ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

480 / 631
第94話「世の中の仕組み」

 

 ヴァーリに向かう前に一時的にゼド教授を帝国に降ろす為、帰還した際に待っていたのは帝国本土の南部国境線沿いの無人地帯。

 

 入植と領土編入を考えていた地域において小さな地方くらいありそうな巨大竜の侵攻があったという事実だった。

 

 生憎とソレは即座に配備されていた戦術兵器を用いるドラクーンの1人によって制御中枢らしい建物を蒸発させる事で停止させたらしい。

 

 だが、まだ巨大な竜の全貌は解らず。

 

 その巨大物体が地表に激突した際の衝撃で周辺地域は大地震の発生で多少の怪我人が出たとの事。

 

 国内統制の一貫で避難訓練や自然災害時の対応マニュアルを配っていた事で被害は最小限になったようだが、飛行する地域みたいな桁外れの規模の竜が出て来たのはさすがに驚いたのでゼド教授を研究所の連中に紹介して、当人に帝国の公共言語と日本語の対応表を与えて私室まで案内した後、その脚でヴァーリに行く前に現場を視察する事になっていた。

 

 同行する人員は極少数だ。

 

 自分とゾムニスとウィシャス。

 

 船を三人で動かせるかと言えば、答えはNOだが、今回に限っては連れて行く相手が多いと対応が大変になる可能性もある為、絞っている。

 

 殆どの人員には国内で更に研修と勉強と南部皇国に向かう為に必要な最低限度の実力を付けて貰うという名目で訓練を課しているので今回はゾムニスの部下が主に編成されている。

 

 彼ら数人を船員として載せての出航となっていた。

 

「……見えて来たぞ」

 

「国内とはいえ、少し遠かったな」

 

 帝都で連れて行けーと不満顔で膨れていた面々もいるにはいた。

 

 が、南部に向かう前にやれる事は全部やっておけというこちらの言葉で納得して、帝都に残ってくれたのである。

 

「やっぱり、ここら辺は人も少ないか」

 

 街と城塞のある地域の為、その周辺は活気があるのだが、それよりも遠方になると途端に道以外の場所は寂れた印象で現地での資源採取用の施設くらいしかない。

 

 一地方としては寂れた印象は無いが、これが此処から遠い村などになれば、一気に田舎と言えるようになるだろう。

 

「先日、数百万規模の奴隷を受け入れたとは思えない発言だね」

 

 ウィシャスの軽口にまだ大丈夫そうだなと確認しつつ、ゾムニスに目標地点を伝えて街を素通りする。

 

 すると、街から竜騎兵が一機上がって来てすぐに操舵室付近まで近付くと横合いからカンテラの明かりを用いたモールス信号で着艦を求めた。

 

 すぐに外部ハッチを開けて貰い内部に招き入れる。

 

 黒い鎧の青年が竜から降りるとこちらの前で片膝を折った。

 

「姫殿下。本地域を預かるドラクーンのノールス・ギルマと申します」

 

 ちなみにフルプレート姿でメットもそのままだ。

 

 いつ如何なる時も任務中は自らの生損の為に装備は外さないというのは凡人に対する戒めである。

 

 非戦闘地域で暗殺されては困るという事でもある。

 

「ありがとうございました。この地域の人々を護って頂いて。参謀本部からの情報は聞き及んでいます。見えざる陸地とも呼べる空飛ぶ要塞。それを撃ち落とした貴方には今後、昇級と賞与が与えられる事になります」

 

「感謝致します……」

 

「詳しい報告書は読んでいますが、この地点が恐らくは反帝国連合の目指す目標地点の一つである事は間違いない。今回の一件で再度攻撃がある事はほぼ確定となりました。ですが、規模は解りません。今後、派遣するドラクーンや正規師団の増員があるでしょう」

 

「畏まりました。鋭意、連携しての防衛に努める所存です」

 

「よろしい。ならば、今後配備される師団の一角。その指揮権を与えます。後日、陸軍より少佐の地位と大隊を率いての防衛戦を任せましょう」

 

「何と?! ですが、未熟なる我が身。この若輩に過分では無いでしょうか?」

 

「我がドラクーンの兵は全て新規将校過程を済ませた前線指揮官です。竜騎兵としては四千番代以降の練度だとしても、最低限以上の指揮が可能である事がドラクーンを名乗る条件である以上、問題ありません」

 

「―――必ずや帝国の領土を外敵より御守りします」

 

「間違っていますよ。領土などよりも一番は貴方を含めた全ての民の命。それ以外を預かるのは政治、わたくしの役目です」

 

「ッ、出過ぎた事を申しました。ご容赦を……」

 

「ノールス・ギルマ・シュタイナル。我が名において佐官の任を与える。現地の人々の命と未来。頼みましたよ」

 

「―――身命を賭して!!!」

 

 その言葉に頷いた後、先導するようにと言って再び青年を竜で外に出した。

 

 飛行するドラクーンの先導で目的地まではスムーズに運ぶ事になるだろう。

 

「………」

 

「何か言いたげだな」

 

「どうして言われなかった名前まで知ってたんだい?」

 

 ウィシャスの言葉に肩を竦める。

 

「当たり前だろ。自分の部隊だ。ドラクーンの人員のプロフィールと名前と顔は頭に入ってる。ちなみにあのノールス君は大貴族出身だが、それを鼻に掛けない好青年だ。お前の学校の三代前の首席でもある」

 

「六千人分覚えてるとか。君はそれでも自分は普通とか言い出すんだろうな……」

 

「当たり前だ。ちなみに覚える時にグアグリスの能力を使った。真っ当な方法じゃ覚えられてない。ドラクーンの上位層は300番代まで何とか自力で覚えたけど」

 

