼストゥスの顔から表情が抜け落ちていく。

 

「近代ゼストゥス型のNO.13。君は嘗てのように、いつものように廃棄処分だ」

 

 嗜虐的に微笑んだ少年が離れた時。

 

 その手には背骨が握られていた。

 

 そして、ゼストゥスの腹部には大穴が開いており、パタリと彼女が倒れる。

 

「い、いやぁああああああああああああああああああ―――」

 

 その平原に絶叫が響き渡る。

 

「あはは、あははははは、いつ聞いてもキモチイイなぁ。君の悲鳴は最高だ!! ランテラ……僕を悦ばせたご褒美に生かしておいてやる。適当な場所に監禁しておけ。行くぞ」

 

 少年の声と共に上空へと影が射す。

 

 それは数百m級の竜のようにも見えた。

 

 だが、その姿を現したモノが見えたのは一瞬の事だ。

 

 すぐに透明化して、数人の少女達と少年を掬い上げた何かは彼らの姿さえも消して空の何処かへと消えていく。

 

 残された穴開きの少女は空に手を伸ばし―――最後に誰か懐かしい温かさを暗くなっていく視界の中で見た気がした。

 

 *

 

―――帝都エレム。

 

 人々の心が変わったとすれば、それは誰の責任か。

 

 多くが為政者に答えを求める。

 

 けれども、確かに人の心に刻まれるのは為政者ですらない。

 

 その事を殆どの人々は知らない。

 

 何故なら彼女の立場は軍人でも無ければ、政治家でもない。

 

 大貴族ではあるが、役職に就いているわけでもなく。

 

 皇位継承権第二位。

 

 実質的には一位というだけで事実上は大貴族の1人としてしか公的な地位には記載が為されていない。

 

 西部に持っていた領地は独立領となり、彼女の手を離れ。

 

 北部には彼女の個人的な経営を行う店舗や鉱山、組織が幾つかあるが、それが当地において公的な面を担っているだけで、そう認められているわけでもない。

 

 こうして見れば、帝国の聖女というのは公の組織に所属していない事を見落としている者達は多い。

 

 今や彼女が手掛けた組織は彼女が命令をするまでもなく自分達の仕事に従事し、自らの考えで歩き出し、最初期に渡された指針を実行する独り立ちの状態。

 

 それらが有機的に横の連携網を作り上げ、あらゆる問題に対処する事で今は何処も少女の手を煩わせる事も殆ど無いのだ。

 

『初恋の相手が遠くに行き。見知らぬ男と結ばれて婚約する。悲劇の題材にするのなら、大抵の人々はこういった悲劇的ながらも美しいものを選ぶでしょう』

 

 帝都の一角。

 

 お茶の出された談話室。

 

 老若男女が座って、一時のスイーツかお茶と洒落込んでいる。

 

『ですが、どうしてこれが美しいと思われるのか? 男が一途だったから? 初恋の相手が家族の生活を支える為に泣く泣く男に身売りしたから?』

 

 まるで劇の壇上に上がる役者染みて一人の青年は微笑む。

 

『いいえ、いいえ、それは違うでしょう。大きな大きな勘違いだ。人々はそれが悲劇であって欲しいから、美しいと決め込むのですよ』

 

 持論を展開する男は貴族の礼服姿。

 

 他の者達は商人や娼婦のような風体の者もある。

 

 子供と呼べる者達には襤褸を着た者もいれば、良いところの子女のような相手すらいる。

 

『人々はそんな有り触れた現実が美しくあって欲しかった。男は一途であり続けられたなら良かった。少女は全てを忘れて男に溺れなければよかった。だが、現実はそうではない』

 

 まるで世界を嘆くように青年は紡ぐ。

 

『あの方は……それが解っていました。だから、我々を集める際にも決して何一つ我々の背後関係に言及しなかった』

 

 誰もがお茶を嗜み沈黙する。

 

『お解りでしょう? 人々は薄汚れていく世界に耐えられない。物語の中でくらい。悲恋にしておきたい。こんなクソみたいな現実を前にして妥協し、汚れていく自分を見つめていられない』

 

 誰もが菓子を頬張る。

 

 老若男女。

 

 襤褸を着た子供から貴族の青年まで。

 

『だから、あの方は我々という組織を作った。この世の全てが薄汚い自分を覆い隠してくれるよう願った我々……その中から選ばれた。人の汚れた最たるもの……心を禊ぐ者として』

 

 彼は微笑む。

 

 何処かの誰かさんのように。

 

