ごパン戦争[完結]+番外編[連載中]   作:Anacletus

478 / 631
第93話「帝国姫譚」

 

 アバンステア帝国。

 

 この世にも奇妙で珍しい国家の内実は現在、渦巻く竜巻に蹂躙されている。

 

 主に人の心と感情が一方向に押し流され、人々には志向するべき方角が与えられ、多くの場合それを帝国の国民は【姫殿下の号令】と称している。

 

 あらゆる分野。

 

 本当にあらゆる分野の改革、革新、刷新、合理化、人材の幅広い登用に無用な者の排除、基礎的な強化、基本知識の底上げ、人員の専業従事者としての教育、実務での改善……何ならやっていないのかが分からないという全てが全て1人の少女の威光と意向で変化させられた。

 

 結果として、帝国のこの三か月の懐事情はおかしな事になっている。

 

 帝国からの様々な高度加工品やサーヴィス業、人材派遣業(傭兵、教育分野)の輸出だけで前年同月比17割増し、同時に輸入代金も国内流入した巨大な奴隷達のせいで穀物類も合わせて30割増しという状況である。

 

 だが、それでもほぼ国内総生産……帝国の聖女の造った新指標は前年同月比40割増しで破綻する程ではない。

 

 この馬鹿げた数字が指し示すのは今の帝国は巨大な経済の成長の為にあらゆる分野をぶん回す……資本の回転作業中という事だ。

 

 あらゆる物資の輸入による代金は国内の消費と国内での経済活動の活発化を意味しており、国内からの巨大な輸出は主に文化的な成果物や人物の働きなどの事に払われている為、殆ど国内から戦略物資が出て行っていない。

 

 その上、複数の地域で広域の水運が盛んになった為、今や帝国には国外からも莫大な富を齎す活気を求めて、各国の商人達が割安な商用地に店舗を構えようと流入。

 

 それに比例して肥大化した金融業が急速に法規制と共に高度な整備を受けて、大陸の上半分の商売を事実上取り仕切る金融市場が誕生していた。

 

 市場において多くの国外商会が資金を調達しようとしており、流入する他の国外資本を集めて商売をしている状態である為、国内の商会は聊か面白くない。

 

 という現状にもあるのだが、国内の大手商会の殆どの者達は低姿勢で国外商会の参入にニコニコしながら、控えめで驕り高ぶる彼らとの取引を行っている。

 

 それは正しく帝国が各国に低姿勢で商売をしてくれと頼み込んでいるように見える為、まったくあの大帝国を尻に敷いたような気分で殆どの国外商会の者達は何の疑問も持たずに日々、1割増し、2割増しと増えていく取引量にホクホク顔であった。

 

 無論、彼らとて帝国に税金を支払っているが、それも国内商会に比べれば、割安であって……まったく笑いが止まらない状況。

 

 これで厳し過ぎる法規制が緩ければ、文句無しだとほくそ笑む商人達である。

 

(まぁ、無論のように戦略目標は達成されているわけだが……)

 

 ズチューッと最新のスイーツである聖女考案の冷えたカスタードクリームと生クリームに珈琲と呼ばれる南部原産の薬に似た味を出す豆の抽出液を混然一体とした代物が木製のストローで吸われていた。

 

 今、絶賛帝都と大陸各地の帝国式店舗で貴族相手にバカ売れ中のカフェ・アルローゼン……要は何処かの現代式な大手カフェチェーンが売ってそうなスイーツ・ドリンク類である。

 

 主の名を冠したソレを呑み干しつつある青年は横目に経済状況を眺めながら、帝国の財布の莫大な出し入れを確認していた。

 

 リージ中尉。

 

 嘗てそう呼ばれていた彼であるが、今や帝国の聖女の秘書という肩書である為、リージ様扱いされるに至っている。

 

(国外商会の流入と大規模投資に伴う大陸現預金の一極集中。一部、国外の二番手に付ける経済人への取り込みと彼らによる帝国経済への投資は危機管理的にマズイとの示唆。一番手が戦中戦後に没落した後、躍り出る彼らそのものへの取り込みで事実上は帝国本土が焼かれたとしても復興資金は確保出来る。彼らとの対外的に表沙汰に出来ない悪魔の契約がある限り、彼ら自身の保身は帝国の保身と同義……我が主ながら悪い事を考える)

 

 青年は反帝国の機運が上がりそうな各国内部で取り込みが完了した者達のリストの多さに苦笑する。

 

 その全てが自分の主の予言染みた取り込み方法で先読みした行動を行った結果としてこっそり破滅寸前に叩き落とされてから、救い主来たらんと笑顔で近付いた工作員による資金提供が実を結んだ結果だ。

 

(こっそり破滅寸前まで追い込んだ人間に恩を売って帝国に忠誠を誓って貰う代わりに資金供与し、帝国の表向きの善意の皮で取り込み。相手は親帝国という今の情勢では国から睨まれる契約を行ったという事実だけで雁字搦め……これで大規模な金融工作の手札は揃った……各国がコレに気付くのは何年後の事やら……)

 

 今や大陸の南の果てまで帝国の商会の支店は広がっており、その殆どが善人染みて【聖女の善行】等と呼ばれるような善人面の所業で帝国の評価を上げつつある。

 

 国内の報われない人々への奉仕活動や寄付や教育。

 

 それも奴隷身分や低所得な貧困層を主軸にした帝国式の間接侵略活動だ。

 

 彼らの多くに帝国内で選抜された心理的にも最優と評価される“本当の善人”による人助けと一方的に見える資金の投入を行っているのだ。

 

 帝国は正しく大陸基準の常識から言えば、『まったく馬鹿な奴らだ!!』と商人連中から言われる間抜けと見える事だろう。

 