 何か理不尽な事を言われた、みたいな顔のウィシャスであった。

 

 船員達に上陸準備を指示しながら、操舵室に戻って1時間程すると巨大な山が見えて来て、荒野の中にポツンとあるソレが竜なのかと苦笑する。

 

「移動要塞か。空母みたいなもんだな。護衛船団も付けずにいられたのは過去の話……運用するなら、竜騎兵かそれよりも大きな竜もしくは船が馬鹿みたいに必要な時点でこの時代じゃまともな運用は不可能だろう……」

 

 ゾムニスとウィシャスが横眼でこちらの苦笑にまた何か悪い事考えてるなみたいな顔をしていたが気にする程度の事でもない。

 

「それにしても……」

 

「?」

 

「驚いたな。まだ、生きてるぞ。こいつ」

 

「は?」

 

 恐らくは今の自分にしか分からないだろう。

 

 巨大な山と平地を背中に載せた竜はピンピンしている様子だ。

 

 こっちに気付いたらしく。

 

 僅かに電磁波の波長が変わり、こちらを注視しているのが解った。

 

「話を聞きに行こう。高度な知性体くらいしか出してない電磁波を放出する巨大竜……さぞかし脳髄も大きい事だろうさ」

 

 こうして竜の国の秘密の一つであろう空飛ぶ地域の最中へとリセル・フロスティーナで乗り付ける事になったのだった。

 

 *

 

 近頃、帝国の様子がオカシイ。

 

 というのは帝国の国民全てが思っている事だ。

 

 例えば、家父長制度がデフォである大陸において、家制度の先進的な取り組みが行われ、貴族以外でも家督や財産の相続に付いて女性と男性の権利が半々になったり、女性男性問わず能力のある人間が上に立つ事が推奨され、あらゆる商業、工業、農水産業における人材の新規事業や登用における性差別的な規則が廃止され、全てはその個人の能力、人徳的な部分で有利不利が決まるようになったりした。

 

『姫殿下の政策とはいえ、これはかなり揉めそうな……』

 

『遅れているぞ。君……取り敢えず、教書を読め』

 

『それで解るかな。あまり頭の良い方じゃないんだが……』

 

『読めば解るさ。読めばな』

 

『ぅ……はい。法を作る法制官よりも法に詳しいとか。本当に姫殿下は一体この知識やひらめきをどこから……』

 

 今まで威張り散らしていた帝国内部の人々の多くが、この制度に不満を持ったというのはまったく頷ける話のはずなのだが、その不満はすぐに鳴りを潜め、小竜姫殿下に批判的な層が次々に社会の上層から脱落していく事が多くなった。

 

 結果として無能でも人徳があり、判断においては有能な者の言を採用するというような人々は生き残ったが、有能であっても心理的、道徳的に問題を抱えた人々は他の優秀で人格に問題無い人々との競争に負けて消えて行った。

 

 田舎で農業でもして暮らすか。

 

 今まで貯め込んだ資金で悠々自適な老後を過ごすかという具合にリタイア組が増えたのである。

 

『ああ、エルミ卿。こんなところでお会いするとは……』

 

『ああ、イル卿ですか。実は頂いている土地へ帰る事になりまして』

 

『それはまた……もしかして例の改革で帝都から?』

 

『ええ、ですが、まぁ、頃合いでしょう。悠々自適に政治から離れて生きるつもりですよ。逆らった方々のように家を自滅させてしまうよりは……』

 

『これはあくまで個人的な疑問なのですが、貴方のような方が何故?』

 

『実は派閥に国庫の資金を幾つかの事業を経由して流していたのが、違法になりまして……貴族閥自体の整理をされているようですよ。姫殿下は……』

 

『ああ、歯向かった派閥の方々が姫殿下の来訪によって一晩で抜け殻になった話は聞きましたが……穏便な内に?』

 

『ええ……それに健康に不安があったのですが、それも治して頂いた手前。さすがにあの方の障害にはなりたくないと思いまして』

 

『そうですか。いつまでもご壮健で。後は残る者達にお任せ下さい』

 

『これからも帝都は嵐でしょう。お気を付けて……』

 

 社会変革に伴う不満の大半は自身の命に直結する出来事である健康問題を聖女の奇跡と呼ばれた一斉診療によって解消された事や社会をもっと住み易くする為の政策であるとの教化プロバガンダの猛烈な後押しで霧散させられた。

 

 いや、無理やりに蒸発させられたと言うべきかもしれない。

 

 大物になれば為るほどに彼らは自身の病気や寿命と向き合っている事が多かった為、命に代えられる野望など左程無かったという事であった。

 

 この機に肩の凝る指導層としての野望など捨てて世捨て人染みて悠々自適暮らしをしようと思い立つ者も国内で情報工作する帝国陸軍情報部のおかげで沢山であり、殆どの者達は暗黙の了解として権力を手放す事に同意したのである。

 

『いや、帝都も随分と風通しがよくなりましたな』

 

『貴族の方々もかなり整理されたとか』

 

『我ら商人もその例に漏れず悪どいところはそうでしょう』

 

『違いありません。が、貴族の方々は我々よりも多いらしいですよ。今までやりたい放題していたところは特に……貴方もお気を付けになった方が良いかと』

 

『ですなぁ。それにしても姫殿下の店の甘味は美味過ぎる』

 

『ええ、それには同意します。このような店舗が帝都のあちこちに出来る……良い時代になった。あむ……はぁぁ、人の世の辛さが和らいでいくかのようだ』

 

 結果として不合理を排した各分野の発展は目覚ましいものがある。

 