『同胞よ。君達はあの方の力の断片を受け継ぐ者として、決して奢ってはいけない。決して泣いてはいけない。決して人の心を美談にしては、悲劇にしてはいけない。それこそをあの方は望んでいる』

 

 青年は薄く薄く微笑み。

 

 ポケットから取り出した本を胸元に置く。

 

『あの方が望むのは悲劇でも美談でもない。好きな女を一生思う男が、好きな男を一生思った女が、初恋の人と結ばれて、小さな家庭を築き、笑って毎日を過ごす……そんな人生に何一つ灰色の無い青空に……人々がツマラナイと微笑んで嘯ける。そんな時代なのです』

 

 彼らが食事を終えて立ち上がる。

 

『我らは心の掃除屋。それこそ人の命と一生を左右する恐ろしき権威。けれど、だからこそ、我らの過去に目を瞑り、一つもちっぽけな哀しみを語らなかったあの方に報いねば……それでこそ、我々はあらゆる人の上に立つ権利がある』

 

 誰もが真剣な瞳でまるで劇画のように、役者のように大仰な男の言葉に己の過去へ視線を向ける。

 

『決意を新たに仕事と洒落込みましょう。人々の情と心と真偽を見抜く目を持ち寄り、あの方の叡智を用い、この世の果てまでも悲劇などなく。人の心の露わたる蒼穹が、世の果てまでも単なる日常となるように……誰にも己の人生を悲劇とも美談とも言わせぬように』

 

 彼はステッキを付いて帽子を片手に取る。

 

『あの方が求める何も無い平凡な日常に今日も誰かの笑顔があるように……罪と心を処断して、人の世に終わらぬ秩序と物語を紡ぎましょう』

 

 一礼した男に彼らはおざなりに拍手を少し。

 

 そうして彼らは部屋を出る。

 

 少年が国家に創った独立部署。

 

 人の心を見抜く精鋭なる人々。

 

【帝国心理研究庁】

 

 現代式の臨床心理学の叡智を授かる者達はこうして今日も動き出す。

 

 もしも、自らの為に国家へ虚偽を報告すれば、人生を掛けた厳罰か死を以て償う事となる制約を交わした彼らは部下達を率いて各分野の人々の心を見抜き、心を労り癒すカウンセラーにして人の命すらも左右する役人として戦うのだ。

 

 そこに一点の曇りなく彼らは1人の少女の信奉者であった。

 

 *

 

 人々が動き出し、歩いた果ての光景を見る為に戦い傷付く。

 

 その事実が世界に多くの変化を運ぶ時。

 

 歴史が動いた事実を前にして大陸の各地で少しずつ異変が起きていた。

 

 誰もいない山間部で。

 

 巨大な伽藍の空洞で。

 

 天に座す月の底で。

 

 遥か大地の奥で。

 

 その時、歴史が動いた事を全ての機構は感じ取る。

 

 それは彼らが用いるセンサや五感を揺さぶる程の歴史の逃れ得ぬ転換期。

 

 だから、それらは行動を開始する。

 

 大地を揺さぶる力を行使し。

 

 全てを灰燼に帰す力を行使し。

 

 月を砕く程の力を行使し。

 

 時を壊す程の力を行使し。

 

 一人の人間を覗き見る。

 

 世界が終わるその日に自らの前に立ち塞がるだろう存在を。

 

 それらは情報の収集を開始しようとして、自らを構成する因子の3割を崩壊させた。

 

 理由は単純だ。

 

 それらは見てはならないものを見たのだ。

 

 その片腕に宿るソレは知覚によってそれらへと侵入し、それらが自己崩壊して汚染を駆除したのを見届けてからクツクツと斑模様の口元を人では歪められぬ程に大きく弧を描くように形作り。

 

 その不気味な生物には出せそうもない嗤い声をひっそりと零す。

 

 この情景を見た存在はいない。

 

 それは物質世界での事ではない。

 

 だが、それらが用いる“場”において焼き付いた事実に違いなかった。

 

 混沌として流れていく歴史の只中で今も山間を走り続ける少女と青年。

 

 その登山というよりはマラソンの途中。

 

 腕が疼いたような気がする聖女様はチラリと片手に視線をやってから、何も言わずに山脈の山頂へと走り続ける。

 

「ふぁ~~~まふ」

 

 その背後に背負われたカバンの上には黒猫がプラプラと尻尾を揺らして和んでいた。

 

 今さっき観測による汚染で自己崩壊してでも身を護ったソレらの様子をその瞳で繁々と見やりながら……これなら何とかなるかと自分を背負って登山中の家主の未来に期待を寄せるのだった。


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