 が、その薄く広く真なる善行を全うに詰んだ者達が親帝国思想を人々へ少しずつ少しずつ水に墨を垂らすように馴染ませていく。

 

 この過程は宗教や文化の侵略行為に等しい。

 

 合理性を重んじる帝国式のあらゆる思想が人々を教育した時、その後に待つのは帝国とはまるで違う不合理な社会や組織、宗教、その他諸々の集団に対する不満とソレを打ち倒すべきだと考える者達の増加だ。

 

 そして、彼らが真に帝国を心の祖国とするならば、その威力は見えないからこそ、あまりにも絶大であり、あらゆる国家の弱点となる。

 

 この不合理と不条理に満ちた世界における真なる恐怖とはソレを打ち倒そうとする合理性と善政であり、今までの旧支配者層の多くがその善なる行いの恐ろしき効能に気付いてはいない。

 

 持たざる者に思想と合理性と連帯性を与え、彼らの庇護者に帝国が収まった時、その力は本当の威力を発揮するのだ。

 

(今、持つ者達の没落の始り。そして、後に持つことになる者達の取り込み。親帝国勢力になり得る大陸全国家の貧困層の取り込みは7%程度完了した。帝国への移民志願者もその中から激増中となれば、この流れはもう止まらないだろうな)

 

 今や帝国に嘗てのような表立った劣等種と誰かを呼んで差別する空気が希薄化している事をリージは知っている。

 

 それもこれも【聖女の教書】と呼ばれる各分野に降ろした教育用の教科書の成果であるだろう。

 

 新しい世代の多くがこの数年の教育で高度知性化、高度倫理化用のカリキュラムを学ばされているに等しい。

 

(それにあの方の心理操作が秀逸過ぎる。持たざる貧民に持つ者への憎しみを覚え込ませるのではなく。持つ者への哀れみを植え付け、心理的な余裕を持たせる事で大まかな革命の流れも感情よりも合理性や実現性に重きを置く理性的な方向に舵が切られた……)

 

 もしもとなれば新帝国閥として国内での革命騒動を今ですら起こす事が可能な状況であり、その内の6割はこちらからの援助で数か月以内には現行の執政勢力の打倒が可能。

 

 これにもしも見えざる竜騎兵団ドラクーンを用いれば、正しく大陸南部を今から地獄の内戦祭りに突き落とす事すらまったく不可能ではない。

 

(貧困層の知性化と思想誘導、高度教育での親帝国化計画……帝国本土と帝国の聖女にしか目が向いていない各国の工作員連中はもはや舞台の役者に夢中。ああ、我が主もお人が悪い……自分の足元を固めもせずに放置している殆どの国はコレで手足を失ったに等しい……)

 

 まったく、誇大妄想か馬鹿話の類と殆どの人々は思うかもしれないが、帝国は世界など征服しなくても、世界が帝国に付いて来る状況に陥り始めているのである。

 

 だからこそ、それを覆い隠す帝国の聖女の動静に一喜一憂している人々はまったく術中に嵌っていると言えるだろう。

 

 それは帝国議会で聖女が言っていた事を体現するかのようだ。

 

 帝国は世界など欲しない。

 

 フィティシラ・アルローゼンは世界など欲しくない。

 

 ただ、誰が言わなくても世界が帝国や彼女に付いて来たそうに見ているだけ、なのだから、まったく嘘は言っていない。

 

「本当の陰謀とやらがあるなら、まったくこっちだろうに……」

 

 シレッと全体像を自分にしか見せていない主の周到さに苦笑しながら、彼は今日も新設されたディアボロの執務室で世界を動かす為に暗躍し始める。

 

 それは書類仕事の類でしかなかったが、確かに今後数世紀の人々の未来を動かす仕事に違いなかった。

 

 *

 

 無智な他国から見れば、帝国の真なる侵略(笑)が進められる帝国本土。

 

 そのあちこちで今、数百万人規模の人員が各地に分散して新しい街を作っている事は誰にも知られた事実だ。

 

 今まで大陸でも暫定1位を誇る帝国の人口ですらも埋め切れなかった巨大な帝国領土の新規未開拓地域の7割が一瞬で埋まったのである。

 

 その殆どは開発に時間が掛かるか。

 

 もしくは現行技術では開発が困難であるという事実から管理以外は殆どほったらかしにされていたわけであるが、これが帝国の聖女の家臣団と呼ばれるようになった研究者軍団の努力と涙によって可能になった。

 

 その半分くらいが帝国の聖女そのものが知識を出して、それを実現した道具や開発資材である事は一般的ではない帝国内の高度知識層の常識だ。

 

 あらゆる分野に何処から持って来たのか分からないような本当に正しい自然科学的な諸知識が導入されたのである。

 

 それを基礎とした分野毎の研究が恐ろしい速度で進展している。

 

 この現状を前にしては聖女は万能の叡智を保有した女神であるなどの馬鹿げた議論が本当に知識層たる研究者達の間で叫ばれても仕方ない。

 

 なので、今や帝国各地の新規の街の全てでは帝国の聖女像が真っ先に建立されていたりするのだった。

 

「ふぅ……これで聖女様の像も一段落。ようやく街の本格建造に取り掛かれるってもんだ……」

 

「ああ、聖女様。姫殿下……」

 

 目をキラキラさせた聖女LOVE系狂信者達が実はどの分野にも一定数存在しており、彼らが熱心に聖女語録とか聖女全集とかを自費で出版している事は知る人なら知っている半ば有名になりつつある常識だ。

 

 なので、彼らが帝国国内のプロバガンダを鵜呑みにして、その情報操作を展開する当人達すらも予期せぬような速度で聖女の神聖化や神格化を始めている事を誰も知らない。

 

「おお、今日の糧に感謝します。聖女様の光が貴女の上にもありますように……」

 