 各地に立てられたライン工場から工場を作る資材が輸出され、そのライン工場を建てるライン工場から更にライン工場の資材が搬出され、最後に各種の物資生産用工場の資材がその最端に位置する工場から輸出される。

 

 みたいな事になったおかげで当初の予定からしても恐ろしく早く。

 

 各地には工場が猛烈な数で当人達が計画していた以上、思っていた以上に爆増したのでる。

 

『よーし!! これで後は内装だけだな。業者待ちか』

 

『棟梁!! 先刻、次の依頼が!!? この工場は工場を作る工場を作る工場、なんですよね? いやぁ、このままやってたらオレ達が立てた工場だらけになっちゃいますね。ここら辺一帯全部♪』

 

『嬉しい悲鳴じゃねぇか!! はは、働き過ぎで死んじまうってなもんよ!! ああ、かーちゃんに働いて来いじゃなくて、少し家で休めなんて言われるなんてなぁ』

 

『良かったじゃないですか。この姫殿下の改革のおかげで、しばらくは食いっぱぐれないで済みますよ。新しい工法とか、クソ高い資材とかの組み立てがかなり怖いですけど』

 

『はは、違いねぇ。だが、仕事があるだけいいさ。これも皇帝陛下、大公閣下、姫殿下のおかげだ。がははは♪』

 

 巨大な帝国の版図にある未開拓地域。

 

 また、今まで手工業が主だった生産手段が、姫殿下の家臣団と俗称されるようになった研究所の作った近代的な電気式のモーターを用いた機械で次々に量産体制が整い。

 

 最終的には様々な現場が大規模な現代式の大量生産低コスト体制に刷新されたおかげで当初予想されていた数倍の速度で帝国は発展していたのである。

 

 此処に追い打ちを掛ける莫大な生産労働力。

 

 つまり、奴隷の流入が拍車を掛けており、活発化した分野毎の経済活動は恐ろしい伸びを見せている。

 

 だが、何よりも今、帝国の商業活動を変えてしまうかもしれない発明が全ての状況を把握している小竜姫当人すら知らないところで完成しようとしていた。

 

『カニカシュ主任』

 

『ええ、空飛ぶ馬車を作った時も思いましたが、コレは……』

 

 物流こそが世界を掌握する。

 

 物の本を書いた少女の著書を愛読する研究者達であるが、その研究はまったく彼女の言葉を体現するかのように進展している。

 

 帝国は水運の大規模化と同時に陸路に用いる蒸気機関と鉄道の開発が急務とされており、今も蒸気機関の開発と同時に線路が整備されている。

 

 莫大な投資と共に帝都近辺から北部に向けての路線が数十万人規模の労働力の集約で行われている途中だ。

 

 だが、それに輪を掛けて物資の輸送に革命が起きようとしていた。

 

 研究所の一角。

 

「うん? また、何かしちゃったかな?」

 

 まだ、現地語も満足に話せないゼド教授はにこやかにボディランゲージや少女から貰った世界に一冊しかない日本語対応辞典で研究者達に教育というか。

 

 諸々のコミュニケーションで研究所内部に入ってから開発現場を秘密なく見せて貰っている途中から、アドバイスをしていた。

 

 それに刺激された研究者達の多くは『この帝国言語も話せない男、出来る!?』と驚きつつも、現代に生きた本物のマッドの意見を受けて、僅か数日で次々に新技術や新発明を豪雨染みて行いまくっていた。

 

「どうしたんだい? 皆さん」

 

 研究室の一角。

 

 ゼドが材料工学も扱う精革のカニカシュの元で諸々の材料と研究を見て、概念図や計算図、現地の人間にも解り易いように簡単な言語で指導していたのだが、空飛ぶ超重元素の原理やその他の研究に関してゼド自身の仮説を拙い帝国の共通語で表していた時、途中から何人かが現場から外したのだ。

 

 そうして数十分後。

 

 彼らは戻って来た。

 

 一つの成果を鍜治場から携えて。

 

「ふぅむ?」

 

 現地人に一般相対性理論や特殊相対性理論を解いても意味は無いだろうが、それに続く様々な科学技術の基礎知識を何とか伝えていた彼である。

 

 その恩恵は素晴らしく。

 

 研究者の中でも現代で言うところの数学者や物理学者連中は呆けた顔で現代の新理論に到達する為の各種膨大な法則諸々を眺めて狂喜乱舞した。

 

 そうして汚い字や数式を白紙に書き殴っている途中。

 

 その最中にいた一部の超重元素の研究者がこの謎の白衣のおっさんが教えてくれた数式や法則を眺めながら、漫然と考えていたアイディアを彼らは閃きによって形にしたのである。

 

 結果だけ言えば、簡単だ。

 

「浮いてる?」

 

 ゼドが首を傾げる。

 

 彼を連れて来た白衣の青年がカニカシュや重火器部門の連中と共に鍛冶現場で急いで鍛造して来たソレにゼドが目をパチクリさせていた。

 

「ふむ。常温超電導とも違う? 重力に干渉するインゴットという事かな? いや? 電気は使ってるようだが、電力供給用の機材が無いって事は電気の発生源と浮かぶ超重元素が一体になってるって事か?」

 

 研究室の一角でゼドが見せられたのはソレ単体で浮かぶインゴットだった。

 

 青白い輝きのソレがテーブルの上でマジマジと見た彼がインゴットが複数の細い層を内部に持っている事に気付く

 

「ミルフィーユ状になっているのか。なるほど……考え方としてはアマルガムのような合金ではなく。合板に近いのか……そこに電気の発生させられる層と浮く層……この表側にあるのは……温度の変化が著しい層、かな?」

 

 少し赤くなっている外側の層と少し帯電してパチパチしている層を見て、成るほど……と彼が感心した様子になる。

 

 こうして考えて数秒。

 

「ああ、そういう……摩擦で電気が発生する層という事は温度からも電気への変換が起きていると踏んだのか。つまり、コイツは摩擦から熱、熱から電気を取り出して、それを動力にして浮く機関と同義なわけだ」

 

 ゼドがふむふむとそのインゴットを眺める。

 

「物質の摩擦そのものを最終的にモノを浮かせる動力にするとは考えたな」

 

 ゼドがニコリとして研究室の黒板に彼らが作ったものの概念図を書いていく。

 

 それを理解した者達が思わずパチパチと拍手した。

 

『カニカシュ嬢。やはり、このお方は只者ではないようだ』

 

『はい。さすが、姫殿下が拾われた人物です。こんなにも広範囲の知識。それに我々すら知らないあらゆる叡智を……』

 

『こ、このインゴットを大量生産出来れば、例の二番艦と姫殿下の要求されていた能力に届く。例の装備にも応用が……』

 

『北部で採取された莫大なバルバロスの素材の大半は例の計画に次ぎ込まれてるからな。こっちに回してくれと頼んでいたが、少量にしても良さそうだ』

 

『引き続き、手の空いた者にこれらの研究を。最優先で』

 

『ええ、これが実現出来れば、姫殿下の物流革命は次なる段階に……』

 

「いやぁ、面白いものを考えるなぁ。マガトのヤツも設備さえあれば、こういうの考えるだろうが、今頃何を作っているやら。ははは」

 

 ゼド教授はそう何を言っているのかさっぱりな現地研究者達の言葉を聞き流しながら、特に浮く特性を持つ超重元素の層を見つめて目を細める。

 

 その唇は少しだけニヤリと歪んでいた。

 

 異世界に来ると言う本懐を遂げてしまった彼にとって、此処から先はゲームで言えば、全クリア後のご褒美ステージでも遊んでいるようなものだ。

 

 となれば、自分の趣味を仕事にしていた時は違う。

 

 本当に趣味として趣味を行う事はまったく常識的に考えて妥当だった。

 

 その様子を棚の上から尻尾をフリフリ見ていた黒猫は『うわぁ……』という顔で研究意欲に湧くマッド・サイエンティストの笑みにゲッソリした顔になった。

 

 理由など言うまでもない。

 

「ブラックホール機関とまでは行かないが、これなら楽しくあの頑張る若者にDIYをしてやれそうじゃないか。なぁ、マヲンちゃん?」

 

 ニコリとされて猫はそそくさとその場から逃げ出す。

 

 本当に怖ろしい科学者とは何を言うまでも無く本気で趣味に興じる科学者であると黒猫は知っていたのである。

 

 *

 

「こっちか……」

 

 巨大な山となだらかな平地の境目にその巨大な穴は存在していた。

 

 直径40m程の戦術兵器グングニィルが蒸発させた大穴だ。

 

 その真横に付けたリセル・フロスティーナから出たウィシャスと共に穴の中に竜で降りていくと穴の壁面にすぐ幾つかの道が確認出来た。

 

 カンテラを幾つか持って来た為、それを竜に括り付けて、そのまま内部へと進んでいく。

 

「ふむふむ」

 

 穴は大きく。

 

 竜が一匹くらいなら通れる大きさがあり、その一つをカンテラの明かりとこちらの瞳便りに進む事になっている

 

「なーるほど?」

 

「何がなるほどなんだい?」

 

「こいつの構造が解って来た。要は蟻の巣だな」

 

「蟻の巣?」

 

「この穴は恐らく使わなくなった血管だ」

 

「け、血管だったのか……この穴」

 

 さすがにウィシャスの顔が驚きに染まる。

 

「こいつは構造的には毛細血管の残り粕。要は垢になる部分だ」

 

「垢?」

 

「上の大地の大半が岩盤の上に地面と樹木が生えてるように見えるが、実際には積もった埃と竜の代謝で出来た有機物と超重元素が混ざった地面みたいなもんに樹木が生えた。もしくは長い年月で適応した種が根付いた感じだな」

 

「もしかして、この竜の上に大地に生えた樹木も普通のものじゃないのかい?」

 

「恐らくな。採取したら、研究所に送っとこう」

 

「つまり、使わなくなった体の一部を通って、使ってる場所に向かうって事でいいのかな?」

 

「あの巨大イカ。バルバロスの脳を直接操作していたバイツネードのアレは単純に刺激を与えて、特定の行動を引き出すものだった。だが、こいつはそうじゃない」

 

「無理やり制御していない?」

 

「ああ、どっかに意思疎通用の機材が備えられてるはずだ」

 

 そう言っている間にもカンテラの光で少し開けた場所が見えた。

 

 内部で周囲を照らすと血の染みとなった遺骸が数体。

 

 それも金ぴかな鎧という悪趣味なものを付けた腐乱死体とその他大勢という感じな人々が骨を覗かせている。

 

「臭いがしない?」

 

「腐ってるように見えるが……何だ? こいつらの腐り方。いや、こいつらは溶けてるのか?」

 

「溶けてる?」

 

「……気を付けろよ。此処に繋がる他の道やこの場所の地面にも気を配れ」

 

「ああ」

 

 周囲を浮遊しながら竜で散策していると壁の一部に大きな3m程の大きさのクリスタルが埋め込まれていた。

 

「恐らく、これだな。全周警戒」

 

「了解」

 

 それに触れようとした時だった。

 