 何故か自然発生的に各地で起った聖女様教による祈りや聖句がやはり自然に広まっている事を帝国人達当人は左程認知もせず。

 

 街のあちこちで今日も帝国の聖女様に対する祈りが食前や多くの仕事前に自然と人々の口に昇っていた。

 

 だから、国外から流入する奴隷達の多く。

 

 あの聖女の巨大に過ぎる奇跡によって蘇った者の後に続く者達も自然とその奇跡の御業を用いる少女の話を聞き及び。

 

 そして、今まで自分達がされて来た扱いとは天地の差がある帝国での生活に何か呆然として、本当はもう死後の国にでもいるか。

 

 もしくは何かの悪いモノにでも幸せな夢を見せられているのだろうと自分の頬を抓るばかりであった。

 

「何コレ……何……コレ……」

 

 奴隷の老若男女は知っている。

 

 武器で脅され、死の行進で身包みを剥がされた後に脚の皮が擦り切れる程に歩かされ、糞尿塗れの船で揺られ、死のうとして死ねず、反乱を起こしては殺され、幾多の大国の者達に塵のように蔑まれ、肌の色や人種で差別され、幾らでも殴られ、蹴られ、唾を吐き掛けられ、一生残る手枷や足枷の跡を持ち、最後の最後の最後に辿り着いた世界には―――ああ、やはり彼らはきっともう自分が狂ってしまったのだと確信してしまうくらいにおかしな現実が広がっている。

 

 部屋を宛がわれる。

 

 医療を受けられる。

 

 言葉が通じる。

 

 鞭で叩かれない。

 

 お腹一杯美味しいものを食べられる。

 

 体を洗える。

 

 衣服を着られる。

 

 家族や友人を探して貰える。

 

 文字や言葉を学べる。

 

 そして、何よりも自分を心配してくれる誰かが傍にいる。

 

「――――――」

 

 言葉が分からなくても、文字が読めなくても、彼らはその街の中央にある像に祈りを捧げる大勢の仲間達を前にして知るのだ。

 

 ああ、これがそうなのか、と。

 

 その少女の像を前にして誰かが祈り始めると、それに習って誰かも祈る。

 

 それはきっと単なる一言で済む話だ。

 

 だから、彼らはその聖女が常にそうすると言われているように……それに習う。

 

 頭を下げる。

 

 それはまったく馬鹿げた話なのだが、奴隷達の多くがその慣習を続けている。

 

 ありがとう。

 

 感謝する時は頭を下げる。

 

 それだけの事が全ての奴隷達の街で誰がそうしろと言ったわけではないのに掟のように根付いた。

 

 今まで他者に反抗的な目を向ける事しか出来なかった彼らがそのお辞儀や感謝を誰に言われるでもなく覚えて実践する事に多くの国外の者達は驚き、目を見張る。

 

 でも、それも当然かもしれない。

 

 全ての街の全ての像は確かに僅か頭を下げて、礼をしているのだ。

 

 あの芸術家崩れの学び舎でそうであるように。

 

 それは誰に向けたものではなかったはずだが、未だ奴隷である者達にとって……きっと、本物の目指すべき何かだった。

 

 無論、それに背を向ける者達もいる。

 

 それは帝国に奴隷として落とされた者達。

 

 彼らには帝国に礼をするなど、まったく考えられない話だった。

 

 だが、その憎悪に賛同する者は殆どおらず。

 

 また、仲間達と共に過ごす中で彼らは試されていく。

 

 憎悪と共に生きて、帝国を呪い続ける。

 

 そんな、今までは簡単に出来ていた事を帝国の庇護下で続ける事が彼らには少しずつ難しくなっていくのだ。

 

 それこそがもしかしたら彼らにとって真の敗北で、彼らにとっての本当の絶望なのだとすれば、そこに救いは無かった。

 

 あるのはただ温かな自分を迎えてくれる抗い難い誘惑のみ。

 

 人の抵抗を砕き折るのはいつでも暴虐や加虐ではなく。

 

 人の本当の温かさであるという現実を前にして彼らは無言で帝国に住まう者達となっていく。

 

 こうして誰にも知られない反帝国の芽はこうして潰されていった。

 

 この人の心理を知り尽くし、抗う術無く単なる政策のみで潜在的な敵を無力化していく様子を僅かに理解出来た国内の軍諜報部門の者達は何を言うでもなく。

 

 その手練手管に絶対的な畏怖を畏敬を覚えた。

 

 彼らの国内を標的にした仕事に関しては殆ど終わっていたのである。

 

 *

 

 現在、帝国における食品の高度加工技術は非常に進展していると言える。

 

 各地に姫殿下印で建てられた食品研究機関が軍用の糧食を現行技術の限界まで突き詰め、備蓄と劣悪な行軍や軍事行動中に手軽に取れて味も良いものを追及する事になったからだ。

 

 これを更に梱包用の新素材と共に用いる事でこの大陸では非常識な年数持つ食料が次々に開発され、日々あちこちで輸出用の加工食品の技術に転用。

 

 大陸各地に輸出され、同時に最も高度な食品の多くはその軍事訓練に供出されたり、完成品として備蓄が開始されている。

 

 人々が最も驚くのは最新の研究成果である電力で動くモーターやヒーターを用いる食品加工現場である。

 

 無論、殆どの人々は入れない重要機密である為、帝国のお偉いさんが視察に来る程度なのだが、それにしても彼らは度肝を抜かれるのである。

 

 清潔な食糧加工プラント内部は木製ではなく。

 

 樹脂製塗料やコンクリート建材を用いた作りであり、この大陸では非常識な程に清潔だ。

 

 高濃度に蒸留したアルコールを薄めて常に消毒が行われ、働く者はマスクと手袋を欠かさない。

 

 仕事始りにアルコールを噴霧する一室を潜るところなどはもはや軍のお偉方からしても別世界に見えるだろう。

 