 ドッという何かが脈打つような音と共に血管の奥から何かが流れ込んでくる音。

 

「ッ、胃液ではないが、恐らく普通の人間には耐えられない何かだ。竜を戻せ」

 

「ああ!!」

 

 すぐにその場から元来た場所に戻ろうとした時。

 

 今まで見えていた穴がキュッと閉じた。

 

「コイツッ!? 逃がさないつもりか。竜も含めて少し弄る。お前もこっちのグアグリスに同調させろ」

 

「解った」

 

 すぐに触手で竜とウィシャスの外皮及び細胞に極度の酸性やアルカリ性に対応出来るように中和用の機能を追加しておく。

 

 元々、北部の鉱山の尾鉱ダムで採取していたグアグリスが持っていた能力だ。

 

 極度の酸、アルカリで細胞が解けないように進化していた為、王水レベルの溶解能力を持つ液体にもある程度は耐える。

 

 しかし、こちらに押し寄せて来た液体から逃れるように広い空間の上に逃げているとその液体が遺体を別の通路に押し流した後、すぐに消えていく。

 

 まるで鉄砲水のようにあっと言う間の出来事だった。

 

 そして、今まで沈黙していたクリスタルが仄かに発光したかと思えば、ギョロリとその内部から猫のように縦に割れた瞳がこちらを見やる。

 

【よく参られた。始祖の地より至る者よ】

 

 日本語だった。

 

 思わず内心で顔色が変わったのを気付かれただろう。

 

 相手が瞳を細める。

 

「話し掛けて来た?」

 

「こっちで会話する。お前は上にいろ」

 

「大丈夫かい?」

 

「もしもの時はすぐに逃げられるようにしてろ。もしもとなれば、合図は出す」

 

 それに頷いたウィシャスを上に退避させた竜に残して地面に着地し、そのままクリスタルの前まで歩く。

 

 そして、近頃使う事が急激に増えた日本語で相手に話し掛ける事にした。

 

「お前がこの図体の持ち主か?」

 

【我ら滅ぼされし、百八種の傍系。しかし、開闢の者達による被造物也】

 

「被造物?」

 

【左様。お主の中にいる者達と同様。我らは嘗て滅ぼされた者の末裔。なれど、始祖の大地より来た天津神により、この地に生を受けん】

 

「始祖の大地。つまり、オレ達の世界か?」

 

【我らはこの地に繁茂し、大地を潤し、世の理となる為に造られた。だが、我らの元となった存在。造物主達がLucaと呼び習わした者の血は記憶も共に受け継がせるものだ】

 

 ルカ。

 

 恐らくはLucaと書くのだろう。

 

 元々は全ての生物の始祖となる生命の事を差す単語だ。

 

「ッ、南部神話の事か。お前らの祖先を滅ぼした連中がそいつらの遺伝子を使って作ったのがお前らって事で合ってるか?」

 

【構わぬ。我らはこの大地を自らの手で護りし者。なれど、時の砂が尽きようとしている】

 

「時の砂……何かが起こるのか? 例えば、月が指に砕かれる、とか?」

 

【そうだ。造物主達はこの世に4つの頚城を置いた。それは人の世を作るモノであると同時に文明の寿命そのもの……】

 

「文明の寿命だと? まさか、裁定者とか言うか? その一つは……」

 

【それは最たる頚城。黒の裁定者。文明初期化を担うフェイル・セーフの一つ。月を砕く指もまた同じモノの一つだ】

 

「フェイル・セーフと来たか。神様とやらのスケールデカ過ぎだろ」

 

 声が飽和するように全方位から聞こえてくる。

 

【『黒の裁定者』は文明の進度を判定する。進まぬ者に文明を司る資格無し】

 

 つまりは停滞したら滅ぼすのだろう。

 

【『白の賢者』は文明の善悪を判定する。悪しき者に文明を享受する資格無し】

 

 悪い文明は滅ぼされる運命らしい。

 

【『赤の隠者』は文明の正否を判定する。正道為らぬ者に文明を住処とする資格無し】

 

 神にとっての正しい道筋を通らぬ文明は滅ぼすのだろう。

 

 その尺度が普通である事を願うばかりだ。

 

【そして、『蒼の奏者』は文明の瑕疵を判定する。間違いに気付かぬ者に文明の住人たる資格無し】

 

「つまり、進み方、善か悪か、正しいか否か、間違いを糾すかどうか。そういうので測られてるのか? 何の為に?」

 

【全ては造物主達の理想を叶える為に……】

 

「理想、ね……神様もどうやら俗物らしい」

 

【黒の裁定者は大地を砕く。白の賢者は月を砕く。赤の隠者は生物を砕く。蒼の奏者は刻を砕く】

 

「ちょっと待て!? 時間? 時間を砕くって何だ?」

 

【……確かに伝えたぞ。蒼き瞳に列なる者よ……我が力、汝に捧げん。彼の地の者達を頼む……】

 

 その言葉と同時に急激に鳴動する血管が開き。

 

 奥からゴゴゴゴッと先程までとは比べ物にならない音が響く。

 

「クソ?! 投げっぱなしか!?」

 

 すぐにハンドサインを出してウィシャスの竜でその場を脱出する。

 

 血管はもう開かれており、その場からすぐに元来た道を戻り、空中に飛び出して上昇すると。

 

 次々に大穴へと大量の水らしきものが噴出して来た。

 

 そして、更に高度を上げると鳴動と共に巨大な図体から濁流が迸って次々に周辺地域に垂れ流しとなり―――。

 

「大地を潤す、か」

 

 呟いている間にも異変が見える限りの荒野一帯に溢れ返っていく。

 

「何だ? 樹木が急激に? それにあの川は……」

 

 猛烈な速度で濁流の如く周辺地域に流れていく水の周囲からまるでアニメでも見せられてるんじゃないだろうかという勢いで巨大な樹木が生えていく様子はまったく数百年の時を一気に見せられているかのようだ。

 

「……その願い。確かに受け取った」

 

「願い?」

 

「あの竜はどうやらとってもお人好しな人間好きだったらしい。情報と自分の力をやるから、竜の国を護ってくれとさ」

 

「……君のデマカセだと思って聞いておく」

 

「そんなの言わなくてもやる予定だってのに。はぁぁ……」

 

「聞いてないんだが?」

 

「言ってないからな。そもそも竜の国は後で色々とヤバイ事が起きた時に使う予定の駒だ。戦争が終わったら、出来れば戦力も込みで取り込む予定だ」

 

「聞いてないからね。僕は……」

 

「ああ、それでいい。それより確定で世界が滅ぶらしい。どうにかしなきゃならなくなった。戦争中に滅びたりしないか心配になるオレの胃を心配してくれ」

 

「聞いてないから!!」

 

 ウィシャスがお腹一杯だと言わんばかりに耳を抑える。

 

「取り敢えず……もしも間に合ったら、お前に月を砕く何かと戦って貰う事になるからな? 覚えとけ」

 

「非常識って言葉を一回辞書で引いて欲しいよ。本当に……」

 

 ウィシャスがもはや放心したようすに息を吐く。

 

「なぁに。俗物な神の力とやらを人の文明から取り除く簡単なお仕事だ。お前、この戦争終わったら、宇宙飛行士に為れ。研究はさせてるから、遠く無い未来には可能になるだろ……」

 

「あ~~あ~~~聞こえない~~~」

 

「子供か?」

 

 こうしてようやく事前に終えるべき事が終わったのだった。

 

 *

 

 帝国におけるプロバガンダ。

 

 現在の情報操作の大部分を担うようになっているのは現在、とある大貴族が運営する民間の印刷出版会社だ。

 

 印刷物の内容の多くに携わり、それに対して様々な政策や規制を儲け、識字率を上げつつ、国民教化の為の膨大な作業を行う。

 

 この帝国の国民扇動機関とも言うべき商会を人々は【ヘイムダァル】と言う。

 

 その内実は三部門に分かれており、商業活動として様々な印刷物の内容を創作、検閲、構成する編集部、あらゆる印刷技術の実地改良、研究開発をする印刷局、最後に印刷物の影響を保持する為に様々な他組織、他集団との渉外担当を行い、あらゆる印刷物の影響を調査報告する法務部となっている。

 

 小竜姫殿下公認で複数の大商会が出資する事で出来ている巨大商会は今現在、国家の最重要機密の一つである紙幣の印刷も請け負うようになり、偽造不能技術から始まって公的文書の一括製造まで手掛ける帝国改革の最重要部署と化していた。

 

 彼らは正しく今は一部の商品に限っては金を刷っているに等しいと言われる程に儲けている最中であり、その資金は彼らの給与と他の帝国の聖女が受け持つ金のかかる事業に回されている。

 

『オイ!! 乙女の休日の原稿はまだか!?』

 

『そ、それが先生が書き直したい部分があると言っていて』

 

『いいから、原稿取って来い!! 今日の輪転機の分解整備終わりまでだ!!』

 

『わ、解りました!? ただいま!!?』

 

『ああああああ、原稿がぁああ!? 誰だよ!? インクこんなとこに置いたの!?』

 

『クソゥ!? な、泣かせるじゃねぇか!? でも、ちょっと文章がくどいな。修正間に合うか?』

 

『輪転機の七号機に異常発生との報です!!』

 

『た、直ちに応急修理と部品を家臣団の方達に!!』

 

 彼らはこの時代ならば超規模と言えるだろう40棟近い帝都郊外に隣接する一角の工場で印刷用の輪転機をブン回している最中であり、そこから吐き出される印刷物は飛ぶようにというような言葉が生温い程の売れ行きとなっている。

 

 結果、この商会は日に40万冊近い本を刷るようになっていた。

 

 数十万の本が週の終わりには全て倉庫から掃けるのだ。

 

 尋常ではない。

 

 紙とインク代を差し引いても前月比2.32倍とか言う馬鹿げた売り上げは本当に右肩上がりである。

 

 その莫大な本を製造する中枢にいる者達の多くが貧困層から小竜姫殿下と人々が呼ぶ彼女が取り立てた才覚と心在る者達だ。

 

 数千人が現場で本の最終的な検品や仕上げをする其処は正しく一大産業。

 

 本部となる帝都最初の輪転機を回した印刷局は今は商用以外の高度な印刷業務や国家事業としての印刷関連業務を行っているプロフェッショナル。

 

 彼らの周囲の建造物には後々に新設された部門の人々が入居しており、そこから少し離れた場所に工場群が新設されたのだ。

 

 現在、その凶悪な売り上げは給与の他は全て所有者の持つ他分野への投資もしくは事業規模の拡大、投資家への初期投資時の返済に充てられている為、貯蓄出来ていないが些末な事だ。

 

 売上が伸びている本の殆どは国外輸出用。

 

 それ以外は国内での教育用の様々な分野別に作られた教科書の類やプロバガンダ用の印刷物であるが、こちらは人々の思想や思考を誘導する為のものであって、金で買えないものを買っているに等しい。

 

 まぁ、国外向けは世間の俗称では帝国製の黒本。

 

 要は男性及び女性向けのエロ本である。

 

『おや? エルムニッジ氏。このような場所で出会うとは奇遇ですな』

 