「これは一体……」

 

 そんな彼らが硝子窓の先に見やる加工場では数百人にも及ぶ人々が帝国軍に納入される事になる備蓄食料と輸出用の加工食品を作っている。

 

 片方は彼ら軍人にも近頃は身近になって来た瓶詰だ。

 

 薄く軽く衝撃に強い硝子瓶というものを彼らは初めて瓶詰食で知ったのだが、それにしても他国に輸出されるソレらは現在の加工食品の中でも味もよく、保存期間も極めて長いと言わざるを得ない。

 

 だが、そんな加工現場のもう半分は紙のようなものを作っており、彼らはアレも食料なのだろうかと首を傾げざるを得なかった。

 

 屋内に灯された電灯の数は多い。

 

 その下では野菜が切られ、煮込まれ、何か粉のようなものを入れられてから手袋をした者達の手で加工場の主役である巨大な電力で動く奇怪な鉄の箱へと入れられ、薄く延ばされたソレらがローラーで成らされながら長い長い経路上にある複数の箱を経由して最終的には自動で物を裁断する自動裁断器で切り取られ、何か霧状の薬品を噴霧されている。

 

 薄い色付きの長方形の紙を束にしたような状態はどう見ても軍人達には紙のようにしか思えず、アレを食うのかと汗を浮かべる者は多数であった。

 

「最新の備蓄食料ですが、アレは野菜を低温殺菌しながら煮た物を牛の骨から溶かしたゼラチン……水を固める作用のある物質によって固めた代物です。各種の安全な保存料を更に最後に噴霧しており、これらによって密封された状態で保管する事で長期間保存する事が出来ます」

 

「あ、あれが食料というのは俄かには……」

 

「試食がありますので、どうぞこちらに」

 

 そう言われて男達が持って来られた色付きの紙にしか見えない薄いソレを一枚手に取って、口に含む。

 

「ッ……これはパリパリとして野菜の風味が……成程。この軽さと形ならば、持ち運びが楽になるわけか」

 

「うむ。思っていたよりも……確かに野菜の味が……」

 

 軍人達が思っていたのと違った感想を抱きつつ、ノリのような野菜シートをパリパリと食べながら、案内の者達に視線を向ける。

 

「現場でそのまま食べてもよろしいですし、水に入れて煮れば、野菜スープにも為ります。水分が無い為、携行し易く。戦線において物資の供給量としては数百倍。一日に数枚食べれば、栄養素としてはほぼ半分を摂取出来る代物です。ちなみに保存期間は約2年となります」

 

「これで二年持つのか。まったく、驚きだ」

 

「補給がし易そうだ。野菜の水気そのものを飛ばせば軽くなるとは考えられましたな。姫殿下も……」

 

「ただし、水気のある場所では十分に保管に注意しなければなりません。すぐに黴が生えてくるような事はありませんが、劣化してしまいますので」

 

「ふむふむ……」

 

「ちなみに現在、動物性蛋白質。つまり、肉の加工品に関しても今までの干し肉より更に長持ちさせて栄養も取れる代物を開発中ですが、肉はかなり保存が難しく。食塩などを大量に用いた従来からの塩分濃度に近い仕上がりの乾物が出来ました」

 

 係の者が今度は細いジャーキー状に加工されたカッチカチの肉を持って来る。

 

「こちらは保存期間が凡そ1年程となっておりますが、塩蔵に近い塩分の為、そのまま食べるのではなく。水に溶かしてスープにする用です。無論、最前線ではただ水に溶かして食べる事も可能ですが、ふやかす作業がある為、最前線よりも後ろの拠点で一斉に食事を摂る時に使う事を想定しております」

 

「おお、確かにほんの少しなのに塩辛い。これなら水に入れれば、良い味になりそうだ」

 

「基本的に軍の糧食の問題は重量による供給と保管方法です。姫殿下はこれらを全て乾物に置き換える事で徹底的な重量の削減で供給量を御増やしになる事を考え、その上で保存期間の長期間化を行っております」

 

「さすが、姫殿下……我々には到底成し得ない事だろう……」

 

「軍に納入された保存食は保存期限が過ぎる直前には民間に割安で放出するか。もしくは訓練中の食事や常備軍となっている兵の昼食や夜食として供される事になっており、製造時に掛る資金的には原料の大規模買い付けと大規模加工で安く量産している為、従来の軍の糧食よりも2割程安く食事量として同程度供給可能です」

 

「何と二割もとは……」

 

 男達がざわめく。

 

 徹底的な合理化を進められている軍内外であるが、それにしても嘗てよりも便利で美味しくなった食料が二割安となれば、誰もが驚く以外無い。

 

「ちなみに軍高官用または今の加工食品では取れない栄養素を供給する為に高度加工技術による水気のある保存食も造られております。こちらへどうぞ」

 

 男達がすぐ傍の部屋に通されると一枚肉の塊が皿に置かれて、小皿に切り分けられている途中だった。

 

「これらの肉は今から7か月前に加工されて保存されたものです。どうぞご賞味下さい」

 

「これは見るからに干し肉では無さそうなのだが……」

 

 将兵達が見るからに柔らかそうな肉を齧って唸る。

 

「これは……塩蔵とも違う。生肉にも似ているが、この風味は油か?」

 

「はい。この肉は加工時にまず下処理後に保存料の液を芯まで浸したものを更に油に浸け密封した代物であり、油そのものも栄養素として獲る事が出来る代物です」

 

 彼らの前に透明な樹脂の箱に油と共に入っている加工肉がお出しされた。

 

「油は空気で劣化致しますが、密封していれば、長期間劣化致しません。また、肉が腐敗するのは外部から腐敗を促す微生物と呼ばれる見えない生物の働きによるものやカビのせいであり、それらが生息出来ない密閉された油の中にある肉は一定の水分を保持したままに数か月単位での保存が可能になります」