『ええ、そういうクラブレント氏こそ。今日はこんなところに何を?』

 

『いえ、実は個人的に頼んでいた本を取り置きして貰っていまして』

 

『はは、実は私もなんですよ。やはり帝都直営店が一番早く手に入るものでね。貴族割も効くとか何とか』

 

『『………』』

 

『『同志よ!! この事は妻には内密に!!!』』

 

『『ッッ、勿論ですとも!!?』』

 

 貴族向けの限定プレミア品を筆頭にして量が必要な裕福な庶民向けや完全な庶民向けな単行本も大増産中な上に月刊誌として発行する代物もある。

 

 これが割安で大陸各地に積み下ろされ、密かに流通させられた事で帝国は大陸各地の闇市場へ一気に食い込んだ。

 

『さぁ、皆様!! 本日の主要商品が回って参りました』

 

『帝国産の貴族向け黒本400冊!! 本日は一千からとなります』

 

『競り人は集まって下さい。そろそろ始まります』

 

『400冊も……何処も人気で品薄だと言うのに此処は何処か伝手でも?』

 

『はは、実は帝国に少々縁がありまして……』

 

『いやぁ、先日までは奴隷が並んでいたのが今は本ですか』

 

『ええ、奴隷よりも高く売れますので。ああ、その分、奴隷の多くはお安く帝国に流してるんですよ』

 

『なるほど……』

 

『帝国の聖女様々です。死に掛けや病で使い物にならない奴隷を言い値で引き取ってくれるんですから。笑いが止まりませんよ』

 

『ですなぁ。せっかくの儲けも貧乏人共の救済とやらに使って散財しているようですし、帝国も長くありませんか。今の内ですな』

 

『ええ、まことに……くくく』

 

 これら本の代金は遠い地域などの場合は現地で回収された後に本国には送られず、現地の様々な帝国の工作に活用されており、これがそのまま帝国の聖女の福祉活動と称される慈善事業に投入されている。

 

 それでも近い地域からの売り上げだけで十分に儲けられているのだから、まったく地下経済とエロ様々である。

 

 これらで一番割を食う職業が風俗業だったのだが、その風俗業に従事する短命な売春従事中の娼婦達を体を売らない風俗業で稼げるようにしたり、食い扶持となる新しい帝国式の店に勧誘して食わせているのは帝国当人である。

 

 別の場所にこっそりと娼婦達を専従させて帝国の使える人材として活用している為、表向きの風俗業は不景気とされているが、中の人々はホクホク顔でゆっくりと親帝国派として懐柔されている最中であった。

 

『ああ、遂に出来たんだね』

 

『はい。帝都の大工に頼んで先日搬入されました』

 

『これが……聖女様……あたし達を助けてくれたお人の顔かい』

 

『あの方は助けたとも思っていないでしょう』

 

『アンタ!? もしかして会った事があるのかい!?』

 

『ええ、あの方は……ただ人々が当然に享受するべきものを政治に携わる者の1人として大陸の多くの民に与えたい。いや、共に分かち合おうと考えているのです』

 

『他国の……こんな薄汚れた売女にもかい?』

 

『我々はそれを体現する手足に過ぎない。全てはあの方の御心の為せる技。人を救う理由が無い世界に、その理由を作るのがご自分の役目だと仰っておられました』

 

『ぁあ……そうかい。ふふ、あはは……はぁぁぁ、世の中には神様よりも神様な人ってのがいるんだねぇ』

 

『神ではありませんよ。誰よりも他者の為に頭を下げ、誰よりも他者の為に命を掛け、誰よりも他者の為に働く。あの方は何もせぬ神など当の昔に越えていらっしゃいます』

 

『ああ、そうだね。神の家の連中よりもずっと……』

 

 こうして、密かに人の心を掴み。

 

 人の心を変えようとする少女の目論見は広がっていく。

 

 単なる慈善活動としか周囲には見えないだろう行為。

 

 いや、それそのものだからこそ、人は人の感情として変化せざるを得ない。

 

 その下で行われる高度な教育と問題の解決に尽力する人々の背中は尊い。

 

 各国の最下層で人生に悪意しか見て来なかった人々だからこそ、その真に善行を積む善人達の声が何よりも強力な心を変える誘導となる。

 

 人材の活用法として、ソレは未だ誰も無し得ない侵略だった。

 

 人の心を変えてこそ、人は輝きを生み出す。

 

 誰にも磨かれずに置かれていた宝石を片っ端から磨き始めた少女はカルト宗教よりもまた強力な洗脳方法を取った。

 

 現代において人の心を奪う為にカルトが人間を囲う技術や知識を使っていたが、それは更にその先にある社会、組織集団の心を奪う方法だ。

 

 人の心に働き掛ける者達。

 

 それこそが不可能を可能にする。

 

『災害や戦争になったら、どうすればいいのか。この本、スゴイな……何でも書いてある……この単語ええと……ああ、また辞書引かなきゃ……』

 

『こっちも病人の看病の仕方や御老人の介護の方法とか。どうすればいいのか。何でも書いてある……これ、相当に高いんじゃ……』

 

『だなぁ。こんな高価そうな本をオレ達みたいな下等民が読んでいいのかな……』

 

『そもそも給料まで出るとか。もう本当に……何と言ったらいいか』

 

『お勉強ご苦労様です。皆さん』

 

『ああ、施設長。ご苦労様です』

 

『『『ご苦労様です!!』』』

 

『廃墟街の皆さんへ教える教育内容は覚えられていますでしょうか?』

 

『は、はい。こんな文字が読めるだけのオレが教師だなんて今でも夢なんじゃないかと思うんですが、何とか数日中には……』

 

『ふふ、それは良かった。少しでも知れば、人々の生活が楽になる知識が沢山書かれてありますから、孤児の子や今働いている子達にも少しでも生活が楽になるよう頑張って教えて回りましょう』

 

『『『『は、はい!! 施設長!!』』』』

 

『全てはあの方の思し召し……心が荒んだ方々に意志を持って寄り添うならば、きっと解って頂けますよ。ね?』

 

『『『『(女神だ……)』』』』

 

 人が合理的に動いた結果として、単なる人々が其々の中に眠る力を発揮し、あるいは磨き上げ、自らの為に活動する。

 

 自発的な行動を誘発させる為に必要なのは十全な活動基盤である。

 

 大陸の各地の最下層で辛酸を舐めて生きる者達にとって、その基盤を与え、希望を与え、知恵と健康と寄る辺を与える者達は正しく自国の無能な政治家達などよりも余程に信じ、信仰するべき対象となる。

 

 人類の最たる暴力が数であるならば、強固な意思で統一された最下層の住人達は正しく老人から子供まで等しく力だ。

 

 それを理解せず、馬鹿なヤツとせせら笑って放置した国家しかいなかった時点でその間接侵略活動の第一段階は完全なる成功を収めた。

 

『施設長。どうして治安も悪く。野盗や人攫いが横行するような此処に同行を?』

 

『少しでもそういった方々のお話を聞く為ですよ。罪を犯した者も最初からそうであったわけではない。理由無く心底に悪を身に宿す者は多くないのです。ならば、彼らに真っ当に向き合う者がいれば、全ての方とはいかなくても、幾らかの人には真っ当な生活を送って頂けると思うのです』

 

『何と慈悲深い……』

 

『そんな事はありませんよ。私もほんの少し前までは人を騙し、殺し、大勢を不幸にして来た人間です』

 

『し、施設長が!?』

 

『皆さんと変わりませんよ。ひったくりをしたり、弱い者から食料を取り上げて、今日生きるのに精一杯だった』

 

『そ、その……では、どうして……』

 

『あの方に出会ったからです』

 

『あの方……それはもしや……』

 

『……薄汚い死に掛けの罪に塗れた売女をあの方は御救い下さった。国家を指導する者の1人として謝罪する。そう済まなそうに微笑み、頑迷な私や多くの盗賊を癒し、唾を顔に吐き掛けた口を絹の布で拭って……頭を下げさえした』

 

『あ、謝る? 頭を、下げて?』

 

『国を導く者として、謝罪なされたのです。私が育った地域を領地として持つ貴族を廃滅し、全ての者に等しく衣食住と教育をお与えになった』

 

『………』

 

『罪在る者にすら、罪を裁くのはまず温かい食事と温かい寝床で落ち着いてからだと。そうしてようやく償うか。あるいは刑罰を受けるか。選ばせてくれた』

 

『施設長が……そんな……』

 

『あの方は人を憎むのではなく、罰するのではなく。まず最初に私や多くの襤褸を来た者達に人として当然のように扱われる事を教えてくれた』

 

『それが……帝国の……』

 

『その上で人生で初めて腹の満ち足りた私達に言ったのです。生きるならば、誰かに感謝される生き方をしないかと』

 

『何と言う……っ』

 

『この地に持ち込んだ多くの本はあの方の叡智。そして、私はあの方の理想を実現する手足として働く事を決意したのです』

 

『施設長。お、おぉぉ、何と言う……うっ、ぅぅ……っ』

 

『罪を償うのは償える者と償おうとする者だけの特権だと。そう言ってくれたあの方の為に私はいつ死んでもよい覚悟と共に戦う事にしました』

 

『そ、そんな!? 施設長は我々が御守りします!? どうか、死ぬなどと言わないで下さい!?』

 

『ありがとう。でも、私は……多くの私のようになろうとしている人々を、あの方のようにはいかずとも……少しでも支える為に戦い続けます……どうか、この身が朽ちるまでよろしくお願いします。皆さん』

 

『『『『施設長ぉおおおおおおおおお(泣)!!?』』』』

 

『行きましょう。まだ、路に迷い。人の温かさを知らない方々に人の温もりを伝える為に。それこそ私があの方から託された使命であり、これからは共に歩いてくれる皆さんのお仕事になります』

 

『『『『付いていぎまずぅぅぅ。どこまでもぉぉぉ~~~~(泣)!!?』』』』

 

 こうして静かなる侵略は進む。

 

 悪魔は天使の顔をしてやってくる。

 

 だが、多くの者は気付かない。

 

 何故なら、いつだって最も愚かで醜く彼らを虐げて来た悪魔は人間だったから。

 

 同じ顔をした天使が自分を救うならば、それが本当は悪魔ですら構わないのが、人の感情というものなのだ。

 

 大陸のほぼ全ての国家にはそれが立てられた。

 

 神様よりも神染みた元貧困層の女性達が1人の少女に恩を返す為に創った組織。

 

 【帝国救貧院】はまったく笑ってしまうくらいにカルト宗教よりカルト的な信仰心を持つ職員によって強固に組織化、肥大化していく。

 

 そう、嘗てから存在する同じような施設などとは似ても似つかない内実は高度知識層の教育現場であり、知識と結束と意志さえあれば、それは短期間でどんな形の組織にもなり得る。

 

 武器など無くても正しく最新の組織論と資金を持ち合わせる彼らは理論武装と共に国内でも有数の実力を備えた存在として貧困層の救世主と持て囃されるだろう。

 

 侵略とは何も武力だけの事ではない事を多くの国家は未だ知らないままであった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。