 

「おぉぉ……」

 

「これらの容器に使われている樹脂。樹木から取れる液を加工した代物は木材や鉄よりも圧倒的に軽い上に極めて壊れ難い性質を持っており、特別な機器による密封を施す事で酸素と微生物から食品を護る事が出来るのです」

 

「な、何という事だ。このようなものが現実に……」

 

「ちなみに油には乾燥香料を仕込む事で様々な風味を添加する事も出来ます。結果として重さは肉と油を従来の装備で運んだ時よりも少し重い程度。油も料理に振り掛ければ、栄養も取れます]

 

「なるほど……」

 

「肉は言わずもがな。油そのもので食材を揚げれば、香ばしい風味まで付きます。煮ても良し、焼いても良し、飲んでも良しです」

 

「ゴクリ……」

 

「下処理時に肉の内部にいる微生物も保存料で殺してある程度の乾燥はさせてありますので肉は腐らないまま油の中でゆっくりと劣化するのです。これこそ姫殿下が戦場で戦う方達の食卓を考えた故に考案された代物であり、今後は消費期限前に提供しながら、味に慣れて頂ければと……」

 

 ブワッと涙目で感動したと言わんばかりの将兵達がウンウンと舌鼓を打ちながら加工食品を平らげていく。

 

 これが帝国内の将兵達を心理的に懐柔する為の飴だとも知らず。

 

 将兵達は満足した様子で自分達の持ち場たる基地へと帰っていくのだった。

 

「ふぅ……兵隊さん達は帰っていったな」

 

 今まで説明していた白い手袋に防止にマスク姿の男達は将兵達が掃けた後にイソイソと新築な工場の扉の一つに向かい。

 

 その扉の先の地下に降りていく。

 

 彼らが電灯の付いたコンクリート製の通路の先にある部屋に向かう。

 

 すると、其処にはもう一つ地上の工場とも違う研究室が並ぶ一角があった。

 

 だが、その周囲は異様な様子なのが解るだろう。

 

 巨大な臓器らしきものが浮かんだ円筒形の水槽から何かを抽出していたり、巨大な動物や植物の器官の一部が透明な水槽内部に薬液と共に浸けられていたり、それらから取り出された液体らしきのを蒸留し集めている者もある

 

 大量の実験器具の多くは化学物質……具体的には生物から抽出出来る成分の濃度を高めて、分析する為のものに見えた。

 

 その奥には大量の鼠が飼育された場所もある。

 

「はーい。鼠ちゃ~ん。こっちでちゅよ~~この生物毒に耐えられるようになりまちょーね~~」

 

 ニッコリ笑顔の白衣の男女が鼠を可愛がりながら、薬液を与えたり、注射したり、塗ったりしている様子は正しく鼠にとっては地獄である。

 

 動物実験施設。

 

 鼠を用いて、人間に試す前に様々な物質の効能を明らかにする試験場は保存料や食品添加物の研究には欠かせない代物だ。

 

 研究に供された鼠達の大半がコテンと即死したり、衰弱したり、狂暴化したり、あるいはブクブクと泡を吹いたり、血反吐を吐いたりしている為、完全に狂人の住処と誰かは言うだろう。

 

 だが、研究者達はニコニコしながら鼠達を可愛がり、死んだ鼠達に哀悼の意を評して、死んだら少しだけ手を合わせ、死んだ個体を近場にある巨大な水槽へと運び入れて、そっと所定の投入口に一礼してから入れていく。

 

 その先にはフワリフワリと大きな触手を持つクラゲさんが鎮座しており、それらの鼠を触手で溶かして吸収している。

 

 薄く生物発光しているのは輝くグアグリス。

 

 人間には害になるのかどうか。

 

 様々な動物実験のデータを獲得する為の研究所の主は正しくソレだろう。

 

 全ての生物を捕食し、あらゆる薬品で死なず。

 

 全てを吸収して耐性を得る生物。

 

 そんな恐ろしきクラゲが今日も帝国各地の食品加工場の地下ではフワリフワリしているのだった。

 

 その秘密の光景を見る者があれば、恐ろしくも幻想的な光景に震えるだろう。

 

 それこそ聖女が先日東部で莫大な量の毒を受けても死なずにいられた理由の一つであるとも知らず。

 

 各地の研究機関は其々が違う化学物質を動物実験で用いて、その安全性や有効性、致死量、有用な使い道に付いて鼠達の屍の上に発展の基礎を築いている。

 

 これが防諜の為に食品加工場の地下に秘密裡に建築されているのだ。

 

 そこで働く彼らの功績無しに今の帝国の現状は無く。

 

 科学者でも狂人扱いの人々は鼠さんに感謝しながら、巨大なクラゲの水槽を電灯で幻想的に見つめながら、己の研究に邁進していく。

 

 その瞳には狂気があれど、彼らの誰もが主の命令に忠実だ。

 

 鼠以外も使った方が早く研究が進むという狂人達に彼らの主は苦笑しながら、恐ろしき微笑みでこう言った事が彼らにその忠誠を誓わせただろう。

 

『遠回りしても解答に辿り着ける程の才覚なら、その間に得られる叡智は求めた答えよりもきっと有用でしょう』と。

 

 研究者達の中でも才能はあれど、心理的にグレーゾーンと評価された彼らにとって、その何とも心躍るだろう知的探求の甘美は如何ともし難く。

 

 鼠さんの犠牲の上に彼らは今日も自らの知識欲と対象に対する深い理解に基いて不気味な程にサイコパスな笑みで業務に従事する。

 

 自分達よりも遥か高みにいる狂人もしくは聖人。

 

 そんな彼女に頭を垂れて労働に勤しむのは……誰にも理解されなかった彼らにとって喜びですらあったのである。

 

 いつだとて居場所の無い狂人は害悪。

 

 だが、居場所と仕事のある狂人は偉人だと思う。

 

 なんて馬鹿な事をニコリと言ってのける人がいるからこそ、彼らは人社会の敵ではなく……人社会の礎の一つとして、その大いなる相手に傅いたのだ。

 

 *

 

 帝国はもう終わりだね。

 

 という言がヒソヒソと大陸の裏社会で囁かれているのはまったく帝国陸軍情報部が巧くやっているからと言える。

 

 今、大陸各地で行われている殆どの対外的な経済活動や商業活動の大半は莫大な帝国陸軍の費用を捻出する為の足掻きであり、これから帝国は自ら育てた陸軍の巨大さによって経済的に困窮し、押し潰される。

 

 こんな言葉が実しやかに言われているのだ。

 

 その上で何故だか帝国の聖女は人を救う等という馬鹿げた言葉で他国の貧民救済に乗り出して、無用な散財までしている。

 

 いやいや、帝国の寿命も長くありますまい。

 

 ははははは。

 

 みたいな事を訳知り顔で語る情報通達が大陸の9割9分でふんぞり返っているわけだが、その実態を本当に知っている者はいなくても、不気味な程に蠢動する帝国のおかしな行動に違和感や危機感を覚える者達はいる。

 

 そんな彼らの間で秘密裡に持たれた反帝国の会合。

 

 その場において対帝国用の攻勢計画が着々と推し進められ、対帝国を想定した巨大な連合軍構想へと奔っていた。

 

 北部皇国の地方都市イグジート。

 

 その地の大商会が催した夜会。

 

 多くの地域の著名人や経済人を集めたパーティーには隣国や近隣周辺国の者達もやってくる。

 

 という表向きの話とは裏腹に密かに入国した反帝国主義者。

 

 帝国の瓦解による領土、資産……つまりは技術や資金や飛び地の獲得を狙う中小国の軍高官達が館の真下にある大きな円卓の間に集まっている。

 

 薄暗い天井にはランタンが置かれており、彼らの人数は即ち帝国を食い千切ろうという国の数でもある。

 

 その数、約30国前後。

 

「どういう事か。北部皇国は兵を出さないとは……まさか、先日の来訪で怖気付いたのか?」

 

「確かに……その脚で竜の国に向かったとの事だが、そこでも反乱が起きたとの話。貴国らは脇が甘いのではないか?」

 

 吊るし上げられているのは北部皇国の軍高官達だ。

 

「ですから、ご説明申し上げましたように南部皇国の攻勢計画を我が方の諜報部門が察知しました。今後の予定された時期に兵を戦線から引き抜いた場合、南部皇国に暫定国境線を抜かれる可能性があり―――」

 

「それは貴国の問題だろう!!?」

 

「そもそも死に体の南部皇国をどうしてそのままにしておくものか!! 貴国の今の国力ならば、容易く落とせようものを!!」

 

 勇ましい事を言う中小国の高官達の言葉は対外的な北部の状態から言えば、最もだった。

 

「これも先日ご説明したと思うのですが、南部皇国のバイツネード本家が本格的な介入の開始を行う可能性があり、もしもとなれば、再びの大戦となる可能性が……これはガラジオンも認めている事であり、今後の動静次第ではこの計画に兵を割く事は出来なくなりそうなのです」

 

「何とも面倒な……」

 

「ですが、皆様。ご心配なさらないで下さい。我が方は皆様に万全の補給だけはお約束します。また、ガラジオンでも先日の反乱鎮圧で軍がかなり痛んだとの事で再編及び再軍備には時間が掛かる為、出兵の数は本来兵数の半分が限界だと―――」

 

「話にならん!! ならば、貴国やガラジオンは戦後の権益に対しては自ら折れるところがあるというのか!?」

 

「陛下からは働き相応以上を求めようとは思わないとのお言葉を受け取っております。無論、我が国よりも活躍したならば、戦後の権益で我が国やガラジオンよりも多くのものを取っていく国が出る事は致し方ないでしょう」

 

「その言葉に偽りは無いか!!」

 

「はい。ございません。これは陛下のお言葉でありますので。ガラジオンからも祖国の一大事である為、この方向で会議を進めて欲しいと言われています」

 

 男達が喧々諤々していると。

 

 嫋やかな手が上がる。

 

 それは少女と呼んで差し支えない。

 

 この軍人ばかりが集まる場所には分不相応に見える手だった。

 

 フードを被った女が軍人達の沈黙の後に立ち上がって発言する。

 

「この会議に集まって下さった皆様にはまず感謝を。今回、北部皇国とガラジオンどちらも計画に本腰を入れられなくなったというのは国内事情であり、致し方ないと我が方ヴァーリも理解しております。ただ、皆様の軍を動かす兵站の全ては北部皇国が担って頂けるという確約はありますし、ガラジオン側も半数に減ったとはいえ、それでも竜騎兵10万騎が約束されております。これは継承戦争ですらも二度程度しか行われなかった戦力集中であり、これに皆様がお出しになる兵250万を加えれば、正しく世界最大の連合軍となるでしょう」

 

 ヴァーリの使者なのだろう少女が軍人達に微笑む。

 

「実を言えば、北部皇国から補給すらない。あるいは兵を出さないとガラジオンが言い出さないか。そうハラハラと見守っておりました。ですが、そうではない。となれば、皆様の兵が主力となるでしょう」

 

 それは翻った権益の獲得に繋がる。

 

 と、少女は暗に言っている。

 

「実際、皆様にはあまりお解りにはならないかもしれませんが、バイツネード本家はこの大陸においては本当の超人を育成する組織であり、様々な情報操作から実力を隠している事は疑いようもありません。それはヴァーリに亡命し、ようやく記憶の操作から逃れられるようになった私の事例から見ても真実でしょう」

 

 ふわりとフードが取られる。

 

 何かを見通されているような感覚に高官達は陥っていた。

 

 噂に聞くバイツネードを出奔し、今はヴァーリに身を寄せる外交・渉外担当者たる少女は数年前に流れ着いたとの話だったが、ヴァーリがこの数年で躍進した事は各国ともに聞き及んでおり、帝国の軍団を滅び掛けたヴァーリが食い止めたのは少女の力があってだと聞かされていた。

 

 それが真実か誠は分からないが、彼女が少なくとも軍人たる彼らにも解る程度には聡明であり、軍事に精通している事は何度も重ねられた会合での発言からも明らかであり、女だからと軽んじる者は其処にいない。

 

「恐らくバイツネード本家の力は大国の軍事力にも匹敵します。また、現在は北部と睨み合っているからこそ、南部皇国内で大人しくなっている。その行動の如何によっては計画そのものが潰れてしまう事すら在り得るのです。なればこそ、北部皇国の万全な補給を約束して下さる態度にこちらとしては感謝し、擁護する事こそあれ、非難は不適当だと考えます」

 

「むぅ……だが、本来の計画よりも兵力が足りぬのをどうするおつもりか?」

 

「ヴァーリが皆様に供給している兵器の大半は未だ試作品であり、皆様の兵全てに渡せる程の数がまだ生産出来ておりません。ですが、本来の計画よりも兵が少なくなるとの事であれば?」

 

 少女の言う事に他の軍高官がピンと来た様子になる。

 

「ほほう? つまり、完全に装備が充足すると?」

 

「はい。左様です。帝国の補給も万全となれば、侵攻経路を迅速に動かせる分の数は生産が完了しており、同時多発的に多方向から動かせる軍の限界数に近い数で一気に帝国本土を打通する事で国土が広大な帝国本土は一部ならば制圧可能」

 

「そのまま帝都を落すというのですな?」

 

「はい、本計画の最重要点は帝国の主要拠点を迅速に制圧する事に絞られており、本土内部の広大な領土を制圧する必要は無いのです。凡そ7地点の地域の政庁が置かれた都市を制圧すれば、それで事足ります」

 

「事前計画を見ているから言えるが、従来ならば不可能ですな」

 

 一人の軍高官の言葉に頷きが返る。

 

「ええ、それは確かでしょう。ですが、その盤面を傾けるのがヴァーリの装備であり、これは現在の帝国陸軍相手でも通用するでしょう。現在、帝国は小竜姫による軍縮で何とか肥大化した軍の体重を落とし、養っている状態のようですがそれが仇となる」

 

「……今の帝国の好景気も長くは続かないと?」

 

「帝国の聖女と呼ばれる彼女のおかげで帝国内には大量の奴隷がおり、彼らを養う為に必死に稼いでいる状況です。それも帝国軍も養いながらとなれば、何れ肥大化する福祉の資金的な圧迫に耐えられず、帝国は破産するでしょう」

 

「成程……商人連中が道理で帝国遅るるに足らずと言い出すわけだ」

 

「今の帝国は腐った城壁を真新しく見せようと必死な瀕死の重病人なのです。帝国陸軍が解体され、今や最盛期の3分の1程にまで落ち込み。その兵達の殆どが大陸各地での傭兵稼業や練兵訓練などで小銭を稼いでいるとなれば、現状は明白」

 

「確かに……くく、あの帝国の将官だった男達が情けなくも貧困層の村々でバルバロスや盗賊を相手にする村人を調教していると聞いた時は腰を抜かしました。はははは」

 

 高官達の間で他者の不幸は蜜の味と言わんばかりに苦笑が広がる。

 

「その上、各国で慈善事業や福祉に金を費やしている有様です。小竜姫のせいで今や帝国の国庫はかなり苦しいでしょう」

 

「いやいや、ですが、侮れないですぞ? 我が国でも小竜姫の伝説は大人気です。子供から大人まで面白おかしい説話に現を抜かして何処まで話を盛っているものかと有識者の者達は笑い転げる寸前です」

 

「ああ、確かに……たった一個人で南部皇国の大艦隊を撃滅し、巨大な神の如きバルバロスを殺し、見えざる竜騎兵団を用いているなど、聞くに堪えない。軍事を知る者からすれば、まったく笑ってしまうくらいに荒唐無稽だ」

 

「ですな。それを象徴するかのように今や西部でバルトテルに敗北して独立を許し、東部との取引でも足元を見られているとか? 北部の事は上手くやっているようですが、それが帝国の聖女の限界だったのでしょうな」

 

「然り……そもそも奇跡の御業で大勢の民の病やケガを癒す等と言えば、聞こえはいいが、大方バルバロスの能力か。もしくは万能薬でも買い込んで薄めて処方でもしているのでは?」

 

「貧乏人共に万能薬をやっているとすれば、まったくあまりの馬鹿馬鹿しさにおかしな笑いが込み上げて来ますよ」

 

 その調子で帝国下げをする軍人達に僅かだけヒクリと眉間の一部が動いた少女だったが、それをおくびにも出さず。

 

「皆様の言う通りです。今後の計画には多少の変更が必要でしょうが、大筋では問題無いと判断致します。今現在供給している装備の使用への熟練が出来るよう供給体制は引き続き拡大して参る所存ですので、どうか戦後には我が国の兵器を引き続き御贔屓に……」

 

「商売上手ですな。ヴァーリは……」

 

「さすが、ヴァーリを永らえさせた方だ。その話は今後とも引き続き話し合っていきたい」

 

 会議はこうして大筋での合意はそのままに計画が遂行される事が確認され、夜の館からは馬車がゆっくりと掃けていく。

 

 その一つに乗り込んだ少女は大きく険しい顔でゴミクズを見るような視線で消えていく軍高官達の馬車を見送った。

 

「おねーさま。あのクズ共を鏖にしてやりたい気持ちは解ります」

 

「ゼスさん。すいません。本当にちょっと殴り殺しそうになりました」

 

「あはは、仕方ないですよ。あんなクズ共に協力を仰がなきゃならないなんて……私がおねーさまの立場だったら、我慢出来なかったかもしれません」

 

「ゼスさん……」

 

 ランタンが照らす最中。

 

 少女の横には闇に溶けるように朧げな姿の少女が1人。

 

 ゼストゥス・レウ・イルテラ。

 

 そう呼ばれるヴァーリの諜報部門の長となった歳若き才覚者であった。

 

 彼女におねーさまと呼ばれているのは今やヴァーリの軍事部門を司る勝利の女神と称されつつある彼女。

 

 ランテラ・クロル・レクシギン。

 

 どちらも帝国がヴァーリを壊滅寸前まで追い詰めた時、居合わせた事でその滅びを止めた立役者として隣国には名が轟いている。

 

 元バイツネードという肩書の彼女達はこの数年でヴァーリが帝国を推し留めた理由そのものと言われているが、実際には全てが彼女達の情報操作だ。

 

 ヴァーリの所有する山岳部に現れた謎の巨大な施設。

 

 そして、その施設の教員と生徒数名。

 

 ヴァーリと彼女達が生きているのは正しく全てはそのニィトと一部界隈では呼ばれるヴァーリの最高機密である要塞にいた人々のおかげである。

 

「それにしても最悪ですね。今の帝国には殆ど隙がありません」

 

 初め、そう零したのはゼスさんと呼ばれた少女だった。

 

「ええ、あの馬鹿共の手前、表向きの話をして悦ばせてやりましたが、実際にはかなりマズイ状況になっていると見るべきです」

 

「何をしているのか分からない。けれど、マズそうとは思える。色々と現地での情報は収集していますけど、やっぱり言われている以上の事は分からないんですよね……済みません。おねーさま」

 

「いえ、きっと捉え方の問題なのでしょう。一方向から見た時の姿が醜く見えても、本当に見るべき方向から見たら、美しい。物事の判断基準そのものが我々の価値観や知識ではまだ図れないような階梯にあるんです。きっと」

 

「でも、本当に帝国は人々に福祉的な行為をしているだけ、なんですよね。各国での商売も言われている事以上の事はまるで解りませんでしたし」

 

「ええ、でも……教育内容などはやはり帝国寄りで偏っている。親帝国派を育てているのは間違いないのでしょうが、貧困層にそこまで資金を掛けている意図が分からない」

 

「貧困層を教育したりしても、経済や軍事には関係無いですもんね……」

 

「兵士にだってなりませんよ。そもそも彼らを軍事的に教育している様子は無いんです。実際にゼスさんに調べて貰った時の情報を精査してみても、あくまで帝国は善行を積んでいるだけとしか分からなかった……」

 

「西部も本当に独立してましたし」

 

「アレも親帝国的な国王の下での独立でした。バルトテルはどうやら内紛で新しい国王の下で宗教改革とやらが始まったようですけど、それにも絡んでいるのかもしれません」

 

「それにしても何処までが噂で何処まで真実なのか分からなくなりました。あの沼地の巨大な剣は確かにあった」

 

「戦場の幻影……兵士が見た彼らの神。不死の兵士に蘇る兵士、大量の重火器、ですか」

 

「帝国がもしも西部が独立したと現地の親帝国の人達と口裏を合わせてたら、それに西部のバルトテル軍が殆ど負傷兵も無く帰還したって言う事実もかなり怪しいです……」

 

「ですが、バルトテルは確かに帝国を憎んでいたはずです。それがたった一回の会戦でまさか親帝国派閥になるとは到底思えません」

 

「……その在り得ない事が在り得たら?」

 

 ゼスの言葉にランテラが僅かに沈黙した。

 

「もしも、西部独立が我々を相手にした欺瞞工作であり、ヴァーリが主導する反帝国思想による侵攻計画の油断を誘うものであったなら、噂の聖女は本当に吟遊詩人達の物語にあるような化け物の可能性もあります……」

 

「……考えても分からない事はちょっと放置しましょう!!」

 

「ゼスさん……はぁぁ、そうですね。疲れました今日は……帰りましょう。ああ、ちなみにエーカさんとセーカさんが帰って来たそうです。あの子を連れて……」

 

「ッ、ようやく取り戻したんですね!!」

 

「ええ、ですが、あの子もかなり心を病んでいたらしくて。あの人を殺した兵士の家族を連れて来たらしいです」

 

「え、それは……前に会った時は大人しそうな子でしたけど」

 

「エーカさんとセーカさんもそれに協力したらしく。今は連れて来たその男の姉と妹の世話をしてるとか」

 

「世話、ですか?」

 

「殺したって仕方ないでしょう。あの人はもういません。それに大事な人を失う哀しみを味合わせてやると憎悪に燃えているとか」

 

「……正当、なんでしょうけど。それでも、そんな風になっちゃったのは悲しいですね……」

 

「ですが、エーカさんもセーカさんも多かれ少なかれ、あの人が死んで変わってしまったのではないでしょうか。大切な人を失うというのはそういう事です」

 

「おねーさまは私が死んだら……いえ、いいです」

 

「勿論、悲しみますよ。貴女を殺した誰かを恨んで、世界で一番惨い死に方を与えてやります。愉しみにしててください」

 

「いや、愉しみには出来ないんですけど」

 

 ゼスが額に汗を浮かべる。

 

「じゃあ、死なないように互いに気を付けましょう。ね? ゼスさん」

 

 そのランテラの笑みと言葉にコクリとゼスは頷いて微笑み返したのだった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。